【結城】14 白い日傘

 妙な夢を見たからか、結城の体調はすこぶる悪かった。

 酷い頭痛と数十分間に一度押し寄せる吐き気の波が、朝から結城をさいなみ続けていた。


 時刻は午前十一時。『岩田屋にくにくフェスティバル』は既に開場していた。

 結城はスタッフ用のビブスに袖を通して臨時駐車場と萬守湖水辺プラザの間の道路に立っている。午前中はここで道案内をしたり、駐車を巡るトラブルに対応するのが結城の仕事だった。


 鉛が詰まったように重い頭は、炎天下の中で立っているだけでギシギシと痛んだ。ぬるくなった麦茶を時々口にしながら吐き気をやり過ごしているが、限界は遠からず訪れそうだった。それでもこの場を任されている以上は役割を果たさなければならない。


 結城は路肩に停車している車の窓ガラスをトントンと叩いた。中にいた中年女性が面倒くさそうに窓を開ける。クーラーの冷気がホワイトムスクのフレグランスと共に結城の前に漂った。


「すいません、ここ駐車禁止なんです。あちらの臨時駐車場をご利用ください」


 女性は舌打ちすると「はいはい」と言って車を発進させた。結城が下げる頭も見ずに、そのまま臨時駐車場の方へと走り去る。さっきからこのような路上駐車の対応に追われているのだ。


 どす黒いものが結城の腹の中に渦巻く。どいつもこいつもルールを破っておいて、何故あんなに態度が大きいのか。先程の女はまだマシなほうで、結城に対して悪態をつく人間も一人や二人ではなかった。そもそもそんな人種だから平気でルールを破るということなのか。


 結城は臨時駐車場から途切れなく続く人の流れを見渡した。

 会場からまだ一時間だが、既にイベント自体は大成功と言ってもいいのではないだろうか。駐車待ちで並んでいる車列には、県外ナンバーも目立った。かなり広域から集客できているようだ。県産の和牛や地鶏の料理を提供する屋台はもちろん、ステージイベントや日没後の花火など、盛りだくさんのイベントにしたことによる成果だろう。これは来年度の開催も決定だなと結城は胸中で呟いた。


 強烈な日差しに焼かれたアスファルトの上ではゆらゆらと陽炎が揺らめいている。


 吐き気に襲われた結城は人波に押されてよろめいた。道路脇にしゃがみ込むと、視界がぐらぐらと揺れた気がした。結城はウェストバッグに入れていた麦茶を取り出して口に含んだ。ぬるいそれは、何故か血の味がした。


 麦茶でなんとか持ち直した結城は、正午の休憩のために本部テントを目指して歩く。満足に動かない身体を引きずって会場の萬守湖水辺プラザまで辿り着くと、疲れを吹き飛ばしてくれる存在がいた。


「ゆーきくんおつかれー」


 白い日傘をさしたアイが立っていた。白いTシャツにオリーブのカーゴパンツという、いかにも野外フェスという格好だった。ぴったりとしたTシャツはアイの胸の双丘をこれでもかと強調していて、道行く男性なら皆振り返るだろうという雰囲気だった。


