【結城】 20 鉄砲玉

 雨に濡れたその灰色の構造物は、外敵の侵入を防ぐ長城を思わせた。


 岩田屋川ダムの巨大なコンクリートアーチの真ん中に設けられたゲートからは、茶色い濁流が暴力的な勢いで吐き出されていた。ダムの直下の川は、水しぶきで白く煙っている。


 四人を乗せた黒いハイエースはその川を見下ろす山道を通って、岩田屋川ダムのアーチへと近づきつつあった。接近するとその大きさが改めて感じられる。岩田屋地域全体の水瓶であるそのダムは、限界を超えて流れ込む雨水をゲートから滝のように放流し続けていた。


 ハイエースが緩やかなカーブを抜けたその瞬間、道路脇の木々が激しく揺れ、道の真ん中へ雪男が三人飛び出してきた。


 だが、それらは一瞬にして轟音と共に肉片と化す。車のルーフを空薬莢が叩く音。


 車の上に陣取った里菜が機関銃ブローニングM2で射殺したのだ。

 今、里菜とキリンジはハイエースのルーフに乗って、散発的に襲ってくる雪男の群れに対処していた。一体この地域にどれだけ放たれているのだろうか。その数は百や二百ではないように思われた。


 雪男の死骸はどうなるのかと里菜に尋ねたところ、フィジカルのほうが情報量に耐えられずに崩壊して泡になって消える――とのことだった。どういうことなのかはさっぱり分からない。


 ハンドルを握る結城はふと横に視線をやる。

 そこには長い黒髪の少女が座っていた。

 浅倉撫子。

 今は澄ました表情で前方を見つめている。

 無言の時間が長く続き、車内にはそこはかとなく張り詰めた空気が漂っていた。

 もっとも、今のこのシチュエーションで和やかな雰囲気になどなるはずがないのだが。結城は撫子の緊張を解そうとして――というよりは空気の重さに耐えかねて口を開いた。


「里菜さんって凄い人だね」


 話題は何でもよかった。とりあえず結城と撫子の間で共通の話題になりそうな人物の話を振ってみただけだった。


「里菜さん――お姉ちゃんは本当に凄い人です。適当そうに見える時もあるけど、自分が守るべきものは絶対に守る人です」


 撫子の丁寧な言葉遣いからは、彼女が普段は優等生として過ごしていることが感じられた。里菜を姉と言い直すところに、撫子の律儀さが現れているようだった。そして何より、言葉からは里菜に対する信頼感がひしひしと伝わってくる。


「守るべきもの?」


 里菜の守るべきものとは何だろうか。極道としてならば、組織の秩序。あるいは岩田屋のUMAの管理者としてならば、町の平和。思いつくのはそんなところだったが、撫子が口にした答えは別だった。


「家族と、約束です」


 予想とは微妙にずれたところに投げ込まれたボールに結城の思考は空振りする。

 家族を守る。約束を守る。どちらも『守る』ことには変わりないが、それぞれ別の種類の『守る』のような気がした。それをひとまとめにしたところに、撫子の思考のユニークさがある。


 頭の中で里菜の言動を振り返って見ると、確かに彼女はその両方の『守る』が似合う女だと結城には感じられた。自分と同い年らしいが、人間としての厚みがまるで違う。


 結城は改めて自分の弱さを自覚した。里菜、キリンジ、撫子。三者三様に強い中で、自分だけが弱い。それは実際の戦闘力の問題というよりは、これまでくぐってきた修羅場の数であったり、下してきた決断の数であったりが作り出した、意志の強さの問題のような気がした。


