光編 第五章「運命」

【光】17 不都合な真実

 光が目を覚ますと、そこは稲妻いなずま禽観とりみ神社の駐車場だった。


 見上げると空はペイントソフトで塗りつぶしたように真っ赤で、天頂にある太陽は空に穿うがたれた穴のように黒く輝いていた。


 境内に続く石段の前で、一人の少女がサッカーボールを蹴っていた。石段の上には少女のものであろう、空の色と同じ赤い真新しいランドセルが置かれていた。少女はしばらくリフティングの真似事をしていたが、飽きたのか止めてしまった。


 光はその少女のすぐ側まで近づいた。


 少女がその小さな歩幅で進むたびに、肩まで伸ばした黒絹のような髪が揺れた。空を見上げる少女の瞳は、二つの黒い宝石のようだった。


 どうやら少女には、光の姿は見えていないらしかった。少女は光の存在を全く意に介さず、ボールを蹴りながら石段の下まで歩いていった。ランドセルを抱えて石段に座り込んだ少女は、自分の足元をじっと見つめて言った。


「――私が良い子じゃなかったから、お母さんは死んじゃったのかなぁ」



 光が目を覚ますと、そこは硬い床の上だった。

 赤い空も黒髪の少女も消えていた。


 暗い牢屋めいた部屋の床の上に、光の身体は転がされていた。身体を起こして部屋の中を見回す。コンクリートの床の上には何もなく、ただ奥の隅に排水溝があるだけだった。空気は湿っていて、ただただカビ臭かった。


 通路に面した壁は鉄格子になっていた。格子の幅の狭さを見ると、腕ぐらいなら外に伸ばせそうだが、身体ごとすり抜けて外に出るのは不可能だろうと感じられた。


 自分がなぜこんな場所にいるのか、光にはよく思い出せなかった。頭の中心に握り拳ぐらいの鉄球が居座っているような、そんな鈍い頭痛だけがあった。


 光は立ち上がって、鉄格子越しに通路を覗いた。通路を挟んだ向かい側には、光が入れられているのと同じような牢屋が並んでいる。照明は通路にしかないのだが、それも貧弱なものだった。天井に裸電球が数メートルおきにぶら下がっている。通路の奥には扉があって、外に繋がっているようだった。

 光はこの監禁に至る流れを思い出そうとした。


 その時だった。


 ――じたっじたっじたっ。


 聞こえてきたのは、大きな素足が床を踏みしめる音だった。通路の奥から、光がいる牢屋に近づいてくる。光は音の方に目をやった。


 通路の奥から歩いてきたのは、毛むくじゃらの大男だった。

 雪男――イエティだ。


 それを見た瞬間、光は全てを思い出した。


 萬守湖の湖岸であった現実離れした出来事の末に、自分は羽の生えた男にさらわれたのだ。目をつり上げた撫子が、男に向かって絶叫する姿が思い出された。


 通路を歩いていた雪男はちらりと光を見たが、特に立ち止まることもなく歩いていった。雪男は扉の前でターンすると、こちらに戻ってきた。今度は光を一瞥いちべつすることさえせずに通り過ぎていった。

 あれから撫子はどうなったのだろう。湖に向かって蹴り飛ばされる撫子の姿がぼんやりと記憶の中に残っているが、それが現実の光景なのかは判断がつかなかった。「こいつを返してほしければ我々のアジトまで来い」という、羽男の耳障りな声が脳内でリフレインする。


 撫子は自分を助けに来るのだろうか。彼女の性格を考えれば、まず間違いなく来るだろうが――


 光の口の中に、苦いものが込み上げてきた。

 あの羽男の言った内容からすると、自分は明らかに撫子を誘き寄せるためのエサだ。撫子が自分を助けに来るということは、敵(と呼んでもいいだろう)が用意した罠に、むざむざ飛び込むようなものだ。


