【光】18 パパ・トールド・ミー


 光は耳から入ってきた音の意味を、理解することができなかった。


 自分の肩に手を触れている男――迫水は、目を細めて光の顔を見つめている。そこにあるのは肉親の情のようにも思えたし、もっと粘着質で不気味な何かのようにも思えた。息子に対して向けられる父親の感情というものは、もともとそういったものなのかもしれないが。


 この男が自分の父親だという。


 光の身体はまだ小刻みに震えていた。迫水に――父親に――触れられているから安心感を覚える――などということはない。むしろ、触れられているからこそ、震えがとまらないとしか思えなかった。


 光は逃げるように足元に目をやる。そこにあるのは透明な棺型の水槽に浮かぶ母としか思えない女性の裸体。光は脳内に入ってきた全ての情報に「受取拒否」の判を押して送り返したい気分だった。

 心臓は悲鳴を上げて脈打ち、不愉快な汗が全身をじっとりと濡らしている。

 光は迫水の顔を改めて見上げた。

 これが、父親?


「――混乱するのも無理はない」


 迫水はふっと息を吐き出すように笑った。


「今まで何もしてやれなかったことは謝ろう――すまなかったな、光」


 ゆっくりと左右に頭を振り、肩に乗せた手に力を込める迫水。

 謝罪の言葉もただただ光の鼓膜の上を滑っていくだけで、なんの感慨も与えなかった。不透明な混乱だけが、脳のキャンバスに上塗りされていく。

 そんな光を見て、迫水はうんと頷くと微笑みを浮かべた。

 何を納得したというのだろう。


「――迫水課長」


 光の視界の外から声をあげたのは結城だった。


「結城君、親子の再会の場面なんだ。邪魔しないでくれ。ん? ああ――君の拳銃なら処分させてもらったよ。当たらなかったからいいものの、上司に向かって発砲するのは今後止めてくれよ――」


 冗談っぽく言う迫水の声を聞いて、結城は大股で近づいてきた。

 そのままの勢いで光の肩に置かれていた迫水の手を払いのける。そして噛みつくように迫水に向かって声を上げた。


「あんた、いい加減に――」


 結城の声を無視した迫水は、右の拳で結城を力いっぱい殴りつけた。頬に強烈な一撃を食らった結城はそのままふらつきながら後ろに倒れる。迫水は追い打ちを掛けるように、爪先で結城の腹を蹴り上げた。短いうめき声を上げて、結城はその場で動かなくなった。


「邪魔しないでくれと言っただろ。なあ、光」


 同意を求める迫水の笑顔を見て、光は金縛りにあったように動けなくなる。

 この男は暴力を振るうことに、なんの躊躇ためらいもない。温和な表情の奥にあるのは、底なしの深い闇だった。その闇が、光の首の辺りをぎゅっと捕らえていた。


「そうだな、身の上話でも聞いてくれ。私とミハネの――母さんの馴れ初めの話だ」


 ミハネ。浜岡ミハネ。アイドルだった母の名前を、光は反芻する。

 迫水は顔をほころばせると、少しはにかみながら話し始めた。

 ――その足元では殴り倒された結城がまだ動けないでいる。


「元々私は浜岡ミハネのファン――オタクだった。まだ東京で暮らしていた頃のことだ。ある日偶然テレビの深夜番組で目にしたミハネに、私は興味を持った。理由など分からない。だが、そういうものだろう――


 迫水の言葉を肯定することには抵抗があったが、そこにある種の真実があることは否定できなかった。


 無論、光の脳裏に浮かんでいるのは撫子の姿である。


 迫水は遠い目をして続ける。


「気がつけば私はミハネの現場に通い詰めるようになっていた。ステージで歌い踊るミハネは、まさに天使そのものだった。ミハネは優しかった。握手会でも全てのオタクに平等に接していた。贔屓などせず、誰とでもフランクに言葉を交わした」


 アイドル冬の時代に咲いた花、浜岡ミハネ。彼女が――母が――誰よりもファンを大切にしたことは、彼女を紹介する様々な文章で強調されていた。客席の最前列から最後尾まで、全てのファンに目線を送り――少なくともファンにそう信じさせ――「誰かじゃなくて自分のために歌っているのだ」と思わせてくれるアイドル。全てのオタクを肯定し、平等に愛を注ぐ存在。それが浜岡ミハネだったという。


