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 ナカンの命令を受けて、ロナは頭を抱えて呻き始める。次の瞬間には、ラシャを強く突き飛ばした。鬼の血ドライブの影響か、ロナの細腕では考えられないほどの衝撃がラシャに加わる。


「駄目、やだ、嫌だ、もうやだ」


 そしてロナは、ふらふらとその場から離れようとした。だが、それをナカンの真言マントラが引き留め、無理やりラシャと向き直させる。ロナはぼろぼろと大粒の涙を流し、強く噛みしめた口から血を流して抵抗を試みていたが、ラシャに向かって走り始めた。

 ナカンを名乗る化け物が高笑いをする。


「いいぞ! そうして絶望することがドライブを活性化させ、ひいては全人類の解脱へと繋がるのだ! もっと! もっとだ! 更に絶望せよ!」


 ロナの体を赤いもやが覆い、その表情すらわからなくさせる。赤黒い人間のような形をした不定形の靄は、殺意を具現化したかのような爪を武装してラシャに掴みかかろうとする。ラシャは咄嗟に藍色の包みに入ったままの非想緋緋蒼天ひそうひひそうてんで受け止めるが、包みの中で非想緋緋蒼天の鯉口が独りでに鳴った。

 ロナの、鬼の力は強く、神木デバイスの全力でも踏ん張り切れずにラシャは押され始める。


「ロナを、斬れと!? ふざけるなよ……この」


 ラシャは鬼のかいなをなんとか振り払い距離を取る。

 鬼は自身のかぶりを振り乱し、ナカンの支配と戦っているようだった。

 ナカンを名乗る化け物は愉悦に笑う。


「非想緋緋蒼天が何なのか解っているのか? 御仏が斬れと示した者に対してなら抜けるその魔刀を」

「言われるまでもない。鬼を斬るための大太刀でしょう? それぐらい……」

「そうだ。御仏は示したではないか。ロナを斬れ! 斬るのだ! 愛するものに斬られる苦痛を持って示してやれ! 神仏すらお前の敵だと! ラシャはロナを殺すつもりなのだとな!」


 ラシャはナカンを名乗る化け物へ、非想緋緋蒼天を抜き放って迫る。だが、ナカンの真言マントラにより支配された鬼が庇うように立ちはだかり、ラシャを殴り飛ばした。咄嗟に振り上げた非想緋緋蒼天を鬼に当てないように逸らしたばかりに、ラシャはまともに胸に攻撃を受けて吹き飛ばされる。

 呻く鬼の傍で化け物がラシャへ説教する。


「ラシャよ。教えを忘れているのではないか? 御仏の教えでは『この世に在る、あらゆる物は可変であり夢幻である』と説かれておる。御仏の如き高き視点から見た長き世界において、我らは瞬きの一瞬に映る影法師。誰が生き、誰が死ぬなどは些事さじ。大悟の前の些事にすぎん。お前もロナも、完成したドライブにより全人類の“格”が上がるという、全人類解脱という大義大願の前には蟻より小さき些末事。さあ、抵抗せず、ロナに絶望を与えよ。むしろ感謝せよ。ロナを斬れば、お前たちの生に、命に意味が生まれるのだ」

「命に、意味……」

「そうだ。十五年前と七年前、そうして生きのこってしまったお前が、何かを成さずに生き恥を晒しているお前の命に、意味を与えられるのだ! さあ、情も命も、すべてへの執着を捨てるのだ。悟るが良い」


 ラシャはゆっくりと立ち上がる。自然とその脳裏に、教えの文言が浮かんだ。


「目覚めし者が説くに、幸せは“ここ”にあるという。この世に在る、あらゆる物は可変であり夢幻である。すべては……存在しない」


 ラシャは非想緋緋蒼天を、鞘を捨てながら引き抜いた。その様に鬼は狼狽し、化け物は不気味に不定形な笑みを浮かべる。

 神木で出来た心臓の鼓動が耳元で、強くラシャを鼓舞した。


「すなわち、君を苦しめる苦しみもまた存在しないのだ。なればこそ、僕らは祈るのだ。君に幸多からんために」


 非想緋緋蒼天を握り直し、目を瞑り、祈る。青い靄が非想緋緋蒼天を包み、大きな刃を形成する。


「例え、御仏の教えがどうであれ、今目の前にあることは、僕には小さなことじゃない。この身が高次の存在にとって夢幻であったとしても……知るか、そんなもん!! 僕が、助けたいだけなんだよ!!」


 踏み出したラシャの前に鬼が立ちふさがる。赤黒い靄に包まれてロナの表情は解らないが、それは言うまでもない。

 ラシャは非想緋緋蒼天を逆手に持ち替え、鬼の腕を掻い潜り、黒い靄の中に居る小さな泣き虫を抱きしめた。非想緋緋蒼天のナノマシンの刃を作っていた青い光が二人を優しく包み込む。


「遅くなってごめんね、ロナ」


 ナノマシンで強化された爪が、ラシャの後頭部や背中、腕を引きちぎらんばかりに掻き毟る。だが、次第に鬼から嗚咽の声が漏れ、赤黒い靄が晴れていく。後に残ったのは、大泣きするロナとそれを強く抱きしめてあやすラシャだけで、そこに鬼は居なかった。

 この光景に化け物は動揺を隠せない。


「ありえない!! ドライブを鎮静化させたというのか!? 馬鹿な、何故お前は斬らない、何故儂は理解できない、何故お前たちは理解しようとしない!! たった一人斬るだけで、たかが孤児一人斬るだけで、全人類が死を越えられるというのに!! すべての病を越えられるチャンスを、全人類解脱の大義大願を!!」


 それに対して、ロナが涙をラシャの着ていた袈裟で拭いながら鼻で笑った。


「馬鹿じゃないの? 大義名分振りかざして、本当はお前が有名になりたかった、みんなに認められたかった、老いて死ぬのが怖かっただけだろ」


 図星を突かれた化け物は血が出るほどにその歪な頭部を掻きむしり怒りを露わにする。

 饒舌に喋るロナを見て、ラシャは安堵を覚えた。そして、ロナから離れて、懐から赤い鬼の面を取り出して付ける。


「さて、懺悔はお済ですか? あなたは、みんなを傷つけた。今もまた、ロナを苦しめ、スエさんを傷つけさせた。その上反省もできないなら、“ラシャ”は一時目を瞑ります」


 化け物はもはや言葉にならない音を怒り任せに発する。


「ラシャ! この恩知らずの愚図め! 育ててやった恩も忘れて! 愛などという下らん感情に執着した未熟者! 親殺しめ!! 仏門に在りながら殺しを是とする修羅め!! 仏法を理解せぬ愚か者め!!」


 赤い鬼の面を付けた者は、非想緋緋蒼天を、愛を認められない化け物に振り下ろした。


「愚問です、僧正。沙羅しゃらのラシャは、修羅ならば……人のために化け物を斬るのです」

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