 撫子本人が来る必要はない。

 警察に通報すればいいのだ。誘拐犯に対処するのは、警察の仕事のはずだ。高校生の女の子が一人で対処するような出来事ではない。


 そんなふうに無理矢理走らせた光の思考には、あっさりといくつもの亀裂が入る。


 まず「クラスメイトが羽の生えた大男にさらわれました」という訴えに、警察は耳を貸してくれるのか。もし、警察に相手にされなければ、撫子は一人でここに来るだろう。


 そもそも撫子には、警察を頼るという選択肢が最初からない可能性が高い。


 雪男を相手に立ち回る撫子の姿は、普通ではなかった。尋常ならざる強さと言ってよかった。羽男と共に、現実的な世界から逸脱した存在にしか見えなかった。


 薄々分かってはいたが、撫子はやはり普通の女の子ではない。


 あの湖岸で見せた鬼神のごとき姿が、浅倉撫子の本当の姿なのだろうか。六原が言っていた「一人だけ別の漫画なんだよ」という表現が、今となっては芯を食っていると感じられた。撫子が怪物を相手に戦う姿は、警察という現実的な存在とは全く結びつかなかった。


 いつの間にか自分がとんでもなく非現実的な世界に踏み込んでしまっていることを、光は自覚させられた。真っ黒い沼地の泥の中に、光の両足は深々と突き刺さっている。死と暴力の臭いが、光を深みへと深みへと誘い、そして――


 くだらない妄想を振り払う。


 光は今の自分にできることを考える。

 それは兎にも角にもここから逃げ出すことだった。そうやって撫子がここに来る理由を消してしまうことぐらいしか、自分にはできそうもない。撫子が無茶なことをする前になんとかこのカビ臭い檻の中から脱出しなければならない。


 撫子が自分に対してどんな感情を抱いているのかは、光には分からない。

 ただ、自分が撫子に向けていた気持ちの正体は分かる。自分の吐いた『暴言』で、その先にあった未来――あったかもしれない未来――は消えてしまったが。

 つぼみのまま枯れてしまった自分の気持ちにせめてものケリをつけるなら、この場から自力で逃げ出すことぐらいはしなければならない。


 撫子に危険なことをさせる訳にはいかないのだ。


 光は部屋の中をうろうろと歩き回り、脱出するためのヒントが無いかを探した。壁も床もコンクリート製で、隣に通じる隠し扉などはなさそうだった。漫画の真似事をして壁を叩いてみるが、壁が薄くなっているところなど都合良く見つからない。


 続いて鉄格子も確認する。端の一カ所が扉のように開閉するようになっているが、外から鍵が掛けられているらしく、押しても引いてもびくともしなかった。部屋の隅から助走をつけて扉部分に体当たりをしてみたが、あっけなく弾き返されただけだった。


 しかし、壁を殴って穴を空けるよりは、この開閉部をなんとかするほうが現実的だろう。光は鉄格子の隙間から手を伸ばして開閉部の鍵穴を探し当てた。ここに針金か何かを突っ込んで開けられないだろうか。光はポケットに手を突っ込んでみる。持っていたはずのスマホさえなかった。毛玉一つ出てこない。


 通路をウロウロしている雪男は光が動き回っているというのに、全く興味を示さなかった。恐らく監視係なのだろうが、こんなことで役に立つのだろうかと不安になるレベルだ。


 光は牢屋の前を通過する雪男の顔を見上げた。思考がまったく読めない黒目と、顔の端まである大きな口。ぬぼーっとした表情からはこちらに対する敵意は感じられないが、牢屋の外に出たときにどんな反応を示すかは分からない。


 そこで光はあるものを発見する。


 通路の奥にある扉の脇に、鍵束が吊るしてあった。この牢屋の鍵に違いない。あれを手元に引き寄せることができれば、鍵を開けて外に出られるはずだ。


 扉までの距離は約5メートル。

 鉄格子さえなければ数歩の距離だが――


 光は溜息と共に座り込んだ。

 どうすればいいのだろう。

 突如超能力に目覚めて、サイコキネシスが使えるようにならないだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい方法でしか、現状を打開できそうにない。


