【結城】16 ボラード

 余りに凄まじい一撃だったので、結城はキリンジが殺されたと思ったのだが――


「……未熟者だと? 小細工を弄して一発食らわせたくらいで、随分調子に乗ってくれるじゃないか」


 キリンジは存外あっさりと立ち上がった。

 取り落としていた棒を拾いあげ、チバを睨みつける。

 ダメージは殆ど感じられなかった。


「今の一撃でお前の力の源泉は分かった。切り札もな。お前は俺とだろう」


 キリンジは棒の先端をチバに突きつけて言い放った。


「ほう。随分と察しがいいんだな新渡戸キリンジ」


 チバは口の端を歪めると、キリンジの方に向かって歩を進めた。両手を広げて指をボキボキと鳴らしながら近づいていく。それがチバの戦闘態勢のようだった。


「互いに切り札を出し合っても構わんよ。俺がやられたとて、俺の相棒殿が弱った貴様を始末するだけだからな」


「おいおい、やられた時のことを考えてるのか? 切り札なんか使うつもりはない。お前もお前の相棒殿とやらも、今のままで十分だ」


 無造作に接近してきたチバの胸に向かって、キリンジは棒の先端を突き入れた。金属の先端が心臓の位置にめり込む――その直前に、チバは棒をすり抜けるように加速し、キリンジに肉薄した。


 キリンジもそれを読んでいたのか、前蹴りを放ってチバを弾き飛ばす。そして崩れた態勢のまま棒を振るってチバの側頭部を狙った。チバは間一髪でそれをかわすと、地面を蹴ってキリンジの懐に潜り込んだ。


 先刻チバが拳を放った時と同じように空気が爆ぜる音がしたが、キリンジはその場に踏みとどまった。


 チバの右拳を、キリンジは棒の後端で受け止めていた。


 二人は再び距離を取って睨み合った。


 結城は、常軌を逸していると思った。


 この二人の戦いは、喧嘩のレベルを超えている。有り体に言えば、人間同士の戦いではない。まるで怪物同士の戦いだった。


 ――こんなの特撮じゃねえか。


 子供の頃に見たヒーロー番組のような戦いが眼前で展開している。まるで誰かの夢の世界にでも迷い込んだかのような事態だが、全身の傷と痛みは間違いなく現実のものであり、抱きかかえているアイの重さも現実のものとしか思えなかった。


 結城は逃げるチャンスをうかがっていた。

 キリンジには申し訳ないが、あのチバとかいう男との戦いは、結城が助太刀してどうこうなるようなものには思えなかった。キリンジも結城が助けてくれるなどとは期待していないだろう。


 キリンジがチバを倒すか、せめて大きな隙を作ってくれれば、アイを抱えて林の外まで逃げ出すことができる。


 小柄だがアイも成人女性だ。今のボロボロの結城が担ぎ上げて林の出口まで走ることができるのかはわからないが、それはもう自分自身の火事場の馬鹿力に期待するしかない。

 林の外に出さえすれば、この悪夢のような状況から脱することができるはずだと、結城は根拠もなく信じ込んでいた。


 結城がこんなことを考えている間にも、キリンジとチバは何度も互いの攻撃をぶつけ合っていた。どちらが優勢ということもないらしく、二人ともまだ表情に余裕があった。


 この均衡をキリンジが崩してくれた瞬間に、結城は残った力のすべてを賭けて、この場からアイと共に逃走しなければならない。抱きかかえているアイの身体から伝わってくる体温が、結城の心を支えていた。今結城は、自分一人で逃げることなど、つゆほども考えていなかった。


 絶対に二人であの家に帰る。


 キリンジとチバの間で繰り広げられる戦いは苛烈さを増していた。もはや結城の目では追いきれないほどのスピードで、必殺の一撃を互いに繰り出している。その余波で何本もの木が薙ぎ倒され、濡れた地面は爆発したようにえぐられた。


