【光】13 あなたをかたちづくるもの

「拙者が七歳の頃の話でござる」


 忍と光は稲妻いなずま禽観とりみ神社の石段に腰掛けていた。セミの声をBGMにして、すっかり真夏に染まった岩田屋町の午後の風景を眺めている。青々とした水田には、南風の通り道が幾筋も見えた。


「当時まだ家族とオレゴン州ポートランドに住んでいた拙者は、忍術の師でもある親父殿と一緒にその時初めて日本の地を踏んだでござる」


 今日のダンス練習はシュウがバイトで不参加だった。今、撫子と澄乃はこの神社を管理している家――久我家と言うらしい――に上がり込んでシャワーを借りている。ここ数日は練習の最後にシャワーで汗を流してから帰るのが女子二人の定番の流れになっていた。


「七歳ってことは小学一年生か」


 小学一年生の頃の光は、阿佐ヶ谷の伯母の家で暮らしていた。当時はまだ『もう一人の自分』などというものに悩まされることもなく、平穏に過ごしていた。


「そうでござるな。正直、記憶は物凄く断片的で、その日他にどんなことがあったかなんかはあまり覚えていないでござる」


「それだけ衝撃的だったってことだね」


「そうでござる。その日、拙者と親父殿は有明アリーナで開催されていたK-1ワールドグランプリ2010ファイナルをリングサイドで観戦していたでござる」


 K-1は「立ち技格闘技世界最強を決める」という触れ込みの格闘技イベントだ。2020年現在も、運営団体は変わったが定期的に大会が開催されている。空手やキックボクシング、ムエタイなど、様々なバックボーンの選手が参戦し、鎬を削っている舞台だ。


「アメリカ東海岸流忍術の師範である親父殿は、決勝戦の後リングに乱入し、優勝した選手に挑戦状を叩きつけるつもりだったでござる」


「うわ、すごい」


「しかし、優勝したアリスター・オーフレイム選手があまりにも強そうだったので、リングサイドから写メを撮るだけにとどめたでござる」


「ただの格闘技ファンになっちゃったね」


「前年度王者であるセーム・シュルトを猛攻の末破った暴君ピーター・アーツ。そのアーツを1ラウンドでマットに沈めたアリスターの姿は、まさに鬼神そのものだったらしいでござる」


「らしい……ってことはそこは覚えてないってこと?」


「正直、覚えてないでござる。当時の拙者にとっては、さして重要なものではなかったのでござろうな」


 忍はハハハと笑った。


「拙者にとって重要だったのは、ハーフタイムショー。出演したのが……」


「ももクロだったってことか」


「そうでござる。当時はまだZの付かない『ももいろクローバー』で6人体制だったでござる」


 二人は今、忍が『岩田屋にくにくフェスティバル』のステージで披露する曲として、ももクロの『走れ!』を選んだ理由について話していたのだ。


「当時の拙者はアイドルなんて何も知らなかったでござる。だから、リングで歌って踊る彼女達を見て、言いようのない衝撃を受けたでござるよ」


 その時披露されたのは『行くぜっ!怪盗少女』だった。忍少年は、そのエネルギッシュなパフォーマンスに胸を鷲掴みにされたのだ。


「拙者は言ったでござる『――パパ、僕はあれになりたい』と」


「それは……お父さんも複雑だったかもしれないね」


「親父殿は言ったでござる『――息子よ、忍術を極めた先にあれがあるのだ』と」


「嘘じゃん」


「それでも、その一言があったから拙者も真面目に修行をするようになったでござるよ」


「……動機がそこ?」


「まあそれから二、三年経って、甲冑を着た状態で湖に沈められて水中でそれを脱いで浮上するというエグい修行をしている時に『これを続けても、ももクロになれないのでは?』と気づくことになったでござるが――」


