閉ざした記憶と開きゆく扉②

 サーカス団の出発は、次の日の晩に始まることとなった。

 会場はメチャクチャに荒らされてしまい、パフォーマンスができる状態にある団員も少ない。当然ながら明日以降の公演は全てクローズだ。しかし幸運にも大怪我を負った団員はいなかったため、『金が稼げないならのんびり残ってても仕方ないね』という団長の一声で、元気な者は夜のうちに引き払うことになった。

 肩を落としていたパフォーマーたちも、近いうちに別の公演を企画するとランジェナに約束されれば、久々の休暇だと思うことにしようと話して撤収を進めていく。置物や装飾は破片の一つすら残さず回収され、カラフルに会場を照らしていたランタンも、薄暗いコンテナの中にしまわれた。トラックやワゴンを荷物でいっぱいにしながら、クラウンヘッドは街を去ろうとしていた。

 「ちょっと!ノームの足が落ちてるけど!?何一つ積み忘れるなって言っただろ!」

 自ら拾い集めた陶器の欠片を酒樽に押し込むと、ランジェナは何度目かもわからない怒号をとどろかせた。

 「団長、ノームの像はどれも粉々だ。もう使い物にならねえよ」

 一人の団員にそう言われると、ランジェナは襟首をつかみ、人差し指を立てて言い返す。

 「接着剤でも使って作り直せばいいでしょ?それとも、ウチを金持ちサーカス団とでも思ってんの?」

 団員はやれやれと言った様子で、陶器が積み込まれた酒樽を運んでいった。

 そんな様子を見ていたドグは、恐る恐るランジェナに近づくと、後ろから声をかける。

 「あー……ちょっと相談があるんだが、今は不機嫌か?」

 声をかけられればランジェナは振り返る。ドグのさらに後ろには、普段マチャティが運転している赤い車が停まっていた。撤収を手伝うルーディが、後部座席に余った土産物を載せているのも見える。

 「別に、アタシはいつだって上機嫌だよ。どうしたの?」

 ドグは周りを気にしながらもう一歩ランジェナに近づき、ルーディの方を指で指した。

 「ルーディの野郎、どうも落ち着かねえ様子なんだ。何も思い出せずに街を出ることになったんだから、仕方ねえとは思うんだが……」

 ドグの話す通り、ルーディの表情は沈んでいる。自分のせいでサーカス団が大変になったと思っているためでもあれば、大事なことは何も思い出せないまま街を離れることをためらっているためでもあった。

 荷物を積んでは閉じこもるように車に乗りこんだルーディを見ながら、ランジェナは答える。

 「とりあえず、そばにいてやりなよ。ひどく疲れてるってのもあるだろうし」

 ドグは車の方を見ながらうなずくと、「そうだな」とだけ返した。

 彼とルーディは、マチャティの運転で街を離れることになっていた。早めに出発し、カリフォルニア東部にあるクラウンヘッド・サーカスの拠点に、一番乗りで戻る予定である。

 「そうだ。まだまだ荷物は入るでしょ?これも持っていってよ」

 ランジェナは荷物の山の中から、『鬼人の子』人形が山ほど詰まった箱を引っ張り出し、ドグに押し付けるように渡した。中身は人形だけだが、スイカでも入っているような重たさである。

 「それにしても不安だね。もしまた誰かに襲われたら、どうする?マチャティもアンタも、ただの人間には変わりないからね」

 そう尋ねながらランジェナは、自分の手に巻かれた包帯を見せる。クリスティーナとスペードの仮面の少女に襲われた際、溶けた蝋を被って負ってしまったやけどの痕だ。

 「とにかく逃げるしかねえな。夜道を走るのは嫌だけどよ……ここを動かねえんじゃ、いずれ奴らが戻ってくるかもしれねえし…今は、一秒でも早くビリージョーズ・ヒルを出るのが先だ」