「ちょっと大丈夫? めちゃくちゃ疲れてない?」


 アイは持っていたハンディファンの風を、結城の顔に当ててくれた。


「大丈夫」


 それだけ言うのが精一杯だった。


「無理したら駄目だよ! お水飲んでる?」


「飲んでるよ。それに今から休憩だから」


 へいきへいきと笑ってみるが、こちらを見るアイは心配顔だった。そこに一人の男が近付いてきた。


「結城君、お疲れ様」


 『たのまち課』の迫水課長だった。腕まくりをしたワイシャツの上に、結城と同じビブスを着ている。額には玉のような汗が浮かんでいた。


「課長もお疲れ様です」


「外は大変だったろう。これでも飲んでゆっくり休めよ」


 迫水はよく冷えたポカリスエットのボトルを結城に渡した。手のひらから伝わってくる冷たさが、結城に少し活力をくれた気がした。


「ところでそちらの女性は?」


 迫水はアイをまじまじと見た。

 結城はなんと説明したものか一瞬悩んだが、それでもはっきりとこう言った。


「お付き合いさせてもらっている方です」


 結婚を前提に――という枕詞を脳内では付けておいた。それを聞いた迫水はほうと目を見開いた。


「結城君も隅に置けないな。こんな素敵な方と付き合っているなんて」


 迫水の一言を聞いた結城の胸に、誇らしい気持ちが満ちていった。そうでしょう素敵でしょう。


「結城君と同じ職場で働いている迫水です。今日は楽しんでいってください」


 迫水は朗らかにアイに挨拶をする。アイもにこやかな笑顔で挨拶を返した。やりとりが済むと迫水は「では持ち場に戻ります」と去っていった。

 迫水の背中を見送ったアイは振り向くと、結城の口調を真似しておどけた。


「お付き合いさせてもらっている方です――だって!」


 アイはニヤニヤと笑っている。嬉しさ半分、面白さ半分という感じだった。


「本当は『妻です』って言おうかと思ってた」


「言わなくてよかったよ。言ってたら私、絶対爆笑してたもん」


 妻と紹介された人間が爆笑したら、聞いてる方は混乱するだろうなと結城は思った。


 アイは日傘を傾けて結城を影の中に入れた。ほんの少し涼しくなって身体が楽になった気がした。いや、それは涼しさのためというより、アイの優しさに触れたお陰だろう。突然差し出された相合傘あいあいがさは、恥ずかしくも嬉しかった。


「ちょっと元気になった? ほんと、無理したら駄目だよ」


「うん。俺のことは気にせずに、イベント楽しんでよ」


 目の前にいるアイの姿が、結城にとっては一番の応援だった。


「――野外で肉とビールに舌鼓をうちながら、ネットで競馬中継を見る。これより最高な週末があろうか。いや、ない――ということでお言葉に甘えて私はご飯を食べてくるね」


 本当は一緒に回りたいけど、とアイは付け加えた。その気持ちだけで、結城には十分だった。


「くれぐれも飲みすぎないようにね」


「ふふふ、りょーかいりょーかい。帰りは昨日言ってた感じでいい?」


 行きはそれぞれ別に会場に来たのだが、帰りは二人で結城の車に乗って帰ろうということになっていた。


「うん、ちょっと待っててもらうことになるけど。あんまり遅くなりそうだったら連絡するから」


「おっけー。じゃあ私は最後にお土産をいろいろ買っておくね。ゆーきくんは忙しくて屋台を回る暇なんてないだろうし」


「うん、助かる。帰って食べるのが楽しみだよ」


 帰って二人で『打ち上げ』をするのだ。今日どんな楽しいことがあったのかをアイから聞かせてもらうのが楽しみだった。写真もたくさん撮っておくと言っていたので、それも見せてもらおう。明日は日曜日なので、『打ち上げ』のあとはゆっくり休むこともできる。


「美味しいの見繕っておくよ。じゃあ、ゆーきくん、お仕事頑張ってね!」


 アイは満面の笑顔を見せると手を振りながら屋台の方に歩いていった。白い日傘が遠ざかるのを見送った結城は「よし」と気合を入れる。


 とりあえず水分補給をして休息を取ろう。そして午後からの仕事を乗り切って、アイと家に帰るのだ。アイが昨夜言っていた「こっちで本格的に仕事探さなきゃ」という言葉を思い出す。今日というイベントが終われば、二人はまた次のステージに進めると結城は感じていた。ここで踏ん張ることが未来へと続いているという期待感を胸に、結城は本部テントへと足を進めた。


 そして、テントの前で強烈な立ちくらみを感じてそのままぶっ倒れた。


 やる気や気合ではどうしようもないほど、体調不良がのっぴきならない状態になっていたのだった。結城は口の手前まで来た吐瀉物を、もう一度飲み込んだ。口の中に苦くて酸っぱいものが広がり、さらに気分が悪くなった。頭がズキズキと痛んでいる。


「結城さん!」


 テントから飛び出してきた北村が駆け寄ってくる。


「――だいじょうぶ」


「真っ青な顔で何言ってるんですか!?」


 結城は何とか立ち上がると、這うようにテントの中に入った。敷かれたブルーシートの上にダイブするように転がる。


「氷もらってきてください! あと経口補水液も!」


 北村が誰かに声を掛けている。朦朧とする意識の中で、結城の耳に届いた音があった。


 それは、昨日も聞いた不気味な音だった。


 金属と金属を擦り合わせたような、どこかで鐘が鳴るような音が、テント越しの空から降ってきた。


 結城以外の誰もそれを気にしている様子はない。というより、他の人間は結城の容態が心配でそれどころではないのだろう。北村はうちわでパタパタと結城の顔をあおいだ。


「熱中症ですね」


 間違いなくそうだろう。結城は情けない気分で認めた。


「ポカリ飲めますか」


「飲めるよ」


 迫水からもらったポカリは、いつのまにか北村の手にあった。北村が蓋を開けて渡してくれたそれを、一口、二口と飲む。


「しばらくここで休んでてください。課長には私から言っておきますから」


 たすかるという四文字も口にできず、結城はなめくじのようにその場にぐったりと寝そべった。結城は自分の弱さに泣きたくなった。


 ここで頑張らないといけないのに。


 アイに頑張ってねと言われたのに。


 結局結城は昼の間ずっと、本部テントと救護所を行き来して体調の回復を待つだけの、役立たずな存在になってしまったのだった。




 結城の体調が落ち着いたのは、夕方に差し掛かろうという頃だった。結城は本部テントの隣のテントに置かれたベンチに寝そべっていた。本部テントとは横幕で遮られているので、互いの様子はわからない。本部テントには北村が詰めているはずだが。


