【光】11 私らしくない

 一学期最後のロングホームルームの時間だった。


 岩田屋高校二年一組の教室では、前回のロングホームルームに引き続き、二学期の文化祭の模擬店についての議論が行われている。


 担任のビーグル犬は職員室に引っ込んでしまったので、教壇に撫子が立って司会をしていた。今はその隣にもう一人女子が立っている。


「はいはい! もっと案出して! 案!」


 ケラケラ笑いながらクラスに号令するその女子は、クラスの『一軍中の一軍』である新美にいみ芽生めいだった。新美は次々にクラスメイトを指名しては、何かしら意見を言わせている。撫子は特にそれに口を挟むこともなく、出てきた意見を黒板に書きつけていた。


「ちょっとー! もっと面白い案ないの!」


 窓際の列の最後尾に座っている光は、シュウの頭の後ろに隠れながら、どうか指名されませんようにと祈っていた。面白いことなど言えそうにないからだ。


 転校してきてから既に一週間以上が経ち、クラスの人間関係も飲み込めていた。

 委員長である浅倉撫子が影のボスならば、新美芽生は表のボスだ。


 新美はクラスの女子達のリーダー格だった。ダンス部に所属しており、同じ部活の女子数名と一緒になって、クラス全体のムードを掌握していた。


 撫子が黒髪ロングのスレンダー体型であるのに対して――と比較することに何の意味があるのかは分からないが――新美は少し茶色がかった髪を、前髪のないワンレングスのボブにしていて、体型はどちらかというとグラマーだった。


 撫子が『静』なら、新美は『動』。


 新美は自分がクラスの中心になってワーワーと騒ぎながら物事を進めていくタイプだった。

 今は撫子をサイドに、クラスの意見を自分が思ったような方向に誘導しようとしている。


「――じゃあ、そのフォトスポット兼メイド喫茶でヤンニョムチキンとレインボーわたあめを売るっていうのはどう? あ、ちょっとメイド喫茶はやりすぎだから却下ね。ごめん、杉山君。はい、次の人意見言って」


 出てくる意見の中で新美が気に入ったものを合体させていった結果、もはやとんでもないキメラ模擬店と化していた。メイド喫茶の意見を却下されたメガネの杉山君が、か細い声でうんいいよと言った。


 教室を見渡すと、男子の大半は目を開けたまま意識をどこかに飛ばしており、早くこの嵐が過ぎ去ることを祈っているようだった。女子は「何を言っても最後は新美が好きにするんだろ」という本音を胸に隠したまま、何かしら無難な意見を言って新美が作り出す議論の空間に参加している。


「逆メイド喫茶っていうのはどう? 男子がメイドの格好して、女子が執事の格好するの」


 新美と同じダンス部の女子が言った。


「何それ面白そう! めっちゃいい!」


 フォトスポットもヤンニョムチキンもレインボーわたあめもどこかに行ってしまいそうな勢いで新美が食いつく。


「浅倉さんの男装とか、みんな絶対見たいよね!」


 新美が囃し立てると女子の大多数からキャーという黄色い悲鳴があがった。


 光も執事姿の撫子を想像してみる。漆黒の燕尾服と白い手袋に片眼鏡モノクルまで付けたらやりすぎか。どんな姿でも様になりそうなのは、そもそも美人だからだろう。頭の中の撫子は、いつものように「何よ」と口をとがらせている。


 撫子本人はというと、なんとも言えない複雑な表情で新美の横に突っ立っているだけだった。


 ヤンキーや変態に対しては強い(物理)撫子も、同じ女子で、しかも属性違いとなると手に余っているようだった。


 新美は新美で撫子がそうなるのを分かったうえで、隣で騒いでいるところがある。女子同士のパワーバランスに光は思いを馳せた。


「あ! 男子はスネ毛ボーボーのままメイドの格好してね! 今日から文化祭まで剃るの禁止!」


 悪ノリした新美がめちゃくちゃなことを言っている。ギャハハハとクラスのそこかしこから笑い声があがった。


 この瞬間、岩田屋高校二年一組を支配しているのは新美芽生に間違いなかった。


 と、そこで。


「――あの」


 おずおずと手を挙げた女子がいた。


 立花澄乃だった。


 新美はまったく気がつかず、サッカー部の男子をスネ毛トークでイジリながら大声で笑っている。


「あの」


 澄乃が少しボリュームを上げたことでやっと新美は気付いた。


「何? 立花さん」


 澄乃は立ち上がると、小さいがよく通る声で言った。


「男装とか女装とか、ふざけてやるならやらないほうがいいと思う」


 水を打ったように教室が静まりかえった。

 そのことに動揺したのか、澄乃は慌てて続けた。


「あ、あの、新美さんの意見に反対ってことじゃなくて。やっぱりそういう性差の問題ってセンシティブだから、外部の人もたくさん来るイベントでするのはちょっと違うかなって、思って。最近結構そういう話、ネットとかでも見るよね? ね?」


