光編 第三章「あなたにここにいてほしい」
【光】09 馬頭観音
肌を刺すような空気の冷たさで、光は目を開いた。
最初に目に入ったのは、高層ビルの頂点で明滅する赤い灯火だった。視野がはっきりすると、夜の闇を押し退けるように建ち並ぶビルの群れが眼前に広がっているのが分かった。
光が立っているのはそんな群れの中にあるビルの屋上だった。
風が吹いた。
乾いた冬の風だった。
そこで光は自分が上着すら着ていないことに気がつく。ボロボロの制服は、なぜかところどころ濡れていて、風の冷たさを吸って光の体温を奪っていった。
光が立っているのはビルの屋上の、柵の外側だった。身体をねじって後ろを振り返ると、柵の向こうに自分がこじ開けたであろうドアがあった。
なんでこんなところに立っているんだったっけ。
光はここに至る経緯を思い出そうとした。
何もかもが曖昧で、まるで雲の中に手を突っ込むような感覚だったが、それでも記憶を辿っていく。
学校をサボって、新宿の街をブラブラして、クソみたいな場所にたむろしてる、クソみたいな連中と一緒に地べたに座ってバカ騒ぎをして――
日が暮れる頃に警察がやってきて、面倒くさくなって、適当な路地に何人かと逃げ込んで。
そうだ、そこであの薬を貰ったんだった。
そこからの記憶は飛び飛びだった。
こちらの一言が原因になって、馬鹿の一人と殴り合いをして。
そして、ここに立っていた。
ビルの谷を抜けるように、風がまた吹いた。
光はゆっくりと視線を下に向けた。
街灯のない暗い道路が、はるか彼方にあった。道行く人はおらず、路駐してある車がミニカーみたいなサイズに見えた。
光は、自分とアスファルトの間に広がっている、冷たい空気の層が作り出す距離に思いを馳せた。
肩の辺りでぞわりと気配がして、そいつは光の口を借りて、声を発した。
「――飛んだら楽になるのに」
一歩踏み出せば、数秒後に光の頭は叩き割られたスイカのように粉々になっているだろう。
地面の赤い染みになる自分を想像したが、正直それはあまり光を恐怖させなかった。
死ぬのも悪くないな、と思った。
どうせここには、いたくないのだから。
「――飛べよ」
もう一人の自分が、自分に命令する。
もう一度下を見る。
暗い裏道だった。
それは生温い温度の闇で、光の命がそこにぶち撒けられるのを待っているかのようだった。
光は柵に手を掛けてすらいなかった。
ちょっと席を立つような気軽さで死ぬことができた。
もう一度風が吹いた。
光はどのタイミングで飛ぼうかと考えた。
地面に着くまでの間に走馬灯は見えるのだろうか。見えたとして、そこにどんな景色があるのだろうか。自分のくだらない十六年をどれだけ詳細に見返したとしても、死の直前にプレイバックする価値のある場面なんてありそうになかった。
「――――」
もう一人の自分が何か言ってくるかと思ったが、無言だった。
光は溜息を吐くと、気怠げにビルの縁を蹴って、空中に身体を躍らせた。
もう一度光が目を開くと、そこにあったのは見慣れない天井だった。
今度は酷く暑かった。
タオルケットを身体から引き剥がして身体を起こす。そこは岩田屋町の伯父の家にある、自分の部屋だった。セミの声がしゃわしゃわとうるさいのは、家のすぐ裏が山だからだ。
脳の底に沈んだ自分の意識をゆっくりと引き上げる。何か酷い夢を見ていたような気がするが、その内容は思い出せない。
寝巻きのTシャツにびっしょりと汗をかいているのは、夢見が悪かったからなのか、暑さのためなのか判別がつかなかった。
光はベッドから立ち上がった。
その部屋はかつて自分の母親が使っていたものだった。
母親である
ただ、写真立てにある一枚の写真だけが母親の痕跡だった。
岩田屋高校の制服――今と同じデザインだった――を着た、高校生当時の母親の写真。
どんなシチュエーションで撮られたものなのかは分からないが、校門の前に佇むその姿はどこか所在なく見えた。子供である光が言うのもなんだが、影のある美人という感じだった。
その数年後にアイドルとしてステージに立っている時とは、まるで違うその表情は「ここにはいたくない」と目で訴えてくるかのようだった。
岩田屋高校を卒業した十八歳の浜岡美羽は両親や担任の反対を押し切って、進学も就職も決まらないまま、家出同然に東京へと旅立ったという。その頃からアイドルになるという目標があったのかは分からないが、一年後には小さな事務所に所属して、アイドルとしてデビューしている。
母が『浜岡ミハネ』としてデビューした一九九〇年代前半は、アイドル冬の時代と呼ばれていた。CDは馬鹿みたいに売れていたが、そのチャートには正統派女性アイドルの姿はほぼなかった。
浜岡ミハネは小さなライブ会場で歌い、ときどき深夜ラジオや深夜テレビに出演した。こつこつと活動を続け、少数ながらも熱いファンに支えられていたらしい。
一九九〇年代後半に入り、歌って踊れてかっこよくてかわいい――そんなソロアイドル歌手が次々に登場して人気者になっても、母のような正統派アイドルの立場はあまり変わらなかった。
