【結城】 19 Young, Alive, in Love
「なんでオザケンやねん!」
里菜がナビを操作してカーステレオをつけた瞬間、ハイエースの広い車内に軽快なポップスが爆音で流れ始めた。
「誰や! この車、直前に使っとった奴は! 極道モンがどんな趣味しとんねん!」
音量を下げるボタンを連打しながら里菜は叫んだ。
「嫌いなんですか?」
「いや、そーでもない」
結城はあくまで運転に集中しながら里菜とやり取りする。
たった四人の救出部隊――結城、キリンジ、里菜、撫子――が乗った黒いハイエースは岩田屋川に架かる石津橋を通過し、川沿いの道を上流方向を目指して進んでいた。雨は全く止む気配がない。里菜の話によると、『岩田屋にくにくフェスティバル』が開催されていた昨日から、ずっと降り続いているらしい。国道は町外との境で寸断され、JRも運休しているので、岩田屋地域は陸の孤島と化しているとのことだった。
出発前に里菜が説明した作戦は、作戦と言えない程シンプルだった。
全員で敵の本拠地に堂々と出向いてアイと少年を奪還する。
それだけだった。
里菜の腹の中では別のプランがいくつか同時進行しているのだろうが、結城に伝えられたのはこの単純明快なカチコミめいた作戦だけだった。結城は運転手兼案内人である。実質的な戦力はキリンジ、里菜、撫子の三人だ。撫子は敵の狙いでもあるので、それを守りながらの戦いとなる。形勢不利もいいところだが、残された時間が少ないと考えられる以上、この作戦を全力で成功させるしかない。
結城にとっての気休めは、誘拐されているアイには『巫女』としての利用価値があるので敵に殺される心配はなさそうだということだけだった。
「結城、景気づけや。歌え」
「――え?」
ハイエースは速度を緩めずに山沿いのカーブを越えていく。
「歌われへんのか?」
「いや――――え?」
ほなええわ、うちが歌うわと里菜が歌い始めた。
ルームミラーを見ると、撫子が呆れたような顔でこちらを見ていた。
結城はハンドルから片手を離すとナビを操作して画面をオーディオモードからマップモードに戻した。今、四人が乗ったハイエースは出発前にナビに打ち込まれた目的地に向かって走っている。
撫子が『
先ほどの検問に雪男がいたことを考えると、撫子の見立ては正解だったということだろう。
ハイエースは上岩田屋町の外れにある、道の駅の横を通過した。
それは、結城とアイがドライブした時に立ち寄った場所だった。
あの日のアイの笑顔を思い出す。
それは結城が全てを賭けて絶対に取り戻さなければならないものだった。
結城は自然とハンドルを握る手に力を込めた。使命感。怒り。英雄願望――あるいは破滅願望。胸の中で様々な感情がぐちゃぐちゃに弾けた。心臓が高鳴り、背中を電流のような何かが走り抜けた。
結城の脳裏で見たこともない光景が、サブリミナルのように浮かんで消えた。
緑の山々の間にそびえる巨大な構造物。
灰色のコンクリートの要塞のような――それはダムのアーチだった。
目的地が近づいてきたので、結城にもアイの存在を感じ取れるようになってきたのかもしれない。今の光景はアイが見たものなのだろうか。
「フンフンフフン♪ はしてくー♪」
里菜は足でリズムを取りながらノリノリで歌っている。
そこに――
道路脇の林から路上に例の雪男が飛び出してきた。ツナギのような服を着た雪男はこちらに牙を剥いて吠える。その顔がはっきりと見える距離だった。結城はとっさにブレーキを踏もうとしたが――
「そのままや!」
里菜が叫ぶ。
激突音と衝撃。フロントガラスにパッと血が飛び散り、次の瞬間ワイパーで拭われた。
時速100キロで走る車が激突する時の衝撃は、高さ39メートルのビルから落下するのに等しい。地面に転がってピクリともしない雪男がサイドミラーに映って――次のカーブに差し掛かって消えた。
ハンドルを握る手がブルブルと震えた。
石で雪男を殴打した時と似た感覚だった。
やってしまったという気持ちよりも、高揚感が勝っていた。
「自分、何
里菜に指摘され、左手で自分の頬を触る。
吊り上がった口元が、引きつったような笑顔を作っていた。
この表情は何なのだろう。自分でも説明がつかない。むしろ泣きたいぐらいだ。
冷静に考えれば、今自分が置かれている状況は意味不明すぎる。
ヤクザの運転手を務めて、雪男を轢き殺した。
