【光】19 羽ひらくとき

 エメラ・ントゥカはサイと恐竜の中間のような生物だった。その巨体を覆う灰色の皮膚の上を、青い液体がとめどなく流れていく。


 エメラ・ントゥカの背中で、ヒトの身の丈よりも巨大なクモが、苦しそうに脚をばたつかせていた。ギシギシという音と共に、クモの関節という関節から青い体液が噴き出している。


 夢に見そうなその光景から、光は目をそむけたくなる。


「迫水――早く、早く――神の獣を、目覚めさせろ――」


 ヒトの声だった。

 一体どこに声帯があるのかは分からないが、クモは確かに人間の男の声で喋った。

 苦悶に満ちたその声は、途切れ途切れになりながらも続いた


「我々の――願いをが、な、え、ろ――」


 ギギギッという悲鳴をあげた後、クモはあえぐように「ざごみず!」と叫んだ。

 迫水はそんなクモを、全く無感情な目で見ていた。嫌悪もなければ同情もない。


「もう、がらだが――もだない――た、の、む」


 クモの懇願を聞いた迫水は嘆息すると、肩をすくめた。 


「――やれやれ、デカい口を叩いておいて情けないなチバ・フー・フィー。お前の相棒も姿が見えないということは、やられてしまったか」


 身をよじったクモの身体から、一際多くの体液が噴出した。その雰囲気から、クモが迫水の言葉に怒ったのだと分かる。エメラ・ントゥカはじっとしているが、不快そうに首を振っている。 


「だのむ――お、ねがいだ――かみの、けものの、ちからを――」


 クモに表情はない。だが、その頭部に配された八つの目には、どれも迫水の姿が映っていた。その目に映る八人の迫水は、誰もクモの願いを叶えるつもりなどなさそうだった。ただ、死にゆく巨大な節足動物を観察している。 


 クモの脚の動きが緩慢になる。体液も出し尽くしてしまったらしい。クモの関節は壊れた機械のように振動して音を立てていた。

 それも止まり、八つの目から光が失われる。最後まで痙攣けいれんしていた脚もダラリと垂れ下がる。


 クモは死んでしまった。


 そのクモの頭部に金属棍を突き刺していた男――新渡戸キリンジと呼ばれていた――は、神妙な顔でそれを引き抜き、ひらりと身体を躍らせて床に着地した。そのまま隙のない動きでエメラ・ントゥカの巨体から距離を取る。


 クモの亡骸を見上げながら迫水が吐き捨てた。


「UMAハイブリッドの改造人間――哀れでつまらん連中だ。望んで力を求めてなったのに、その望みときたら『自分と仲間を元の身体に戻してほしい』だからな」


 改造人間ということは、この大きなクモも、元は人間だったのだろうか。『UMAハイブリッド』という言葉が意味するところはよく分からないが、その肉体をUMAと掛け合わせることで力を得ていたのかもしれない。


 元の身体に戻りたい――という望みにどれだけの重みがあったのかは、光には想像すらできない。それでも迫水に哀願するクモの声には真に迫る悲痛さが感じられた。


 迫水が現出させようとしている神代のUMAとやらの力があれば、その身体を人間のものに戻すことができたのだろうか。


「どれだけ力を得ても、その精神まで人を超越させるのは難しいということだ」


 迫水が言うのと同時に、エメラ・ントゥカは身体を揺さぶってクモの身体を床に落とした。硬かったであろうその外骨格は、ブヨブヨに変化し始めていた。どういうことだろうと光が思った時には、クモは脚先から白い泡に変化していった。


 あっけにとられている光のズボンの端を後ろから誰かが摘んだ。振り向くと撫子が少し心配そうな顔で立っていた。先程までの怒りの表情は今は消えている。どうやったのかはわからないが、撫子はあのガラスの雨を無傷でやり過ごしたようだった。黒いタンクトップにカーゴパンツという動きやすそうな格好は初めて見る私服だがよく似合っていた。