「多分、その前に何回か気づくチャンスはあったと思うけど」


 忍は構わず続ける。


「ももクロは拙者にとって原点のアイドルでござるよ。『怪盗少女』はダンスを全員で揃えるのがキツそうだったので、今回はそのカップリングの『走れ!』を選んだでござる」


「なるほど……そうだったんだ」


 選曲の理由が、忍のアイドルオタクとしてのルーツに関わるものだったとは。


「その後、順調に“ドルオタ”として成長した拙者は日本に武者修行という名の留学を果たし、最終的にこの岩田屋町にやってきたという訳でござる」


 今は町外れの空き地に作ったニンジャハウスに住んでいるでござると忍はサムズアップした。多分、それは嘘だろう。


「忍だったらもっとマニアックなアイドルの曲を選ぶと思ってたから、正直意外だったんだ。なんだっけ、この前帰り道で聴いてたやつ」


「『ひめキュンフルーツ缶』でござるか? 別にマニアックではないと思うでござるが」


「そう、それ。愛媛県のご当地アイドルだっけ」


「今度“ローカルアイドルの夏”と題して『LinQ』と『ひめキュンフルーツ缶』と『ドロシーリトルハッピー』について語り合う回をやるでござるか。一話丸々使って」


 一話とはなんだろう。


「語り合うっていうより、忍が熱く語るって感じになりそうだね」


「拙者などオタクとしてはまだまだの身でござる。今はネットで仕入れたような知識でしかモノを語れぬ故、今後もっともっといろいろな体験する必要があるでござる。やはり本物のオタクは、重ねてきた現場の数が違うでござるよ」


「なんかストイックだね」


「ストイックなどとんでもない。拙者はただ、かわいくて一生懸命な女の子が好きなだけでござるよ」


 忍は巻いていたバンダナ越しに頭を掻いた。


 かわいくて一生懸命な女の子が好きなだけ――


 光はその言葉を聞いて、忍に対して訊かなければならないことがあったことを思い出していた。それは少し繊細な問題なので、もしかするとこの場でストレートに尋ねるのはよくないことなのかもしれない。しかし、忍に対して持って回ったような言い方をするのも少し違うような気もした。

 しばらく思考を旋回させた後、光はその疑問を口にした。


「――忍はだから撫子のことが好きなの?」


 光と忍が初めて出会ったとき、忍は撫子に対してかなりストレートに愛情表現をしていた。小道具として婚姻届まで持ち出して。忍が撫子に好意を抱いているというのは明らかだ。ただ、アイドル研究部としての活動の中では、それを表立って示すことは皆無と言ってよかった。


 光は忍の内心を確かめたかったのだ。


「そうでござるよ」


 忍は光の言葉に対して、特に驚いた様子もなかった。


「その好きっていうのは――」


 と光が言いかけたところで、忍は人差し指で光の口を塞いだ。


でござる光殿」


 忍はゆっくりと首を横に降ると、石段の上に立ち上がった。


「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、でござるよ」


 ここでいう『恋路』が誰の恋路なのかは、それこそ『皆まで言うな』であろう。


 光は少し恥ずかしくなり、唇を噛んでうつむいた。


「浅倉殿はまっすぐな抜身の刀のような女でござる。だからこそ、光殿のように包容力のある男が相応しいと思うでござる」


「僕にあるかなぁ……包容力」


「撲殺される寸前まで追い詰められた相手に惚れてるんだからあるに決まってるでござる」


「いや、別にそこまでは――」


 光は忍を見上げた。忍は眉を上げ、愉快そうに光を見ていた。

 そこにはなんのわだかまりも感じられなかった。

 不本意だが光に道を譲ったという訳ではないと、一目で分かる表情だった。


「拙者は二人の行く末を特等席で見守らせてもらうでござるよ。まあ、最悪、シュウと一緒に骨ぐらい拾ってやるでござる」


 最後に忍はドゥフフとオタクらしい声で笑った。


「もしかして僕、物凄い勢いで墓穴を掘ってるのかな」


「墓穴を掘ってるのではござらんよ光殿。外堀を埋めているでござる」


 攻め込まれるのは自分の城な気がしてならないが。


 そこに。


「やっほー」


 石段の下から声を掛けてきたのは澄乃だった。Tシャツと短パンに着替えて、首にタオルを巻いている。その後ろには同じような格好の撫子も続いている。撫子が着ているミズノのロゴが入った黒いTシャツとショートパンツは、中学校の頃に入っていたという陸上部で着ていたものかもしれない。白い肌とのコントラストが鮮やかだった。