そして二〇〇〇年の引退ライブを最後に母はマイクを置いた。
客席一面が真っ青なサイリウムで彩られたそのライブは、冬の時代を生きたアイドルファンにはちょっとした伝説になっているという。
光はその映像をビデオで――スタッフが資料用に撮影したものが母親の遺品の中にあった――繰り返し見てきた。
引退後の母については分からないことが多かった。
母は故郷である岩田屋町に戻らず、東京で一人で暮らしていたらしい。東京には母の姉である光の伯母も暮らしていたが、当時何の交流もなかったという。
どうやら母は海外に語学留学するための資金を貯めていたらしいが、詳しいことは不明だった。語学留学してアーティストとして再デビューするというプランがあったのではないかと伯父が言ってたが、それも実際はどうなのか分からない。
二〇〇三年、東京の病院で父親の分からない光を産んだ母は、その後すぐに心疾患で亡くなった。亡くなったという連絡を受けて東京に着いた両親――光の祖父母――はそこで初めて光の存在を知ったという。議論の末に、光は東京で暮らしていた伯母のもとに引き取られた。
このような過去を経て生まれ育った光にとっての母の姿は、残された映像と楽曲の中にしかなかった。
テレビの中で歌い踊る姿と、幾つかのCD音源。
それが光にとっての母の全てだった。
その動きと声が目に焼き付くまで、何度も何度も、ビデオがすりきれるまで映像を見た。
歌声だけでなく、全ての音が耳に染みつくまでCDを聴いた。
そして、今がある。
「――光殿が普段から、浅倉殿を超えるアイドル性を持つ存在と一緒にいれば、浅倉殿に動きを支配されることはなくなるでござる――」
忍の言葉が思い出される。
なるほど、それはそうかもしれない。光は母と一緒にいる訳ではないが、母の姿をいつも頭の中に思い描き続けてきた。それは常に一緒にいることと変わらないのではないだろうか。
光は頭の中に撫子を思い描いた。
セーラー服姿の撫子を、母と並べてみる。撫子の容姿はアイドルだった母と比べてもまったく遜色がない。それは間違いなかった。
――何よ。
想像の中の撫子が口を尖らせる。
忍が言う通り、撫子が他人の視線をひきつけるアイドル性の持ち主であることは疑いない。それによって戦う相手を支配して、自分の攻撃だけを当て続けるというのが撫子の強さの秘密らしいが。
もし、撫子がアイドルになったらどうなるのだろうか。
見る者を釘付けにする魅力が、そちらに振り向けられたら――
アイドル研究部の活動がどのようなものになるのかは分からないが、もしかすると、その答えを見ることができるのかもしれない。
不本意だわ――と想像の中の撫子がかぶりをふったところで、光は着替えて学校に行くことにした。夏休み前の授業日も、残りあと三日となっていた。
シャワーを浴び、朝食を急いでかきこんだ光は銀のママチャリ飛び乗り、爽やかな朝の岩田屋町を疾走する。田んぼの真ん中を走り抜けると、稲の香りがする風が心地よかった。すいすい進んで、次の角を曲がれば学校の手前の坂道に入る――というところで光は自転車を止めた。
止めずにはいられないものを見たのだ。
光が自転車を止めた数メートル先の道ばたで、一人の女性が膝をついて祈っていた。
金髪の女性だった。その髪の質感から、それが染めたり脱色したりしたものではないことが分かる。本物のブロンドだった。年齢は二十歳ぐらいだろうか。黒いオーバーサイズのシャツの裾を、涼しげなリネン混か何かのグレーのロングスカートに入れている。その姿は、見方によっては葬列に参加する人の格好のようでもあった。
女性が手を合わせて祈りを捧げているのは、道ばたにある石碑だった。
お地蔵さんぐらいのサイズの石碑に、読みづらいが「馬頭観音」と彫りつけてある。どうやら、かなり古いもののようだった。雨に洗われ、風に磨かれた石碑は、角が丸みを帯びて土台は苔むしていた。
女性は随分長い間手を合わせていた。
透明な朝の日差しが降り注ぐ中、一心に祈りを捧げる女性の姿は、まるで一枚の宗教画のようだった。
光は目を逸らすことができず、じっとそれを見ていた。
女性は最後にこちらに聞こえないぐらいの小声で何かを呟くと立ち上がり、光の方を振り返った。
「――浜岡光くんかしら」
金髪美女の青い瞳に見つめられ、しかも突然名前を言い当てられた光は、まるで石にでもなったかのように固まってしまった。
撫子とはまた違うプレッシャーを持った女性だった。撫子が心臓を掴むタイプなら、この女性は脳みそを掴むタイプだ――とよく分からない分析をする。
「私に何かご用?」
ふっと息を吐いて女性が表情を柔らかくした。別に獲って食べようって訳ではないのよ、と目が言っている。
「すみません、その、手を合わせてる姿があまりにも絵になってたので、つい見惚れてしまって」
「あら、そんな御世辞を言われても何も出せないわよ」
クスクスと女性は笑った。
