【結城】13 終末の音

 

 結城のアパートからは奥岩田屋方面の山々がよく見えた。

 広がる水田の彼方に、深い緑の稜線が青い空を背景にくっきりと浮かび上がっている。


 パジャマ代わりのTシャツを着たアイは窓辺に立って、その景色を眺めていた。

 結城が後ろに立っているのにも気がつかず、何かに魅入られたかのように山の方を一心に見つめている。三日ほど前からアイは、そんな風に外の景色を見ていることが多くなった。


 最初は何か考え事をしているのだろうと思っていた。


 結城とアイが二人で暮らし始めてからすでに二週間が経っている。今現在の二人の関係や今後のことはもちろん、地元に残してきた家族や休んでいる昼職のことなど、考えることはいくらでもありそうだった。


 しかし、どうやらそういうことではないらしい。


「何見てるの」


 結城はアイを後ろから抱きしめた。アイは我に返ったように言った。


「ん、山が綺麗だなーって」


 山を見つめている時のアイは何かを考えているというより、本当にただぼうっとしているだけのようだった。


「山よりもアイのほうが綺麗だよ」


「何その雑な褒め方」


 結城は苦笑するアイの髪の毛に頭を埋める。シャンプーと汗が混じった、しあわせの匂いがした。すべすべしたアイの肌を通して伝わってくる温度と柔らかさは、結城の鼠径部の辺りにある欲望のゼンマイをぐるぐると回し始める。


「ゆーきくんはこうやってるとすぐしたくなっちゃうんだから、はい、離れて離れて。今日もお仕事でしょ」


 アイは結城の手から逃げ出す。

 時刻は朝の七時だった。


「ささっとやろうよ」


「お母さんの夕飯のレシピみたいに言わない! 夜までお預け!」


 子供を咎めるように、アイが「めっ」と指を立てる。結城はふざけて「ちえっ」と言いながら冷蔵庫から麦茶を取り出した。


 こうやってじゃれ合ってるうちに本当に始まってしまうと、仕事に遅刻しかねない。結城は麦茶をコップに注いで一息に飲むと、真面目に身支度を開始した。


 今日は『岩田屋にくにくフェスティバル』前日だった。準備ももう最終段階である。結城は一度役場に出勤したあと、会場となっている萬守湖水辺プラザに向かうことになっていた。

 半袖のワイシャツのボタンを留めながら布団のほうを見るとアイが二度寝していた。アイの形のいいお尻がこちらを向いていて、今留めているボタンを今すぐ外したくなってくる。


 昨夜アイは、こっちで仕事を探そうかなと言っていた。本格的に岩田屋に拠点を移して生活したいという口ぶりだった。

 それはもちろん、結城との同居生活を続行するという意味だろう。


 アイの存在は結城の生活の一部になり始めていた。好きなところだけじゃなくて、ちょっとイラっとするところも見つかって、なぜかそんなことも嬉しく感じられた。


 玄関で靴を揃えないところとか、車のドアを結構激しく閉めるところとか、コップを洗わずに机に置いておくと怒るのに、自分は割とそのままにしてるところとか……と並べてみるが、アイに言わせれば結城の方がイラッとするポイントだらけの男なのかもしれない。それこそ、細かい粗探しみたいなことをしている男は嫌だろう。


 結局、風俗嬢であるアイをパートナーとして受け入れられるのか、という問いの答えはわからないままだった。考えないようにしている訳ではない。それ以上にただ、二人で過ごしていることで得られる楽しさや、生の実感といったものが結城の心を満たしてくれているのだった。


 もしかしたら、何かの拍子にまたそのことを考えることもあるのかもしれないが、そんな未来のことを考えて落ち込むよりも、二人の時間をもっと続けたかった。


 アイはどうだろうか。

 アイにとって自分はどんな存在なのだろうか。


 ――いや、違う。


 二週間前の自分が立ち止まっていた疑問を、結城は頭の隅に追いやった。


 この二週間をアイと共に過ごして感じたのは、そんなことよりも大切な事があるということだった。

 アイにとって自分がどんな存在であろうとも、アイの幸せのために自分がどうしたいのか、何ができるのかが大事なのだ。

 自分でも、いきなり大きなことを言うようになったと思うが、これがきっと誰かを好きになるということなのだろう。


 昨日の夕食のおかずはスーパーの惣菜コーナーで買ってきた唐揚げだった。結城はそれを取り分ける時に、自然と大きい方の唐揚げばかりをアイの皿に載せていた。アイはアイで、デザートのカットすいかを一個多く結城の皿に載せてくれた。別に互いにありがとうと言葉にすることもないし、そもそも相手がありがたがっているのかもわからない。だが、そこにはちょっとした、相手に対する気持ちの発露が、確かにあった。