「そのことが私を悩ませたこともある。愚かな私は、注いだ愛情の大きさの分だけ、大きな見返りがあるべきだと思い込んでいたのだ。誰よりもミハネの歌を聴き込み、誰よりもミハネの言葉を理解し、誰よりも大きなプレゼントを送っている自分が、ミハネから一番大きな愛情を受け取るべきだと――」

 

迫水は自嘲的な表情で肩をすくめた。


「だがミハネは私を特別扱いしなかった。いつだって他のオタクと同列に扱った。器の小さな私は、時としてそんなミハネに対してわだかまりに似た気持ちを持つことすらあった。だが、そんな時にオタク仲間が言ったんだ――」


 過去の記憶と戯れている迫水の目には、きっと当時のそのオタク仲間の姿が浮かんでいるのだろう。青春の日々を懐かしむような目で迫水は、


「そういう人だから好きになったんでしょう――とな」


と、ちょっといい話でもしたかのように、得意げに笑った。

 光はそんな父親に対して何も言うことができない。


 ただ、理解できないものを見せつけられ続ける不愉快さだけが、光の胸に広がっていく。


 そんな息子の内心をまったく気に留めず、迫水は話を止めない。


「本当にその通りだよ。もし、ミハネが私を特別扱いするような人間だったら、きっとここまで好きになることはなかった――」


 確信するように頷く迫水。そして何かを思い出したように、大きく目を開き、光に語りかけた。


「光、お前も見ただろう。あの青いサイリウムの海を」


 青いサイリウムの海――浜岡ミハネ引退コンサートの光景のことだ。

 当時まだ珍しかったサイリウムの一斉点灯。

 客席から仕掛けられた、ステージを去るアイドルへのはなむけのサプライズ。

 光が何度も何度も動画で見た場面だった。

 繰り返し見てまぶたの裏に焼き付いたそれは、光にとっては原風景といってもいいものとなっていた。


「――私もあの中にいたのだ」


 その事実を誇るように、迫水は手のひらを胸にあてた。そうすれば思い出の中の光景に、いつでも帰れるとでも言いたいのだろうか。


 光は少なからず動揺した。


 青い光の海を前にして立つ浜岡ミハネ――あの光景を共有できる人間と、人生で初めて出会ったからだった。それは親近感と呼ぶには小さすぎたが、嫌厭の情だけが積み上がった胸の内に少しだけ違う感情を、しおりのように挟んだ。

 呆然とする光を見て、また見当違いの納得をしたらしい迫水は話を再開した。


「アイドルを引退した後のミハネと再会できたのは偶然だった。大学時代の友人が主催したパーティーにたまたま彼女が来ていたのだ」


 ここから先は何の記録も残っていない、光が知らない世界の話だ。

 知らず知らず光の耳は迫水の話にひきつけられる。


「その時ミハネは付き合っていた男に振られて酷く傷心していた。私は驚いたよ。ミハネのような女の子を振る男が、この世に存在するのだということに」


 本当に理解できない――という表情で迫水は前髪をかき上げた。だが、すぐにその表情は明るいものになった。それは、その続きの場面が何よりも楽しいからに他ならない。


「自分で言うのもなんだが――私の真摯な優しさがミハネの心に通じたのだろう。しばらくすると私達は二人で会うようになった。そこからは楽しい日々だったよ。私はアメリカ留学を準備するミハネを経済的に支えるために遮二無二しゃにむに働いた。残業が続いて心身ともに限界に近づいても、それでも家に帰ればミハネがいてくれる――」


 人間はと笑うことができる――迫水はそれを証明した。

 光は一瞬抱いた親近感の欠片を投げ捨てた。


「かつて誰よりも推したアイドルと一つ屋根の下で暮らすことができるんだ。こんな幸せなことがあるか!? 推し――なんて言葉はまだなかった頃だが――私は人生の頂点にいた」


 早口でまくしたてる迫水は、思い出に耽溺しているというよりは、妄想に取り憑かれた人間のようだった。迫水が語る過去が、本当にあったのかはわからない。ただ、この男の脳内には、確実にそれが存在している。


「だが――」


 興奮の色を宿していた迫水の瞳が、急に光を失う。


「――ある日突然、ミハネは私の前から姿を消した」


 世界の終わりを告げる預言者のように、迫水は言葉を絞り出した。

 記憶の中から甦った絶望が、迫水の心を粉々に砕いていく。

 迫水は顔面蒼白になり、目を虚ろにして視線を彷徨さまよわせた。


「理由はわからない――この、わからないという結論に至るまでに、どれだけの時間を要したかは――説明しても説明しきれないな。半狂乱に陥った私は、自殺することすら考えた――」