次の瞬間、天井から何かがぶつかるような音がして、フロントガラスの上を雪男が白目を剥いて転がっていった。ハイエースはそれに前輪、後輪と乗り上げて、それでもノンストップで走り続けた。ルーフに立っていたキリンジが、樹上から襲撃してきた雪男を迎撃したということらしい。
もう、めちゃくちゃだ。
だが、足は石化したようにアクセルの上から動かない。アイが待つ岩田屋川ダムに向かって走り続ける。
雨風を切り裂き、黒いハイエースは疾走する。
「結城、歌え!」
「はい!」
結城はうろおぼえの歌詞をメロディにのせて歌い始めた。それはほとんど絶叫に近いものだったが。
里菜も歌いながら助手席の窓から身を乗り出し、茂みから姿を表した雪男を射殺した。
天井裏から破壊的な音がして、三人の雪男が地面に叩きつけられるのがサイドミラーに映った。里菜がキリンジをルーフに立たせた理由が分かった気がした。奴らに天井にとりつかれたら、窓から車内に侵入されてあっという間にゲームオーバーだ。
大声で歌いながら、死神と化した黒いハイエースを走らせる。
その前に立ちはだかる、十人の雪男。
豪雨に打たれながら、雪男達はボーリングのピンのように立っていた。
これもそのまま轢き殺すか――
「撫子! 後ろからアレ取って!」
里菜が言うと同時に、撫子が後ろのカーゴスペースから長い何かを引っ張り出して里菜に渡した。ウィンチェスターM1897――散弾銃だった。黒い銃身と使い込まれた木製のストックが鈍く輝いている。
里菜はシートの上に立ち上がるようにして上半身だけを窓の外に露出させると、両手で構えた散弾銃のトリガーを引いた。野太い発砲音。トリガーを引いたまま左手のフォアエンドをスライドさせて、続けざまに発砲。淀みなく繰り返すこと五回。十人いた雪男の半分は血しぶきを上げて倒れ、残りの半分も
結城はサビの部分を絶叫しながら残った五人の雪男のど真ん中を通るようにハイエースをぶつけた。ワイパーで拭い切れないほどの返り血がフロントガラスに弾けた。
腹筋が痙攣し笑いがこみ上げる。
暴力が結城を酔わせていた。
脳の一番原始的な部分が刺激され、結城はハイになっていく。
そんな結城が走らせるハイエースの前に再び雪男が現れる。
一人。二人。三人。四人。
ハイエースは止まらない。
五人。六人。七人。八人。九人。十人。
結城はアクセルを踏み続ける。
十一人。十二人。十三人。十四人。十五人。十六人。
「いやいやいや、ちょー待てって――」
十七人、十八人、十九人、二十人、二十一人、二十二人、二十三人、二十四人、二十五人、二十六人、二十七人、二十八人、二十九人、三十人、三十一人、三十二人、三十三人、三十四人、三十五人、三十六人、三十七人、三十八人、三十九人――――
「多すぎるやろ!」
目の前に現れた雪男は五十人を超えていた。
「結城、一旦ストップや!」
里菜の声は、興奮状態の結城には届かない。黒いハイエースは弾丸と化し、雲霞のように群れを成す雪男達の正面に突っ込んでいった。
二十人ほど跳ね飛ばした後、ハイエースは止まった。
いや、止められた。
車体に無数の雪男が取り付き、前進を阻んでいる。タイヤが空転する音が虚しく響く。結城はアクセルから足を離した。
里菜は舌打ちして拳銃をホルスターから引き抜くと、窓から腕だけを出し、ドアを引っ剥がそうとしていた雪男を撃ち殺した。一人。二人。三人。
「――撫子、キリンジと一緒に三分だけ時間稼いで!」
短く告げた里菜は猫のように器用にシートの隙間を移動し、後ろのカーゴスペースに消えた。
それを見届けた撫子は無言でスライドドアを開けると車外に躍り出た。撫子が身につけているのは里菜が用意したタンクトップとカーゴパンツのみ。武器一つ持っていない。
丸腰の撫子に雪男達が殺到する。咆哮。悲惨な結末が頭を過ぎり、結城は思わず目を逸らした。だが――
「ギッギッギッギャッギャアアアアアオオオッホッホッホッ!」
悲鳴を上げながら雪男達が逃げ惑う。
目にも止まらぬ拳技。車から降りて三秒と経たぬ間に五人の雪男を地に這わせた撫子は、近場にいた逃げ遅れた雪男に飛び蹴りを食らわせた。撫子は崩れ落ちたその巨体を蹴って飛び上がると、逆側にいたもう一人の雪男の眉間に全体重を乗せた肘をお見舞いした。急所を撃ち抜かれた雪男は、沈黙のまま膝をついて祈るように倒れた。