 それでも今、救出部隊の一人としてハンドルを握っている結城は、自分も強い人間になりたいと願っていた。

 アイを助けるために、自分も強さを手に入れたい。

 少なくとも意志の面では強くありたい。

 そんな結城の思考を読んだ訳ではないだろうが、撫子が尋ねた。


「結城さんの彼女さんはどんな人なんですか」


 同じ『巫女』として気になったのかもしれない。アイと撫子――どちらもUMAと繋がりを持つことができる『巫女』だというが、二人にはまるで共通点がないように思われた。

 さすがに風俗嬢をしているなんてことを教えるわけにはいかない。

 そもそも撫子が知りたいのはアイの個人情報では無くて、アイが結城にとってどんな人間かということだろう。


「俺に――俺みたいな奴にも、安らぎをくれる人なんだ」


 結城の胸に、アイと過ごした時間がよみがえった。ベッドの上で。競馬場で。車の中で。二人のアパートで。同じものを見て、同じものを口にして、そうやって分かち合った時間の名前を、きっと幸せと呼ぶのだろう。

 アイが隣にいることで得た胸の高鳴りと心の平穏は、結城のそれまでの人生にはないものだった。

 暗闇の中で自分の名前を呼んでくれる存在。

 それがアイだった。

 アイは結城にとって、安らぎそのものだった。


「安らぎ――ですか」


 撫子はその言葉を頭の中で転がしているようだった。彼女は彼女で誰かの姿を思い描いてるように見えた。


「彼女と一緒に居ると落ち着くし、本当の自分でいられる気がする。楽しい時間をいつまでも共有したいなって思える人だよ」


 アイを評する言葉は驚くほどスルスルと結城の口から飛び出した。そして、アイという存在が結城の頭の中で、より正確に像を描いた。浮き彫りになったアイの姿から、彼女は自分にとってかけがえのない存在であることが改めて感じられるのだった。


「そんな風に言葉にできるって凄いですね」


 撫子は感心したようだった。


「いや、そんなことないよ。まあ、本来は俺なんかが付き合えるような人じゃないんだ。釣り合うような人間になりたいなぁとは思うけど」


 自分はアイから貰っているものの半分も、アイに返すことができていないだろう。情けないがそれが事実だ。せいぜいアイという鳥にとっての止まり木になっているだけのことだ。


「自虐的ですね。こうやって命がけで助けに行ってる時点で、きっと釣り合ってますよ」


 撫子の言葉のトーンは慰めというよりは、本心からそう思っているのだと結城に伝えるものだった。


「そうだといいけどね――撫子ちゃんの彼氏はどんな人なの?」


 撫子の『よすが』にあたる少年もまた、連中に誘拐されているのだ。その少年は恐らく撫子の恋人なのだろうと思って訊いたのだが。

 撫子は数秒の沈黙の末、言葉をしぼり出した。


「彼氏じゃ――ありません」


「あれ、そうなんだ?」


「――はい」


 里菜の口ぶりでは、撫子がその少年に対して恋心を抱いているのは確実のように思われたのだが。まだそれを本人に伝えていないということなのだろうか。


 高校生男女の淡い関係を結城は思い浮かべた。自分にはそういった経験がないので、あくまで全て想像――いや、妄想なのだが。


「いや、でも、そういう名前のない関係でいる間が一番楽しいよ」


 告白したとかしないとか、彼氏だとか彼女だとか、そういった肩書きや形にこだわってしまうのが若さなのかもしれないが、そんなものよりも、その繊細な関係性そのものこそが青春の甘酸っぱさの源なのだ。計算が入り込む余地がない、ピュアな感情のぶつかり合い。それこそ若者らしい恋愛というものだろう。