 思い出すだけでこれ程の苦痛を覚えるのだ。当時の迫水の姿は想像するに忍びないものだっただろう。先程までとは打って変わって亡者のような表情と化した迫水は、陸にうちあげられた魚のように口をパクパクさせて続けた。


「自殺を思いとどまらせたのは、ミハネの楽曲の存在だった。私はいつだって彼女の楽曲から『生きろ』『生きているだけでいい』というメッセージを受け取っていたのだ。だから、どんな悲しみに打ちのめされたとしても――その悲しみを与えたのが彼女自身だったとしても――生きるべきだと思い直したのだ」


 光の耳に、浜岡ミハネの楽曲が次々に甦った。

 気分が落ち込んだとき、どうしようもなく寂しいとき、ここにはいたくないと感じたとき――そんなときは母親の楽曲を聴いていた。そうすれば気持ちが落ち着いたし、どこか救われたような気分になったからだ。

 その時の感情を今まで言語化せずにいたが、あえて言葉にするとするならば、迫水が言ったような内容になるのだろう。

 自分の居場所がどこにもないと感じた自分が、ギリギリこの世界に留まっていられるのは、母親が残していったものの存在があったからだ。


 それはきっと迫水も同じなのだろう。

 迫水の顔には生気が戻っていた。


「ミハネは個人的な情報を全くと言っていいほど周囲には明かさなかった。私と同居していたときもだ。ミハネが姿を消してから十年経って、私はなんとか調べ上げた断片的な情報を繋ぎ合わせてこの町を訪れた。ミハネに会えるかもしれないという、ほんの僅かな希望を抱いてな――そして、ミハネの死と、お前の存在を知ったのだ」


 母親の死を語る迫水の表情は、先程彼女の失踪を語ったときよりは落ち着いていた。逃れようのない死という現実。取り乱すことすら許さない厳然とした結果だけが、そこにはあったからだろう。


「――私は愕然としたよ。今度こそ本当に自ら命を絶つことすら考えた。そして同時にミハネが私の元を去った理由も分かった」


 迫水は改めて光に視線を向けた。足先から頭頂部までじっくりと、その姿を確認するように光を観察する。そんな迫水の目に宿った感情――それを光は読み解くことができない。 


「光――お前を身籠みごもったミハネは、私に迷惑を掛けたくないという一心で私の元を去ったのだ」


 迫水が告げる事実は、光という存在の、根幹の部分を揺さぶっていく。


「仕事に忙殺されていた当時の私には、とてもじゃないが家庭を持つ余裕などなかった。ミハネはそれを分かっていたのだ」


 母親がこの迫水という男を愛していたのかは、光には分からない。だが、迫水の口から語られたような状況の中で、母親が光を一人で育てる決意をしたというのは限りなく事実に近いことのように思われた。


 それが、浜岡美羽という女性の中で、迫水と光の二人――それは彼女にとっての愛する二人だろうか――を幸せにする唯一の選択肢だったのだ。


「お前について分かったのは、『光』という名前と、東京の親戚に預けられているということだけだった。私は父親としての責務を果たしたいという気持ちを持ちながらも、何もすることができなかった。本当に情けない気分だったよ」


 迫水は目を伏せた。

 父親としての不甲斐なさを噛み締めているのだろうか。あるいは――


「――ミハネをたった一人で死なせてしまったのは私の責任だ」


 母親の死。決して覆らないその事実。

 だが、その死に対して責任の所在を求めることはできるのだろうか。迫水の元から去ることを決断したのは母親自身であり、一人で光を産み育てると決めたのも母親自身だ。


 それでも迫水は、その死を自分の責任だと言う。


「次に私が考えたことは何だと思う?」


 問いかける迫水の声は暗かった。


「――贖罪だ」


 愛する人間を死なせてしまったという罪。迫水は背負った十字架の重さを噛みしめるように言葉を紡いでいく。


「まず私はミハネの生まれ故郷であるこの町に住み、この町を理解しようと努めた」


 迫水はガラスの壁越しに外の風景を眺めた。暴風雨の中の岩田屋――その景色を、まるで聖地を訪れた敬虔けいけんな巡礼者のように見つめる。


「この町にグロッサーヒューゲル社の研究所があると知った私は、当時勤めていた企業からグロッサーヒューゲル社に転職し、東京からこの町に移住した。いわゆるIターンというやつだな。何も知らない周囲の人間は驚いていたよ」