 同意を求めて周囲を見る澄乃だったが、誰も目を合わせない。


 その理由は明らかだ。


 新美が顔をひきつらせている。


 彼女の内心にあるのは羞恥と憤懣だろうと光は感じた。澄乃が言ったことに一理あるのは明らかだった。だからこそ、浅はかな認識でクラスを巻き込んで馬鹿騒ぎをしていた自分が恥ずかしい。そして、皆の前で恥をかかされたということに対する怒りもまた同時にあるだろう。自分がせっかく盛り上げた場を白けさせたことに対する逆恨みも。


「――何。立花さんってそういう感じだったっけ」


 冷たい声音で新美が言った。

 今度は澄乃が顔をひきつらせる番だった。

 ここで、とうとう撫子が口を開いた。


「ねえ、新美さ――」


 その声を打ち消すように響いたのは、


「おい、メスザル。声とおっぱいがデカけりゃなんでも自分の思ったとおりになると――」


 光の口から全ての『暴言』が滑り出す前に、教室の前から後ろまで一瞬で跳躍した撫子が光の口に向かって右の掌底を打ち込んでいた。


 光はその一撃を椅子に座ったまま器用に回転して回避したが、そのまま後ろに向かって椅子ごとひっくり返った。


 先日撫子は光が『暴言』を放つ前に口を塞ぐと言っていたが、それは叶わなかったということになる。

 悔しそうな表情を浮かべた撫子は、光の胸倉を掴んで立ち上がらせると、


「今のは『暴言』でいいのよね?」


と凄んだ。


 その顔を見た光は蛇に睨まれた蛙のように顔色を失った。口をパクパクさせてなんとか撫子の言葉を肯定する。 

 それを見た撫子はパッと光から手を離すと、踵を返して教壇に戻った。 


 教室内は混沌とした雰囲気になった。澄乃は撫子と新美の顔を見比べてオロオロしているし、新美は苦虫を噛み潰したような顔で光を見ている。撫子は撫子で光に鋭い視線を向けたままだ。


「どーすんだよこの空気」


 シュウがポツリと呟いたところで、チャイムが鳴った。一学期最後のロングホームルームは何も決まらないまま終わりを迎えたのだった。


 


「隣のクラスがそんなことになっていたとは知らなかったでござる」


 一部始終を聞かされた忍の感想だった。

 放課後に部室に集合したアイドル研究部の面々は、昼食を食べながら先ほどの出来事を語り合っていた。


「あれって本当にもう一人の光が言った『暴言』だったのか? 光自身の本音だったら、逆にかっこよかったかも」


 シュウがコンビニで買ってきた焼きそばドッグをかじりながら言った。


「ちょっと有沢君」


 撫子がとがめるように言う。


「だって明らかに新美が調子に乗ってたじゃねえか。立花さんの言ったことが正しいぜ。正直ちょっとスカっとしたわ」


 とシュウは笑った。


「残念ながら――って言うのが正しいか分からないけど、あれは僕の本音じゃないよ……多分」


 光は心が綺麗だなあとシュウが感心したように言った。


「たまたま『暴言』と気が合うこともあるでござるよ」


 とフォローでも何でもないことを言う忍。


「私が空気読めないこと言っちゃったのが悪いんだよ」


 澄乃は困り顔だった。お弁当にもあまり口をつけていない。


「そんなことないわよ。あそこまで新美さんに言わせたのは委員長としての私の責任」


 撫子も浮かない表情だ。


「どう考えても新美が悪いって。なんでもかんでも思い通りにできると思ってるのが間違いなんだよ。周りがちやほやしすぎだぜ」


 シュウは焼きそばドッグの残りを口に押し込むと、紙パックのコーヒー牛乳を吸って流し込んだ。


「でも、ああやって場を盛り上げることができるのは彼女の天性だわ。行き過ぎたところはあっても」


 撫子は新美を責めるつもりはないようだった。光にしてみれば、あの時の新美は撫子を後ろ盾にして奔放に振る舞っていたように見えるのだが。実際、光の『暴言』がなければ、撫子がたしなめるまでは好き勝手にやっていたはずだ。