 すべて妄想して得た結論だが。


「――結城さんは大人ですね」


 憧れるような口ぶりで撫子が言ったので、結城は一瞬ハンドル操作をミスしそうになった。女子高生にそんなことを言われるとは。まあ事実、大人――年長者ではあるのだが。


「そ――そんなこと人生で初めて言われたかもしれない。撫子ちゃんは、その、何て言うか、友達以上恋人未満の子のことが好きなんでしょ?」


 動揺した結城は、無駄に撫子の気持ちに踏み込んでしまう。こんなこと訊くつもりはなかったのに。


 撫子はたっぷり時間を掛けて考えてから、ぽつりと呟く。


「――多分」


 ちらと横目で見た撫子の頬は、赤く染まっていた。


「さっきの撫子ちゃん自身の言葉じゃないけど、命がけで助けたいって思ったんだったら、それは撫子ちゃんにとって、とても大事な存在ってことだと思うよ」


 撫子は何も答えなかったが、きっと納得したのだろうと結城は思った。


 車はつづら折りの山道を抜けて、ダム本体のすぐ真横に出た。目の前に茶色く濁ったダム湖が姿を現す。想像以上の規模だった。

 道は、ダムの構造体の上を横切る道と、ダム湖をさらに上流へと遡っていく道に分かれている。どちらだろうと思ったその刹那、結城の脳裏に見たこともない光景が一瞬のビジョンとなって弾けた。


 それは廃墟だった。

 荒れ果てているが、何かの工場のように見えた。


 結城はブレーキを踏んでハイエースを停車させる。


「見えましたか?」


 撫子がこちらを覗き込んでいた。撫子も同じビジョンを見たのだ。

 これは『巫女』と『縁』の繋がりが見せたものなのだろう。アイも少年も、同じ場所にいるのだ。 


「俺も見えたよ。何かの工場だったような――」


『恐らくダム湖の上流にあるグロッサーヒューゲル社の廃工場やな』


 カーオーディオを通して、ルーフ上にいる里菜の声が車内に響き渡る。どうやら車内の二人のやりとりは、里菜の身につけているパワードスーツのレシーバーには筒抜けだったらしい。結城は少し恥ずかしくなる。撫子も同じらしく、なんとなく気まずそうな顔だった。


 そんなことよりも、今は廃工場だ。

 結城は意識をそちらに戻す。

 職場で奥岩田屋村にそういったものがあったという話は聞いていた。取り壊されずに残っているとしたら、悪事を働く者にとっては格好の隠れ家だろう。


『――とかなんとか言うとったら、おでましや』


 里菜の言葉が終わるや、ハイエースに横殴りの衝撃が走った。結城を浮遊感が襲う。濡れた路面を滑るようにハイエースは五メートル程吹き飛ぶと、グラグラと揺れて止まった。気がつけば景色が斜めに傾いている。右の前輪がパンクしたらしい。


 隣を見ると、撫子はもう車外に飛び出していた。


 結城はとっさのことでどう行動すればいいか分からなかったが、撫子が開けっ放しにしたドアから雪男が顔を覗かせた瞬間、運転席のドアを開けてハイエースの外に飛び出した。


 その瞬間、重機関銃の発射音が轟き、アスファルトが砕ける音が響き渡った。


 結城は混乱したまま、とりあえずその場に身を伏せた。

 いったい何が起きているのかと思った結城のすぐ隣に、ぐちゃぐちゃに破壊された重機関銃が転がり落ちてくる。金属の塊が地面に叩きつけられ、いくつかのパーツが飛び散った。


 恐る恐る目を開けると、右前が傾いたハイエースを盾にするように、例の全裸にしか見えないパワードスーツを着た里菜が、両手にライフルを持って立っていた。ヘッドギアについたバイザー部分は額まで上げられていて、里菜の顔がよく見えた。焦りなど欠片もない冷徹な瞳で、周囲の様子をうかがっている。


 里菜が左右に一丁ずつぶら下げている長大なライフル――バレットM82は、先ほどまで里菜がぶっぱなしていたブローニングM2と同じ50口径弾を用いる対物ライフルである。