 久しぶりに近くで感じる撫子の存在感に、光は呼吸を忘れそうになる。


「――撫子」


 思わず名前を口にしてしまった。「どう考えても罠なのになんで来ちゃったんだよ」とか、「危ない中助けに来てくれてありがとう」とか、そんな台詞は出てこなかった。本能的に口から滑り出たのがそれだった。 


「何よ」


 無意味に名前だけを呼ばれたのが不服だったのか、いつものように口を尖らせる撫子。そんな顔が、どうしようもなく愛しかった。


 あまりにじっと見つめたからか、撫子はぷいと視線を逸らす。

 いや、敵の――迫水の方に向き直ったのか。

 迫水は冷ややかな目でキリンジを見ていた。


「君はどうかな、改造人間・新渡戸キリンジ?」


 貴様には超人として生きる精神力があるのか?――と迫水がキリンジに問いかけている。

 キリンジは口の端から流れ出ていた血を親指でビッと拭い去り、不敵な笑みを浮かべた。


「俺はそんな奴らとは出来がちがうぜ」


 見ればキリンジは傷だらけだった。着ている服はところどころ破れ、血にまみれている。だがキリンジは苦痛をまるで感じさせず、手にしていた自分の背丈ほどある金属の棒を、バトンのように回転させて構え直した。


「しかし、仲間が苦しんでいるのに、助けようともしないとはな」


 キリンジは軽蔑するように迫水に告げた。確かに迫水は助けを求めているクモに、まったく手を差し伸べようとしなかった。


「仲間? ただ利害が一致していただけに過ぎんよ」


 さも意外なことを聞いたと言わんばかりに迫水が目を丸くする。

 グルルルルと低い唸り声をあげて、エメラ・ントゥカが迫水のすぐ脇にノシノシと移動した。こいつがいれば他に味方など必要ないとでも言いたげに、迫水はその角を撫でた。


 しかし、猛獣遣いでもあるまいし、どうやってこの巨大な獣を手懐けているのだろう。


 キリンジは迫水から目を逸らさないまま、自分の足元で転倒していた結城に手を差し伸べていた。


「大丈夫か、結城さん」


 キリンジに手を引かれてよたよたと結城が起き上がる。身体からガラス片がバラバラと落ちたが、大きな傷を負っている訳ではなさそうだった。「ん? 丸腰か」と呟いたキリンジが、腰から抜いた拳銃を結城に手渡した。結城はもごもごと礼を言いながら、それを緩慢な動きでショルダーホルスターに収めた。


「里菜さんは?」


 結城が尋ねるが、キリンジは沈黙したままだった。里菜というのは、撫子の姉の名前の筈だ。結城からは、撫子らと共に光を助けに来てくれていると聞いていたが。「嘘だろ」と結城がうなだれる。撫子は表情を変えず、二人のやりとりに反応を示さなかった。


 キリンジは奥歯を噛み締めると、険しい視線を眼前に飛ばした。巨獣は鼻息を荒くしながらこちらを観察している。


「――エメラ・ントゥカ。コンゴ共和国に生息するUMAだな。その巨大な角で、アフリカゾウをも一撃で殺すと言われている。草食で性格は温厚。しかし、一度怒らせれば敵が沈黙するまで決して攻撃を止めない闘士ファイターでもある。実物を見るのは俺も初めてだ」


 キリンジはエメラ・ントゥカのそのゴツゴツとした威容を見上げた。

 あの角で突かれればゾウだろうがクジラだろうが一刺しであの世行きだろう。その黒光りする先端を見て、光は本能的な恐怖を覚えた。


 生物としてのステージが違いすぎる。


 人間が群れで生きることを前提とした生物ならば、エメラ・ントゥカは単独で生物として完結している。


「一対一で戦えるような相手じゃない――」


 思わず口にしてしまった言葉だったが、キリンジがそれに反応した。


「違うぞ光くん、よく見ろ――」


 キリンジが人指し指で、自分、結城、撫子、光と示していく。


「どう見ても四対一だ」


 得意気にキリンジは笑った。光はこの人大丈夫なのかと不安になる。


「実質二対一かしらね」


 撫子がぽつりと続ける。の中から引かれたは、自分と結城なのだろう。光は申し訳ない気持ちになった。


 撫子は首をぐるりと回してエメラ・ントゥカに視線をやった。まさか、本気で戦うつもりなのだろうか。


「撫子」


 無茶をするのはよそうと光が言いかけたその刹那、撫子は振り返って光の目をじっと見つめた。その黒い翡翠のような瞳にまっすぐ捉えられて――いつ以来だろうか――光は言葉を失う。