「おつかれ」


 隣の本部テントに田岡が戻ってきたようだ。

 その声にいつも程の張りがないので、田岡も疲れているのだろうと結城は判断した。


「おつかれさまです」


 北村の声にも疲労が滲んでいた。

 二人の姿は見えないが、結城が倒れている間にその穴埋めも含めて懸命に働いてくれていたのだろう。結城の胸は、二人に対する申し訳なさと、自分への不甲斐なさでいっぱいになった。


「結城さんは?」


 結城が隣のテントで寝ていることも知らずに田岡が言った。


「さあ、たぶん救護所じゃないですか」


 北村も結城の居所を知らないらしい。

 隣にいるよと声を掛けようかと思ったが、仕事もせずに寝ている人間が何か言うのもはばかられた。ここで大人しくしていようと結城は口をつぐんで目を閉じた。


「あの人も、肝心なところで何やってんだか」


 田岡が溜息交じりに言った。


「熱中症なんだから仕方ないじゃないですか」


 北村の声には田岡への非難の色があった。


「それでも二時間も三時間も寝っぱなしってどういうことなんだよってこと。虚弱体質すぎるでしょ。俺なんてサッカー部の真夏の練習試合は、OS-1がぶ飲みしながらやってたよ。それで一回も熱中症になんかならなかったし」


「めちゃくちゃですね」


「めちゃくちゃやっても大丈夫なぐらい鍛えてるってこと。あの人なにもスポーツしてないんでしょ。だからすぐへばるんだよ」


 結城は田岡の言葉を静かに受け止めていた。

 確かに自分は虚弱体質かもしれない。

 スポーツ経験もないし、代わりの何かで培った根性もない。


 だからこうやって、肝心のところで役に立たない男になるんだろう。


「そんな言い草ないと思いますけど」


 北村は少しむっとした声音で言った。


「北村さん、いつも結城さんのこと気にしてるよね。何かというと結城さんに付いていくし。もしかしてそういうことなの」


「仕事中ですよ」


「図星? あの人もう三十手前でしょ? それなのにだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、結城はまるで何かに首を絞められているような息苦しさを覚えた。

 それはいつも結城を包んでいる空気だった。

 こうやって意識したときに、はっきりとその存在を感知できる。

 決して実体を見せることはないが、常に結城の周囲にあって、結城という人間の価値を測っている何か。隙あらば結城に失格の烙印を押し、ごみのように地に這わせようとする、悪魔のような―—―


 それは、顔のない獣だった。


 常に結城の周りをうろついている無貌の獣が、今ははっきりとそこにいた。

 顔のない顔で、目のない目で、結城を見下し蔑んでいる。


「そうやって結城さんのことを馬鹿にしたって、私はあなたに興味持たないですよ」


「別に馬鹿にしてるわけじゃないでしょ。ただ事実を言ってるだけで」


 結城の口の中はカラカラに渇いていた。

 狭いベンチの上で、胎児のように丸まって奥歯を噛み締める。

 身体の骨を一本ずつ抜き取られていくような苦痛を結城は感じていた。 


「あの人、たぶん四十ぐらいまでずっと非正規だよ。別にあの人のこと嫌いじゃないけど、そういう風になる未来しか見えないっていうのが正直なところだもん。日々の過ごし方に真剣さがないっていうか」