「二人ともさっぱりしたでござるか」


「うん。でもこの暑さだと、またあっという間に汗だくになっちゃうかも。ねえ、なでなで」


「本当、暑すぎて参るわね。すぐに下着までびしょびしょになっちゃうし」


 下着までびしょびしょという言葉を聞いて、なんとなく光は気まずさを覚えた。別に深い意味はないというか、本当にただそれだけの意味でしかない言葉なのだが。


 光と忍は石段を下りて二人と合流した。あとはもう帰るだけだった。特に用事がなければ、それぞれ自転車を押して、おしゃべりしながらゆっくり帰るのがいつもの流れだ。


「よかった! まだいた!」


 不意に女性の声がした。ちょうど光が自転車の鍵に手を掛けたときだった。


 駐車場の奥にある久我家の方から、一人の女性が小走りで近づいてくる。女性は両手で何かを抱えるように持っていた。


「これ、ガレージの冷蔵庫で冷やしてあったのよ。みんなで食べなさい」


 女性が抱えていたのは大玉のスイカだった。

 それよりも光が目を奪われたのは女性のルックスだった。Tシャツにタイトなデニムという何の変哲もない格好だが、どこの女優かと思うほど顔が整っている。そのせいか、全く年齢不詳だった。


 撫子の顔を見比べると、どことなく似ているような気もする。もしかすると、親族なのかもしれない。姉という可能性すらあった。


「おっきいスイカ! ありがとう朱美ちゃん!」

 

 撫子が笑顔でスイカを受け取る。『朱美ちゃん』で更に関係性が分からなくなった。従姉妹なのかもしれない。だが、実姉を名前にで呼ぶ姉妹もいるだろう。光はさらに混乱した。


「何よ。見比べて」


 撫子は目を白黒させている光を見て、口を尖らせた。


「はいはい、そりゃ朱美ちゃんは美人ですよ――っと」


 撫子はぷいっと光から顔を逸らすと、スイカをぽんぽんと叩いた。中身の詰まり具合を確認しているようだ。

 朱美は撫子のそんな様子を見て苦笑すると、デニムの尻ポケットにねじ込んであった古新聞を澄乃に渡した。


「ゴミはこれで包んでおいてちょうだい――ところで澄乃ちゃん、あのかわいい男の子はナデナデの何なの? ねえ? ねえ?」


「ええ〜」


 澄乃は困ったような笑みを浮かべて撫子と光を見比べている。光はなんと言えばいいのか分からず頬を掻いた。撫子は凄い眼力で澄乃にメッセージを送っている。澄乃、余計なことを言わなくていいのよ。


「――あ! 包丁は? 包丁がないですよ朱美さん」


 話を逸らす格好のネタを見つけたとばかりに澄乃が手を合わせた。


「包丁なんていらないでしょ、ねえナデナデ」


 朱美があっさりと言う。


「そりゃいらないけど」


 撫子は眉を八の字にすると、ボウリングの球でも持つようにスイカを片手でぶら下げた。


 光は一瞬目を疑った。大玉のスイカが、吸い付くように撫子の手のひらの下に収まっている。


「握力……と言うか指の力だけで持ってるでござる」


 忍も目を丸くしていた。


「食べきれなかったらガレージの冷蔵庫に戻しといてね。ラップもあるから。じゃあごゆっくり〜」


 朱美は最後に光の顔をじっと見ると、うふふと笑顔を浮かべて家の方に戻っていった。


 結局、朱美が何者なのかは分からなかった。後で撫子に直接尋ねてみよう。


「はあ、ほんと朱美ちゃんは……じゃあ、割るわね」


 撫子がスイカを両手で持ち直す。

 拳で叩き割るのか、それとも手刀か。

 撫子の鮮やかな拳技が見られるのだろうかと光は期待した。空手家がする試割りのように、スイカをパカッと真っ二つにしてくれるのかもしれない。撫子の技術なら十分に可能だろう。