 結城は這うようにして里菜の隣に移動した。

 キリンジと撫子の姿は見えない。


「『巫女』のエスコート、ご苦労なことだ」


 聞き覚えのある邪悪な声だった。

 黒いジャケットの男――チバだ。

 あの男がいるということは、例の羽の生えた男――ササボンサムと名乗ったらしい――もいるに違いない。


 その結城の予想が的中していることを告げるように、ハイエースの上に何者かが着地する。その何者かの背中で、コウモリのような羽がはためく。


 ササボンサムが氷のような目でこちらを見下ろしていた。

 舌打ちと共に里菜が発砲する。

 その空気を裂くような発射音に、結城の耳は一瞬機能を失った。

 里菜は本来は片手持ちするような銃ではないバレットM82を、軽々と拳銃のように構えていた。


 気がつけばササボンサムの姿は車の上から消えていた。飛翔して射撃から逃げおおせたのだ。見上げる結城と里菜の直上で羽ばたいたササボンサムは、そのまま二人の正面に着地した。接近戦――と思った瞬間、視界の外から飛び込んできたキリンジが、手にした金属製の棍でササボンサムの腹を思い切り撃ち払った。

 短くうめき声をあげて後退したたササボンサムに、ハイエースの影から飛び出してきた撫子が襲いかかる。瞬時にその懐に入り込んだ撫子は、独楽のように回転して強烈な左の掌底をササボンサムのボディに叩き込んだ。鈍い音と共に男の巨体が浮き上がる。