 今、自分たちがいるこの場所が、迫水の言うグロッサーヒューゲル社の研究所だ。

 迫水はどんな思いを抱いてこの研究所で働いていたのだろう。


「働きながらこの町の地理、歴史、自然、産業について学び、地域のイベントにも積極的に参加した。ミハネのことを抜きにしても――それは楽しい経験だったよ」


 ふっと笑みを漏らす迫水。その楽しさはそれでも、母親の死という悲しみを拭い去るようなものではなかったに違いない。 


「岩田屋町――素晴らしい町だ。山も、川も、人も、全てが美しく、優しい。まさにこれこそミハネの生まれた町だと思ったよ。私はこの町が大好きになった」


 迫水は大きく手を広げる。その表情は、岩田屋という町を通して浜岡ミハネというアイドルを理解した――とでも言いたげだった。


 光はそこになんとなく引っ掛かりを覚えた。

 自室にあった母親の写真。

 その表情を思い出す。

 あの、どこにもいたくないと言いたげな浜岡美羽の表情を。


「そして、この町のために生涯を捧げることが、ミハネに対する贖罪になると確信した」


 迫水が言い放ったその言葉には、堂々とした響きがあった。


「いつかお前が帰ってきたときのために、ミハネが生まれたこの町を美しく保っておくこと。それが私にできる唯一のことだと――」


 迫水が見出した贖罪。そして、父親としての責任の取り方。

 それが、この町に対する奉仕なのだ。今は亡き愛する人の郷土に、その身を捧げる。自らの生き方でもって、その罪を贖い続ける――

 

 もしかするとそれは、端から見れば美しい着地点なのかもしれない。実際、語り終えた迫水の表情には満足感のようなものが漂っていた。


 しかし、光は絵空事のように迫水の話を受け取っていた。


 光は周囲をぐるりと見渡した。鉛色の雲に覆われた空。叩きつけるように降る雨。


 本当に――――

 母は本当に――――この町を愛していたのか?


 彼女は、どうしようもなくここにいたくないと感じたから、この町を飛び出していったのではなかったか。


 光には迫水が見当違いをしているように思えてならなかった。この男は、自己満足の贖罪に浸っているだけなのではないか。

 訝しむような光の視線に、迫水は気づかない。光に背を向けて荒れ狂う外の景色を眺めている。


 光は、この男に何を言うべきかを考えていた。この男――自分の父親。

 それは人生で初めての対話となるはずだった。そもそも、何と呼べばいいのだろう。父さん? まさか――


「――だが」


 光の思考を打ち消すように迫水が言った。

 その声色が今までとは全く違う響きを持っていることに、光は気付いた。


「私は物足りなくなってしまったのだ」


 迫水の声は静かだった。落ち着き払ったその声には、悲しみも寂しさもない。

 贖罪も、父としての責任も、何もかも、迫水の中からが消え失せていた。

 光は迫水の中で、何かが膨れ上がるのを感じた。


「こんなに美しい町に、なぜミハネがいないのかと――」


 光の方を振り返った迫水の目は黄色く濁っていた。充血したその白目の真ん中にある瞳には、光の姿は――自らの息子の姿は――映ってなどいない。


 そこにあるのは闇――とぐろを巻く蛇のような狂気だけだった。


「私はミハネに会いたくなった」


 光は迫水の瞳から放たれる黒い気配から逃れるように後ずさりした。

 だが、迫水の身体からこぼれ落ちる闇は、床全体に広がって、光の足首を掴んで離さない――そんな幻視すら見えた。


「私はミハネとこの町で暮らしたいと考えるようになった」


 迫水の言葉はもはや光には向けられていない。

 ただ、自分の中にある欲望が反響して外に漏れ出しているだけだった。


 この男は死者に取り憑かれている。


「私がこの研究所でやっていたのは、グロッサーヒューゲル社の裏の顔とも言える仕事だった。新薬の開発と製造がこの施設が作られた表向きの目的だが、実際のところは違う――」