この少女には、武器など必要ないのだ。
撫子はつまらなそうに雪男達を
いや、撫子の技に感心している場合ではない。
バン!と弾けるような音と共に、大きな平手が運転席の窓に叩きつけられた。結城は驚きのあまりシートから10センチは浮き上がった。
見れば一体の雪男が運転席のドアを
耳の奥で、さあっと血の気が引く音がした。
結城はお守り代わりに持たされていた拳銃に手をやった。ぎこちなくショルダーホルスターから引き抜く。金属塊のずっしりとした重みが手のひらに伝わった。安全装置を外してよく狙って引き金を引け――里菜から口頭で伝えられたのはそれだけだった。
震える両手で拳銃のグリップを握り、窓ガラス越しに雪男の頭に向ける。情けなくふにゃふにゃ動く銃口では、まるで狙いが定まらなかった。
天井から思い切り踏み込むような音が聞こえ、ハイエースがゆらりと揺れた。上でキリンジが戦っているらしい。結城がちらりと視線を上にやったその刹那、後ろから何かに追突されたかのような衝撃が車体を大きく震わせた。数人の雪男達が一斉にタックルしたらしい。慌てた結城は思わず拳銃を取り落としてしまった。拳銃のグリップがドアのインナーハンドルの辺りにぶつかり、結城の膝の上に転がる。慌てて拾い上げて、もう一度構える。
ガチャリとドアが開いた。
ゆっくりと全開になるドア。ドアを開けた雪男が、雨に打たれながら無表情に結城を見つめる。つぶらな黒い瞳は純粋な殺意を映す。
落ちたときにグリップがボタンに当たり、ドアロックを解除してしまっていたらしい。
「うわあああああああああああああ」
結城は雪男の腹の辺りに突きつけた銃の引き金を引いた。しかし、弾は発射されない。安全装置を解除していないのだ。慌てて安全装置を解除する。
雪男は不思議そうな顔をすると、まごつく結城の手からひょいと拳銃を奪い取った。汗で濡れた手のひらから、グリップはいとも簡単に抜けた。
そして、結城の真似をしたのだろうが、奪った拳銃を結城に突きつけた。
ああ、終わった――
走馬灯に突入する寸前の結城の意識を現世に引き止めたのは、キリンジが放った一撃だった。
車のルーフから飛び降りざまに、持っていた金属棍で拳銃を持った雪男の頭を殴打した。その一撃で雪男は昏倒してその場に倒れた。
「結城さん、無事か!?」
キリンジは動かない雪男の手から拳銃を引き抜き、そのまま結城に手渡した。
「だだだだだだだだいじょうぶ」
歯の根が合わないまま、受け取った拳銃をホルスターに突っ込む結城。キリンジはその姿を見て特に反応を示すでもなく振り返ると、背後に接近していた雪男三人に金属棍のフルスイングをお見舞いした。
ハイエースの右側面にキリンジ、左側面に撫子という配置になった。車を取り囲んでいた雪男達は二人に恐れをなしたのか、車の正面に集まってこちらから距離を取った。それでもまだ20人は健在だった。
いつの間にかカーステレオから流れていた曲は終わっており、次の曲が再生され始める。女性ボーカルのスキャットによる軽快なイントロ。車のCMにも使われていた有名な曲だったが、結城は曲名が思い出せなかった。
と、そこに。
『おっ、おお? ん? あー、これ車のブルートゥースに繋がっとるんやな。芸が細かいわ』
曲に割り込むようにスピーカーからハンズフリー通話のような声が響いた。
「里菜さん?」
確か車の後部のカーゴスペースにいたはずだが。
『あ、そっちの声も聞こえるわ。でもこれ、車外には聞こえてへんよな。まぁええか。準備できたから出るわ』
「――出る?」
車の外に出るということだろうか。そもそも後ろで何の準備をしていたのだろう。
『この前の騒動のときに米軍の対UMA特殊部隊からかっぱらったやつが、やっと使えるようになったから試してみるわ。うわ、
米軍? 対UMA特殊部隊? 何を言っているのだろうと思った瞬間、ハイエースのバックドアが開いた。雨が車内に降り込む音がする。
『こういうとき、何て言うんやっけ? 行きまーす! とか? ロボットアニメは見ーひんから、ようわからへん――』
重たい何かがカーゴスペースから飛び降りた。反動で車体が揺れる。アスファルトに硬質な物体が着地する音がした。さらに、ジャラジャラと金属音が続く。
結城が混乱している間にバックドアは閉じられた。里菜は何をしようと言うのだろう。
『せーのっ』
ダン!