 だが――


 バリッと。


 熟れ切った柔らかなイチジクでも割るように、撫子は無造作にスイカを引きちぎった。


 唖然とする三人の前で、撫子はスイカをバラバラにしていく。指の力だけで、固いスイカの皮を破壊し、真っ赤な汁をしたたらせて食べやすいサイズに砕いていく。それは重機が鉄筋のビルを解体するのに似ていた。稲妻禽観神社の駐車場は、スイカ殺人事件の現場と化した。


「いや、ただのゴリラじゃねえか」


 光の『暴言』を否定する者はいなかった。

 ただ、撫子だけは「何よ」と頬を膨らませた。



「朱美ちゃんが私の姉ちゃん?」


 残ったスイカを仕舞ってきた撫子に、光は自分なりの予想をぶつけた。だが、どうやらそれは的外れなものだったらしい。忍と澄乃はそれぞれ用事があるからと先に帰宅しており、光と撫子は二人きりになっていた。


「何それ、おもしろ」


 撫子はケラケラと笑った。


「じゃあ従姉妹とか?」


「ぶっぶー。それも違うわ」


 撫子は楽しそうだった。光が混乱しているのが面白いらしい。


「うーん、叔母さん?」


「もう一声ね」


「ええっ」


 撫子は手を後ろに組むと、子どものように大股で歩いた。稲妻禽観神社の駐車場に、撫子の長い影が伸びる。光はその後ろ姿に向かって言った。


「まさか、お母さん?」


 その言葉を聞いた撫子はくるりと振り返った。いたずらっ子の表情に、少しの寂しさを溶かしたような顔で撫子はこちらを見ていた。


「ほぼ正解」


 光はその言葉の背景に複雑なものを感じ取って口をつぐんだ。


「朱美ちゃんは本当の母親じゃないけど、私にとってはお母さんと同じぐらい大事な存在」


 光は撫子の家族のことについて何も知らないと言ってよかった。

 シュウが言っていた「ヤベエ兄がいる」という漠然とした情報しか持っていない。


「私のお母さんは、私が小さい頃に亡くなったの。で、隣の家に住んでいた朱美ちゃんが私にとってはお母さんのような存在ってこと」


 光は駐車場の奥にある久我家の方を見た。久我家の隣にもう一軒、家が建っている。

 あれが浅倉家ということなのだろう。


 ダンスの練習場所として稲妻禽観神社を提案した時に撫子が言った「神社の人間とは家族同然の付き合いをしている」という言葉を光は思い出していた。


「私はもうあの家には住んでないんだけどね。今は兄が一人で住んでるの」


 撫子は懐かしそうに家の方を見た。たくさんの思い出が詰まった場所なのだろう。


「行ってみる?」


「えっ、お兄さんがいるんじゃないの」


「今は旅行中だからいないわ。東京にオリンピックを見に行ってるの」


 なるほど。ならば気兼ねなくお邪魔できそうだ。

 いや、ちょっと待て。

 誰もいない自宅に二人きりってそれは――


「何? 変な顔して」


 撫子はきょとんとした表情でこちらを見ていた。

 恐らくこの誘いに深い意味はないということなのだろう。


「いや、なんでもないよ。撫子が住んでた家、どんな感じが見てみたいな」


「じゃあ行きましょ」


 久我家の前を横切って「浅倉」と表札の出ている家の前に辿り着く。


 前庭は雑草が伸び放題だった。


「――まったく、草むしりくらいやりなさいよ」


 撫子がやれやれと溜め息を吐いた。きっと兄に対して言ったのだろう。

 ガサガサと草むらの一角が揺れる。

 光は一瞬に身構えたが、そこから出てきたのは一匹の猫だった。


「あ、むーむー」


 むーむー呼ばれたその猫は、とてとてと撫子の足元に近づくと、ごろんと寝転がって喉を鳴らした。撫子がしゃがみ込んで頭を撫で回すと、猫は満足げに目を細めた。


「バカのお目付け役ご苦労さまぁ。よーしよしよしよし、いい子ねぇ」