 迫水は歪んだ笑みを浮かべてガラスのドームをぐるりと見渡した。


「私はここで動物のクローンを作っていたのだ」


 クローン――めったに耳にすることのないその言葉は、目の前の透明な棺に浮かぶ母親の身体と結びつき、光の脳を揺さぶった。

 この、黄色い羊水の中に横たわっている母親の身体は――


「情報生命体仮説に基づく、動物のクローニング実験。時を越えて絶滅動物すら現世に再生する――私が担当していた仕事はそれだ」


 迫水はゆっくりと棺に近づくと、愛おしむようにその表面に指を這わせた。

 棺の中の身体はぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのかも分からない。


「競走馬のクローン作りはいい小遣い稼ぎになったよ。買っていった人間は替え玉としてレースに出走させると言っていたが……まあ、私の関知するところではないな」


 光は自分たちが閉じ込められていた牢屋のことを思い出した。結城はそれを馬房のようだと言っていたが、本当にそうだったということだろう。光には競走馬の価値はよく分からないが、歴史的名馬のクローンなら、それがたとえどれだけ高価でも手にしたいと考える人間はいるに違いない。


「ただ、まあ余りにも危険な橋を渡りすぎたのだろう。経営陣の判断で、この研究所はお取り潰しになった。会社に未練のない私は岩田屋町役場に転職した」


 あっさりと言って、迫水は肩をすくめた。


「私の手元に残ったのは横領した莫大な金と、クローンを製造する技術。そしてこの町に残されたのはこの研究所兼工場の跡地だ」


 そうして準備は整った――ということなのだろう。


「私はミハネを再生させることにした」


 父親――もはやそう呼ぶことすら躊躇ちゅうちょするが――の言葉には、重々しさなどまるでなかった。気軽に――レンジでミルクでも温めるかのように――「再生させる」と言った。そこには命の重さへの敬意が絶望的に欠落している。


 迫水は研究者としての――いや、人としての倫理の一線を軽く飛び越えて、邪悪の原野に立ち、こちらを見ているようだった。


「見ての通り、カタチはまさに浜岡ミハネそのものだ。年齢は私の前から姿を消した当時と同じにしてある。お前を産んだときの母さんの姿とも言えるな。写真で見るより美人だろう?」


 説明を加えられても、光はそこに気持ち悪さしか覚えなかった。

 この男はただ、思い出をそのまま再生したいだけなのだ。


「だが、カタチは再現できるが、記憶の継承という問題があった。これに関しては情報生命体仮説でも手の出しようがない領域だ。死者から記憶をそっくりそのまま写し取る。これはまさに『奇跡』の領域だよ」


 光の人生の中で、『奇跡』という言葉がこれ程までに不吉な響きを持ったことはこれまでなかった。こみ上げてくる嫌な予感と共に、この男がしようとしていることの輪郭が、暗闇の中からゆっくりと姿を現し始める。


「だから求めたのだ。『奇跡』を――」


 迫水は陶酔したような表情で『奇跡』と繰り返す。

 それはただの『欲望の充足』の言い換えに過ぎないというのに。 


「『奇跡』を起こす神代かみよのUMAをここに現出させる」


 迫水の宣言と共に、ガラスのドームを叩く雨粒の勢いが一際強くなった気がした。

 神代のUMA――この男はいったい何を言っているのだろう。UMAといっても、所詮は動物に過ぎない。光の頭にあったのは、あの雪男達だった。図鑑の隅に載っている珍獣達。たかが動物に、死者の記憶を自由に移動させるような、そんな凄まじい力がある筈もない。そんな都合のいい『奇跡』を起こせる動物が、地球上に存在する訳が――


 ――なんで本当にいる訳がないって思うの?