「それに、浜岡君の『暴言』を止めることもできなかったわね。大見得を切ったのに」


 撫子が溜息を吐く。何から何まで責任を感じているようだった。担任から預かったロングホームルームの場だったが、まったく上手く立ち回ることができなかったと悔やんでいるのがひしひしと伝わってくる。


「委員長失格だわ」


「浅倉殿、そんなに気を落としたら駄目でござる。声よりも速く動けるなら、それは音速を超えてるってことでござる」


 さすがに浅倉流兵術でもそれは無理でござるよと忍。


「でも、父親なら音速を超えるかも」


「それは化物すぎるでござる。ヒトではないでござるよ」


 撫子の父親、どんな人物なのだろうか。


「そういえば」


 撫子が何かを思い出したように呟く。


「新美さんが言ってたでしょ。私の男装見たくないかって」


「ああ、そんなことも言ってたな。執事のカッコさせるとか」


 シュウがつまらなそうに言った。


「あの場面で、みんないかにも見たそうな反応だったでしょ。だから――私はキャラなのよ」


 ここで撫子の話は昨日の部室での話に繋がってくる。


 昨日撫子は「私はステージに立つつもりはない」と言ったのだった。

 アイドル研究部には入ったけど、それは光を監視するためであって、『にくフェス』のステージに立つなんてことはひとことも言っていない――と。

 それは撫子の性格を考えれば自然なことのようにも思われた。周囲に流されてなんとなくステージに立つようなタイプではないことは明らかだ。


 忍がもっと食い下がってステージに立つように頼むかと思ったが、案外あっさりと「拙者は無理強いはしたくないでござる」と撫子の意志を尊重したので、結局曲決めもなかったことになってしまった。


「私がアイドルの格好して踊ってたら、みんなのいい笑いものだわ」


 撫子が自嘲するように笑った。そんな撫子を隣で澄乃が見つめている。何か言葉にしたいことがあるのに、それがうまく出てこないという表情だった。


 それは光も同じだった。撫子に対して何か言うべきことがあるのだが、それをどんな風に伝えればいいのか分からない。


 撫子が弁当をまた口にし始めた。今日の弁当にも入っている『甘いたまご焼き』を口に運んでもぐもぐと片付けていく。


「何よ」


 あまりにもその横顔をじっと見すぎたからか、撫子はこちらの視線に気付いたようだった。


「分かってるわよ浜岡君。ちゃんとあとで一個あげるから。そんなに見なくてもいいでしょ」


 ぷいっと横を向く。

 そうじゃないんだよ浅倉さん。



 帰り道、校門からしばらくは五人で並んで歩いた。自転車組の光、撫子、澄乃はそれぞれの自転車を押して歩いている。まだ日は高く、セミがやかましく鳴いていた。南風が熱気を運び、道路には陽炎がゆらめいている。


 坂道を下りて角を曲がると、馬頭観音の石碑が見えた。

 光は昨日の朝の出来事を思い出していた。


 ―—じゃあ、浅倉撫子をよろしくね。


 最後にあの金髪の女性が言っていた言葉だった。

 結局、撫子にもあの女性のことをまだ話せていない。二人は知り合いなのだろうか。どこか遠くに行く直前という雰囲気だったが。


 駄弁りながら歩く五人を、色褪せた赤いトラクターがゆっくり追い抜いていった。トラクターはまだ新しい畑の土を地面に落としながら進んでいく。運転席には真っ黒に日焼けした頑健そうな老人が乗っていた。


「クソ田舎だな」


 光の口から『暴言』が飛び出す。が、


「それに関しては俺も同感だから何も言えねえな」


「私もだわ」


「私も」


「拙者も」


 四人は口を揃えていった後、顔を見合わせて笑った。


「そんな――」


 どう反応していいのか分からず、光は頭をかく。自然豊かでのんびりしたいい町だとは思っているのだが。


「いいじゃねえか光。『暴言』も時には『暴言』にならないってことで。新美の件もだけど」


「そうでござるよ。拙者達が『暴言』を受け流すスキルを高めていけば、光殿も気楽に過ごせるようになるでござる」


 男二人が光を挟んで、肘で突いた。撫子は男子達のスキンシップをまじまじと見つめて、


「そういう考え方もあるのね」


と言った。


 一人また一人と別れて、最後は光と撫子だけになった。


 二人で自転車を押しながら並んで歩く。


 今二人が通っているのは広い県道に出る手前の、車道と歩道の区別すらない細い小道だった。すぐ側に山が迫っていて、緑の中に沈んだ廃倉庫や、鬱蒼と木々が茂る耕作放棄地の間を通って、山の空気が漂ってきた。