 里菜が右手のライフルを構えた。


 結城は耳を塞ぎその場に身を投げる。

 けたたましい発射音。排出された薬莢が結城の目の前に転がる。


「――チッ」


 殺しを生業にする人間の顔になった里菜が舌打ちをする。

 その視線の先で、右の羽に大穴を開けたササボンサムが地面に着地した。

 ササボンサムの隣には、チバが佇んでいる。こちらに向けられた二人分の黒く淀んだ目。そこからはじわりと殺意が伝わってくる。


 結城達四人の前に、二人の怪人が並び立つ構図となった。


「ほーん。自分らがキリンジの言うとった改造人間か。UMAハイブリッド――今時流行らんでしかし」


 里菜は両手のライフルを腰だめに構えた。標的となった二人の背後に、ぞろぞろと雪男達が現れる。その数はざっと二十人。全員が結城達を見つめている。


「お前の隣にいる男だってそうだろう。どうせ我々と出所はおなじだ」


 チバがキリンジを見ながら言った。キリンジは険しい表情でそれを睨みかえした。


「キリンジは正義の改造人間や。ま、あまりにもアホやから脳改造までしてもろとったほうがマシやったかもしれへんけどな」


 里菜はペロっと舌を出して笑った。その隣ではキリンジが何か言いたそうにしているが。


「――んで、自分ら、『巫女』を使って何がしたいんや?」


 里菜が肉食獣のように目を細める。その隣で撫子も同じ顔をしていた。血の繋がりなどなくとも、二人は間違いなく姉妹だ。


「答えると思うか?」


 チバが吐き捨てる。


「三下の兵隊風情に訊いたのが間違いやったわ。自分らをブチ殺して、親玉に白状させるのが早そうやな」


 やれやれといった口調の里菜。そのライフルの銃口は二人に向いて静止している。次の瞬間にも50口径弾を叩き込みそうな雰囲気だった。


「ただの人間風情にできるのか?」


「少々身体を改造されたぐらいで特権意識持ちよってからに。こっちの主戦力がいないのを見計らって動き出した時点で、自分らは小物のゴキブリ野郎なんやで」


 里菜の挑発的な言葉を聞いて、チバは苦笑した。


「クレバーだと言ってもらいたいところだな」


 肩をすくめるチバを見ても、里菜のあざけるような表情は変わらなかった。先に手を出させようとしているのかもしれない。


 と、そこで業を煮やしたかのような口ぶりでキリンジが口を開く。


「――ごちゃごちゃうるさいぞ」


 キリンジはチバを睨みつけると金属棍を構えた。今にも地を蹴って飛び掛かりそうだ。キリンジはさらに言葉を続ける。


「欲しいものがあるんだろ、かかってこいよ」


「死に損ないの分際で随分威勢がいいな、新渡戸キリンジ」


 チバはキリンジの挑発を軽く受け流す。チバの目にはキリンジは脅威として映っていないようだった。


「誰が死に損ないだ。タフな男だと言ってもらいたいところだな」


 キリンジは直前のチバの言葉を借りて言った。それを聞いたチバが皮肉な笑みを浮かべる。


御託ごたくはいい」


 ここまでずっと沈黙していたササボンサムが短く言葉を吐いた。その長い手をゆっくりと動かし、撫子を指差した。


「『巫女』は私を殺したがっているぞ」


 撫子はササボンサムの言葉を聞いても無反応だった。視線も動かさず、声も発さなかった。ただ、少女の内面から放たれる“気”と呼ぶべきものは、一秒ごとに膨れ上がっていた。


 私はお前を許さない。


 たとえ言葉を理解できない動物であっても感じとることができるような無言の圧力が、撫子の身体から滲み出ていた。


 強烈な殺意が絡み合い、場の空気がねっとりと歪み始める。空気が熱を帯び、アスファルトを叩く雨さえ蒸発しそうだった。


「――出し惜しみはしない」


 チバが言うや否や、その黒いジャケットの背中を突き破り、二本の脚が現れた。甲殻類じみたその長い脚は、チバの肩越しにその鋭い先端をこちらに向けた。


「なるほど、チバ・フー・フィーか。コンゴに生息するクモ型のUMAだ。ササボンサムとはアフリカ繋がりだな」


 キリンジは感心したように口笛を吹いた。


 巨大な力と力が激突する時間が近付いていた。

 結城はショルダーホルスターの拳銃に手をやった。自分がこんなものを使ったところで、一体何ができるのかはわからないが。

 それでもこの場を切り抜けて、アイがいる廃工場まで辿り着かなければならない。 


 と、そこで。


「――結城、工場まで走るんや」


 里菜は正面から視線を逸らさずに言った。その声には有無を言わさぬ迫力があった。結城は思わず息を呑み、里菜の横顔を見つめる。


「結城、行け。お前の大事なものを取り戻すんや」


 毅然とした声だった。その声は結城の意志を確かめるかのように響いた。


「俺……だけでですか」


 結城の心の弱い部分が噴き出す。一歩踏み出した瞬間に命を失いそうなこの空気の中、自分の力だけでこの場を離脱し、廃工場まで走れと言うのか。


 自分にそんなことができるのか。


 拳銃のグリップを握る手が震えた。


「うちらもこいつらを片付けたらすぐに行く。自分が突破口を開くんや」


 里菜の口調は澱みなかった。結城にはそれができると確信したかのような口ぶりだった。


「まさに鉄砲玉だな。残酷だとは思わないのか星野里菜」


 チバが嘲笑あざわらった。


「目的を達するために、そうやって一番安い命から使い捨てていくわけだ、その重さを計算してな」


 里菜は何も言わない。否定もしなかった。

 結城の胸に、里菜が事務所で言った言葉が去来する。


 ――留守を任されとるのがうちとキリンジってことなんやけど――


 きっと彼女は、自分に留守を預けていった誰かと約束したのだ。

 必ずこの町を守ると。

 そのためなら何でもすると。


 チバは調子づいたように言葉を続けた。


「『巫女』を――浅倉撫子を連れてここまで来たのも、最悪の場合こちらの手に渡る前にお前自身の手で始末できると考えたからだ。違うか?」


「お前、黙れ」


 里菜の声は落ち着いていた。

 鉛玉を吐き出す直前の銃身の冷たさを、落ち着きと呼んでいいのならだが。

 金属製の殺しの意志が、里菜の口から言葉となってほとばしる。


「根本的なところがわかっとらんようやな」


 あまりに強烈な怒気は、もはやそれが怒気であることを周囲は認識できない。この場にいる全員が、それをただ、里菜から放たれる強烈なプレッシャーとして感じ取った。味方である結城でさえも寒気を覚えた。