「私は光の願いに応えることはできないかもしれない――でも」


 一瞬、何の話か分からなかったが、光はすぐにそれが稲妻禽観神社での一件のことだと気付いた。

 光の胸に後悔の波が押し寄せた。『にくにくフェスティバル』当日の、あのよそよそしい態度の理由がやっと分かった。自分が欲望を抑えきれずに吐き出した言葉が、どれだけ撫子を困惑させ続けていたのか。

 撫子は自分に向けられた欲望に対して、どうリアクションすればいいのかをずっと考えていたのだ。


「でも、光に、そばで見ていてほしい――私の本当の姿」


 光の口から謝罪の言葉が発せられるよりも先に、撫子が言葉を続けた。


「光は私の――大事な人だから」


 撫子は決意を固めるように右拳を握った。

 光は撫子の中で急速に大きくなっていく何かを見た気がした。

 それは撫子の身体を飛び出して、このガラスのドーム全体に広がっていく。

 鳥かごの中に自らを閉じ込めていた鳥が、その囲いを破り、外に出ようとしていた。


 ここで初めて、迫水の表情に動揺のようなものが走った。自分が招き入れてしまったモノの正体が何なのかを彼は悟りつつあった。


 光の目の前で、火花がパチッと散った。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 光は知るよしもないが、浅倉撫子は浅倉一族の中でも特殊な存在だった。


 「浅倉」は平安の昔から化物殺しを生業としてきた一族である。彼らはこの国の歴史の裏で、魑魅ちみ魍魎もうりょうしかばね累々るいるいと積み上げ続けてきた。ある時は朝廷のめいに従って、ある時は幕府の犬として、ある時はただ己の欲望のままに、人ならざるモノをほふり続けてきた。


 撫子の父・浅倉弾丸は分家の人間でありながら、現代における浅倉家の最高傑作の一人に数えられている傑物だった。「弾丸」の名は、拳の時代の終焉を悟った彼の父によって付けられた本来は呪いとなるべき名前の筈だったが、結局弾丸は自らの戦闘力を以上のものとすることで、その呪いを打ち破った。


 報復かえしの浅倉。


 裏社会では知らぬ者がいないその仇名は、彼が徒手空拳で百人を超える人間を病院送りにし、三つの組織を壊滅させた時に付けられたものだった。それでもヤクザ者同士の抗争の中では、彼はその強さの片鱗しか見せることはなかっただろう。


 弾丸を当代の当主とする分家では、本来は化物全般に対する総合的な戦闘術である「浅倉流」を対人戦闘に先鋭化させた「浅倉流兵術」を継承していた。その強さを称えて言う『殺人芸術』は、同時に弾丸本人の異名の一つでもある。


 その浅倉弾丸の子供が、浅倉隼人と浅倉撫子だった。

 母親は浅倉明日香。「浅倉流」そのものを相伝する浅倉本家の人間である。


 本家と分家。二つの浅倉の血の交わりによって生まれた二人の子供の才は如何ばかりか。

 浅倉弾丸曰く、「血の力を濃く受け継いだのは兄の隼人。その技を受け継いだのは妹の撫子」。


 それは正しい。


 兄である隼人の『力』は卓抜したものである。その意志の強さも相まって、先年発生した事変においては神の獣ヤマタノオロチすら退けた。大局をも動かす決戦能力が彼の武器であり、いずれは浅倉の歴史に名を残す最強の戦闘者の一人になるだろうと目されている。


 撫子はどうか。生来の生真面目さから、父から課される修行から逃げず、その技術をスポンジのように吸収し続けた結果、若くして傑出した使い手となった。特に身体操作の精度は際立っており、兄を軽く超え、父・弾丸にすら、ある局面では迫るだろう。


