第5話 悪い子じゃないみたい

 七瀬さんの出ていった部屋に流れるのは、マヤさんのため息と古河さんの鼻歌。キッチンから聞こえる「ふんふふんふふーん」のリズムがやけに陽気だ。


「水希は気楽なんだから」

「聞こえてないんじゃないですかね」


「そうかもしれないわね」


 やれやれ、とテーブルに腰を下ろし、「お茶いる?」と聞いてくる。俺は頷いて席に着き、ありがたくカップを受け取る。


 まあ、なんだ。

 この家にもいろいろあるってことか。


「ところでなんですけど、マヤさん」

「うん。どうしたの?」


「もう一人って、さすがに男ですよね?」

「そう間違われることもあるらしいわね」


「やった。おと……女子ィッ!!」


 薄々嫌な予感はしていたが、春休みで帰ってるのも女子かよ! どうなってんだここは! なんで俺はいるんだここに!


「まあ落ち着きたまえよ、若者」

「若者だから落ち着いてらんないんですよ! わかるでしょ!」


「真広」

「はい」


 急に名前で呼ばれたので、冷静に返事をしてしまった。マヤさんの呼び方は保護者みたいで、嫌な感じはしなかった。


「君がなにか悪いことをする確率は?」

「皆無です」


「真広が住むのは、大家の私が決定したこと。なにか問題はある?」

「ないです」


 まあないか。そう言われればそうだ。俺がじたばたして、どうにかなることじゃない。

 自分から突撃してきたわけではないのだし。


「大丈夫よ。どうせ柚子なら、誰が来てもツンツンだから」

「それ、大丈夫じゃないような……」


 とはいえ、それ以上知ってなんになる。どうにもならない。なぜなら、彼女と俺は他人なのだから。

 温かい緑茶で喉を潤し、頭の中を整理する。


 関係のないことには、関わらない。自分の手の届く半径を見極め、まずは俺自身のことをちゃんとやる。

 コミュニケーションとか友情とか、そういうのは自分で生きていける人間の特権だ。余裕がある人間の、余剰資産によってこそ成り立つ。


「ご飯できたよー、っと……ゆずちゃんは?」

「上行ったわ。取っておいてあげてくれる?」


「ふーん。残念だねえ」


 言葉の割に軽い調子で、古河さんは鍋を持ってくる。

 こういう状況には慣れているのだろうか。それとも、あまり気にしていないのだろうか。


 どっちでもいいか。

 意識は目の前の鍋に引きつけられていた。


「今日はすき焼きです。あらためて、ようこそ戸村くん!」


 肉の魅力の前で、人類はあまりに無力だ。







 歓迎会は滞りなく進み、片付けの後、俺たちは各々の部屋に戻った。


 荷物の片付けは終わっていたので、いつものようにゲームを開始する。画面の中ではレベル30のキャラクターが走り回り、ボス戦に向けて雑魚狩りをしている。


「あー、経験値うまうま」


 ゲームは虚しいものだ。昔はそう思っていた。だが違った。現実も虚しいものだ。

 経験値もレベルもなく、目に見える好感度メーターもない。イベントは俺がいない場所でも発生し、会話に選択肢は発生しない。猶予もない。


 俺から言わせてもらえば、現実のほうがよっぽど虚構だ。

 虚構の友情、人間関係。


「…………ねっむ」


 引っ越しの疲れだろうか。十時を回った頃からあくびが出る。戦闘のリザルト画面でコントローラーを落として、今日はもうダメかと諦めた。


 洗濯物のバスケットと、着替え、タオルを持って一階に降りる。風呂に入って髪を乾かし、ちらっとリビングを見る。誰もいない。真っ暗だ。各自の部屋にいるのだろう。

 もっと共用スペースは賑やかだと思っていたけど、想像よりずっと静かで。一人暮らしと大差ないのかもしれない。


 部屋に戻って寝ようとして、ふと思い出す。

 バイトの準備しないと。


 個別指導で扱う単元は、事前に頭に入れておかないといけない。

 部屋でやろうとしたが、机がない。どうしたもんかと逡巡し、下のテーブルを使おうと思いつく。リビングにもあったはずだ。


 階段の音を鳴らさないように気をつけて、下に降りる。

 電気をつけ、広いリビングで一人。静かに予習を開始。中学生の内容なので、集中せずとも頭には入ってくる。


 きぃっ、と入り口のドアが開いた。


 ふと顔を上げると、寝間着に着替えた七瀬さん。目が合うとびくっとして、引っ込みそうになる。

 なにか反応しようか、一秒考えてやめた。視線を紙の上に戻す。


 関わらないでくれと言われたのだ。関わらないに越したことはない。

 淡々と生活していれば、迷惑をかけることもあるまい。


 それから十分ほど予習して、バイトの準備は終わり。立ち上がって出ようとすると、まだ七瀬さんは入り口のところにいた。


「……出てもいいかな」


 声を掛けると、すっと横にずれる。通ろうとしたら、質問を投げられた。


「どうしてここに来たんですか?」

「家賃が安かったから」


 他に理由はなかったので、淀みなく返す。ちらっと七瀬さんのほうを見る。


「俺はなにもしないよ。人に興味持てるほど、余裕ないし」

「……そうですか」


「それじゃ、おやすみなさい」


 いちおう同居人だし、挨拶して部屋を出る。


 悪い子ではないのだろう。

 小さな声で、「おやすみなさい」と言ってくれたから。

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