 結城は息を呑み、アイを抱く手に力を込めた。


 いつまでも続くかに思われた戦いだったが、均衡は意外な形で破れた。


 空からミサイルのように降ってきた羽の生えた黒い影が、その勢いのまま、キリンジに蹴りを食らわせた。


 ドッと鈍い音がして、キリンジはその場につぶれるように倒れ伏した。


 その影はキリンジの身体を蹴って再び宙に舞い上がると、羽を二度、三度はためかせてチバの横に着地した。背中にコウモリのような羽を生やした大男が、右手に一人子供を抱えて立っていた。


 結城はもはや何が起きても驚くまいと思っていたが、あまりにも現実離れした光景に愕然とした。夢なら醒めてほしいと願った。


 蹴りを食らわされたキリンジはぴくりとも動かない。


 結城は予想もしなかった状況に放り込まれて硬直していた。二人の戦いのことなど何も気にせずに、さっさと逃げ出せばよかったと後悔した。だが、もう遅い。


「何を遊んでいる」


 口を開いたのは空から降ってきた男だった。


「遊んでなどいない。そいつは新渡戸キリンジだ」


 チバが地面に横たわるキリンジを指さした。キリンジは微動だにしない。


 男はチバの言葉には反応せずに、結城のほうに向かって振り返ると、真っ直ぐ歩いてきた。男はヒグマのような体格だった。身長は2メートル以上あるだろう。襟のない黒い上着に黒いズボンの組み合わせは、映画に出てくる武術の達人を思わせた。頑丈そうな顎をひげで覆っている。そしてその目はチバと同じように、黒く淀んでいた。抱えているのは中学生か高校生ぐらいの男の子のようだった。