 ドグがそう話せば、ランジェナは一度ため息をつきながらも、着ていたジャケットの内ポケットに手を入れた。そしておもむろに、一冊の本ほどの大きさである、鉛色のケースを取り出した。

 無言のまま差し出されたケースを、ドグは戸惑いながらも受けとる。大きさの割にズッシリとした重みがあり、思わず地面に落としてしまいそうになった。

 その重みから、ドグはケースの中身が何か確信する。小型の銃である。

 「こ、これは?」

 どういうつもりで俺に渡すんだ?と思いながら、ドグはランジェナに問う。ランジェナは積まれた荷物の山に体の向きを変えると、

「決まってるでしょ?護身用だよ。別にこれを使えって言ってるわけじゃない。念には念を入れるってだけさ。どうせアンタの銃には弾が入ってないんでしょ?」

と返した。

 ドグは少しだけ躊躇いながらも、銃が入ったケースを人形の箱の上に置き、一緒に持ち上げた。

 「じゃあ、またあとでね。ルーディをよろしく。気を付けなよ?」

 「ああ、アンタの方もな」

 そう言ってランジェナと別れたドグは、箱を抱きかかえるようにして運びながら、マチャティの車へと戻った。

 マチャティはまだ弟子や他のパフォーマーたちと話しているのか、車に乗っているのはルーディだけだ。後ろの席に座り、ドアガラスに頭を寄せて、今にも寝てしまいそうにうつらうつらしている。

 ドグはノックもせずに後部座席のドアを開けると、ルーディが座るシートの隣に、人形の箱を押し込むように置いた。同時にルーディも目を覚ます。

 「も、もう出発?」

 まだ暗い空を窓越しに見上げながらルーディがぼやく。

 「もうすぐ出発だ。マチャティの奴はどこに行った?」

 ドグはそう返しながらドアを閉め、周りを見回してマチャティを探す。ステージ衣装を積んだトラックの近くでマチャティを見つけだが、やはり彼は、他の団員たちと話している最中だった。何やら神妙な顔付きである。

 ルーディは、車の中に載せられた人形の箱をジッと見つめていた。街を去ると決めはしたものの、きっぱりと心を切り替えられたわけではない。ステージに立つ『鬼人の子』の姿や、笑いながらエンチラーダを食べる自分とドグの思い出が頭に浮かんだ。考えてみれば、こんな事態になったのは、パフォーマンスが上手くいくようになった矢先のことだった。

 いや、やめろ!なんて我儘なんだ!皆、私のせいでとんでもない目に遭っているのに……私はここには居られない。こうするべきなんだ。

 自分自身に言い聞かせながら、箱からはみ出ていた『鬼人の子』人形に、何となく手を伸ばす。すると、箱の上に置かれていたもう一つのケースにも指が触れた。

 「待たせたルーディ!すぐ出発だ!」

 鉛色のケースを気にしたのも束の間、突然運転席のドアが開き、いつの間に戻ってきたマチャティが車に飛び乗ってきた。助手席側にはドグも座る。

 ルーディは箱から手を引っ込めると、後部座席のシートに座り直した。

 「もう行ってしまうのか?まだ夜も明けてないのに」

 少しだけゆるめなシートベルトをかけたルーディが尋ねる。マチャティはバックミラー越しで視線を返しつつ、車のキーを回し、エンジンを叩き起こしながら答えた。

 「何かあってから逃げるのでは手遅れだ。また変な連中がやってくる前に、会場から離れておきたい」

 そう話すマチャティが大回りにハンドルを回せば、細長いスポーツカーはグルリと旋回し、アスファルトの道路へと飛び出す。そして別れの挨拶をすることもせず、他の団員に片手だけ挙げると、すぐに会場を出発してしまった。