「――ここから出たいのか」


 突然、光の口から思ってもいない言葉が滑り出た。それは、『もう一人の自分』の声だった。


 光は冷や汗が背中を伝うのを感じた。


 ここまではっきりとの自我を感じ取ることができたのは初めてだった。まさか、こんなタイミングで出てくるとは思わなかったが。


「――ああ、出たい」


 光は言葉を選んで、ゆっくりと答えた。そうしなければ、また引っ込んでしまいそうな気がしたからだ。返答は、光の口を借りてすぐに返って来た。


「手伝ってやる」


 光の心臓は跳ね上がった。

 自分の口から出た言葉だが、まるでそんな風には感じられなかった。


「どうやって?」


「あのイエティもどきを説得する」


「説得? そんなことができるのか?」


 傍から見れば一人芝居のような状態だが、光は確かに対話していた。長年自分を苦しめ続けていたもう一人の自分と、ついに向かい合うことができたのだ。


 あるいは、自分は発狂したのかもしれない。


「立て」


 と言いながら、立ち上がるのは自分自身だ。光は鉄格子の側に立って雪男が来るのを待った。雪男は相変わらずこちらに目を向けることもなく、決まったルートをゆっくり回遊している。雪男の尖った頭がちょうど目の前に差し掛かった時だった。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■」


 光の口から名状し難い声とも音ともつかないものが零れ落ちた。


 それを聞いた雪男はぴたりとその場に静止し、光に目を向けた。その表情からは何も伝わってこないが。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」


 自分の口を通じて、もう一人の自分が雪男にさらに言葉を投げかける。


「ギッギッ……グッグッ」


 雪男の口から相槌のような鳴き声が漏れた。


「■■■■■■!」


「ギッ」


 雪男はくるりときびすを返すと扉の方に進んでいった。本当に説得できたというのだろうか。


「愚鈍だが話の分かる奴だ」


 もう一人の自分が尊大に告げるのと、雪男が鍵束に手を掛けるのは同時だった。

 雪男はそのまま戻ってくると、目を丸くしている光に鍵束を渡した。そして何事もなかったかのようにまた通路の奥へと歩き始めた。


 本当に雪男を説得してしまった。


 ありがたいが、もう一人の自分の正体がいったい何なのか、ますます分からなくなってしまった。


 いや、。それだけははっきりした気がした。


 光は次々に鍵束の鍵を鍵穴に差し入れて、合うものを探した。七つ目の鍵がビンゴだった。ガチャリという音と手応えと共に鍵は開いた。


 光はそろりそろりと牢屋の外に出た。


 足音を殺しながら扉に近づいていく。監視カメラでもあったらマズいかもしれないと思って天井に視線を――


「浜岡光くんか?」


 突然呼びかけられて光は跳び上がった。後退あとずさりして周囲を覗う。声の主は、扉に近い牢屋の中にいた。


 男が一人、牢屋の中に立っていた。

 

「いや、驚かせてすまない」


 男は三十手前ぐらいだろうか。白いワイシャツとスラックスという格好だったが、何故か銃を仕舞うホルスターのようなものを身に着けていた。ただ、そんなものが似合うような雰囲気は微塵も感じられない――言い方は悪いが冴えない感じの男だった。


「俺は結城。君を助けに来たんだ。いや、こんな状態だと説得力がないかもしれないけど」


 結城と名乗った男はそう言って肩をすくめた。


「警察の方ですか?」


 一応確認しておく。撫子が通報してくれたのかもしれない。


「いや、岩田屋町役場の者だけど」


「役場?」


「あ、助けに来たのは役場の仕事じゃなくて、別件だよ」


 よく分からないがとにかく助けに来てくれたらしい。捕まっているが。


「こんなこと言うのは情けないんだけど、その鍵で開けてもらえると助かる」


 鍵を開けた瞬間にこちらに襲いかかってこないだろうか――と光は一瞬考えたが、男が本気で困っているようにしか見えないので開けてやることにした。襲いかかってきたとしても、この男なら別になんとでもできそうだった。殴り合いになったとしても体格的に勝てるだろう。


「助かったよ。本当にありがとう」


 結城は牢屋から出ると涙声で言って、大きく息を吐いた。これではどちらが助けに来た人間なのか分からない。


「――僕を助けにきてくれたんですよね?」


「いや、そうなんだ。それは本当だから」


 結城は頭をかいて言った。いかにも頼りない様子だったので、その言葉にはあまり信憑性が感じられなかった。いぶかしむような光の視線に怯んだのか、結城は明後日の方向を見ながら話題を逸らした。