 男の背中のコウモリのような羽は、近くで見てもこの世のものとは思えなかった。


「来るな!」


 結城は精一杯の声を振り絞った。


「なるほど。ここでも『巫女』と『ボラード』がセットか」


 男はアイを抱きかかえる結城をじっくりと観察してそう言った。


 『ボラード』が何を意味するのかは分からなかったが、それを尋ねる気にはなれない。精一杯男を睨みつけて、これ以上近づいてこないことを願った。


 男が立ち止まり、その隣にチバも立った。チバは男が抱えている男の子を見ながら言った。


「本命の『巫女』はどうしたんだ」


「あれは一人では手に負えん。『ボラード』を確保したので、これをエサにしておびき寄せることにした」


 男は『これ』と言うときに抱えた男の子を少し持ち上げた。


「相棒殿の手に余るとはな。岩田屋の巫女は化け物か」


「本当は姿になる予定はなかった。そのままだったらやられていただろう」


「さすがは浅倉弾丸の娘。新渡戸キリンジよりよほど厄介だな」


 男たちの会話はさっぱり意味がわからなかった。


 僅かな望みを込めて数メートル先で倒れているキリンジを見るが、死んだように動かないままだ。あまり考えたくないが、実際もう死んでいるのかもしれない。


「予備の『巫女』を確保して戻るとしよう」


「こっちの『ボラード』はいいのか相棒?」


 光のないチバの黒い目が、じっと結城を捉える。


「奴の計画を聞く限りは必要ない。この子供もエサとして連れて行くだけだ」


 男は結城の前に立つ。大男に見下されて、結城は本能的な恐怖を覚えた。


「アイは渡さないぞ」


 ただの虚勢としか言いようがない結城の言葉を男は無視した。

 次の瞬間、結城の身体は衝撃とともに弾き飛ばされて地面に転がった。こうやって地面に這いつくばらされるのは何度目だろう。もはや涙すら出ない。


 俺はなにも守れない。

 あまりにも弱い。


 絶望とともに顔を上げると、男がアイを持ちあげていた。右手に男の子を、左手にアイを抱えているが、男はまったく苦にした様子もない。異常な腕力だった。


 男の手にぶらさげられたアイの姿を見た瞬間、結城の心に残された最後の激情に炎がともった。すべての力を振り絞って立ち上がり、吠えるように叫ぶ。


「――お前らいい加減にしろよ! 俺たちが、俺とアイが何をしたって言うんだよ! お前らにこんなことする権利あるのかよ! なあ! おい! 答えてみろよ! おい!」


 数時間前まであった二人の未来は今、粉々に砕かれていた。

 白い日傘の下で満面の笑顔を見せたアイの姿は、もう遠くに霞んでいた。


 震えながら結城は、二人の男の前に進み出た。

 男たちは何の感慨もなく結城を見ている。路傍の石を見るような目だった。


「強いものが弱いものから奪う。それがこの世の摂理だ。お前だって弱いものから何かを奪ってそこに立っているのだろう」


 チバは冷淡に言い放った。結城がどれだけ怒りをぶつけたところで、二人の男にとっては何の意味も持たないただの負け犬の遠吠えでしかないのだろう。


 二人の男は踵を返し、林の出口に向かって歩き始めた。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 結城は足元の石を掴んで二人の背中に向かって飛びかかった。


 しかし、あっけなく男の羽に弾き飛ばされる。二人は振り返りもしなかった。


 結城はなんとかもう一度立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。無理やり一歩踏み出すと、地面が軟らかくなったような錯覚を覚えた。バランスを取ろうとするが、失敗し、仰向けに地面に倒れた。


 飽きもせず降り続いている雨が、結城の顔にシャワーのように降り注いだ。


 ――なんでだよ。


「なんで俺はこうなんだよ」


 世の中に幸せそうにしている人間はたくさんいる。

 その全員が何か特別なことをして、幸せを手に入れているのだろうか。

 好きな人と一緒にいたいという願いを叶えるために、特別な犠牲を払っているのだろうか。

 自分の願いはそんなに大それたものなのだろうか。


 暗闇の中で自分の名前を呼んでくれる人間を求めることは、結城にとっては贅沢すぎる願いなのだろうか。


「ちくしょう……ちくしょう……」


 口の中は何箇所も切れていて、口を動かすと激痛が走った。


 さっきまで身体を駆け巡っていたアドレナリンはもう切れていて、雨の冷たさと傷の痛みがじわじわと身体を蝕みはじめていた。

 このまま死ぬのかもしれないと結城は思った。


「――おい、結城さん。寝てる場合じゃないぞ」


 そんな結城を無理やり引きずり起こしたのはキリンジだった。


 キリンジも額から血を流していた。


「奴らはあんたのことを『ボラード』と言っていた。これはおそらく『よすが』のことだ。あんたは今、あの『巫女』とのリンクが確立しているはずだ」


 キリンジの言うことは意味不明だった。だが、必死の形相でキリンジは語りかけてくる。


「わかりやすく言うとだな、あんたは今、あの女と精神の深い部分で繋がっているはずなんだ。だからその居場所もわかるはずなんだよ」


 アイの居場所がわかる――その言葉に結城の心臓が跳ね上がった。


「追いかけるぞ結城さん」


 キリンジの目が、結城に「来い」と告げていた。だが追いかけたとして、どうなるのだろうか。たとえ奴らに追いついても、これまでのように地面に転がされるだけではないのか。それならまだいい。今度こそ死ぬかもしれない。