 「余韻に浸ることもできなくてすまない。だが、団員皆で決めたことなんだ」

 そう言うとマチャティは運転に集中する。アクセルを全開で踏み込むと、舗装が荒いアスファルトの上で車を走らせ、さっそうと会場から離れていった。

 いかにも『火を吹く男』らしい豪快な運転に車内は揺れる。ルーディは座席から振り落とされそうになり、悲鳴に近い声を漏らした。ドグが抱えていた夜食を入れた紙袋も、彼の膝を離れて、フロントガラスにぶつかってしまった。

 ついでに頭もぶつけたドグは、マチャティの運転に苦情を漏らす。

 「オイ正気か!?何キロ出すつもりだ!もっと静かに運転してくれよ!」

 そう訴えられてもマチャティは気にせず、夜道へと猛スピードで車を走らせていく。

 「私は正気だ。君たちこそ静かにしたまえ!これからは高速道路にも乗るんだ。そんなんじゃ放り出されてしまうぞ」

 十分な明かりもない荒れた道路をビュンビュンと飛ばされれば、ルーディはジェットコースターにでも乗せられた気分になった。シートベルトをきつく止め直し、飛び出しそうになった写真とチャームをポケットの奥へとしまい込む。

 「これ以上早く走るつもりなのか!?冗談じゃねえ!街を出る前に死んじまう!」

 ドグがそう叫んだのとほぼ同時に、車体がガタンと大きく揺れ、ホルダーに入っていた紙コップが宙を舞ってしまった。

 逆さまになったコップからコーヒーがこぼれたのを見れば、ルーディは反射的に手を伸ばす。それに気付いたドグも「げっ」と声を出した。

 間一髪、ルーディの力が飛び散りかけたコーヒーを操り、雲のように漂わせたまま、空中で止めることができた。

 ルーディはホッとしつつもコーヒーの塊を動かし、ドグがキャッチしていた紙コップの中へと注ぎ直す。マチャティは隣で何があったかすら気付いてすらいないようである。

 「酔い止めでも持ってこりゃ良かったぜ」

 ドグはコーヒーを元に戻しながら、ブツブツと文句をつぶやいている。それでもマチャティには聞こえていないのか、夜道を駆け抜ける車は、スピードを緩めることを知らないままだ。

 雨が止んだ空には、明るく光る月が悠々と浮かんでいる。ルーディたちを乗せた車とは対照的に、ビルフォールズの夜は、虫の羽音が聞こえてきそうなほど静かだ。鹿や野犬のような動物が姿を見せることもあったが、道路の端でジッと目を光らせるだけであり、車が通る道は、怖いくらい静かな空気に包まれている。

 ドグはその静けさが妙に気になり、窓を開けて車の周りを見回した。それを見たマチャティはようやく少しだけスピードを緩める。

 「どうした?まさか、誰かが追ってきているんじゃないだろうな?」

 シートに座り直したドグは、マチャティの問いに、首を横に振った。

 「いや、その逆だぜ。誰もついて来ちゃいねえんだ」

 ドグの言葉を聞いたルーディは、不思議そうにシートの間から顔をのぞかせ、二人のやり取りを見ている。

 「いいことじゃないか。誰にも見られずに街を出られるということだ」

 「そういう話じゃねえよ。サーカスの誰も、俺たちの車についてきてないじゃねえか。アンタが飛ばしすぎたんで皆置いてきぼりになっちまったんじゃねえのか?」

 ドグに横目でそう言われれば、マチャティは人差し指を立てて大袈裟に左右に振った。

 「心配は無用、これも作戦の内だ。団長から聴いたが、妙な連中に狙われているんだろう?だから我々は単独でこっそり動いているんだ。まさか『鬼人の子』がこんな車に乗っているだなんて、誰にもわからないだろう」

 マチャティはそう言うと、得意気に笑った。

 ランジェナが率いる団員たちの車やトラックは、西から南にかけて伸びる広い道を、やや遠回りに走っている。一方でマチャティの車は、ビリージョーズ・ヒルが位置するオレゴン州の州境を目掛けて、最短距離を爆速で走っているのだ。