 記憶の底から聞こえてきたのは、稲妻禽観神社で出会った撫子の兄――空野有の言葉だった。彼の口からは、神にも等しい力を持ったUMAの存在も語られていた。


 どんなことだって起こるのだということは、ここ最近の出来事で実感済みだったが――


 それでも『奇跡』を起こすUMAなど、あまりにも荒唐無稽すぎる。

 そんな光の懐疑を余所に、迫水は拳を握り、未来を確信するように朗々と言葉を続ける。それは悪しき神に仕える神官を思わせるものだった。


「巫女とUMAを一体化させ、どんな願いも叶えることができる神に等しい力を手に入れ――」


 巫女。その言葉を聞いた瞬間、光の背筋を冷たいものが走り抜けた。巫女とは撫子のことだろう。

 撫子をUMAと一体化させる。

 この男は己が欲望を叶えるために、撫子を生贄いけにえとしてUMAに捧げようというのか。

 光の中にあった嫌悪は一線を踏み越えて、次の領域へと至りつつあった。


「そして、浜岡ミハネをもう一度、この世界というステージに呼び戻すのだ」


 迫水は笑顔だった。

 どれだけ邪悪な野望も、後ろめたさなしにはっきり言い切れば立派に聞こえる。そういうものらしい。光は馬鹿馬鹿しさと共に実感する。


「光、ここからまた家族三人でやり直そう」


 魅力的な提案でもするかのように、迫水は光に語りかけた。やり直すも何も、光にとってはすらないというのに。この男の世界には、そんな光側からの視点が全く抜け落ちていた。


 光の胸には冷たい侮蔑と、煮えたぎるような怒りの両方が、交わるでもなく同居していた。極寒と灼熱の間で、光の精神は静止する。


 じっと自分を見つめる光の目を、迫水はどう受け止めているのだろうか。

 その顔には希望そのものといった表情が張り付いている。柔和で包み込むような、優しい笑みだ。鏡の前で練習でもしたのかと思うような、父親らしい顔。


 実際のところそこには、光を慮ろうとする思いなど、欠片も存在しないのだ。


 不器用すぎて伝えられない――などというものではない。この男は、子供を自分の人生ののようにしか考えていない。それがありありと伝わってくる。


 光は自分の父親について、何か期待していた訳ではなかった。


 いつか会いたいとか、優しい人間であってほしいとか、幼少期はそんなことを考えていたこともあったかもしれない。だが、十歳を過ぎる頃からは、ただただ自分の人生とは無関係な存在でしかないと考えるようになっていた。

 自分と母を捨てた――かどうかすら分からない――男。

 自分の遺伝子の半分を担う人間。

 もし会うことがあったとしても、きっとなんの感慨も湧かないだろうと思っていた。殊勝な態度だったら笑って許そうか、ふざけた態度なら恨み言の一つでも言おうか――せいぜいそれぐらいのものだった。


 ――だが、これは。

 そんな次元ですらない。


 この男が、撫子を犠牲にして――――自分の願望を叶えようとしている。


 結局それが一番、気に食わないのだが――


「――自分の都合ばっかり喋りやがって」


 勝手に漏れ出した――そんな声だった。

 光は自分の口から放たれる音を、他人事のように聞いた。

 しかしその言葉は、巨大な歯車が回りだす時のように、ゆっくりと力強く、光の心情をある一つの方向に向かわせようとしていた。侮蔑と憤怒の境界は溶け合い、それはシンプルな暴力性へと代わっていく。


「やり直すって――それで僕の過去が変わるっていうのかよ」


 波打つ声帯が、呆れと共に言葉を吐き出す。

 迫水が眉を上げ、「うん?」と光の表情をうかがう。


「いい加減にしろよ――」


 静かに、確実に、血管を伝って全身に怒りが満ちていくのを感じた。

 指が震える。指だけではない。声も。顔も。

 頬の肉がひきつる。言葉の波がすぐそこまで来ている。

 目の前のこの男にぶつけるべきものが。

 迫水は何も変わらない。

 ただ、にっこり笑うと――


「どうした、お父さんになんでも言ってみろ」


 それが引き金になった。


「ふざけるな!!!!」


 光は迫水に飛びかかり、その胸倉を掴み上げた。食い殺さんばかりの勢いで顔を近づけ、吠え立てる。


「今まで何もしなかった――僕に何もしてくれなかったくせに――!! 父親としての責任を果たすなら――もっと、もっとこう、あっただろ!! できたことが!! お前が今言ったのは、結局逃げ回って死んだ母さんにすがりついてるだけだろ!! 母さんが生き返ったからって何だっていうんだよ!! 今更何ができるっていうんだよ!! それで僕のこれまでの人生をどうしてくれるんだ!? みじめで、どこにも居場所がなくて、クソみたいな人生を――なんで!! こんなに――!! なんでこんなに、僕は生きづらいんだよ!! ふざけるなよ!! 死ね!!!!」


