【結城】15 殺意

 林の前に転がっている白い日傘を見た瞬間、結城の身体を黒い光のようなものが貫いていった。全身の肌が粟立ち、頬の筋肉がヒクヒクと痙攣した。


 雨脚は緩まない。結城はもう全身ずぶ濡れだった。履いていた革靴の中にも水が溜まっていて、嫌な感触を伝えてきていた。林の中に一歩踏み出すと、革靴の中のぬるい水がぐぽっと音を立てた。


 結城は震えながら、一歩一歩林の中に踏み込んでいった。

 自分の心臓の音が、うるさいぐらい聞こえていた。

 走り出したくなる衝動を抑えながら、ゆっくり林の中を見渡しながら進んでいく。

 木の陰からアイが「どうしたの?」とひょっこり顔を出してくれることを願いながら歩を進めるが、そんな甘い妄想は、所詮妄想でしかない。

 暗い林の奥へ、絡みつく下草を蹴散らしながら歩いていく。


 嫌なことがありませんように。


 嫌なことがありませんように。


 嫌なことがありませんように。


 祈りながら進む。


 結城は濡れ鼠だというのに、強烈な喉の渇きを覚えた。

 燃える心臓が、身体の中の水分を蒸発させている。


 アイはどこだ。


 アイはどこだ。


 アイはどこだ。


 奥歯を噛みしめると、歯の根が溶けているようにフワフワした。

 まっすぐ前を見ているはずなのに、視界は小刻みに揺れている。


 その揺れている視界の中に、もっとも見たくない光景があった。


 アイが地面に横たわっている。

 気を失っているのか、ぐったりとしていた。 

 着ていたTシャツは下着ごと裂かれ、白い乳房があらわになっていた。

 そのアイを囲むようにしゃがみこんでいる三人の男の影があった。


 結城はそれを見た瞬間、走り出した。

 結城の頭の中で、脳みそがぐるんと裏返るような感覚があった。


 走馬灯のようにアイとの思い出がよみがえる。店のベッドで抱き合ったこと。テレビで競馬を見たこと。競馬場に行ったこと。結城の部屋でご飯を食べたこと。布団の中で無防備に寝ている姿。こちらをからかったときの悪戯っぽい笑顔。キスしたときの潤んだ瞳。

 イルミネーションの前でこちらを振り返った時の、あの天使のような表情。 

 

 ――――守れなかった。


 結城はこれまでの人生で一番速く走り、足元にあった石を掴み上げ、さらに加速する。


 雨音のせいなのか、三人は結城にまったく気づいていないようだ。結城の方に無防備に背中を向けてしゃがんでいる。

 結城は走ってきた勢いのまま、手にした一掴みほどの石で思い切り一人目の男の後頭部を殴打した。結城の手首には、骨がくだけそうな衝撃が返ってきた。男はぎゃっと悲鳴を上げてその場に倒れた。


 結城は痺れる手で石を掴み直し、振り返りざまに二人目の男のこめかみに石の角を叩き込んだ。みしっという嫌な感触が手のひらに伝わる。一人目の男と同じく、二人目もその場に倒れてうずくまった。


 三人目。


 結城の目がぎょろりと動いて三人目の男がいた位置を睨む。

 相手は中腰で、こちらに背中を向けて逃げ出そうとしている。

 結城は絶叫しながら飛びかかると、石を掴んだ手を振りかぶり、男の脳天に向かって躊躇なく振り下ろした。頭蓋骨からの反動で手の皮が破れて、石は結城の手から転げ落ちていった。三人目もその場に突っ伏すように倒れて沈黙した。


 結城の身体はブルブルと震え、開けっ放しの口からはよだれが滴った。

 血まみれの手でもう一度石を掴み上げ、一人目の男にさらに一撃を叩き込もうとした瞬間――


「才能があるな」


 結城はそこで、四人目の男がいることに気がついた。とっさに動きを止める。

 男は少し離れたところにある木にもたれるようにして立っていた。年齢は四十くらいだろうか。黒いジャケットに黒いパンツと、まるで季節感のない格好だった。


「普通はもうちょっと、ためらいがあるもんなんだ。特に一人目をやった後、二人目って時に」


 黒髪を短く刈り込んだその男の目は、どんよりと淀んでいた。

 まるで幽鬼のような表情でこちらを見ている。


 結城は男から目を離さず、石を持ったままアイに駆け寄った。上半身を抱きかかえて身体を起こす。その身体の重さが、結城の中にある感情の輪郭をよりはっきりとさせた。


 さっきまで結城の身体を支配していたのは、明確な殺意だった。


 アイは眠っているようだった。抱きかかえられたからか、ううんと眉をしかめて首をふった。アイが生きていることの喜び以上に、アイが乱暴されていたという事実と、そんなアイを守れなかったという事実が結城の心を黒く染め上げていった。