 「あと10分もすれば、ビリージョーズを抜けてカリフォルニアだ。この街も見納めになってしまうな」

 『見納め』と言われれば、ルーディは急に胸が苦しくなり、窓の外の景色に視線を移した。

空では星がきらめき、わずかに風も吹いているのか、どこまでも立ち並ぶ木々の枝はゆらゆらと揺れる。いざ街を出そうになると、ルーディの心も、同じように揺らぐようになっていた。

 そんな彼の瞳が、ぼやっとした月明りを受けて浮かび上がる、大きな建物の影を捉えた。

 「……何だ、あれは?」

 建物の存在に気付いたルーディは、窓に手を当てながらそうつぶやいた。

建物は灯台にように細長く、屋敷や城というよりも塔と呼ぶ方がふさわしそうな形をしている。森を抜けたすぐあとに現れたこともあってか異様に目立ち、上部には大きな十字架の像が付いているが、下の部分が短い逆さ十字だ。

「ねえ、2人とも。あんな建物があったと知っていたか?」

後部座席から手を伸ばしたルーディが指を指せば、ドグとマチャティも、塔の存在に気が付いた。ドグはもう一度窓を開け、少し身を乗り出しながら、そのたたずまいを観察する。

「何だありゃ?変な建物だ。周りには家すらないってのに、随分とバカでかいのが建てられてんだな」

 周辺に他の建物はなく、塔をぐるりと囲むように、オレンジの畑が広がっている。夜空の下でずっしりと直立するその姿は、何かのオブジェや巨象のようにも見えた。

 その雰囲気からドグは、猛烈に嫌な予感を覚える。ファンダム博士の屋敷で感じた奇妙な不気味さも、頭の中によみがえってきた。

 「何か宗教的な建造物に見えるな。それにしても妙なフォルムの十字架だ。カトリックのそれにも、プロテスタントのそれにも思えない」

 彼の興味のアンテナが反応したのか、マチャティはゆっくりと車を走らせるようになった。塔が近づいてくれば、古めかしい木造りの壁もくっきりと見えるようになる。

 逆さ十字を見上げたルーディは、ふと頭のどこかから、記憶の断片が浮き上がってくるのを感じた。

「そうだ……どうして今まで思い出せなかったんだ!?この建物は、クロスハウスだ!」

ルーディが聞きなれない名前を叫べば、ドグは振り向いて聞き返す。

「クロス、なんだって?そりゃ何だ?」

「覚えていないのか?クリスティーナ・デュームリングが話していた。私の父さんが……殺された場所と!」

ドグは、クリスティーナとルーディが交わしていた会話を思い返す。言われて見れば、確かに彼女がそんな名前の場所について触れていたような気がしてきた。

「確かにあの女は、お前の親父について何か知ってるようだったな。けどよ、このバカでかい塔がそのクロスなんたらだって、どうしてわかるんだ?」

「じ、自分でも不思議なんだが、今急に思い出したんだ!私はこの場所を知っている!来たことがあるはずなんだ!」

「ルーディ、確かなのか?君のお父さんと、何か関係がある場所なんだな?」

会話に割って入ってきたマチャティが問う。彼もルーディの記憶や父親について、ランジェナやドグから話を聞いていた。

マチャティは道の橋に車を寄せて停めようとするが、不吉な予感が離れないドグはいい顔を見せない。

「オイオイオイ、急いでるはずだろ?道草食ってる場合かよ?」

「その言い草はなんだ。何かの縁で通りかかったのかもしれないじゃないか。少し覗くだけなら問題ないだろう。それに、見たところ明かりもついてないし、近づいても大丈夫さ」

マチャティはそう言うとルーディにウインクし、クロスハウスへと伸びる小道の近くで車を停めた。

月明かりの下で車を降りた3人は、高くそびえる塔を見上げながら、砂利道を歩いていく。

建物の高さは20メートはありそうで、そのシルエットは、近づけば近づくほど不思議なオーラを放っているように見えた。頂上に取り付けられた逆さ十字も、映画館のスクリーン程の縦幅を有している。