「そ、それにしても、いったいどういうカラクリであの雪男に鍵を持ってこさせたの?」


「――自分にもイマイチ説明が出来ないんです」


 今度は光が頭をかく番だった。もう一人の自分のことを一から説明するのは面倒だった。そもそも説明したからと言って、納得してもらえるのかも分からない。


「ふうん‥…まあ、不思議なことってあるからね。最近、俺はそういうことばっかりだよ。現実離れしたことがバンバン起きるから参ってる」


 あの毛むくじゃらを雪男だと認識している以上、結城も何かしら事情を知っている人間なのだろうが、結城のまとっている雰囲気はどこからどう見ても一般人のそれだった。撫子やあの羽男とは違う。つい最近になっておかしなこと巻き込まれた人間という感じに見えた。


「僕も同じです。そういえば、結城さんは一人でここまで来たんですか」


 この頼りない男が単独で光を助けにきたとは思えない。恐らく誰かと行動を共にしていたはずだ。 


「いや、撫子ちゃんと、撫子ちゃんのお姉さんと一緒に来たんだよ」


「――えっ」


 結城の口から聞き捨てならない名前が聞こえて光は思わず声を漏らした。


「――撫子も来てるんですか」


 心臓が高く跳ね、背中に冷や汗が流れた。想定していたこととはいえ最悪だ。光は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。撫子だけではなく、撫子の姉まで来ているとは。光は馬頭観音の前で出会った、あの理知的な瞳の金髪の女性の姿を思い浮かべた。自分のせいで姉妹まとめて危険にさらすことになるなんて。


「ああ、すぐ側まで来てる。別行動になっちゃったんだけど」


「――撫子達と連絡は取れないんですか」


 呑気のんきな結城の言葉の調子に、少しいらだちを覚えながら光は尋ねた。


「残念ながら。ここに入れられる前にスマホも武器も全部取り上げられてる」


 両手を広げて肩をすくめる結城。連絡手段を取り上げられているのは光も同じなので強くは言えない。


「――早くここを出ないと。撫子がここに来る前に……!」


 連絡を取る手段がない以上、一刻も早くここを脱出して撫子と合流するしかない。


「そ、それはそうなんだけど――」


 光の言葉を聞いた結城が言い淀んだ。そして、結城は一瞬何かを考えるように口を真一文字に結ぶと、じっと光の目を見た。


「君と一緒にもう一人誰か捕まっていなかったか?」


 結城の言葉には、それまでなかった切迫感のようなものが漂っていた。頼りない雰囲気から一転して、結城の目からは迫力じみたものがほとばしっていた。


「ぼ、僕は一人でした――」


 今度は光が言い淀む番だった。結城の真剣な眼差しから逃げるように答える。 


「そうか……」


 結城は消沈したように呟くと自分の足元を見た。


「なんか……すみません」


 正直に答えただけだったが、それでも光は思わず謝罪の言葉を口にした。


「いや、いいんだ。君と同じように女の人が一人捕まっているはずだったんだけど――」


 結城の態度から、おそらくその女性の存在こそが、結城がここに来た理由なのだろうと光は推理した。本当は自分を助けに来てくれた訳ではないのだ。利害が一致したから、撫子達と行動を共にしていたということなのだろう。


 結城は悩んでいるようだった。渋面を作って自分の足元に視線を落とし続けている。


 光を連れて脱出するか、それとも光だけを単独で脱出させるか。それとも――


 様々な選択肢がある中で、どれが最善なのかを探っている様子だった。


 結城が探しているその女性が、結城にとっての何なのか――親族なのか、恋人なのか――は光には分からないが、板挟みの苦悩のようなものはありありと伝わってくる。光を脱出させることを優先させるのか、その女性を探すことを優先させるのか。結城は難しい選択を迫られているようだった。


「ここを脱出する前に、一緒にその人を探しましょう」


 光は結城の悩みを両断した。


「――えっ」


 結城はあっけにとられたように目を丸くした。結城にとっては意外な提案だったのかもしれない。


 実際のところ、光の言葉は半分は結城に対する同情から、もう半分は二人のほうが生き残る可能性が高そうだという打算から出たものだった。


「その人はここにいるんでしょ? ここがどこなのかも僕はわからないですけど」


 光はぐるりと周囲に視線を走らせた。薄暗くカビ臭いこの部屋が、地上なのか地下なのかすら、光には分からなかった。監視係の雪男は相変わらず通路を歩いている。結城が牢屋の外に出ているというのに全く気にする素振りも見せない。