 力の隼人に対して、技の撫子。


 それが二人に対する公平な評価。

 ――父である弾丸ですらそう思っていた。

 

 だが、今そこに疑義が差し挟まれる。

 浅倉撫子の強さは、その技術だけにあるのか。


 これまでなかったレベルの相手との戦闘経験を積み、神獣の『巫女』としての修行を重ねる中で、彼女は次の段階へと至ろうとしていた。


 本家と分家――浅倉の血の近親交配インブリード。その圧倒的な潜在能力ポテンシャル

 そして何より、守護するべき人間を見つけた時の浅倉は強い。


 今、鳥かごの中から解き放たれたのは――



◇◆◇◆◇◆◇◆


「まさに怪物か……!」


 迫水は啓示を受けた人間のように、呆然と立ち尽くしていた。


 その眼前で、頭部を砕かれたエメラ・ントゥカがゆっくりと崩れ落ちた。


 あっけに取られているのは光と結城も同じだった。阿呆のように口を開けて、並んでその光景を見ている。

 斜め前、エメラ・ントゥカと二人の間に、傷一つ負わなかった撫子が立っている。

 その横顔はどこか晴れ晴れとしていた。

 黒絹のような長い髪をかきあげて、撫子は笑った。挑戦的な笑みではない。嘲笑あざわらうような笑みでもない。それは自由を手にした人間の、静かな満足を表す微笑だった。

 撫子は、人生で一番強い自分を、自ら祝福しているようだった。


「俺のメタルスタッフ、もう使い物にならないな」


 光と結城の背後から歩みを進めてきたキリンジが残念そうに呟く。キリンジの持っていた金属棍はエメラ・ントゥカの頭部に突き刺さった状態でめちゃくちゃにへし曲がっていた。


 その戦いが展開されたのは、僅かな時間だった。

 記憶の中に残された飛び飛びの映像を繋ぎ合わせながら、光は何が起こったのかを思い起こした。


 まず、動いたのはエメラ・ントゥカだった。迫水から指示を受けたからなのかは分からないが、真っしぐらにこちらに突進してきた。それはトラックやダンプカーと言うよりは、プラットホームを最高速度で通過する新幹線のように感じられた。恐るべき脚力で、僅か数歩で加速し切った巨獣は、鼻先の角を進行方向に向けて突っ込んできた。


 光は夢中で走ってその一撃から遠ざかった。轟音と共に暴風がすぐ近くを通り過ぎていく。他の三人もそれぞれバラバラに動いてエメラ・ントゥカの一度目の突進をかわした。


 部屋の反対側まで走り抜けたエメラ・ントゥカはすぐに方向転換してこちらに顔を向けた。黒いつぶらな瞳が可愛らしい。できれば動物園で出会いたかったと光は思った。


 撫子はエメラ・ントゥカの注意が自分に向いていることを確認すると、挑発するようにステップを踏んだ。ゴォッと獣が吠える。


 意外にも次に動いたのは結城だった。キリンジから渡されていた拳銃を発砲したのだ。乾いた破裂音が響いたが、弾は命中しなかった。あんなに的はデカいというのに。エメラ・ントゥカが首を振って結城の方を向く。結城は絵に描いたような「あっヤバい」という顔をした。


 突進が来る――と思った瞬間、エメラ・ントゥカの斜め後ろから高速で接近したキリンジが、その恐竜めいた横っ面を金属棍でぱたいた。並の生き物なら骨を砕かれて即死するような一撃のはずだったが、エメラ・ントゥカはただブンブンと首を振るだけだった。


「硬すぎるぞ!」


 キリンジが叫びながら獣の間合いから離脱する。それを追いかけるように尻尾が振り回される。鞭のようにしなる巨木――そんな言葉で表現するしかないその尾は、人間を真っ二つにできそうな勢いで空間をいでいった。