「十字架に家でクロスハウスか。安直な名前してやがるぜ」

「ハウスというには大きすぎるがね。しかし不思議だ。街の地図やパンフレットにも、こんな建物は載っていなかったはずだが……」

ドグとマチャティは思い思いにそんなことをつぶやいている。一方でルーディは、3人を見下ろす逆さ十字を前に、何も言葉にすることができなくなっていた。

逆さに立てられた巨大な十字を見る度に、こめかみの辺りから、ズキンとした鋭い痛みが広がる。ずっと封じ込められていた何かが、何度も頭を叩きつけているかのような感覚である。

やっぱりだ。私はここを知っている。私と父さんはここにいた!こんな大事な場所を、今まで思い出せもしなかったなんて!

気持ちが高ぶっていくルーディをよそに、ドグは振り返って車に戻ろうとする。彼に「何もねえな。もう行こうぜ」とつぶやかれれば、ルーディは慌てて止めた。

「ま、待って!待ってくれ!確かにここだ!ここだったんだ!私がずっと、夢の中で見てきた場所は!」

そう言われればドグは、おどろおどろしい雰囲気を放つ逆さまの十字架と、興奮した様子のルーディを交互に見た。

「今度こそ思い出せそうなんだ!私はあの日、あの夜!ここにいた!クリスティーナ・デュームリングの話したことも本当だったんだよ!父さんが撃たれた部屋は、あの十字架の下にあった!」

一度は記憶探しを諦めたルーディだったが、彼を呼んでいるかのように立つクロスハウスを前に、いてもたってもいられなくなってしまった。せがむような目を向けられれば、ドグは言葉をつまらせる。

助けを求めるようにマチャティに目を向けたが、ルーディの声を聞いていた彼も、引き返そうとはしなかった。

「もう少し覗いてみてもいいんじゃないか。またここに来れるかもわからないんだ。車は私が見張っておくから、何かあればすぐに出発しよう」

マチャティにまでそう言われてしまえば、ドグはため息をつきつつ、ルーディの近くに戻った。

「仕方ねえな……だけど、きっかり5分だけだ。何かがあろうと、何もなかろうと、5分経ったら出発するからな」

ドグはしぶしぶそう決めてやったと言わんばかりのしかめ面を浮かべるが、ルーディの方は目の色を明るくした。マチャティも満足そうにうなずいて腕を組んだ。

 「じゃあ少しだけ見てくるといい。私が見張りをしておこう。何かあればすぐ出発だ」

 ルーディとドグの2人は、マチャティに車を任せ、クロスハウスに近づいていった。

 クロスハウスは5階建てのビル程はありそうな大きさであり、近づくほど、ますます不気味な雰囲気を感じられた。花飾り付きの大きな木の扉が入口らしく、まるで2人を静かに待っているようである。

 扉を前にして、ルーディは自分の心臓が激しく動くのを感じた。何かが記憶の底から浮かび上がろうとしているのか、ぼんやりとした頭痛も起こり始めている。何か胸の辺りがざわつくような違和感も覚えたが、それが何なのか考えるより早く、ドグがドアをノックしてしまった。

 「ごめんくださーい、誰かいますかー?いなかったら返事しなくていいっすよー!」

 ドグは古そうな扉でも気にせずにドカドカと扉を叩く。しかし何かの反応が返ってくることはなく、そもそも建物の中は灯りすら点いていないらしい。どの窓も閉め切られており、ドアに耳を当ててみても、何の物音も聞こえてこなかった。