「自分らのようなクソのついた便所紙にも劣るゴミカスを処理するのに、壮大な覚悟も緻密な作戦もいらんねん。うちは誰一人、捨て駒になんかせえへん」


 里菜はヘッドギアのバイザーを下ろす。


「――――巖田屋会に喧嘩売っといて、ただで済むと思うなよ」


 里菜のその声が合図だった。


 里菜の二丁のライフルが火を吹く。二人の怪人が地を蹴り駆け出す。牙を剥いた雪男の群れがこちらに殺到する。キリンジが裂帛の気合と共に踏み込む。撫子の動きは目で捉えることすらできない。


 ものの数秒で、辺りは血と鉄がぶち撒けられる戦場と化した。


 結城はホルスターから拳銃を引き抜き、走りだした。結城は絶叫する。ただただ叫ぶ。

 己を鼓舞するために叫びながら走る。

 水溜りを蹴り、ダムの上流へと続く道を走る。追いすがる何人かの雪男の頭を、里菜のライフル弾が吹き飛ばした。ぶち撒けられた脳漿が結城の背中に飛び散る。だが、結城は振り返らない。


 たとえ鉄砲玉でもいい。

 いや、鉄砲玉でいい。

 どうせ自分の力では、それ以上のものになんかなれはしないのだ。

 結城は行かせてくれた里菜に感謝した。

 一秒でも早くアイの元に駆けつけなければならない。


 道はダム湖の周囲をなぞるように続いていた。左手の断崖の下にはカフェオレ色の満水の湖。右手には崩落防止のためにコンクリートで固められた山の斜面。それがずっと続いている。

 勢いよく駆け出したはいいが、全力疾走はいつまでもは続かない。

 後ろからの追手がないことを確認した結城は、両手でしっかりと拳銃を握りしめて速度を落とした。

 背後からは雨音に混ざって里菜達が戦っている音が聞こえた。爆音。雪男の悲鳴。戦況は不明だが、結城には勝ってくれと祈ることしかできない。


 雪男に怯えながら、十五分程走っただろうか。戦場の音は随分遠くなった。

 こんなに長い距離を走ったのは、高校時代の持久走以来だった。結城はもはや、息も絶え絶えだった。

 勢いのない鉄砲玉だな、おい――と自分で自分にツッコミを入れる。

 結城は遂にとぼとぼと歩き出した。呼吸を整えながら、もつれそうな足を慎重に進める。自分の体力のなさが情けなかった。泣きたくなるが、今はそんなことをしている場合ではない。


 そんな結城の視界の中に、有刺鉄線と蔦が絡みついたフェンスが現れた。例の廃工場の敷地に辿り着いたのだ。結城は俄然元気になる。


「これか――でも、どこから入ればいいんだろう」


 見渡せばフェンスは山中に分け入るように長く続いている。このまま道を進めば工場の入口に続く分岐が現れるだろうか。フェンスのどこかに穴でも空いていれば、そこから侵入できそうではあるが。

 結城はとりあえず先へ進もうと、フェンスのある方から進行方向へと振り返った。


 そこに雪男がいた。


 あまりに突然だったので結城は心臓が止まりそうになった。

 黒いツナギのような服を着た雪男は、じっと結城を見つめている。距離はまだ五メートルはある。結城は拳銃を雪男に向けた。


 里菜は目を狙えば倒せると言っていたが、そんな精密な射撃が結城にできるはずがない。もし狙える距離まで近づけば、相手の腕力の餌食となるだけだ。


 雪男はぼーっと結城を眺めている。


 そういえばこいつらは、指揮する人間が近くにいない時は木偶でくぼうな印象があった。里菜の重機関銃の餌食になったときなどは、ただの的でしかなかった。あの怪人達が近くにいるときは機敏に動いていたと言うのに。