 本当に小さなことだ。意味を見出すことすらアホらしいのかもしれない。だが、きっとそこには結城の人生には今までなかった、自分で掴んだ幸せの手触りのようなものがあると感じられた。


 アイが岩田屋駅で見せた涙の理由と、彼女が言っていた「嘘つき」という言葉について、結城は何もまだ尋ねることができていない。

 しかしそれも、もはや尋ねる必要などないのかもしれないと結城は思うようになっていた。結城自身が言った「ここにいることが答えだ」という言葉以上に、自分の気持ちを表現する言葉が見つからなかった。


 もしかすると、今すぐにでも聞くべきなのかもしれない。アイへの想いが結城の判断力を曇らせているだけなのかもしれない。


 だが今の結城は藪をつついて蛇を出すつもりはなかった。藪の中に何もいないことを信じていることのほうが、今の自分には求められていると感じていた。


 何より、つらい自白をアイに強いるのは嫌だった。


 結城は秘密を抱えた女を、秘密を抱えたままの姿で愛することにしたのだ。その秘密が風化して、幸せな日々の向こう側に消えてしまうことを願って――


 結城は改めてアイの尻を眺めた。

 難しいことを言っても仕方ない。

 自分は握られているのだ。

 いろいろなものを。




 萬守湖は、四方を山に囲まれた岩田屋町のほぼ真ん中に位置する周囲3キロ程の小さな湖である。岩田屋川とその支流から流れ込んだ水が湖を形成したもので、その規模からは想像できないが最深部は20メートルをゆうに超える。

 萬守湖水辺プラザはそんな萬守湖の湖岸に作られた公園である。桜の名所として有名で、春は多くの観光客が訪れる。『岩田屋にくにくフェスティバル』は、その公園の広大な芝生エリアで開催されるのだ。


 結城は額に汗をかきながら、芝生の上に白い天幕のイベント用テントを他の職員と一緒になって立てていた。運動会などでよく見かける、あの白いテントである。それが広場の真ん中にずらりと並んでいる。『たのしいまちづくり課』の課長である迫水が、自ら軽トラに乗って岩田屋町のあらゆる地区からかき集めてきたものだった。


「明日もいい天気になりそうだからな。休憩用テントはいくらあってもいいだろう」


 迫水課長もワイシャツを腕まくりしてテントを立てる作業に加わっていた。こうやって常に先頭に立って行動するところが、周囲から尊敬される所以だった。


 真ん中の休憩用テントを囲むように設置されているフードのブースも着々と準備が進んでいるようだ。北村が会場の配置図を片手に小走りで行ったり来たりしながら、イベント運営会社の人間たちと話をしている。


 今回の『にくフェス』を主催するのは岩田屋町役場と地域住民から組織された『岩田屋にくにくフェスティバル実行委員会』だが、実質的な運営は東京から招聘したプロのイベント運営会社に委託しているのだ。


 テントの設営を手伝った後、会場内のトイレの清掃状況の確認を仰せつかった結城は、公園各所のトイレのチェックに走り回ることになった。今回は特別に設置される仮設トイレもあるので、そちらも回らなければならない。


 炎天下の野外をウロウロしているうちに、着ていたワイシャツは汗でぐっしょりと湿って重くなっていった。

 チェックに訪れたトイレで尿意をもよおした結城は、小用の便器の前に立った。汗をかきすぎたためなのか、あまり出るものもなかった。


「おつかれっす」


 隣の便器に田岡がやってきた。田岡も結城と同じように汗びっしょりだった。じょぼじょぼとやたら男らしい音を立てて田岡は放尿した。

 いつだったかの男だけの飲み会のときに田岡が「入れればこっちのもんなんですけどね」と下品に笑っていたのを思い出した。モノがデカけりゃ出る量も多いということなのだろうか。そんな立派なイチモツを持ってたら、結城の人生観も変わったかもしれない。