 撫子の自転車は最初に会ったときと同じ、赤いクロスバイクだった。水鏡川の橋の上ですれ違った時のことを思い出す。まさか、あのノーパン女とこんな風に下校するようになるとは考えてもみなかった。


 光は隣を行く撫子の横顔をチラリと見た。


 撫子は真っ直ぐ前を見ていた。

 長いまつ毛と涼しげな瞳。日差しに焼かれた頬が少し赤い。繊細な線で描かれた輪郭はまるで人形のようだった。

 初対面の時から印象は変わらない。

 本当に美人だった。


 だが今はそれ以上に、撫子の内面に興味をひかれている自分がいる。


 撫子は強い。それは腕っぷしの話でもあるし、精神のあり方の話でもある。

 誰の影響なのか、どういった経緯を辿ってここに至ったのか、それは分からないが、撫子は彼女自身が見ている範囲で起こる不正義に対して、できる限りの責任を負おうとしているようだった。

 残念ながら器用に立ち回れるようなタイプではないのだろう。

 だから馬鹿な奴をとっちめることは得意でも、新美のような人間が相手だとまごついてしまう。

 それでも何かしら自分にできることをしようとしているし、懸命に正しくあろうとしているように見えた。


 だがそれは遊びのない歯車のようなものじゃないのかと光は思う。ガッチリと噛み合っていて、確かな働きをするが、どこかに脆さを抱えているような――


 実際、撫子にそのような脆さがあるのかは分からない。完全無欠の撫子にはそんなものはないのかもしれない。


 ――でも、そんな人間いるのかな。


 光の内心の声はもちろん、撫子には聞こえない。


 撫子という歯車が欠けるとき――その歩みが止まったときに、隣でそれを支える人間はいるのだろうか。


「何よ」


 こちらの視線に気づいた撫子が眉根を寄せて言った。


「浜岡君って、時々そうやって人のことをじっと見るわよね。何か私に言いたいことでもあるの?」


 横顔を見ながら撫子の内面について考察していた――なんて言えない光は、質問には答えずに、別のことを言って話を逸らそうとした。


「その『浜岡君』って呼び方、なんかむずがゆくなるから、もっと気楽に呼んでほしいかも」


 別にどうでもいいことだった。呼び方なんて、好きなようにしてくれればいいのだ。とりあえず話題を変えられればそれでいい。実際、撫子がこちらの呼び方を変えるとも思えなかった。が。


「じゃあ何て呼べばいいの?」


 真に受けた撫子が素直に尋ねてきたので、光は一瞬言葉を失う。


「――えーと、ひ、光でいいよ。シュウが呼んでるみたいに」


 ひかる、ひかると何度か確かめるように口にする撫子。鈴を転がすような声に、光の心臓はキュッとなった。


「私が光って呼ぶなら、そっちも『浅倉さん』じゃなくて撫子って呼んでよ」


「えっ」


「そうじゃなきゃ不公平でしょ。同い年だしクラスメイトなんだからお互い呼び捨てでも普通よね」


 異性がお互いの名前を呼び捨てにするのが果たして普通なのか。


「光って、名前のほうが呼びやすいわね」


「撫子も、名前のほうが呼びやすいよ」


 光が『撫子』と言ったのを見て、撫子は満足そうに笑った。


 光は光で、気恥ずかしさから苦笑いを浮かべている。頬がひきつりそうだった。


 成り行きで大変なことになってしまったかもしれないと光は思った。明日、アイドル研究部の面々が唖然とする光景が容易に想像できた。それどころか、撫子ならクラスで名前を呼びかねない。想像するだけで妙な汗が噴き出た。