 もしかすると、今のこいつも木偶の坊なのかもしれない。


 結城は唾を呑み込むと、拳銃を構えて狙いをつけた。頭部は難しそうなので、腹部に銃口を向ける。

 引き金を引くと、存外軽い破裂音と共に弾丸は発射された。それでも射撃の反動で結城の上半身はガクンと揺れた。


 当たらなかった。


 雪男は音に驚いたように目を見開いてこちらを見ている。


「いや、あの。すいません」


 思わず謝ってしまったが、次の瞬間、雪男は牙を剥き出しにすると咆哮した。


「ギッギッギ……ギアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 突進してくる雪男に、結城は連続して発砲した。一発撃つたびに照準は狂い、結局ただの一発も当たらない。

 雪男が振り回した拳が、腰が引けた結城の頭上を通り過ぎていった。その風圧だけで血の気が引く。

 結城は背中を向けて雪男から遠ざかる。振り向きざまに発砲。当たらない。

 今度こそ本当に泣きたくなってきた。


 さらに最悪なことに、先程の雪男の声を聞いたからか、十人程新たな雪男が山中から姿を見せた。最初の雪男と合流し、全員で結城を睨みつける。


 どうすればいいんだと胸中で自問自答する結城だったが、何の答えも浮かばなかった。

 他者と争った経験が乏しい結城には、こういった場面で考えるだけの材料がないのだ。もっとも、人間相手の喧嘩の知識が役に立つとは思えない状況ではあったが。


 結城が万事休すかと思ったその時、遠くで打ち上げ花火のような爆音が響き、数秒後に空からゴドッと何かが降ってきた。驚きのあまり首をすくめた結城の真横に転がったその物体は――


 雪男の生首だった。


 白目を剥いて舌をだらんと口から垂れ下がらせている。


 恐らく里菜達の戦闘の余波だろう。一体何を使えばこんなところまで雪男の頭部が吹っ飛んでくるのかは分からなかったが。


 見ると、雪男達も落下してきた物体に驚いているようだった。結城は爪先で、落下してきた首を蹴って転がした。


 それを見た雪男達は、恐れ慄くように後退あとずさりした。


 彼らは仲間の死体に怯えているようだった。


 結城の頭にパッと光明が差し込んだ。

 結城は転がっていた哀れな頭部を掴み上げ、見せつけるように雪男達に示した。雪男の頭は、想像以上にずっしりとしていた。ボウリングの球のようだ。結城は拳銃を構え、手にした雪男の頭に突きつける。


「うわああっはっはっはっはっはははは! 俺は死神だ! 俺に近づいた奴はあの世行きだぜ! ホラ! 見ろ!」


 大声でわめき散らしながら、結城が一歩踏み出す。


 すると雪男達は一歩下がる。


 さらに一歩踏み出す。


 雪男達は狼狽うろたえるように後退する。中には背中を見せる者もいた。


「うわあああああああああああああああああ!!」


 絶叫しながら雪男の頭部を振り回して走り寄ると、雪男達は悲鳴を上げながら山の中へ逃げ込んでいった。


「おらああああああああああああああああああ!! 来んじゃねぇえええええええええ!! 来んじゃねぇぞおらああああああああああ!!」


 雪男の頭部を全周囲に見せつけ、さらに拳銃を山中に向かって発砲する。

 雪男達の気配は山の奥へと遠ざかって行った。


 これだけ脅かしておけば、しばらくは寄り付いてこないだろう。

 結城は雪男の頭部を足元に転がし、長い長い息を吐いた。

 戦いにもならない戦いだったが、結城にはこんなやり方しかないのだ。あれだけの数の雪男を無傷で追払えたのは幸運としか言いいようがない

 遠くでまた爆音がした。里菜達の戦闘はまだ続いているらしい。


 結城は改めて歩き出そうと、視線を上流方向へと向けた。

 雨に煙る道の先に人影があった。また雪男か――と結城は足元の生首を拾いあげようとした。だが、様子が違った。

 人影のシルエットは雪男のそれではなかったし、どうやらヘッドランプを付けているらしく、チカチカとその光がこちらに届いていた。本物の人間のようだった。こちらに向かって歩いてくる。


