【光】10 たまご焼き
岩田屋高校の部室には明確なアタリとハズレがある。エアコンが設置されている部屋がアタリで、設置されていない部屋がハズレだ。
そして、アイドル研究部の部室はアタリだった。
放課後のアイドル研究部の部室に集った光、シュウ、忍の三人は、エアコンの真下にパイプ椅子を並べて座り、頭上から注がれる冷気を浴びていた。
「昼までなのはいいけどよ、灼熱の体育館で交通安全講話は勘弁してほしかったよな」
シュウがシャツの胸元をパタパタとやりながら言った。
「警察の人も、話しながら倒れそうだったもんね」
光も同じように胸元をパタパタとやる。
「まったくでござる。話す方も聞く方も意識朦朧としていては講話の意味がないでござる」
忍はサウナにでも入ったように、腕を組んでどっかりとパイプ椅子に座っていた。
今日の午前中は岩田屋警察署から講師を招いての交通安全講話だった。長期休み前の恒例の行事である。内容は平たく言えば「事故に気をつけましょう」ということだった。時速60キロの自動車が壁に衝突する際の衝撃は、高さ14メートルのビルから落下するときの衝撃に等しい。人間がはねられたらどうなるかは推して知るべし。ちなみに、時速100キロだと高さ39メートルの高さから落ちた時の衝撃と同じだそうだ。激突すれば人間は粉々になるだろう。車道に飛び出すのはやめようね。
「いやー思うんだがな、ああやって前に立って話してる時って、女子のスカートの中、めっちゃ見えるんじゃねえかな」
シュウが頭の悪いことを言う。
確かに、前で話している人間は体育館のフロアに座っている女子を正面から見ることができるのだ。女子がどれだけ巧妙にスカートを足に巻いて座ろうとも、隙間から何かが見えそうではある。
「学年集会の時とか絶対見えてるぜ。学年主任の大山崎とか、ガン見してるに違いないって。好きそうな顔してるもん」
「でもさ、見るつもりがないパンチラって、なんか気まずいよね」
「はぁ!? さすが『岩田屋最強のセイブツ』のスカートの中身を見た人間は余裕だな。嬉しいパンチラ以外のパンチラなんてあるのかよ」
「有沢殿。滅多なことを言うものではござらぬよ」
くわっと忍が目を見開く。
「壁に耳あり障子にメアリー。いつ誰が聞いているか分からぬでござる。浅倉殿の貴重なノーパン登校――」
「あら涼しいわね」
「キエエエエエエエエエエエエエッ!」
ノックもせずに撫子が部室に入ってきた瞬間、忍がシュウに飛び掛かってチョークスリーパーを極めた。
「何やってるのよ。スパーリング?」
「――アメリカ東海岸流忍術は常在戦場でござる」
一瞬で締め落とされたシュウの身体が床にドサリと崩れ落ちた。
「り、理不尽すぎる」
呟いた光が、シュウの頬をペチペチ叩いて目覚めさせる。目をパチクリしてお花畑の向こうからシュウが帰ってくる。
「こんにちはー」
撫子の後ろから、ひょっこり澄乃も顔を覗かせた。
「あなた達、お昼ご飯は食べてないの?」
撫子と澄乃はそれぞれ弁当箱が入ったかわいいバッグを持っていた。
「購買が休みなんて聞いてなかったんだよ」
蘇生したシュウが不満タラタラな表情で言った。忍に締め落とされた記憶はないらしい。
「先生が言ってたでしょ」
話聞いてなかったの、と撫子は呆れたような表情だった。恥ずかしながら光もシュウと同じで、一学期の購買の営業が昨日までだという担任の話をまったく聞いていなかった。昼食は購買で買うつもりだったので、今は何も食べるものを持っていない。
撫子と澄乃は席に着くと、それぞれお弁当を広げた。忍も自分のバッグからラップで包んだおにぎりを五つ取り出して机に置いた。
「光殿、有沢殿。何も食べるものがないなら拙者のおにぎりを食べるでござるよ」
忍が一つずつおにぎりを勧めてくれた。
「ありがとう、忍君」
「悪いな忍」
光とシュウは感謝しておにぎりを受け取った。忍の体格と比較すると、かなり可愛らしいサイズのおにぎりだった。これだと忍は何個食べてもお腹いっぱいにならないのではないだろうか。
「忍、こんな小さいので大丈夫なのか?」
シュウも同じことを思ったらしく疑問を口にした。
「大丈夫でござる。このサイズのおにぎりをたくさん作っておいて一日六回小分けにして食べてるでござるよ。あ、ゆでたまごとツナ缶もあるでござる」
「お前は何を目指してるんだ?」
ボディメイクの術でござるよと適当なことを言う忍。
とりあえず光はありがたくおにぎりを食べることにした。ラップを剥ぎ取って口に運ぶと、予想通り塩味だけの硬派なおにぎりだった。何も食べるものがないよりは余程いいのだが、少し味気ない気もした。
一方、撫子と澄乃のお弁当は女子らしい華やかなものだった。