 「どうだろう。誰もいないのかもしれないな」

 ルーディはそうつぶやきながらも建物を見上げ、逆さまに立てられた十字架にジッと目を凝らす。月明かりに照らされるクロスハウスを見る旅に何かを思い出せそうになるのだが、鮮明なビジョンが浮かんでくることはなく、猫のように喉を鳴らして頭を悩ますこと以外にできることはなかった。

 「そうみたいだな。じゃあ戻ろうぜ」

 「も、もう少し待ってくれ!」

 ルーディに止められようと、ドグは「もうタイムアップだ」と言って彼の肩を掴み、車の方に引きずり戻そうとした。ルーディはじたばた逆らいつつ、目を閉ざして、自分の記憶を必死に辿る。それでもやはり、わずかな思い出すら蘇って来なかった。

 ただの思い過ごしだったのか?と思いながらルーディは目を開く。そしてその直後、木の扉がゆっくりと開き始めたことに気が付いた。

 はじめは気のせいかと思ったが、やはり木の扉の片側が開き、中から誰かが姿を現したのが見える。クロスハウスから出てきた男とはっきり目が合えば、ルーディは大慌てになってドグを止めた。

 「ドグ待ってくれ!扉が開いた!誰か出て来たぞ!」

 そう言われればドグも立ち止まって振り返る。

 扉から出てきたのは年老いた男であり、シルエットは骸骨のように細く、サンタクロースのように真っ白な髭の持ち主だった。花の模様と逆さ十字があしらわれたローブを羽織り、2人を怪しむような険しい目付きを作っている。恰好からして、ランジェナが話していた宗教の関係者かもしれないと、ドグは警戒心を抱いた。

 「なんだかわからんが怪しそうだな。アイツも鬼人なんじゃねえのか?」

 「いや、そんな気配はない。普通の人だよ」

 ルーディはそう言うとドグの腕を振り払い、両手を挙げながら老人の方へ歩き始めた。ドグはオイオイと言いながら彼の後に続く。

 老人からは、クリスティーナらに襲われたときに感じた、身の毛を逆立たせるような気迫は感じられない。彼は普通の人間だ。そう思ったルーディは躊躇いもせずにクロスハウスに戻り、老人の目を真っすぐ見つめた。

 老人は老眼鏡を取り出し、もう一度眉間のしわを深くしながら、ルーディをじっくりと見ている。ファンダム博士やクリスティーナのことを思い出したドグはますます緊張感を覚え、背伸びしながら立つルーディの肩をつかんだ。しかしルーディの方は、この場を去るなんて考えられないとでも言うように、クロスハウスの前を離れようとしなかった。

 ドグは頭を抱えるが、客観的に見れば、不審者なのは2人の方である。一応頭を下げると、夜遅くに扉をドラミングするようにノックした理由を説明しようと口を開いた。

 「あー、すいません。誰もいないとばかりに思ってました。俺たちはこの街に来てたサーカス団で、このガキは……」

 「ルーディか?」

 ドグの話は、老人が発した一言に遮られた。

 ドグはピタッと話すのをやめ、ルーディも老人の顔を見直す。驚き信じられないという顔をしているのは、老人も同じなようだ。

「今、私の名前を呼んだのか!?どうして!?私のことを知っているのか!?」

「そうだぜ!アンタ、サーカスを見に来るような人じゃねえだろ!このガキのことを知ってんのか!?」

ドグとルーディは少し興奮しながら質問を投げ続けるが、老人の方はしばらく表情を固まらせたままで、 目を細めながらルーディを眺めている。当のルーディは、老人が何者なのか検討もついていなかった。