「――あ、ああ、ここは奥岩田屋村にあるグロッサーヒューゲル社の廃工場だよ。君と俺が探してる女の人をさらった連中のアジトなんだ」


 結城が慌てて説明した。光には奥岩田屋村という地名にも、グロッサーヒューゲルという会社名にも、まるで心当たりがなかった。この状態ではたとえ建物の外に出たとしても、道に迷ってまごついているうちに、また捕まるのがオチだろう。


「そんなところから僕一人で脱出する自信はないです。その女の人を探して、三人で脱出しましょう」


 やはり、結城と行動を共にしたほうがよさそうだ。


 それに――


「ありがとう。そう言ってもらえると本当に助かる」


 心底ほっとしたように言う結城を見て、この人はきっと悪い人間ではないなと光は思った。



「さっきの牢屋はなんだったんですかね」


 光は結城と並んで暗い廊下を歩いていた。窓が全くないのは元々なのか、それとも後から塞いだからなのか。等間隔に天井にぶら下がった電球の明かりだけを頼りに進んでいく。


 フロアマップでもどこかに掲示してあればいいのだろうが、そんな気の利いたものは見当たらなかった。


「あれはきっと馬房ばぼうを改造した部屋だと思う」


 適当に振った話題だったので、結城がはっきりとした答えを返してきたので驚いた。


「バボウ?」


 聞き慣れない単語だった。


「馬の世話をするところだよ」


 結城は歩きながらポケットをまさぐると、何かを取り出した。


「鉄格子にこんな札がぶら下がってたんだ」


 それは金属製のメタルプレートだった。スマホぐらいの大きさで、文字が彫り込まれている。まるで名札か何かのようだった。結城はそれを光に手渡す。


 光沢のある金属板にはアルファベットと数字が刻まれていた。


 Name:Northern Dancer 6.66


「ノーザンダンサー……?」


 その後の6.66の意味は分からなかった。


「競走馬の名前だよ。伝説的な種牡馬しゅぼばだ」


 結城は光からプレートを受け取りながら言った。


 光は競馬には詳しくない。今までの人生で全く縁のないものだった。シュボバという言葉の意味も、なんとなく想像するしかない。恐らく種馬ということなのだろうが。


「それがあの牢屋にいたってことですか?」


「いや、ノーザンダンサーは海外の馬だし、30年前に亡くなってる。飼ってた馬に、シャレでそんな名前を付けてたってことだろうね。どういうつもりかは分からないけど」


 結城はプレートを胸ポケットに仕舞いながら少し笑った。光はノーザンダンサーがどんな馬か分からないので、そのシャレが面白いのかはよく分からなかった。


「なんで馬なんて飼ってたんですかね」


 光の頭の中ではこの無機質な施設と馬が、いまいち結びつかなかった。馬を飼うなら、緑が豊かな牧場というイメージだった。


「この施設は研究所と工場が併設してるらしいから……実験動物として使ってたとか?」


 馬を実験動物にすることなんてあるのだろうか。犬や猿を使うという話は聞いたことがあるが、馬というのは聞いたことがなかった。サラブレッドなど、飼うだけでも大変な重労働だと思うのだが。


 疑問だけを募らせながら二人で歩を進める。


 扉があれば開けて中を確認するのだが、どの部屋も空っぽだった。時々監視係らしき雪男が徘徊しているのに鉢合わせるのだが、彼らは二人を見ても何の反応も示さなかった。刺激して藪蛇やぶへびになるのも面倒くさいので、そのまま放置して進んでいく。


 目の前に階段が現れた時、上るか下るかは判断に迷ったが、二人で相談してとりあえず上に上に進んでいくことにした。上階でも同じように、扉を開けては中を確認していく。しかし、結城が探してるという女性の姿はどこにもなかった。


「……なんだこれ」


 その部屋は、二人が閉じ込められていた牢屋のあったフロアから、四つ上の階にあった。


「水槽だね」


 この部屋にもやはり窓はない。いくつかの裸電球が、あるじのいないその部屋の中をぼんやりと照らしてる。学校の教室二つ分はあるその部屋には、空っぽの巨大な水槽がずらりと並んでいた。まるで水族館だった。