忍のおにぎりではないが「こんな小さいので大丈夫?」というサイズのランチボックスに、あれこれとおかずが詰め込まれている。
「美味そうだなぁ」
忍の塩むすびを一瞬で平らげたシュウが、うらめしそうな視線で女子二人の弁当を見つめた。
「有沢君、おひとつどうぞ」
澄乃が自分の弁当箱をシュウの前に差し出した。澄乃のお弁当は小さいがなかなか盛りだくさんだ。ゆかりを混ぜて握ったかわいいおにぎりと、アスパラのベーコン巻き。さらに小さなエビフライが一つとプチトマト。うさぎの形に切ったりんごも弁当箱の隅に控えている。
「マジかよ立花さん。恩に着るぜ」
目を輝かせたシュウは、アスパラのベーコン巻きを一つ摘まみ上げると口に運んだ。
「うんめえー! ありがとう立花さん!」
澄乃はどういたしましてとシュウに笑いかけた。その笑顔はあたかも天使のようだった。
流れ的に、光は撫子のお弁当を見ることになる。
「――何よ」
撫子が眉をハの字にしてこちらを見ている。
撫子のお弁当は澄乃のお弁当と比べると落ち着いた雰囲気だった。半分が白ご飯の上に鶏そぼろと刻んだ絹さやをのせたもので、おかずも和のものでまとめられている。その中でも目を引くのがたまご焼きだった。美しく巻かれた三つのたまご焼きが、弁当箱の真ん中で輝きを放っていた。撫子が作ったのだろうか。それとも撫子の母親か。
「物欲しそうに見るのね」
「ごめん」
そんないやしい顔をしていたのだろうか。光は恥ずかしくなって下を向いた。
「ほら、なでなでもあげなよ」
と澄乃が促すと、撫子は嘆息して自分の弁当箱を見つめた。
「わかったわよ」
しぶしぶといった感じで撫子は言った。
そして、自分の箸でたまご焼きを一つ摘まむと――
「はい」
そのままそれを、光の口の前に運んだ。
撫子以外の全員がぴたりと動きを止めた。
空白の数秒を経て、自分のキャラを見失った忍が普通に「えっ」と言った。
――何をやってるんだコイツは。
撫子は混乱したように他の四人の顔を見ている。そして最後に光に向き直ると、
「食べないの?」
と口を尖らせた。
どうやら天然でこれをやっているらしい。
「……なでなで、大胆」
澄乃がなんとか言葉をしぼり出した。それでも撫子は自分が何をしているのか、よく分かっていないようだった。シュウと忍は「えらいものを見てしまった」という顔で虚空に目を泳がせている。
光は意を決すると、たまご焼きにぱくっと食いついた。勢いをつけすぎて箸ごと行ってしまった。
「ちょっと!」
撫子が箸を引き抜く。唾液は付いていないはずだ、多分。
町内最強の異名をとる撫子が男子に「あーん」するという、衝撃的な光景を目にしてしまった三人はただただ目を丸くしていた。
光はたまご焼きを咀嚼する。口の中にふんわりとした食感と味が広がっていく。
「――甘い」
撫子のたまご焼きは砂糖多めだった。
「甘くなかったら美味しくないでしょ」
当然だという感じで撫子。
東京の伯母の家ではたまご焼きはもっとしょっぱかった。ここまで甘いたまご焼きは人生で初だった。食べ慣れないからか、美味しいとも美味しくないとも言い切れない感じだ。舌になじめば美味しいと思うようになるだろうか。
「毎日食べたら美味しく感じるようになるかも」
特に考えもなく口から漏らした感想を聞いて、撫子が顔を赤くした。
「ちょ、ちょっと、それどういう意味よ!」
光は混乱した。
「えっ、いや、そのままの意味だけど。気を悪くしたならごめん」
赤面したままの撫子は目を閉じてやれやれとかぶりを振った。そして言い放つ。
「浜岡君は天然なの?」
「なでなでもだと思うよ」
澄乃がぽつりと突っ込む。
「光すげぇな。もしかして、今のも『暴言』なのか?」
シュウが感心したように言う。
「なんで? そんなに変なこと言った?」
「だって、毎日浅倉さんの焼いたたまご焼きを食べたいってことだろ、今の発言は」
「はあ!?」
もちろん光はそんな意味など込めてはいなかった。単純に甘いたまご焼きを食べ慣れたら評価できるようになるだろうというだけの話である。
「『はあ!?』って何よ! 私の焼いたたまご焼きにケチつけるの!?」
椅子を蹴って立ち上がった撫子がテーブル越しにぐっと身を乗り出す。
「そんなこと言ってないよ!」
光も思わず立ち上がった。
「ストップでござる! 部室でケンカしないでほしいでござる!」
忍が二人の間に入り、どうどうと落ち着かせるように手を振った。光は恥ずかしくなって椅子に座り直した。撫子も同じように椅子に座る。
「――浜岡君、ちなみに今のも『暴言』なの? 有沢君が言ったみたいに」
落ち着きを取り戻した撫子が尋ねてくる。
「いや、今のは違うよ」
さっきの言葉は、無論もう一人の自分が放ったものではない。光自身の言葉だった。
「そこは自分で明確にわかるのね」
「うん、明らかに違うものだから」