 全身の痛みが、死という言葉と結びついて結城の心を絡め取ろうとしていた。


 そう、死んでしまうかもしれない。


 ここでキリンジと一緒に行かなければ、少なくとも自分の命は助かるはずだ。

 ついさっきまでのことを何もかも忘れて、また日常に戻ればいい。

 役場で働いて、コンビニ飯を食べて、馬券を買って、エロ動画でセンズリこいて。そうして何もかも忘れて――


 ゆーきくん、とアイの声が聞こえた気がした。


 ベッドの中で。競馬場のスタンドで。イルミネーションの前で。白い日傘の下で。

 自分の名前を呼ぶアイの顔が、結城の脳裏に何度も、何度も、何度も、何度もよみがえった。


 きっとアイは怖がっている。

 自分よりもよほど怖い目にあっている。

 そんなアイを追いかけずに逃げるのか。

 自分だけが日常に戻るのか。


 ――そんなことは、死ぬことよりも恥ずかしいことなんじゃないのか。


 それになにより――自分はアイを助けて、あの家に帰りたいんじゃないのか。


「――わかったキリンジさん、行こう」


 結城は力強く言い切ると、キリンジと共に林の出口に向かって走り始めた。


 身体はボロボロだった。全身の至る所が痛くて、自分でもなぜ立っていられるのか、走っていられるのかがわからないほどだった。


 林を出て、無人となった芝生広場を突っ切る。

 屋台とテントだけが残された広場は、まるで突然人類が絶滅した世界のようだった。


 居場所が分かるはずだとキリンジは言っていたが、結城にはどういう風にすればそれを感じられるのかがわからなかった。ただ、心の中でアイを呼び続けた。


 公園に隣接する第一駐車場の方に視線をやると、雨で煙る風景の中に、動く影があった。

 例の羽の生えた男が二人を抱えたまま、黒いワンボックスカーにバックドアから乗り込もうとしていた。


「あそこだキリンジさん!」


 結城が叫ぶと同時に、キリンジは結城の背中側に回り込むと、がっしりとその身体を抱えた。


「掴まってろ結城さん! 舌を噛むなよ!」


 「噛むなよ!」の「よ!」まで言い終わらないうちに、キリンジは大地を蹴って走り始めた。結城は凄まじい風圧を顔面に受けて、目が開けられなくなる。まるでジェットコースターに乗ったかのようだった。時間にすれば一秒かそこらだっただろう。


 一瞬にして二人は黒いワンボックスカーの前に立っていた。


 ワンボックスカーの運転席にはチバがいた。特に意外そうな顔もせず、二人を見ている。そしてエンジンを掛けると二人を轢き殺す勢いで車を発進させた。


「糞が!」


 キリンジが結城を抱えたまま、叫びながらそれをかわす。


 車はそのまま猛スピードで走り、駐車場のゲートを破壊して車道に飛び出していった。


「キリンジさん、俺の車がある!」


 幸運なことに、すぐ近くに結城のゼスト・スパークが駐車してあった。結城はズボンのポケットから鍵を取り出してドアを開け、その黒い軽自動車の運転席に飛び乗った。結城はキリンジが助手席に乗り込み切らないうちに、エンジンを掛けてアクセルペダルを思い切り踏み込んだ。


 車は一瞬コントロールを失ったあと、前に停めてあった田岡のCX-5に激突してから駐車場のゲートに向かって走り始めた。


「おい! 安全運転で頼む!」


 助手席のドアを閉めながらキリンジが絶叫した。


「知るか! ぶっとばすぞ!」


 とても自分の台詞とは思えない台詞を吐いて、結城はアクセルをベタ踏みした。

 スピードメーターはあっという間に時速120キロを超えた。

 他に車が走っていない田舎道であることが、こんなにありがたいと思ったことはなかった。しかし、雨の中こんな速度で走っていればカーブでスリップして横転しかねない。


 萬守湖の湖岸道路上で、目標の黒いワンボックスカーはあっさりと見つかった。


 向こうもかなりのスピードで走っているが、命知らずな分だけ、こちらのほうが速い。

 すでにスピードメーターは振り切っていた。

 あと三十メートルほどの距離まで迫った。

 そこで。


 ワンボックスカーのバックドアが開いた。

 そこには一匹の雪男が中腰で立っていた。

 その背後には羽の生えた男の姿と、アイと男の子が横たわっているのも見える。


「何を――」


 結城が言葉を紡ぎ終わる前に、雪男が投げた一掴みほどの石がゼスト・スパークのフロントガラスに叩きつけられた。衝撃音と共に真っ白にひび割れたフロントガラスが視界を奪い、結城は車のコントロールを失った。


 ゼスト・スパークはガードレールを突き破り、そのまま萬守湖の湖面に落下した。

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