「知っている。ああ、知っているとも。しかし……生きていたのか、ルーディ」

老人はそうつぶやくと、もう一度ルーディの名前を口にした。

その目の色は穏やかなようにも、何かを考えているようにも見える。まるで彼が死んだとでも思っていたかのような言葉に、ルーディは戸惑い、ドグと顔を見合わせた。

老人はドアの横にあったスイッチを押し、建物の中の電灯をともす。クロスハウスの中からは、時折点滅も見せている古ぼけた明かりが溢れてきた。

「入りなさい。私の話を聞きにきたんだろう?」

老人はそう言うと、2人を招くようにドアを大きく開けた。

しかしドグとルーディは、ファンダム博士に襲われたことを思い返しては、中に進むのを躊躇う。

「あのえっと、私は……」

ルーディはポケットから父親と写った写真を取り出し自分の身の上を話そうとする。だがまたしても老人は、意外な言葉で彼の話を遮った。

「知っているよ、ルーディ。ギャラナーの息子。鬼人の子供だろう?」

父親の名前を聞かされればルーディはハッとしたが、ドグはますます怪しむように老人を見る。ドアに近づこうとしたルーディを、上着の袖を掴んで止めた。

「待て待て待て!無礼者は俺たちの方だってことは十分承知な上で言わせてもらうが……いきなり『入れ』なんて言われても、こんな怪しい建物にやすやすと入れたりしねえよ」

ドグに警戒心をむき出しにした目を向けられようと、老人は落ち着き払った態度で返答する。

「安心しなさい。私が妙な力を使うんじゃないかと疑っているんだろう?私は鬼人ではない。この通り、普通の人間だよ。君ならすぐにわかるはずだ」

老人に言われれば、ルーディは嫌な汗をかきながらもうなずく。

「確かに鬼人の気配はしない。匂いも、雰囲気も、普通の人って感じだ」

老人はもう一歩下がると、再び2人を中に招こうとする。同時に、自分が何者であるかも語り出した。

「私の名前はマルコフ。ここで司祭をやっている者だ。と言っても、日銭も身寄りもない年寄りでね。普段はこの中に寝泊まりしている」

どこか虚しげに話すマルコフ司祭の首には、錆び付いたネックレスが巻かれている。デュームリング教の象徴である逆さ十字だ。

ルーディたちが話す前から『鬼人』の存在を知っていたのも、彼が鬼人を崇拝する宗教に仕えているからに違いないと、ドグは鋭い目を向ける。

「なるほど司祭さんか……つまりアンタは、カルトの大親分ってわけだ」

ドグの挑発するような言い方に、ルーディはやめろと言うように首を横に振る。だがドグは、カルトの信者だった男に殺されかけた経験もあっては、そんな態度を取らずにはいられなかった。

「悪いが、アンタは怪しすぎるぜ。何を考えてるのかわかったもんじゃねえ。そりゃそうだろう?鬼人様鬼人様って崇めてるような奴を、どうやって信用しろってんだ?」

「崇めるだって?冗談じゃない。誰があんなクズどもを崇拝するか」

マルコフ司祭は、急に言葉遣いを変えて、意外なことを言い出した。ドグとルーディは、口を開けたまま唖然となる。

「いいかね。鬼人のことはもちろん知っているが、どうでもいい。奴らは邪悪で非道なゴミムシの切れっぱしだ。さっさと滅んで欲しいというのが正直なところだよ」

マルコフ司祭は2人の他に誰もいないか周りを見回して確かめながら、鬼人たちへの嫌悪をたっぷりと口にする。警戒を高まらせていたドグは、司祭の悪辣ぶりに、どこか拍子抜けしてしまった。

「あ?じ、じゃあアンタ……なんでここで司祭なんてやってんだよ?」

ドグに問われれば、マルコフ司祭は後ろに振り向く。そしてゆっくりと中に進みながら答えた。

「それが私の宿命だからだ。私は、全てを見た。そして、その全てを語れる誰かを待っていた。いいから入りなさい。噛みつきやしないよ」

マルコフ司祭は、弱い明かりに包まれたクロスハウスの中へと姿を消してしまった。

ドグとルーディの2人は、もう一度互いの顔を見合わす。まだ躊躇いこそあったものの、「すぐ出るからな」とつぶやくドグを先陣に、マルコフ司祭に続いて中へと進んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る