撫子は箸を置くと、考え込むように顎に手をやった。
「いったいどういう時に『暴言』が出るのかしら。何か条件があるの?」
「そうだなあ……正直、ランダムに飛び出す感じで『絶対こうだ』っていう条件はないんだ。ただ、僕自身が言い淀んだり、何を言おうか迷ったりした時に、出てきやすいなっていう実感はあるかな」
なるほどと撫子は頷いた。
「本音を思わず言ってる――ってことでもないみたいよね」
「そうではないと、僕自身は思ってるんだけど」
『内心で思ってはいるけど言えないこと』を言い放つ――というものではないのだ。『思ってもいないこと』が口から飛び出てくるので、光自身も驚き、うろたえることになる。
本当に、別人格としか言いようがない。
「肩の辺りに乗ってるんだったっけ。その、光の口を借りて暴言を吐く存在が」
シュウがポンポンと光の肩を叩く。
「それも例えみたいなものだから……」
「特殊な多重人格ってことなのかしら」
撫子はもう一人の光の正体についていろいろと思いを巡らせているようだ。
「我々素人が考えそうなことは、恐らく専門家が全て先に確かめているはずでござるよ。あまり我々が踏み込んで考えても仕方がないと思うでござる」
忍はおにぎりをもぐもぐしながら言った。
「それもそうね。正体を考えるよりも、『暴言』が飛び出したときにどう対処するかが大事だわ」
撫子は忍の考えに同意を示すと食事を再開した。小さな口でたまご焼きをかじる。そして一言、
「甘いのが好きなのよ」
と言った。
全員が食事を終えると、いよいよアイドル研究部の活動が始まる。
と言っても、忍が再生するDVDを全員で鑑賞するだけだった。今日までに数回にわたって活動をしているが、全てそれだった。忍の解説を聞きながら映像を見て、適当に感想を語り合うのだ。
今、部室のテレビで再生されているのは某坂道系アイドルのDVDだ。
「ところでさ、忍の『推し』って誰なんだ」
シュウが気軽に言う。
「そんな人の生き死にに関わるような話題を、軽々しくしていいでござるか?」
「いや、そんなに重い話じゃねえだろ」
忍は深刻そうな顔でリモコンを操作し、DVDを止めた。
「前にも話したでござるが、拙者はアイドル博愛主義者でござる。すべてのアイドルを尊いと感じ、すべてのアイドルを愛しているでござるよ」
遠い目をして言う忍。
「スケールがでけぇな。『推し』を言えない理由でもあるのかよ」
「あ、もしかしたら『推し』のことを語り出したら止まらないから、自粛してるんじゃないかな」
澄乃が思いついたように言った。
「さすが立花殿。そういうことでござるよ」
「えー、なんか嘘っぽいぞ」
シュウは疑わしげに忍を見ている。
「有沢殿には『推し』はいないでござるか?」
「んー、俺は別にいないかな。アイドルはそんなに詳しくないし」
「アイドルじゃなくてもいいでござるよ」
「あ、だったらVシネ俳優の飯田加一。めっちゃシブいから」
女の子ですらなかった。飯田加一はコワモテで有名なVシネマ俳優である。ときどきテレビのバラエティ番組に出てお茶目なところを見せるのが人気のポイントだった。
「光殿は?」
話を振られて考えてみるが、正直思いつかなかった。人生で一番映像などで見ているアイドルは母親である浜岡ミハネであることは間違いないが、それを『推し』と言っていいのかわからなかった。思わず黙り込んでしまう。
そんな光の内心を察したのか、忍は澄乃に話を振った。
「立花殿は『推しごと』してるでござるか?」
「私も今はこれといってないかなぁ。日本のアイドルも韓国のアイドルも。好きなインスタグラマーはいるけど。その人のメイク動画とか、暇な時はいつも見てるかも」
「なるほど。そういう『推し』もあるでござるね。浅倉殿は?」
と言われる前から既に撫子は考え込んでいるようだった。うーんと首をひねっている。
「正直、私もこれといっていないわね」
アイドル研究部だが、熱心なアイドルオタクは忍だけのようだ。なんとも寂しい結果になってしまった。
だが、忍は特に気にした様子もない。
「個人を『推す』ことだけがアイドルの魅力ではござらんよ。たとえばそう、『楽曲』という魅力もあるでござる。楽曲派という楽しみもあるでござるよ」
ここで忍は先日も皆に見せたチラシを取り出した。『岩田屋にくにくフェスティバル』のチラシだった。確か、その『にくフェス』のアイドルコンテストに部としてエントリーしていると言っていたが。
「そろそろみんなでパフォーマンスする楽曲を決めるでござるよ」
にっこり笑う忍に撫子が無慈悲に言い放った。
「そのことなんだけど、私は出ないわよ」
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