 結城の口元はブルブルと震えた。

 中身が飛び出してきそうだった。

 真っ黒で邪悪な結城の中身が。

 今の結城はただの一匹の動物だった。

 つがいのメスを守れなかった、巣を荒らされた野生の獣だった。


、君は殺人犯ってことになっていたよ」


 男が言った言葉が理解できず、結城は眉根を寄せた。

 ――そいつらが人間だったら?


「安心したまえ。そいつらに人間の女を犯すような性質はない。服は掴んだ拍子に破れただけだ。まあ、骨ぐらいは折ってしまったかもしれんがな」


 次の瞬間、結城の身体は宙に浮いた。

 真横に吹っ飛ぶと、そのまま地面に叩きつけられて転がっていく。

 雨に濡れているとはいえ、固い地面が凶器となって結城の身体を滅多打ちにした。

 結城は混乱と痛みの中で身体を起こした。


 そこにはさっき殴り殺したはずの三人の男が立っていた。

 全員、同じ黒いツナギのような服を着ている。


 そして、その相貌は人のものではなかった。


 つぶらな瞳の猿のような顔が、無表情にこちらをを見つめている。

 二本足で直立歩行しているものの、牙の覗く大きな口と、尖った毛むくじゃらの頭頂部が、三人が人間ではないことを暗に告げていた。

 結城はあの中の一人に首根っこを掴まれて放り投げられたのだ。


「何だ――それ」


 結城は呆然とした。


「知らないかね。昔ニュースになっただろう。『ヒマラヤの雪男、遂に捕獲される』と。まあこいつらは本物ではないんだがな」


 木にもたれていた男が、こちらに向かって歩を進めた。

 結城はとっさにアイに走り寄り、覆い被さった。


「近づくな!」


 結城は震える声で叫んだ。足元の石を掴み、精一杯の威嚇のポーズをとる。


「勇ましいことだ」


 男はまったく動じる様子もない。男はジャケットのポケットから小さな道具を取り出した。それを手の中でカチカチと鳴らすと、男の周りに三匹の雪男――と呼ぶべきなのかも分からない――が集まる。男が取り出したのは、動物をしつける時に用いるクリッカーのようなものらしい。三匹はさっきからずっと無表情に結城を見続けている。


「君とその女の関係は知らんが、大人しく女を渡せば君のことは見逃してやろう」


「誰が……!」


 結城は石を掴む手に力を込めた。絶対にアイを守る。そのためなら何でもする。相手が人だろうが怪物だろうが関係ない。結城は殺意をたぎらせて一人と三匹を睨みつけた。近寄ってきた相手から、あの世に送ってやる。


