2-5


 ラシャは、ある経典の文言を唱えながら歩いた。


「目覚めし者が説くに、幸せは“ここ”にあるという」


 人の心を失い悪鬼となった者、イリが旅の同行者たち二人を振り払い、その奇形と化した腕を振り下ろそうとするのを、ラシャは掴んで止める。

 その表情は赤い鬼の仮面で見えない。


「この世に在る、あらゆる物は可変であり夢幻である。すべては存在しない」


 唱えられる文言はただ粛々と、鈴を鳴らしたような声で続けられる。


「すなわち、君を苦しめる苦しみもまた存在しないのだ」


 そして、引き抜かれた大太刀、非想緋緋蒼天ひそうひひそうてんが、煌々とその刃をきらめかせて振り上げられる。

 それを見て逃げ出そうとした悪鬼の足が、まるで女性の髪のような物が絡まり、悪鬼は一人で転んだ。


「なればこそ、僕らは祈るのだ。君に幸多からんために」


 悪鬼が立ち上がり反撃するより速く、赤い仮面の修羅がその身を袈裟斬りに両断した。その仮面の下の表情は、誰にも解らない。




「仕方がなかったと思うけどなぁ」


 ピンティは落ちこんだまま一向に顔を上げないラシャに精一杯の励ましの言葉を投げかける。


「というか、命の恩人だからね? あたし、ラシャちゃんに助けられるの二度目じゃね? 二度目じゃねぇかよ、いやすっごいわぁ……駄目?」


 ピンティはスエに助け舟を求めるが、スエは首を振った。

 結果から言うと、イリは鬼の面を付けたラシャにより斬られ、その罪を懺悔することなくのた打ち回って死んでいった。彼が、怪物に仕立て上げた女性に殺させた命たちに報いるにはあまりに少ない苦しみであった。まして怪物にされていた女性もイリによって撃たれた傷が原因で事切れていた。

 せめて、とスエとピンティの提案により、二人の供養場所は少し離した場所にすることになった。

 どうあれ、ラシャは人の命を絶ち斬った。一人の悪人の悪行に終止符を打ったと言えば聞こえはいいが、それで納得できないのがラシャである。

 そして重ねて頭を悩ませるのが、ロナの持っていた赤い鬼の仮面である。なぜ、仇の証拠である仮面をロナが持っていたのか……考えても仕方がないにもかかわらず考えずにはいられない。

 そうして、少し一人にさせてもらっているのが現状だ。


「目覚めし者が説くに、この苦しみもまた幻想なのであると……知って祈らねばならない、か」


 それはラシャの宗派の経典の意味を分かりやすくかみ砕いたものだ。あらゆる苦しみは一時の物であり、苦しみよりも救いに目を向けろ、と、簡単に言うとそういうことである。


「果たして、斬ることで救いをもたらせたのでしょうか、ナカン僧正」


 ラシャは育ての親でもあるナカン僧正との一時、家であった今はなき沙羅しゃら寺でのことを思い出していた。そしてその記憶は次第に両手足の幻肢痛を越えて、赤い鬼の面の仇への怒りへと通じていく。

 ラシャは一人、自分の着ている袈裟の袖に顔をうずめた。




鬼の血ドライブの出どころは解んなかったけど、道案内終わったし、実家に帰らせてもらいます!」


 スエが野営をしている場所へラシャが合流すると、ピンティが明るい声で別れを切り出した。


「本当はピンティと別れたくないのでしょう? 解る、解るぞ少年! ピンティの胸に飛び込んでくるがいい! さあ! うぇるかむ!」


 ラシャは一瞬きょとんとした後、ピンティとのハグに笑顔で応じようとしたが、スエに止められた。

 スエはため息交じりにピンティに、一応聞かねばならないだろうと聞いてみる。


「それで、後はこのまま南下してヨウコウ市にあるショウグウ寺に行けば、ドライブの買い取り手が居る、と。まあ、道案内は確かに十分だけど、ずいぶん急じゃない?」

「ふっ、スエちゃんの方がピンティとのハグをご所望だったのかな? 嘘です、蹴りを構えないでください」


 ピンティは咳払いをして理由を口にする。


「いやね、報われない女性を見てたらなんだか旦那が恋しくなっちゃって。それに一応、あの子からは六本腕プリティアームのインスピレーションを貰ったわけだし? 生きてる間に友達に成れてたら違ったかもだけど……そうはならなかったからさ。なんだかナーバスになっちゃったのよ。珍しく」


 ピンティは努めて明るい声で続ける。


「そんなわけで! これ以上は乙女の柔肌に傷がついちゃうと思うので、そうすると旦那が悲しんじゃうからそうなる前に帰ることにするわ」

「そう、じゃ、これでお別れね」


 スエがピンティに握手を求める。ピンティは喜んでその手を取った。が、スエが離そうとしない。


「強盗、辞めなさいね?」

「エ? ナンノコト?」


 直後、ピンティが様々な手段で持ってもだえ苦しむことになるのは言うまでもなかった。




「ところで、スエさんはまだ付いてこられるのですね」


 ラシャはスエになかなか不躾なことを口にする。直後にラシャ自身がハッとして平謝りし、スエが苦笑いと共に応える。


「まあ、そうね。ドライブがあの怪物にされた子からのみ生成されてたなら話はここまでだったんだけど。そうじゃないみたいだったからね」


 ラシャはスエに聞くに聞けなかった。「仇と会ったなら、殺すのか」と。ラシャ自身、今日に至るまで揺るがなかった感覚が、いざ実際に誰かの命を取ったことで揺らぎ始めているのを感じていた。

 思い切って聞こうか、というタイミングで、スエが歓喜を押し殺したような声を漏らした。


「見て! ロナちゃんが、何か唄を歌ってるの。何の歌かしら? 思い出の歌だったりする? 旅が進んでくと何だかどんどん元気になってくじゃない」


 ロナが歌う歌にラシャは聞き覚えがあった。


「あれは……どこかで、寺の中で聞いたような……」


 ラシャはこの後、ショウグウ寺にたどり着いた後出会った人物により、その歌がどこで聞いたかを思い出すことになる。

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