 光は掴んでいた胸倉に力を込め、そのまま迫水を突き飛ばした。


 殴り掛からなかったのは最後の理性だった。

 どくどくと脈打つ音が、光の耳の奥で響き続ける。

 光は、

 傲慢で無責任な――自分というセイブツの半分を構成する存在を。


 息子からの文字通りのを受けた迫水は、殺意としか呼べない感情が張り付いた光の顔を、目を丸くして見つめていた。意外だとでも言いたそうな顔だった。


「――そうか」


 迫水は静かに息を吐き出した。そして、思い詰めたような表情で首を振った。


「残念だ。お前になら母さんの――浜岡ミハネの価値が理解できるはずだと思っていたのだがな。見込み違いだったようだ」


 光は思わず「は?」と声を上げてしまった。そんな話はしていない。こいつは何を聞いていたんだ――


「お前がいればミハネが喜ぶと思って儀式に参加させようとしたのだが――」


 遠くを見るような目で、迫水は光を見た。

 そこにあるのは断絶だった。

 この男の耳には、何も届いていない。


「もうどうでもいいな」


 吐き捨てるように言った迫水の言葉が、想像を越えて光の胸を締め付けた。首に細い縄が巻き付いたような感覚。息が苦しい。こんな父親とも思えない男から否定されたからといって、それが何だというのだ。そもそも、本当に父親かどうかもわからない男だ。ずっとデタラメをまくし立てているだけという可能性もある。狂人の妄言を聞かされているに過ぎないという可能性だって――

 そうやって光は必死に胸の中で言葉を並べるが、それでも感じてしまったものを消すことはできない。


 僕は、お父さんにいらないと言われた。


 自らの心に矢のように突き刺さったその感情が光をたじろがせた。


 床に転がっていた結城が顔を上げ、苦悶が刻まれた表情で光に視線をやった。途切れ途切れの声で、光に語りかける。


「――その、男の、言うことに――耳を、貸すグエッ」


 迫水が爪先で結城の腹を蹴り上げた。結城を見下ろす迫水の顔には何の感慨も浮かんでいなかった。強いて言うなら「まだ死んでなかったのか」ぐらいのものだった。


 恐らく結城は感じていたのだろう。

 この先、迫水が告げようとする言葉の内容を。

 悪意を持って我が子に放たれるその凶器を。


 迫水はここで初めて、光に対して敵意を剥き出しにするような顔を見せた。それは、ずっと内心に秘めていたものだったのだろう。十年間、仄暗ほのぐらい胸の内で醸成され続けた怨嗟えんさ


「お前を産み落としたその負担でミハネは死んだんだぞ」


 光は頭の中が真っ白になった。

 決して予期していなかった言葉ではない。

 ずっと心の中で思っていたことだった。埋まっているのが分かっている地雷のようなものだ。そうなのかもしれないと――ずっと考えてきた可能性だ。周囲の誰もそれを口にしなかったが、だからこそ、と思い続けていたことだった。


「お前はミハネを殺してまで、この世界に生まれ出る価値がある存在だったのか?」


 迫水の問いには悪意しかない。

 それは絶対に光の口からは答えられない問いだった。


 頭の中で、青い光が海のように広がっていく。何度も繰り返し見た動画の中の風景。一つ一つの光に、アイドル浜岡ミハネへの惜別と、彼女の前途への祝福が込められている。その青い光の海が――全て自分を呪っている。


「――お前には何の価値もない」


 迫水が叩きつけた言葉は、物理的な力すら持っているかのように、光の身体を後ろに弾き飛ばした。血走った目で光を見る迫水。その目が語る。――


 光は圧倒的な孤独の波に溺れていた。

 光の魂は、嵐に翻弄される小舟のように揺れ、真っ暗な海の底に沈もうとしていた。自分には何の価値もない。何の価値もない苦しみに満ちた人生を送り、そして、死ぬだけだ。過去から這い上がってきた呪詛が、現在の自分を絡め取り、未来までも確定させた。


 母を殺し、黒い生を受け、誰にも祝福されずに死ぬ。


 光はいつだって思っていた。ここにはいたくない、と。今この瞬間、その思いは光の人生そのものとなった。この地上に、自分が生きていていい場所などないのだ。


 虚ろな表情で佇む光を、虫けらを観察するように迫水は眺めていた。この害虫を始末する算段をどうつけようか――そんな顔だった。


 ガラスの天井と壁の向こうでは、狂ったように雨風が暴れている。

 少し暗くなってきたように感じるのは、時刻が夕方に迫ろうとしているからか。

 散弾のように叩きつける雨。

 そこに別の音が混じった。


 足音だった。


 開け放たれたままになっていた、この部屋の入口の扉。

 その向こうから、それは来た。


 一人の少女がやってきた。


 黒い髪と黒い目。

 不機嫌そうなその表情。

 部屋の真ん中までゆっくりと歩みを進めたその少女は、迫水をめつけると、闇を裂くような凛とした声で言い放った。


「――あんたなんかに、光の価値は決めさせない!」


 浅倉撫子は憤怒の炎を、瞳の中に燃え上がらせていた。その姿を目にした光の魂は、絶望の海から引き上げられる。


 撫子。撫子。撫子――!