 わしゃわしゃわしゃと猫のお腹に指を這わせる撫子。バカというのは、兄のことなのだろうか。猫はピーンと四肢を伸ばして甘えるような声で鳴いた。


 光も撫子の隣にしゃがみ込んだ。


「むーむーって言うの?」


「本名はって言うんだけどね。みんないろんな呼び方してるの。男の子よ。ね、むーむー、光お兄ちゃんに挨拶して。ほらほらぁ」


 わしゃわしゃわしゃーとさらに撫で回すと猫はゴロゴロと転がった。撫子はいい子いい子ちゃんねぇと頬を緩めている。


 外で飼われているからなのか、近くで見るとなかなか風格の漂う猫だった。今は撫子に甘えてにゃあにゃあ鳴いているが、瞳の奥にどこか野性的なものが感じられる。喧嘩も強そうだった。


 猫可愛がりという言葉があるが、猫を撫でている時の撫子は、普段とは表情も口調もまるで違う。まるで、ままごとに興じる幼女のようだった。


「はい」


 撫子は猫を抱き上げると、光の方に差し出した。光はおずおずと猫を抱っこする。温かく、柔らかく、ずっしりとした感触が光の手と胸の間に収まった。


 猫は「なんだお前は」という顔で光を見ているが、じっと大人しく抱かれている。光はおそるおそる猫の頭を撫でた。今までの人生で猫を飼った経験がないので、どんな風にしてあげればいいのかよく分からなかった。


 撫子は、おっかなびっくりで猫を抱いている光を見て、満足そうに笑っている。


「かわいいでしょ」


「うん」


 猫は光と撫子の顔を交互に見た後、にゃあと鳴いた。そして光の肩の辺りをじっと見始めた。もしかして、何か見えるのだろうか。猫の視線を察した撫子が言う。


「猫には、人には見えないものが見えているらしいわ」


 光は『もう一人の自分』が何か言うかなと思ったが、意外にも『暴言』は飛び出さなかった。どうやら猫に対しては特に言うこともないらしい。


 そんなことを考えているうちに、猫はするりと光の手の中から出ると、後ろ足で頭の後ろを掻き始めた。


「じゃあね、むーむー」


 撫子は立ち上がると、玄関の隣にあるアロエの植木鉢の下から鍵を取り出して玄関を開けた。物騒な気もしたが、田舎はこういうものなのかもしれない。撫子はそのまま家の中に入っていく。光も立ち上がると、撫子に続いて家の中に入った。


「お邪魔します」


 と、一応挨拶した。


「いらっしゃい」


 目の前にいる撫子が振り返らずに応えてくれた。


 家の中は、むわっとした熱気がこもっていて暑かった。家の主が旅行に出ているのだから、当然ずっと閉め切られていたのだ。あの独特なを感じて光はなんとなく、懐かしさのようなものを覚えた。昔はこうやって、友達の家に遊びに行ったっけ。

 撫子の背中を追いかけて廊下を進んでいく。


「こっちがリビングで、こっちが台所で――」


 二人であちこち覗き込みながら家の中を巡る。男一人で住んでいるらしいが、どの部屋も綺麗に片付けられていた。撫子の兄はマメな性格なのかもしれない。


「ここが一応、稽古場」


 一階の奥にあったのは、結構な広さの板張りの部屋だった。北側の壁には神棚も祀られている。だが、床の上には様々な物が積み上げられており、ほとんど物置のような状態だった。


「子供の頃はここで稽古してたんだけどね。今じゃご覧の通り」


 撫子は床に散乱した物を避けながら、部屋の真ん中まで進んでいく。光も床に転がった物に目を奪われながら後に続く。右足の裏にごりっとした硬質な感触があり、光は足を上げた。踏んづけたものを拾い上げる。薬莢だった。子供の玩具なのだろうが、なかなか真に迫った質感だった。ふと見ると、手錠も落ちている。光はそれを手に取った。チャリッとチェーンが音を立てた。これも玩具にしてはリアルだ。本物の金属でできているようだった。