 獣が結城の臓腑に爪を立てている


「じゃあ田岡さんは日々真剣に過ごしてるんですか」


「俺は一応そのつもりだけど。自分を高める努力はしてるよ。周囲の期待には応えたいって思ってるし」


 結城は自分と田岡を心の中で比較した。

 若さ、体力、地位、ルックス。

 男として勝っている部分など、一つもなかった。


 結城の頭の中には3月31日の風景が浮かんでいる。

 いつもその日はデスクを綺麗に片づけて、職場を後にする。

 どうせ明日からも同じデスクで勤務だが、年度末の契約の切れ目にはいつも感じるのだ。


 自分には価値がない。


 誰かから「ここにいてほしい」と言われるだけの。


 誰かから「君の代わりはいない」と言ってもらえるだけの。


 ただの穴埋めとしての自分が、そこに座るのだ。


「私から見たら、結城さんと田岡さんはそっくりですけどね」 


 ここからは北村がどんな表情をしているのかはわからない。ただ、その苛立ちだけは伝わってきた。結城はその声に耳をすます。


「俺と結城さんが?」


「そっくりですよ。コインの表と裏みたいなものですよね。。それだけです」


 北村の声には静かな迫力があった。


「どういうこと?」


「逆に聞きたいですよ。なんで男の人っていつも赤ちゃんみたいに『自分を見て自分を見て』ってわあわあわめいているんですか?」


 その時。

 ぼつり、という大きな音がした。


 結城は恐る恐る目を開けて上を見た。

 また、ぼつりという大きな音がした。

 それは天幕に雨粒が当たる音だった。


「降ってきましたね」


 北村がやれやれと呟く。


「さっき雨雲レーダーで見たら、山の方は真っ赤だったよ。あの雲のかたまりがこっちにそのまま来てるんだろう。これじゃあ花火は中止だな」


 田岡の言葉の最中にも雨粒が弾ける音が続いた。

 そこからバケツをひっくり返したような大雨になるまでには十秒と掛からなかった。テントの中は夜のように暗くなり、叩きつける雨粒のざあざあという音に満たされた。


「これ、外でお客さんの誘導しないとマズイですよね」


 北村の声もノイズに霞むラジオの声のようだった。その言葉を最後に声が聞こえなくなったので、どうやら二人とも本部テントの外に出たらしい。

 結城もベンチの上に身体を起こした。

 みじめさだけが、残骸のようになった身体に取り残されている。


 それでも――


 結城はアイの顔を思い出して立ち上がった。 


 自分がここにてもいいという、たった一つの理由が彼女だった。

 結城はまるで幽霊のような足取りでテントの外に出た。

 大粒の雨がバチバチと結城の顔に当たった。


 空は黒い雲に覆われており、白い矢のような雨が地を這うものを全てころさんという勢いで降り注いでいた。時折吹く突風にあおられて、雨は横殴りにもなった。

 足元の芝生には水が浮き、まるで田んぼのようになっている。

 そんな中、数千人の客たちが悲鳴をあげながら押し合い圧し合いしていた。

 この世の終わりのような光景だった。


 そこに園内放送が入る。


「こちらは―—『岩田屋にくにくフェスティバル実行委員会』です——ただいま会場上空に雨雲が接近しております―—隣接する体育館を開放いたしますので―—来場者の皆さまは避難してください——繰り返しご連絡いたします―———ただいま会場上空に―—」


 恐らく迫水課長のアイデアだろう。隣接する町民体育館を来場者の雨宿りのために開放するらしい。雨雲が接近していると分かったときから、段取りを進めていたに違いない。


 そこかしこでスタッフが誘導の声を上げ始めた。客たちは混乱しながらも、その声にしたがって人の流れを作り始めた。


 アイはどうしているだろうか。


 結城は自分も運営側の一人として、来場者の誘導に当たるべきかとも考えたが、先ほどの田岡と北村のやりとりを聞いてから、仕事に対するモチベーションはほとんど失われてしまっていた。どうせ今の自分は数にもカウントされていないだろうと結城は判断した。


 結城は雨に打たれながら、人ごみの中を歩き始める。

 まったく当てなどないまま、流れに逆らって場内を徘徊する。

 アイの姿はどこにも見えなかった。

 もうすでに避難する人の流れに乗って、体育館のほうに行ってしまったのだろうか。

 名前を叫ぶという訳にもいかず、ただ周囲に目を凝らしながら、沼のようになった芝生の上を歩き続ける。何度も人とぶつかりながら、アイを探す。

 そもそも何千人もの人がごった返して移動している中で、一人の人間など見つかるはずがないのだ。

 それでも、アイと会えないことが何か凄まじく不吉なことのような気がして、結城は足を速めた。いつしかそれは小走りになり、最終的に結城は雨の中を息を切らして走っていた。


 胸騒ぎがした。


 とても悪い予感だった。


 アイを見つけなければならない。

 もし、見つけられなければ―———


 結城は公園の外れの林の前まで走ってきていた。周囲に人間は一人もいない。

 雨脚はどんどん強くなり、まるで滝の中にいるようだった。

 視界の隅に何かが見えた。


 そこにはアイの白い日傘が、広げられたまま転がっていた。

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