「あの、なんで僕の名前を知っているんですか」
「私はあの学校の卒業生ですもの。ちょっとしたことだとしても何でも耳に入ってくるのよ」
と言って女性が視線で示したのは、坂の上の岩田屋高校だった。どうやらOGということらしい。年齢的には今年の春か、去年卒業したぐらいだろうか。
「なるほど、どんな形で耳に入ったのか怖いですけど」
女性は光の言葉には答えずに、じっと岩田屋高校の方を見ていた。その視線には様々な感情がこもっているように見えた。母校に対する懐かしさ以上のものが見え隠れする視線だった。
「その石碑は何なんですか」
女性の物思いを遮る形になって申し訳ないが、光は女性の足元にある石碑について尋ねた。
「これは馬頭観音の碑よ。この町の道端にはたくさん建っているわ」
「ばとうかんのん……」
聞き慣れない言葉だったが、観音ということは何か仏教的な意味を持つものなのだろう。
「お地蔵さんとはまた違うんですか?」
「同じように道祖神的な意味合いも持つけれど、それよりも動物の供養のために建てられていることが多いわね。その名の通り、馬の供養塔として」
女性の口からはスラスラと言葉が出てきた。
「馬ですか?」
「今じゃどこにもいないけれど、かつてはこの岩田屋町でもたくさんの農耕馬が働いていたのでしょうね。そんな馬たちが亡くなったときに、その魂の安らかなることを祈って建てられたのだわ、きっと」
光は周囲を見渡した。人家ばかりで馬小屋はもちろん、馬が働くための田畑もなかった。百年前、二百年前はどうだったのだろうか。この女性が言うように、この町にもたくさんの馬がいたのだろうか。
「この地方でこれだけ道端に馬頭観音の碑が建っているのは珍しいのだけどね。かつて奥岩田屋には馬頭観音を祀ったお寺もあったらしいわ。今じゃダムの底だけど――」
奥岩田屋村にある岩田屋川ダムのことだろう。この町の地図をスマホで見ているときに見つけたことがあった。
「馬頭観音――サンスクリット名ハヤグリーヴァはヒンドゥー教ではヴィシュヌ神と呼ばれる最高神よ。ヴィシュヌ神が馬の首をつけて悪魔を倒したという伝説があるから、それと関連があるのでしょうね。怒りによって諸悪を粉砕する、馬の頭を持った菩薩。それが本来の馬頭観音ね」
「じゃあお姉さんは、馬のために祈ってたってことですか」
大昔に死んだ馬たちに祈りを捧げていたというなら随分スケールが大きな話のように思われたが。女性は光の言葉を聞くと、一瞬視線を夏の空に彷徨わせた。
「――どちらかというと、もっといろいろな生き物達のために祈っていたって感じかしら」
「いろいろな生き物……?」
「この町で命を落としていった、無数の生き物のために」
もしかすると女性のペットの犬か猫がそこに含まれるのかもしれないと光は思った。だから、動物供養のためのこの石碑に手を合わせているのだろう。だが、それも違ったらしい。
「私は岩田屋高校セイブツ部の元部長だから」
こちらを見て“部長”という言葉を発するときに、女性が少し胸を張ったように見えた。
生物部の部長だから、死んでいった生き物のために手を合わせる。分かるような、分からないような話だった。
「ごめんなさいね、混乱させてしまって」
「あっ、いや、こちらこそ」
どうやら頭の上に飛んでいる疑問符を見抜かれてしまったようだ。
「ええ、疑問符だけじゃなくて、なにやら別のモノもあなたのすぐ傍に飛んでいるようだけど――」
すっと女性が目を細めた。
その視線に射抜かれて光は呼吸を止める。
「それに関しては私からはノーコメントよ。あなた自身で解決することだわ」
さて、と女性は腕時計を見た。
細いバンドの高級そうな時計だった。夏の陽光を反射して光るそれには、いくつもの宝石がついているようだった。
「私はもう行くわ。飛行機の時間もあるし、他に会いたい人もいるから」
女性は空を見上げた。そこを飛行機が飛んでいるという訳ではなかったが。光もつられて視線を空にやる。
高く蒼穹が広がっていた。
「――あ、あの」
光はこの女性に聞くべきことがたくさんあるような気がしていた。さっきの“飛んでいる”に関しても、詳しく話を聞きたい。ひと目見ただけで、一体光の何が分かったというのだろうか。
「私が答えられるのは、私が『計算』できる範囲のことだけよ。ここから先、この町で起こることは、あなた達の力でなんとかしなければならないわ、浜岡光くん」
「えっ――」
先回りするように言った女性は最後に悪戯っぽい笑顔を見せると、
「たとえどんな選択をしたとしても、後悔だけは残さないように。 ――じゃあ、浅倉撫子をよろしくね」
と言って、そのまま呆然とする光を置いて立ち去ってしまった。
光はしばらく経ってもその場を動くことができなかった。その白昼夢のような出来事の余韻を打ち消したのは、光が遅刻したことを告げるチャイムの音だった。
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