 二度目の突進は撫子に向けてのものだった。撫子は舞う羽のように、ギリギリでその一撃を回避する。光の首筋を冷たいものが通り過ぎた。あまりにも危険すぎる。

 だが、撫子の表情に切迫したものは見られなかった。ただじっと静かにエメラ・ントゥカを見つめている。


「真っ直ぐ、真っ直ぐだな!」


 キリンジがった笑みを浮かべる。ボクシングで言えば右ストレートからの右ストレート。見え見えのテレフォンパンチだが、それが最高のスピード、最高の威力で飛んでくるとなれば話が変わってくる。


 撫子とキリンジはそれぞれ左右からジグザグに走ってエメラ・ントゥカに接近した。角の間合いを外しながら、二人はぴたりとエメラ・ントゥカの腹部に張り付き、後ろ回し蹴りと、金属棍による一撃を同時に見舞った。いかにも硬そうな頭部や背中と違って腹部なら――と思ったが、エメラ・ントゥカはフゴーと鳴き声をあげただけだった。攻撃に貫通力が足りないのだ。尾による攻撃を交わしながら二人がエメラ・ントゥカから距離を取る。


「――ぐっ」


 キリンジの腹を尾の先端がかすめた。それだけでも凄まじい威力だったようで、キリンジはよろけてその場に膝を着いた。


「こっちを見ろ!」


 結城が叫びながら拳銃を発砲した。相変わらず命中しないが、キリンジを踏み潰そうと近づいていたエメラ・ントゥカは足を止めて結城の方を見た。


「そうだ! 来い!」


 何か策があるのか、それともヤケクソなのか、結城が巨獣を挑発する。エメラ・ントゥカは角を振って結城に狙いを定めた。結城の顔が青ざめた。どうやら後者だったらしい。


 だが、隙はできた。巨体の下に潜り込んだキリンジが、エメラ・ントゥカの顎を下から棒でかちあげる。そのドラゴンのような頭部が少しだけ跳ね上げられる。さらに横からトップスピードに乗った撫子が飛び込んできて、角の付け根に蹴りを入れた。それでもエメラ・ントゥカは涼しい顔だった。


 光は自分には何ができるのかを考えた。あの硬い怪物を倒すにはどうすればいいのか。手榴弾でもあれば、口の中に放り込んでやれるのにと思うが、そんな気の利いたものは手元にない。あったとしても光には使いこなせないだろう。あの獣の弱点はどこなのか。


 エメラ・ントゥカの黒い瞳が獲物を探している。


 そうか、目だ。どんな硬い外皮の生物でも、眼球まで硬い訳ではないだろう。光は足元にあったスマホ程のサイズのガラス片を拾い上げた。これを投げて届くところまで近づくしかない。


 その手をスッと、白い腕が制した。いつの間にか光の隣に撫子が立っていた。


「凄い――光の考えてることが頭の中に流れ込んでくる」


 撫子が微笑む。


「大丈夫。見ていて」


 光が何かを言おうとする前に、撫子は信じられないスピードでエメラ・ントゥカに向かっていった。その足元を縫うように走り、反対側で止まった。目を回したように、エメラ・ントゥカもよたつきながら方向転換する。それを三回ほど繰り返すと、エメラ・ントゥカは怒り心頭に発したという感じで、足元を前肢で踏み鳴らし始めた。光は床が抜けやしないかと不安になった。


 キリンジと撫子はホールの隅に並んで立ち、エメラ・ントゥカを誘うようにその場でステップを踏んでいた。それに応えるように、巨獣もその長い角を二人に向けて、突撃態勢を整えた。言葉などなくても分かる。怒り狂ったその原始のセイブツは、次の一撃こそは絶対に当てると言っている。


 撫子が止まった。軽く握った右の拳を胸に当てて、その場にたたずむ。光はそこで、撫子の右手に赤いミサンガが揺れているのに気がついた。撫子はその細い首を伸ばして、天井を見上げた。


 そして、歌った。


 距離があるため音は聴こえない。

 それでも口の動きで分かった。


 ――走れ。走れ。走れ!