それは後から考えれば踏み切り音だったのだ。里菜が地面を蹴って、ハイエースの後ろから、車体の上を飛び越えて、前方に着地するための。
踏み切り音と同じぐらい大きな音を立てて里菜が着地する。
結城はその後ろ姿をフロントガラス越しに見た。
里菜は裸だった。
少なくともそう見えた。
ブリーチされた腰まである金髪の下に、ぷりんとした褐色の丸い尻。右の臀部にはトランプを模したタトゥーがあった。
麗しきクイーン・オブ・ハート。
里菜の膝から下と、肘から先は、マットホワイトカラーのアーマーのようなもので覆われていた。膝と肘の関節部分は、その動きを殺さないようにいくつかのパーツに分かれている。耳までカバーするヘッドギアを装着しているが、おそらくこれがさっき言っていた
そして、その両手でぶら下げるように構えている一丁の馬鹿デカい武器。ベルトリンクが垂れ下がった、絶対に人間が手で持って撃つためには作られていないタイプの銃。
ブローニングM2重機関銃。
それは50口径弾を毎分750発吐き出す戦争の申し子。数秒あれば人間どころか車でさえミンチにしてしまう悪魔だった。本来は三脚で地面に固定したり、車両の銃架に搭載したりする武器である。
手足のアーマーにいったいどんな理屈があるのかは分からないが、里菜はその武器を悠々と一人で構えている。
『アメリカ陸軍対UMA特殊部隊の
里菜は機関銃の銃口を目の前の雪男達に向けた。雪男達はそれが何なのか分かりはしないだろうだが、不吉な予感を感じ取ったのか、ゆっくり後ずさりを始めた。
『撫子! キリンジ! 耳ふさいどけぇ!』
一瞬、間があった。
その静けさの中、カーステレオから流れる軽妙洒脱なサウンドだけが結城の耳に届いた。結城は唐突に、その曲のタイトルを思い出した。
『死にさらせ!!』
轟音と共に里菜がぶら下げた機関銃が火を吹いた。あまりの音に結城は両手で耳を塞いだ。猛烈な勢いで吐き出された薬莢が地面に落ちて跳ねる。跳ね続ける。
射撃時間は5秒にも満たなかったはずだ。
しかし目の前にいたはずの20人の雪男はこの世から消えていた。アスファルトの上には肉片混じりの赤いスープが巨大な水たまりとなって残っているばかりだった。
結城は呼吸と瞬きを忘れ、突然眼前に出現した戦争の光景に硬直した。
返り血すら浴びていない里菜が振り返ってこちらを見た。機関銃を地面に置くと、ゴーグルと一体化したヘッドギアを外し、雨に濡れた金髪をかき上げる。
動作と共に揺れる乳房を見て結城は気づく。里菜は裸ではない。限りなく透明に近い全身スーツのようなものを身に着けている。うっすらとした光沢が首から下の全身にあった。胸のトップと股間は生地が厚手になっているのか、微妙なボカシが効いている。
里菜はVサインをして得意げに笑った。
フロントガラス越しでもその声は聞こえた。
「ほな行こか」
雪男達の血溜まりを越えて四人を乗せた黒いハイエースは走り始める。道は奥岩田屋村に入る。岩田屋川ダムは近づいていた。
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