 そんな光の想像などまったく知らない撫子は、道端の自販機の前で足を止めた。

 背負っていたミルクフェドの黒いリュックから財布を取り出し、硬貨を自販機に投入した。そして迷いなくポカリスエットのボタンを押した。


「撫子は――」


 と口にしてから、暴れ出したくなるような恥ずかしさが、胸から喉のあたりまでせり上がってきた。呼び捨てするのに慣れるまでは、こんな感じなのかもしれない。


「何?」


 撫子はポカリスエットのキャップを開けて一口飲んでから言った。名前で呼ばれたからという訳ではないだろうが、撫子の声は上機嫌に聞こえた。


「やっぱり『にくフェス』のステージ、出るつもりはないのかな」


 光がそう言うと、撫子はその話かという顔になった。


 必然性のないことはやらない。

 光の監視が目的なので、ステージには立たない。


 いかにも浅倉撫子的であり、そこに疑問を差し挟む余地はなさそうにも思える。

 だが、光はそこに何か、もやもやとしたものを感じていた。さっきの新美に関するやりとりの中で、より強くそれを意識するようになった。


「もし、らしくないからって理由でステージに立つのをためらってるなら、僕はもったいないと思う」


「もったいない?」


 撫子が食いついたのは「らしくない」ではなく「もったいない」の部分だった。それが何かの答えのような気もした。


「うん、もったいないと思う。撫子ぐらいかわいい女子がステージに立たないなんて」


 本音でしかないものがスルスルと口から滑り出ていったが、随分直球で褒めてしまった気がする――そう思ったときには撫子は顔を真っ赤にしていた。


「なっ、何を」


 いや、そのルックスなら褒められ慣れてるだろうに――と光が脳内で突っ込みを入れようとするが、焦っている撫子が文字通りので、意識はそれを目に焼き付けることに全部持っていかれてしまった。


 撫子ははぁと大きな溜息を吐くと、またポカリスエットを一口飲んで言った。


「光もわかってるんじゃない。そう、らしくないのよ。私がアイドルなんで」


 改めて撫子は「らしくない」の部分に言及した。やはりそこが撫子の本音のようだった。


「そうかな。僕は他の連中に比べたら、撫子に対する先入観がないからかもしれないけど、撫子がステージで踊ってても全然おかしいなんて思わないよ」


 撫子撫子と連呼しているからか、だんだん光の中から呼び捨てに対する恥ずかしさは消えていった。


「光はまだ私に会ってから一ヶ月も経たないからね」


 撫子はポカリスエットのボトルを握ったまま、少し遠くを見るような目をして言った。唇を噛んで、何か言葉を閉じ込めている。


「撫子はなんか、自分で自分を狭いところに閉じ込めてるように見えるよ」


 自由奔放に羽ばたける翼がありながら、自分から狭いかごの中に入ってきて澄ました顔をしている鳥のように。


「光は知らないのよ、中学時代の私を。この前の不良の子の怯え方見たでしょ。私はね、のよ。『町内最強』なんて渾名、普通は中学生の女子につかないでしょ」


 有り余るエネルギーを躊躇いなく発散する撫子を想像した。中学時代、どんな無茶苦茶な喧嘩をしてきたのだろう。


「でも、そんなイメージを、撫子本人が守り続ける意味なんてないと思う」


 本来、撫子のような強い人間にとって、周囲がどう見ているかなんて関係ないはずなのだ。それなのに撫子は『周囲に期待されている浅倉撫子』を演じることに拘っているようだった。


 光の言葉を聞いた撫子の目に、心の奥底から滲み出てきた感情の色が少しずつ映っていった。


 その感情の名は、恐怖だった。


「撫子は今のままの自分じゃないと、ここにいられないと思ってるのかな」


 まるで光の言葉で横っ面を殴られたように、撫子は言葉を発することができないまま固まっていた。

 今まで光の前では一度も見せたことがない表情で立ち尽くしている。


 それは迷子だった。

 雑踏に立ち尽くし、どこにも頼るものがない幼女の顔だった。


 ――じゃあ、浅倉撫子をよろしくね。


 金髪の女性の言葉が、光の脳裏に蘇った。

 彼女が誰なのかも分からないし、なぜ光にそれを言ったのかも分からない。

 しかし、そこに託されたメッセージを、光は今、確かに受け取った気がした。


 光は撫子の持っていたポカリスエットのボトルをひったくると、キャップが開いたままのそれを、勢いよく呷った。

 まだ冷たさが残った、甘酸っぱい液体が喉を通過していく。


「ちょっと!」


 我に返ったように撫子が抗議の声をあげた。真っ赤になってボトルを取り返そうと手を伸ばすが、光はそれをヒラリとかわした。


「――撫子、みんなで『にくフェス』のステージに立とう」


 光は衝動だけを頼りに、あふれてくる感情をそのまま口にした。鳥かごを蹴り壊し、世界で一番美しい鳥を青空の下に引きずり出す。みんなが知らないその羽根の色を、思い切り見せつけてやればいいのだ。


「僕は撫子がアイドルになる瞬間を見てみたい」


 深い谷に架かった丸木橋を走り抜けるように、勢いだけで光は言葉を繋いだ。撫子は目を真ん丸に見開いて、天地がひっくり返ったみたいな顔をした。


 そんな顔もかわいいと、光は伝えてあげたかった。


 光の熱っぽい視線が、撫子の心を覆っていた躊躇ためらいという名の薄皮を、一枚また一枚と剥ぎ取っていく。


 長い長い沈黙の末に、撫子は、口を真一文字に結んで、うんと頷いた。


 西日に熱されたアスファルトの上を南風が吹き抜けて、撫子のスカートを揺らしていった。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る