「何か見つけたの?」


 撫子が光の手の中を覗き込む。


「そんなの稽古に使ったかしら。よく縛り上げられた状態から反撃する練習はしたけれど」


「すごいね、それは」


「得意だったわよ。まず手首を捻って手の縄を解くのがコツなんだけど、最終的には力づくだったわね。案外なんとかなるわ」


 今後の人生で何にも使えない豆知識だった。

 続いて足元にあったのは。


「これはロウソク?」


「拳圧で吹き消す稽古に使ってたわ。でも、こんな真新しいのあったかしら」


「目隠しもあるよ」


「小さい頃、目隠しした状態で裏山に放り出されて、自力で帰ってくる稽古があったわ。結局裏山の起伏と木の配置を全部覚えちゃって目隠しの意味がなくなっちゃったけど。でも、これもその時に使ってたのじゃないわね」


 撫子がうーんと首を捻っている。

 そして、光が次に見つけたのは――


「これは……」


 光はそれを拾い上げることができなかった。撫子に見せることもできない。というか、見せたくない。ピンク色のその物体は、日焼けした新聞紙の束の横に無造作に転がっていた。普段あまり目にしないものなので、思わずまじまじと見てしまうのだが。


「何よ」


 撫子が沈黙した光の視線の先を追った。


「いや、その」


 光がまごついている間に、撫子は「何これ」とその物体を拾いあげた。


「それは、その、なにかの間違いだと思うよ」


 撫子の手の中にあるは、なかなか立派なモノだった。


 撫子は三秒ほどそれをじっと眺めた後、正体に気付いたのか、かぁっと赤面した。


「あのバカ兄貴!!!! 仮にも神聖な道場でしょ!!!!」


 絶叫しながらそれをぶん投げる。

 男根の形をしたそれは、壁に当たって音を立てて砕けた。


 撫子はかぶりを振ると、そそくさと稽古場を出ていってしまった。取り残された光は砕けた大人の玩具の破片を集めて、取り敢えず元あった位置に戻しておいた。


「待ってよ撫子!」


 光が稽古場を出ると、撫子は廊下で待っていた。酷く蒸し暑く、薄暗い廊下の壁にもたれるように撫子は立っていた。締め切られた家特有の、カビのような匂いがふわっと鼻をくすぐる。

 妙なものを見たせいか、光は撫子を直視できなかった。ただ、視界の隅に映る汗ばんだ撫子の姿が、光の本能的な何かをくすぐっていた。急に二人でいることがいけないことのような気がしてきて、光は唾を飲み込んだ。


「こ、断っておくけど、あれは私のじゃないからね」


 撫子の声が裏返っていた。こんなに分かりやすく狼狽している撫子は初めてだった。


「そ、そそそそそんなことは、わ、分かってるよ」


 光は光で、まったく口が回っていない。


 二人共、顔を真っ赤にしているのは明らかなのだが、廊下が暗いので互いの表情すらよく分からなかった。


「あんなの無理よ!」


 なにがどういう風に無理なのかは光の想像を超えていく領域なのだが、光はぶんぶんと首を縦に振った。


「だよね!」


 なにが「だよね」だバカ。


 光はこの気まずさを煮詰めてドロドロのスープにしたような空間から一刻も早く逃げ出したかった。


 無言でドスドスと歩いていく撫子は、真っ直ぐに玄関を目指していた。光もそれに続く。

 撫子は乱暴にスニーカーを突っかけると、振り返ることなくドアを開けてさっさと外に出てしまった。

 光も靴を履いて後を追おうとする。


 その目にふと、留まるものがあった。


 靴箱の上にある写真立てだった。


 そこに収められている写真には四人の男女が写っていた。


 まだどことなく幼い撫子が妙に挑戦的な表情で真ん中にいて、その両サイドに制服を着た男子と女子が立っている。髪をセンター分けにしたその男子はどことなくなよっとしているのだが、その瞳からは強靭な意志のようなものが漂っていて印象を不思議なものにしていた。光はなんとなく、先程の猫のことを思い出した。女子の方は撫子の肩を抱いて、アイドル級の笑顔を弾けさせている。朱美をそのまま若くしたような印象だった。


 そして、その三人の隣で静かな笑みを浮かべているのは、あの馬頭観音の前で会った金髪の女性に間違いなかった。


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