「結城さん、終わったら若手課員で打ち上げしましょうね」


 ようは北村と飲みたいだけなのだろう。


「そうだね」


 結城は適当に返事をしてトイレを出た。

 空の青と芝の緑が眩しかった。林の方からはジージーとアブラゼミが鳴く声がした。

 明日も今日と同じぐらい暑くなるらしい。

 熱中症になる客が多く出ないことを祈るばかりだ。

 結城が次のトイレに向かって歩き出そうとした時だった。


 突然、結城が今まで聞いたこともないような妙な音が辺りに響き渡った。


 金属と金属を擦り合わせたような、どこかで鐘が鳴るような、あるいは何か巨大な生物が吠えているような――


 その轟音は何度か途切れながらも長く続いた。


 最初は飛行機の音かと思って空を眺めたがそこには何も飛んでいなかった。雷雲も見当たらない。ならば地鳴りかと思ったが、それは地の底から響くというよりは、どこか遠くの空から聞こえてきているようだった。


 音は唐突に止んだ。


「今のなんすか」


 トイレから出てきた田岡も辺りを見回している。田岡も聞いたということは、結城の空耳ではなかったということだ。


 結城は胸騒ぎを覚えた。

 今の音が何か不吉なもののように思えてならなかった。


 結城は何とはなしに湖の方を眺めた。陽炎が揺らめく駐車場越しに、群青色の湖面が見えた。

 目の錯覚かもしれないが。

 そこに首のない馬の影が立っているのが見えた気がした。




「変な音?」


 その夜のことだ。結城とアイは布団の中で身体を密着させながら事後の余韻に浸っていた。


「聞こえなかった?」


「その時間は家にいたと思うけど、何も聞こえなかったな」


 結城は柔らかなアイの乳房の感触を味わいながら、そうなんだと答えた。触っているだけで安心するのは何故なんだろう。


「空耳じゃないの?」


「一緒にいた人間も聞いたから、空耳ではないと思うんだよね」


 ふうんとアイは不思議そうに相槌を打った。


「そーゆー謎の現象みたいなのって遭遇したことないかも。私、霊感とかゼロだし」


「俺も霊感があったら、もっと競馬の予想も当たるようになるのかな」


 結城の頭をよぎったのは黒い馬の影だった。今日も一瞬、湖の上に見えたのだった。あれは一体何なのだろうか。

 唐突に視界の隅に現れては、瞬きした途端に消えてしまう。

 あれも何か霊的な存在なのだろうか。

 ただの疲れ目による見間違いに過ぎないのだろうが。

 そういえば、アイも田んぼの真ん中で馬を見たと言っていたはずだった。岩田屋町で馬を飼っている農家なんて聞いたこともない。


「あのさ、霊じゃないかもしれないんだけど――」


 と言いかけたところでアイが頭を結城の胸に擦り付けてきた。


「んん〜明日は牛串何本食べようかな〜」


 そう、アイも明日の『岩田屋にくにくフェスティバル』に来るのだ。結城が持ち帰ったチラシを見てからアイは「絶対行く!」と言い張っていた。


「インスタで見た地鶏の炭火焼も美味しそうだったし、ケバブもいいし、あのジビエの燻製セットも気になるなぁ」


 岩田屋地区ゆるゆるマスコット大集合も楽しみだなぁとアイは遠足前の子供のように声を弾ませた。


「暑くなりそうだから気をつけてね。地ビール飲み比べとかもあるけど、お酒は水分補給にならないらしいよ」


「私よりゆーきくんだよ。仕事に集中しすぎて熱中症にならないでね」


 確かにその通りかもしれない。結城こそ水分補給を怠らないようにしなければならない。


「こういうお祭りってさ、やっぱいいよね。ゆーきくんは大変だったと思うけど」


「そうだね、実際準備は大変だったけど、みんながこれを楽しみにしてくれてると思うとやりがいはあったよ」


 楽しみにしている人間の代表を目の前にして結城は言った。


「高校の頃の文化祭とかどうだったかな〜。私はあんまりイベントで目立つタイプじゃなかったけど」


「俺も。ただ黙々と準備してただけ。延々お化け屋敷の暗幕張ったり、段ボールで看板作ったり」


「そーゆーの大事じゃん? ていうか今の仕事と一緒だね。なんかすごい。運命を感じる!」


「いや、主体性なく過ごしてただけだったから」


 今の仕事との関連なんて考えたこともなかった。ただクラスで決まったことに粛々と参加していただけだ。


 結城はいわゆるクラスのに過ぎなかったのだ。


「もし高校生の頃にアイさんと出会ってたらどうだっただろう」


 結城は高校生だった頃のアイを想像した。きっと今と同じように可愛いはずだ。教室の隅の席に座って、他の女子と談笑している制服姿のアイを思い描いた。結城はきっとそれを遠くの席から見ているのだろう。