「――まずいな」


 相手が敵の一味なのか、ただの一般人なのかが分からない。

 こんなとき里菜やキリンジならどうするのだろうか。結城はなんとなく後者だと判断して――ただの希望的観測だが――拳銃の安全装置をかけて、ショルダーホルスターではなくスラックスの背中側にねじ込んだ。雪男の首は蹴飛ばして道路脇の茂みに隠した。


 もし敵だった場合は、腰の銃を引き抜いて即座に撃つしかない。そんな高度な真似はできるとも思えなかったが。


 人影はゆっくり結城の方に接近してきた。結城は手を背中側に回してそれを待ち受ける。

 一歩一歩と近づくごとに、だんだんとその姿がはっきりとする。

 レインコートを着た男だった。頭にはヘルメットを被り、ヘッドランプを付けていた。

 互いの顔が分かる程の距離になった瞬間、結城は驚きのあまり硬直した。


「――結城君じゃないか、何をやってるんだこんなところで」


「課長こそ何をやってるんですか」


 人影の正体は、岩田屋町役場『たのしいまちづくり課』の課長である迫水だった。

 オフィスで見慣れた顔が、目を丸くして結城を見ている。


 まさかこんなところで職場の上司に会うと思っていなかった結城は、なんとも言えない脱力感を覚えた。敵でなかったことを喜ぶべきなのだろうが。


「実は知り合いの高齢者がこの奥に住んでいてね。今、避難は完了したところだ」


 迫水は避難の手伝いのために、こんな山奥まで来ていたらしい。人の役に立つことが生きがいのような男だと思っていたが、まさかこんなところでまで人助けとは。

 そういえば、迫水は役場で働く前は製薬会社の工場で働いていたと言っていたはずだ。もしかすると助けた高齢者というのは、その頃に知り合った人間なのかもしれない。


「それは――よかったですね」


 突然現実に引き戻されたような感覚だった。さっきまでのドンパチ騒ぎは何だったのだろうと思わされてしまう。聞いてください課長、俺、雪男と戦ってたんですよ。


 迫水はまじまじと結城の顔を見ていたが、突然ふっと吹き出すように笑った。


「いやいや、まったく、


 迫水はにこやかに告げる。


「――え?」


 迫水が何のことを言っているのかが分からず、結城は間の抜けた声をあげてしまった。


「しょうもないお芝居は止めようか。申し訳ない」


 迫水は笑みを崩さずに一人頷いた。結城はただただあっけにとられる。そして、をしているのが、迫水自身なのだとゆっくりと理解する。


「これも神話の獣が紡ぎ出す運命の糸が引き寄せたものかもしれんな」


 迫水は柔和に笑っている。その表情は、職場で見るものとなんら変わらないように見えたのだが――


 迫水の目は、まったく笑ってなどいなかった。


 その白目は血走り、黒い瞳の奥には歪んだ嗜虐心が見え隠れしていた。


「――あなたは」


 結城は腰の拳銃を引き抜き、ふらつくように後ろに下がった。

 不吉な予感が一瞬にして胸を満たす。

 これは――だめだ。

 心臓が早鐘を打ち、視界がぐにゃりと湾曲した。


「せっかくここまで来たんだ。君にもこれから始める儀式を見せてやろう」


 口元を思い切り歪めた迫水の表情には、“迫水課長”の面影はなかった。


 雨の降り止まぬ山あいに、銃声が響いた――

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