 頭の中に言葉があふれるが、何も形にならない。ただ目を見開き、何度も口を「」の形に動かす。血が逆流し、身体に生命力が蘇る。


「来たか――! 岩田屋の巫女、浅倉撫子!」


 迫水は歓喜していた。口の端を歪めて、生贄の到着を祝福するように手を広げる。


「浅倉の血が生み出した『殺人芸術』――さらに言うなら多重情報体オーバーローデッドか。そこは奇しくもミハネと同じだな」


 興奮気味の迫水の言葉を、撫子はつまらなそうに聞いている。


「君のその特異体質は、目の前の人間に過剰な情報処理を強いる。ある種のUMAと同じでね――だからこそ感覚器官がヒトに近いセイブツほど、君と相対した時に動きを制限されてしまうと言うわけだ」


 光は忍が言っていた「撫子はアイドルだから攻撃が当たる」という理論を思い出していた。よかったね、忍。どうやら正解だったみたいだよ。


「――だから君には特別な相手を用意させてもらった」


 迫水は右手を高く上げて、指を鳴らした。

 特別な相手?――と、光が浮かべた疑問符は、次の瞬間けたたましい破壊音と共に消え去った。ガラスの壁をぶち破って、一頭の巨大な獣がホールに出現したのだ。

 獣がその、ちょっとしたトラックぐらいありそうな巨体をぶるぶると震わせると、身体の上に載っていたガラスが床に落下して音を立てて砕けた。

 信じ難いが――この獣は建物の最上階にあるこのホールまで、地上のどこからかジャンプしてきたらしい。

 それは恐竜図鑑から飛び出してきたかのような生物だった。

 四本脚で地面を踏みしめ、長い尾を振り、撫子の方に顔を向ける。

 角竜とサイの中間のようなその生物は、目をパチクリさせてぐるると鳴いた。


 その鼻先には巨大な一本の角があった。


「コンゴのUMA、エメラ・ントゥカ。神代の獣とは程遠いが、地上で最も強力なUMAの一つだ。『象殺し』の名は伊達ではないぞ」


 嗜虐しぎゃく的な笑みを浮かべる迫水。撫子は無言でそれを睨み返している。


 光はぞっとした。撫子の強さは知っている。だが、それは人間――またはそれに類するものを相手にしたときのものだった。こんな本物のバケモノとまともに戦えるとはとても思えない。だからこそ迫水が「特別な相手」と呼んだのだろうが――


 逃げろ撫子――という言葉が口元まで出かかった時だった。


 先程よりもさらに派手な破壊音と共に、ガラスの天井が砕けて巨大な何かが落下してきた。ガラスの雨が降り注ぐ。光はそれが何なのか分からないまま、本能的に身体を投げ出すようにホールの隅まで走っていた。


 ガラス片で致命的な傷を負わなかったのはただの幸運だろう。

 頬の切り傷の血を拳で拭いながら、光は落下してきた物体のほうを見た。


「――ヒッ」


 喉に詰まるような声が出たのは、生理的な嫌悪感からだったのかもしれない。


 そこにいたのは、もがくように長い八本足をばたつかせる恐ろしく大きなクモだった。


 先程のエメラ・ントゥカの上に、覆いかぶさるように乗っている。

 青い体液を飛び散らせながら苦痛にあえいでいるその大グモの上に、一人の男が立っていた。精悍な表情のその男は、手にした金属製の長い棒を、クモの頭に突き刺している。


「――だから言っただろ、『今のままで十分だ』ってな。漫画でよくあるじゃないか。切り札ってのは、先に出したやつから負けるんだ」


 男が眉を上げて得意げに言うのと、何事もなかったかのように先程と同じ場所に立っていた迫水が不快そうに「新渡戸キリンジ――」と声を絞り出すのは同時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る