「君が力いっぱいその石で殴りつけたところで、この三匹には通用せん」


「お前になら通じるってことか」


「かもしれんな」


 男は口の端を吊り上げた。


「手荒なことはしたくないんだがな。抵抗するなら仕方がない」


 男が手の中のクリッカーを鳴らすと、雪男たちは歯をむき出しにして結城の方に進み出た。結城とアイを囲むようにじりじりと距離を詰めてくる。


「殺してやる」


 結城が自分を鼓舞するように呟いた。

 絶対にアイには指一本触れさせない。もう二度と、アイの側から離れない。


「おいおい、なんて目をしてるんだ」


 結城の表情を見て、男は愉快そうに笑った。

 こちらの必死の形相が、そんなに面白いのか。

 弱い人間が殺意を剥き出しにして敵を威嚇しているのが、そんなに面白いのか。

 結城は憤怒の感情をほとばしらせて、奥歯を砕けんばかりに噛み締めた。


 正面にいた雪男の一匹は、もうすぐそこまで来ていた。

 雪男は皆、身長180センチほどだった。リーチは結城より相手のほうが長い。そして、結城を放り投げたことを考えると、その膂力りょりょくも並のものではないだろう。

 先程は不意打ちだったから頭部に一撃を食らわせることができたが、正面から相対した今となってはそれも難しいように思われた。

 結城は喧嘩慣れしていない自分を呪った。

 だが、やるしかない。

 アイを守れるのは自分だけだ。


「ギッギッギッ―――ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 突如、目の前の雪男が絶叫した。

 こちらへの威嚇なのか、牙を剥き出しにして目を剥いている。

 呼応するように、他の二匹も叫んだ。

 ひるむものかと思ったが、結城の背筋に冷たいものが走り抜けた。

 それは「殺されるかもしれない」「食われるかもしれない」という動物の本能が告げる危険信号のようなものだった。

 先頭の雪男が地面を蹴った。

 こちらに向かって一気に飛びかかってくる。


 結城は石を掴んだ手を振りかぶり――――


 悲鳴すらあげる暇もなく、吹き飛ばされた。


 濡れた地面の上に身体を打ち付けられ、情けなく這いつくばる。あちこち傷だらけで、着ていた服はもう血まみれだった。

 こちらに体当たりをかました雪男は勝ち誇ったように足を踏み鳴らすと、アイの腕を掴んで無理やりその身体を起こそうとしていた。


「やめろ!」


 結城は地面に転がったまま叫んだ。口の中が切れていたようで、声と共に血がとび散った。その結城の横腹に、凄まじい衝撃が走った。結城は反吐をぶちまけながら低く宙を舞って、再び地面にぐしゃりと潰れるように落下した。横から来た雪男に思い切り蹴り上げられたらしい。腹に杭でも打ち込まれたかのような痛みが走って結城の横隔膜は痙攣した。息ができない。


 涙が滲む。涙は雨と混ざりあい、さらに額から流れ出る血とも一つになって地面に落ちた。


 弱い自分への怒りと、それを上回る死の恐怖。


 そして愛する人間を守れないことに対する情けなさ。


 結城の心から殺意は失せて、ただアイの無事だけを祈る感情だけが残された。

 どうかお願いです。アイにひどいことをしないでください。

 私はどうなってもいいので、アイだけはたすけてください。

 アイをころさないでください。


「どうした、もう終わりか。竜頭蛇尾ってやつだな」


 結城の視界の隅で、男がつまらなそうに言った。


「これで予備のほうの『巫女』は確保できた。相棒殿がどうなっているかは分からんが、我々は引き上げるとしよう」


 雪男三人がアイの身体を神輿のように担ぎあげていた。

 アイの身体は雨に打たれ、力なくだらりと四肢を垂れ下がらせていた。


 待て。

 待ってくれ。

 アイを連れていかないでくれ。

 アイは、アイだけは。

 アイは俺が、ここにいてもいい、たった一つの理由なんだ。


 結城は懇願するような目で男を見たが、男は結城に一瞥もくれなかった。ただ言葉だけを投げつけてくる。


「弱い自分を呪うんだな。女一人守れない自分の弱さを」


 突きつけられた現実そのもののような言葉が、結城の心をへし折ろうとしていた。


「――ふうん、じゃあそういうお前は何を呪うことになるんだろうな」


 突然、声がした。

 聞き覚えのある声だというのに、それが誰なのかはとっさに思い出せなかった。

 声の主は倒れている結城の背後から、一歩一歩近づいてきた。

 男と雪男たちは振り返り、声の主を睨みつけている。


「貴様は――」


 男が忌々しげに声を絞り出す。


「俺のことを知ってるのか。なら話が早いな。女を――『巫女』をさっさと解放しろ」


 結城はバラバラになりそうなほど痛い身体を無理やり起こして声の主の方に振り返った。そこに立っていたのは――


「新渡戸キリンジ……!」


 男が言うのと、キリンジが地を蹴るのは同時だった。


 キリンジは手にしていた長い棒で雪男の一匹を思い切り打ち据えた。とても生き物を打ったとは思えないような音が林中に響き渡り、雪男は悲鳴をあげてに曲がると地面に倒れた。