「絶対私はゆーきくんのこと好きになってたと思う」


「本当に?」


「うん。高校生の頃の私のクラスにゆーきくんがいたらなーって思うもん」


「絶対俺からは話し掛けられないだろうな」


「えーっなんでよ。話し掛けてよ」


「実際高校生の頃の俺なんて、女子と話した時間は三年間トータルしても五分くらいだと思う」


「私だって男子とほとんど話なんかしてなかったよ。超陰キャだったから」


「そうなの?」


 正直それは意外だった。男女問わず友達が多い高校生活を送っているだろうと思っていたのだが。


「当時から胸は大きかったから、それでイジられるのが嫌だったな。今は全然そんなことないけど。男の子もみんなばっかり興味津々って感じで」


 自分が嫌いな子だったなとアイは呟く。声は部屋の闇に溶けていく。


「そっか、俺も同じだな。自分が好きじゃなくて引っ込み思案で。女子の眼中に入ってなかったと思う」


「そうなの? ゆーきくんは優しいから、実は女の子から人気あったかもよ」


 ないないと結城は笑った。恐らく、当時の同級生の女子の記憶には、結城のことなどほぼ残っていないだろう。路傍の石のような存在だったに違いない。


「私がクラスにいたら『ゆーきくんの魅力を分かってるのは私だけ!』って密かに見てるよ」


「そこは話しかけてほしいな」


 ごめんごめんとアイは笑った。

 高校生の頃の二人が出会ったら。

 楽しい――そして、なんの意味もない――『もしも』の話だった。


「どんな出会い方をしたとしても、俺はアイさんのことを好きになると思う」


 結城はアイを抱き寄せた。

 力の抜けたアイの身体は、抵抗なく結城の隣に収まった。


「ありがとう」


 アイの安心したような声が、結城の心の一番奥底にまで染み通っていった。


 暗い部屋の中で、互いの姿は見えない。伝わる肌の感触と温度、そして声だけが、二人がそこに存在することを証明している。


「ゆーきくんがいてくれてよかった」


「俺もアイさんがいてくれてよかったよ」


 暗闇の中で自分の名前を呼んでくれる人がいる。きっとそれは『幸せ』という言葉の別の言い方なのだろう。


「明日の『にくフェス』が終わったら、私一回実家に帰って荷物を取ってくる」


 アイの言葉が意味するところを感じ取った結城の心臓が跳ねた。


「こっちで本格的に仕事探さなきゃ」


「俺も協力するよ」


 二人で住むならもっと広い部屋に引っ越したほうがいいのだろうか。車も二台必要になるかもしれない。二人の暮らしを想像し始めると、そこには幸福しかないように思われた。


 アイはまどろみ始めているようだった。言葉も途切れ途切れになっていく。


「明日――楽しみ――」


「うん」


 きっと明日はアイにとって楽しい一日になるだろう。結城の仕事が終われば、二人でお土産を買って家に帰って来よう。そして晩酌をして、二人だけで『打ち上げ』をするのだ。


「ゆーきくん――いつか――――」


「うん」


「いつかね――――」


 アイが眠りに落ちるのにつられて、結城も眠気に飲み込まれていった。


 結城は夢を見た。

 高校生の頃の夢だった。夕日が差し込む黒芦高校の教室で、一人座っている。放課後の学校にあるはずの部活動の喧騒はなく、とても静かだった。 


 そこに一人の女子が入ってきた。ゆっくりと結城の席まで歩いてくる。

 黒芦高校の制服を着たアイだった。

 今のアイより顔が幼い。


 そのアイの額に、一本の角が生えていた。


 鉛筆ほどの長さの真っ黒な角が、天井に向かって伸びている。

 虚ろな目のアイの口から言葉が流れ出る。


「おん あみりと どばんば うんはった そわか」


 アイの声ではなかった。

 女性のものでも男性のものでもない。あらゆる種類の人間の声を、無理やりつぎはぎしたような声だった。


 気がつけばアイの首から上は、ヒトのものではなくなっていた。


 額から角を生やした黒い馬が結城を見下ろしている。


 耳鳴りが聞こえる。


 それは次第に音量を増し、金属と金属を擦り合わせたような、どこかで鐘が鳴るような音へと変わっていく。


 終末の音アポカリプティックサウンド


 結城はそれが生き物の発する声だと理解した。


 きっと生まれたばかりの赤子の鳴き声のようなものだと。


 それは生まれずることへの、呪詛そのものだった。


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