「ももクロか――!!」


 迫水が叫んだ。分かるのかよ!と光が突っ込みを入れる前に、エメラ・ントゥカが渾身の一撃を見舞わんと走り出す。


「部分変身!」


 キリンジが叫ぶと、その両足が黄金色に光輝いた。金属棍を槍のように構え、突撃してくるエメラ・ントゥカに真っ直ぐに――


 爆発音。


 光弾となったキリンジが地を蹴る音だった。キリンジは暴走特急と化したエメラ・ントゥカと正面衝突し、その角の付け根に金属棍を突き刺して、勢いを殺しきれずに風に弄ばれる木の葉のように宙を舞った。


 カウンターで頭部に金属混が突き刺さったというのにエメラ・ントゥカは止まらない。


 その正面に立つ撫子は踊るような動きで構える。力を溜め込まず、巨大な流れに身を任せるように。光の目には、撫子の周囲に幾筋もの光が走っているように見えた。


 エメラ・ントゥカは驀進ばくしんする死そのものとなって撫子を襲った。


 二つの座標が重なり合うその瞬間――雷鳴と共に閃光が走った。

 それはガラスのドームの外で起こったのではない。


 床と平行に、一筋の稲光がエメラ・ントゥカの身体を貫通していた。


 それは針穴に糸を通すような精度だった。

 迎え撃つように撫子が放った右の掌底が、エメラ・ントゥカの鼻先に突き立っていたキリンジの金属棍を、杭のように頭部の奥深くまでねじ込んでいた。

 巨獣の黒い角は根本から砕け、その頭部も地面に叩きつけられたスイカのように亀裂が走り、そして――


「どうする?」


 沈黙したエメラ・ントゥカ越しに、撫子が迫水に向かって尋ねた。

 軽い口調だったが、その目は迫水を獲物と認識してはばからないことを周囲に告げていた。猫が部屋に迷い込んだ虫をもてあそんでいるときの顔だった。「どうする?」の前には、無言の「いつでもお前を潰せるが」が付いてる。迫水は渋い表情で撫子を睨みつけている。


 撫子はぴょんぴょんと跳ねるように光の前に戻ってきた。

 ちょっと得意気な撫子に、光は何を言えばいいのか迷った。ありがとう? お疲れ様? どっちだろう。撫子が見せた天衣無縫の強さの前には、感謝もねぎらいも似合わない気がした。


「すごかった」


 光は素直な感想を述べた。


「何よそれ」


 撫子が口を尖らせる。


 弛緩した空気が漂った次の瞬間だった。

 黒い大きな塊が、撫子の背後に着地した。キリンジが破った天井の穴を通って飛来したそれは、湖岸で光をさらったあの羽男だった。


 撫子が舌打ちする。見れば男は満身創痍だった。羽はもはや骨だけが残り、頭部も右半分がぐちゃぐちゃに砕けている。それでも生きていて、殺意をたぎらせている。白目を向いた左目だけが、こちらを見ていた。


 そう、こちらを――光を見ている。


 羽男は右の貫手を構えていた。引き絞られた弓のように身体をねじり、乾坤一擲の最後の一撃を放とうとしている。狙いは撫子だが、撫子がかわせば光に直撃する。そんな位置だった。


 時間が止まる。撫子の中に迷いが見える。それを見逃す敵ではない。もはや撫子はを取られていた。光が「逃げろ」と叫ぼうと腹に力を込め――


「動くな――射線は通っとる」


 耳元で声がした。

 女の声だった。


 そして、鼓膜が破れるかと思うような炸裂音が続き――


 頭部を完全に砕かれた羽男は、スローモーションのように仰向けに倒れた。


 何が起こったのか飲み込めない光のすぐ後ろに人の気配があった。何もない空間から、突然女が現れた。


 限りなく全裸に近い――金髪の女だった。

 その右手には拳銃が握られている。 


「スカイフィッシュの体組織で作った透明マントや。えげつないやろ? ――けど、もう限界みたいなやな」


 女の足元には、ぶよぶよしたクラゲのような物体が転がっていた。

 女はくりくりした目を光に向けると、うふと笑った。


「ほーん、自分が撫子のか。かわいい顔しとるやん――うちは里菜。撫子のお姉ちゃんやで♡」









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