 他の二匹はアイを放り出してキリンジから距離を取った。


「おい、女はもっと丁寧に扱えよ」


 言いながらキリンジはアイの身体を空中で受け止め、そっと地面に寝かせた。

 倒れた雪男は身じろぎ一つしない。死んだのかもしれない。


「香港の闇マーケットで買った一山ひとやまいくらのバイオ・イエティじゃ、俺は止められんぜ」


 キリンジは棒を構えて残った二匹を順番に見た。

 キリンジの手にしている棒は恐らく金属製で、長さはキリンジの身長と同じくらいあった。雨の中、その銀色の光沢が輝いている。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 雄叫びを上げながら二匹の雪男がキリンジに同時に飛びかかる。

 キリンジは構えた棒の先端で右から来た雪男の喉を突き、それを素早く引くと今度は左から来た雪男の側頭部に身体を回転させながら棒の後端を打ち付けた。

 たったそれだけで、二匹の雪男は地面に伏して沈黙した。


「動物虐待みたいになってしまっただろうが」


 キリンジは雪男たちを見下ろして言った。

 なぜここにキリンジがいるのか。

 なぜ助けてくれるのか。

 結城には何もわからなかったが、アイさえ助かるならなんでもよかった。


「キリンジさん……!」


「えーと、あんたは確か役場の結城さんだったかな」


 キリンジは目でアイを指して、結城に合図を送った。

 結城は転がるようにアイの元に駆け寄る。


「やれやれ。やり過ごせるなら僥倖と思っていたのだがな、『神速』新渡戸キリンジ」


 男は倒れた雪男たちを見ながら肩をすくめた。


「気づいちまったんだから仕方ねえよな。お前らが誰なのかは知らんが、どうせオロチ信奉者の残党か何かだろう。こそこそ何か企んでいるようだが、この町は今俺が任されてるんだ。ツキがなかったな」


 キリンジは棒を構え直して男に向き直った。


「果たしてそうかな」


「何?」


 男は手に持っていたクリッカーをジャケットのポケットに仕舞うと、余裕たっぷりの表情でキリンジを見た。棒の先端から放たれる殺気を受け流しながら言葉を続ける。


「やり過ごせるなら僥倖とは言ったが、やり過ごさなければならないとは言っていないぞ新渡戸キリンジ。この町を任されているのがお前だからこそ、我々は今動き出したのだ。別にお前を始末してから仕事を進めることになっても、こちらには何も問題はない」


 キリンジはひゅうと口笛を吹く。


「ユウジ師匠や浅倉のが留守だから動き出したってのか?」


「そして恐るべきあの浅倉弾丸もいない」


 男はと強調して言った。


「随分ナメられてるじゃねえか、俺は」


 キリンジは口角を歪めて言葉を吐き出した。プライドを傷つけられたのか、そこには静かな怒りが滲んでいた。


「お前の名前は?」


「私は――そうだな、チバとでも名乗っておこうか」


 チバと名乗った男は一歩進み出ると、キリンジの棒の間合いの手前まで接近した。打ち込んでみろと挑発しているかのようだった。


 その挑発にあえて乗ったのか、キリンジは姿勢をやや前傾にすると、ゆっくりと棒の先端を動かし、チバの眉間に狙いを定め――


 チバはそんなキリンジの動作を一切無視して唐突にジャケットの上からポケットを叩いた。クリッカーが音を立てる。


 キリンジがしまったという顔をするのと、が木の上から飛び掛かってくるのは同時だった。

 倒れていた三匹の雪男も跳ねるように立ち上がり、キリンジに殺到した。

 キリンジは荒れ狂う竜巻のように回転しながら次々と雪男を棒で叩き伏せていったが、予期せぬ四匹目の存在があったからなのか、最後の一匹を倒した瞬間に、ほんの僅かな隙が生じた。


 空白のその一瞬、チバが動いた。


 結城の目にはチバが瞬間移動したようにしか見えなかった。瞬きよりも素早く、、キリンジの懐に潜り込んだチバは、その右拳をキリンジの胸に叩き込んだ。

 空気が震えるような破壊音と共に、キリンジの身体は数メートル吹き飛ぶと、そのまま木に叩きつけられた。

 林全体に轟くような音が響き、木についていた水滴が爆発するように弾け飛んだ。

 キリンジはその場にうつ伏せに倒れた。


「もう一度言ってやる。新渡戸キリンジ、この町を任されているのがお前だからこそ、我々は今動き出したのだ――お前のような未熟者が町を任されている今だからこそな」

 


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