「魚を飼ってたってことですか?」


 一つ一つの水槽が、見上げるほど大きい。光と結城はゆっくりと部屋の中に入ると、水槽の近くまで寄った。水槽には何か機械――水の濾過ろか装置あたりだろうか――が取り付けられていたような痕跡があったが、それらは全て取り払われていた。各水槽の上には天井からパイプやホースが垂れ下がっているが、それらも全て途中で切断されていた。まるで食い散らかされた怪物の臓物のようだった。


 様々な装置をこの水槽から剥ぎ取っていったのだろうが、重たい水槽本体だけは撤去できずにこの部屋に残されたのだろう。そんなこと考えていると、この水槽の群れがちょっとした墓地のようにも思えてきた。


 いったいどんな魚が入れられていたのだろうか。魚どころかイルカでも入れられそうなサイズだが。


「――もしかしたらそうじゃないかもしれない」


 結城は水槽のガラス面のある部分をじっと見ていた。光も促されてその部分を見る。そこには文字がプリントされていた。先程のネームプレートと同じフォントだった。かすれていて全体は見えないが、読める文字も残っている。


 ……SYSTEM NATALMA……


「しすてむ……な……たる……ま?」


 システムはいいとして、ナタルマとはなんだろう。光は頭の中で、これまで習ってきた英単語を次々に思い出してみた。しかし、全く記憶にない単語だ。もしかすると固有名詞なのかもしれない。


 結城は答えを知っているようだった。手品の種を見破りかけた人間の表情――なんとも言えない苦笑いで、ぽつりと呟くように言った。


「――ナタルマは、ノーザンダンサーの母馬だよ」



 水槽だらけの部屋を後にして、さらに上階へと進む。

 進んだ先に部屋があれば、扉を開けて確認してみるのだが、結城が探している女性は一向に見つからなかった。光は埃っぽい階段を上りながら、結城の背中を見つめた。その表情はこちらからは覗うことができない。無言の背中からは、どこか焦りのようなものも感じられた。無言なのは光も同じだったが。


 くるりと踊り場で結城が振り返った。目があった結城は、意外にも笑みを浮かべていた。


「いや、撫子ちゃんならきっと大丈夫だよ。その、何て言うか、強いからね」


 どうやら、光が無言なのは撫子が心配だからだと思い、気を遣ってくれたらしい。光は少し脱力しながら答えた。


「――それは知ってますけど。でも、どう考えても罠としか思えないところにわざわざ来なくたっていいですよ」


 言ってから、ちょっと悪態っぽくなってしまったことを後悔する。実際のところ、自分も焦りを募らせているということなのだろう。


「撫子ちゃんのお姉さんは、撫子ちゃんが君を助けに行くのを絶対に止められないと思ったから、一緒に来ることにしたんだよ」


 撫子の姉であっても、撫子の行動を止めることはできないということらしい。やると言ったらやるし、やる必要がないと思えばやらない。撫子の性格はどこまでも真っ直ぐだ。


 それにしたって、そこまでして自分のことを助けようとしてくれるとは。


 守れる範囲にいる弱者を守ることは、撫子にとっては義務感のようなものなのだろうが。光の胸は罪悪感で締め付けられた。


「僕にそんな――助けてもらうような価値なんてないのに」


 吐き捨てるような光の言葉を聞いた結城は、自分の胸の中にある何かを確かめるように頷くと、光に向き直った。

 そして、少し改まった口調で――自分にも言い聞かせるように――言葉を紡いだ。


「――俺も、ちょっと前までよくわかってなかったんだけど、どうやら人間の価値っていうのは自分では決められないみたいなんだ」


 光は無言で耳を傾ける。


「例えば――俺が助けようとしてる人が、自分の価値をどんな風に考えているのかはわからない。でも、俺は自分の全てと引き換えにしてでもその人を助けたいと思ったんだ」


 だから、危険をかえりみずにここに来たということなのだろう。よく見れば結城の着ている服はボロボロで、固まった泥と血にまみれていた。腕も顔もアザだらけだ。


「人間の価値って言うから、よく分からなくなるのかもしれないな。たぶんそれは、人と人との絆の価値だよ」


 結城の言葉は光に向けてと言うよりは自分自身に向けて、あるいは探しているその女性に向けて発されたもののようだった。結城の目は澄んでいた。静かな覚悟だけが映っていた。


「撫子ちゃんにとって、君との絆は価値のあるものなんだろうね。何よりも」


 結城の不器用な笑みは、光への励ましであり、同時に自分を鼓舞するためのものに違いなかった。


 光は頭の中に撫子の姿を思い浮かべる。想像の中の撫子は、光の方をじっと真っ直ぐに見つめていた。光はその澄んだ瞳――先ほどの結城と同じ種類のものだ――を、見つめ返す勇気が持てなかった。


 ただ、撫子に会いたいという気持ちが、自分の中に存在することだけははっきりと確認できた。



 光と結城は階段を上り切った。目の前に、今までとは違う種類の両開きの大きな扉が姿を現した。二人は頷き合うと、それを押し開けた。


 暗い廊下に白いナイフのように光が差し込む。完全に扉を開くと、二人は目が眩むような光に包まれた。


 目が慣れるまでには数秒待つ必要があった。


「――なんだここ」


 扉の先にあったのは、ガラス張りの壁と天井を持つ、巨大なドームのような部屋だった。


「会議室兼――展望室って感じかな」


 結城はガラス張りの高い天井を見つめて言った。高さも目を見張るが、面積も相当なものだった。運動会でも開催できそうな広さだ。


 ガラス越しに見えるのは、鉛色の雲に覆われた空だった。雨が叩きつけるように降る音が、終わらないノイズのように響いている。


 一枚の透明な境界を隔てて、世界の終末が目の前にあるかのようだった。


 光は灰色の絨毯を踏みしめて部屋の奥へと足を進めていく。部屋の真ん中に近づくと、ガラスの向こう側に湖が見えた。それは茶色い水を湛えた巨大なダム湖だった。この施設はダム湖を見下ろすように、山の上に建っているらしい。


 部屋の奥――巨大なガラス壁の手前――には、大きな箱のようなものが一つ置かれているようだった。


 光はそれが妙に気になって、足早にそれに向かって歩を進めた。

 ――なぜか胸騒ぎがした。


 近づくと分かったが、それは箱というよりは棺だった。


 透明なガラスで作られた棺に、琥珀色の液体が満たされていて、その中に


 そのホルマリン漬けじみた棺の中にいる人間は、一糸まとわぬ女性だった。


 光は呼吸するのも忘れて、その中の女性に見入った。後から追いかけてきた結城が何か言っているが、光の耳には入らない。


 光の手のひらは汗でぐっしょりと濡れていた。雨粒が作りだすノイズを貫くように、耳鳴りが聞こえた。


 なんだこれは。


 


 震えが光の身体を支配し始める。


「――おやおや、待ちきれずに出てきてしまったのか」


 部屋の入口から聞こえたその声の主が誰なのか、光には分からなかった。いや、一度だけ聞いたことがある声だったのだが。


 光の脳は物事を判断する能力を失いつつある。


「迫水課長……」


 声の主に向かって結城が言った。困惑するようなその声につられて、光も声の主を見た。


 そこに立っていたのは中年の男だった。

 白いシャツとスラックス。服装だけなら結城と変わらないが、すらっとしたスタイルはまるでモデルのようだった。


 光は一度だけその男と会ったことがあった。伯父の家にテントを借りに来た人物だ。その時からなんとなく嫌な印象を受けていた男。


 その男――迫水は呆然とする光を見ると、口の端を歪めて笑った。


 その目は充血し、黄色く濁っているが、黒い両の瞳は強烈な意志を――あるいは欲望を――感じさせるように、ギラギラと輝いている。


 光はへその辺りから湧き上がるような、強烈な嫌悪感を覚えた。


「そうだ、光君。。一目見て分かっただろう。そうだ。その通りだよ。――」


 迫水が指を差す先に棺がある。

 羊水で満たされた透明な棺。


 ――


 光は震える身体を自分の腕で抱きしめた。喉から心臓が飛び出してきそうだった。冷や汗が止まらず、視界がグラグラと揺らいだ。


 迫水はいつの間にか光のすぐ目の前に立っていた。混乱をきたした光の肩に、迫水は優しく手を置くと告げた。


「――光、私がお前の父親だ」

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