【結城】12 重なりあう二人
アイがどんな嘘をついているのか、結城は尋ねなかった。
結城にとっては、自分を一度切り捨てたアイが、理由はどうあれ戻ってきてくれたことが嬉しかった。あの時、アイが列車の中からどんな心情でLINEを打ったのかは結城には分からない。きっと事情を聞いても、すべてを理解することはできないだろうと思った。だがその後、「この男に会わない方がいい」という理性の声を無視するだけの何かが、アイの中にあったのだ。
走る車の中、アイは助手席で一言も発さずに座っていた。
その表情は結城には見えない。
結局、競馬を見に行くという予定はキャンセルされて、ただひたすら岩田屋地区をぐるぐるとドライブしていた。
岩田屋町から上岩田屋町に入ると、いよいよ田舎という感じになった。
道の両サイドの水田は緑によって満たされている。
山の向こうには入道雲がもくもくと立ち上がっていた。
「ここがゆーきくんが生まれた町なの?」
ぽつりとアイが言った。
「いや、俺の地元は山を越えた向こう側にある町だよ」
そして、こことそんなに変わらないよと付け加えた。
「いいところだね」
アイの言葉は、駅で会ったときよりはかなり柔らかくなっているように思われた。普段のアイの調子に戻りつつある。
「いや、北海道のほうが綺麗じゃない?」
アイの生まれ故郷は確か、札幌の近くだったはずだ。
「――うん」
「今度、北海道に行きたいな。そういえば今、函館開催だよね。競馬は」
「今日は函館記念だよ」
宝塚記念の後は、いわゆる“夏競馬”の時期になる。開催地は東京や京都のような主要な競馬場から、函館や札幌、新潟や小倉などの全国各地にある競馬場に移っていく。
実績馬の多くが休養期間に入り、重賞もハンデ戦が多くなることから、難解だと言われがちなのが夏競馬である。
今日は函館競馬場でG3函館記念が行われる。このレースもハンデ戦で、予想は難しいとされている。
「俺、夏競馬の予想は結構得意だよ」
「えーっ、うそ」
「いや、本当本当」
「ゆーきくんって、いっつもロマンが先走るのに」
アイの声に少し張りが出てきたように感じられた。
「いや、ロマンは大事だよ。ロマンがなきゃ競馬じゃないよ」
「ふふ、ゆーきくんはそればっかりじゃん」
ふっと息を吐き出すような笑いでも、アイにそれが戻ったのが嬉しかった。
「信じるに足らないものを信じるっていうか、たった一点でもそれを信じるに足る何かがあるなら、それを信じてみるのもおもしろいんだよ」
それが競馬だ。
そして、きっと、人生にもそういう一面があるのだ。
アイも結城の言葉の端に、そういうニュアンスがあると受け取ったのだろう。
しばらく黙った後に、
「そうだね」
と呟くように言った。
車内の空気がゆっくりと優しいものに変わっていく気がした。
結城は上岩田屋町の端にある道の駅で車を停めた。アイは「メイク直してくる」と言い残してトイレに歩いていった。結城も車のエンジンを切って、外に出た。
一心不乱に鳴くクマゼミたちの声と、両手で持ち上げられそうなぐらい湿度を含んで重たくなった熱い空気。濃い緑の山々の上には、高く青い空が広がっている。
もう本格的に夏だった。
結城は自販機でペットボトルのお茶を二本買って、隣に設置されている地図に目をやった。岩田屋地区全域がデフォルメされた、名産品や野生動物で彩られている楽しげな地図だった。
岩田屋町。上岩田屋町。奥岩田屋村。このまま県道を進めばダム湖に辿り着くようだが、さすがにそこまで行くつもりはなかった。ここで折り返して、岩田屋町に戻るとしよう。
「おまたせー」
アイが戻ってきた。メイクを直したから……というだけではないだろう。アイの表情はずいぶん明るいものになっていた。
「えっ、なになに。人の顔見て笑って」
アイが赤面して両手で顔を隠す。我知らず、結城は笑っていたらしい。
「いや、かわいいからつい」
「なにー! ゆーきくん、そんなの言うキャラだっけ?」
アイは恥ずかしそうにそそくさと車のほうに歩いて行った。待ってよと結城もその後を追いかける。エンジンを切っていたのは一瞬でも、車内はあっというまに灼熱になっていた。火傷しそうなぐらい熱くなったハンドルを握って、結城は自宅を目指して出発した。
お昼は『コーヒーショップ・香』のカレーをテイクアウトした。店内で食べてもよかったのだが、今は二人で静かな場所に居たい気がしたのだ。
結城の部屋は北東の角にあって、カーテンを開けてもなんとなく薄暗かった。
クーラーのスイッチを入れる。急冷モードにすると、クーラーはすごい勢いで冷気を吐き出しはじめた。畳の上のコタツ机に、カレーの入った容器を置く。その横にコンビニで買ったコーラを氷といっしょにガラスコップに注いで置いた。
「結構部屋、綺麗にしてるんだね」
アイが部屋の中をぐるりと見て言った。
「いつもこんな感じだよ」
大嘘を言い放つ。
一個だけしかない座椅子をアイに勧めて、結城は畳の上にあぐらをかいた。
ジャンパースカートのアイは、宝塚記念のときよりも大人の女性の雰囲気を漂わせていた。座椅子に横座りすると、身体のラインが強調されてそのスタイルが際立った。
自室の真ん中にアイが座っているという、とても現実とは思えない光景に、結城の頭はくらくらした。
アイはテレビボードの端に置いてあるサボテンを見ていた。
その横顔が、すぐ近くにあった。
テレビでもつけようかと思ったが、それよりもアイの顔を見ていたくなった。
無音の時間が流れて、結城の視線に気がついたアイが振り向いた。
「なになに」
アイは少し照れている。
「かわいい」
結城は囁くように言った。
「かわいくない」
アイはそっぽを向いた。
結城は手を伸ばしてアイのうなじの辺りに触れた。汗が冷えたのだろう。肌の湿り気を感じた。
「かわいい」
もう一度繰り返す。
アイが無言で振り返ったときの目を、結城は生涯忘れないだろうと思った。
その目は、無防備に他人に飛び込もうとする人間の目だった。これまで店で見てきたあの悪戯っぽい目とは全く違う、芯の部分から繋がりを求めようとする人間の目だった。
結城は心臓が溶けていくような感覚をおぼえた。そして、本当に深い場所から呼び起こされるような、自分の欲望の声を聞いた気がした。
アイと繋がりたかった。
その瞬間、アイと結城のこれまでの過去や、これからあるかもしれない二人の未来の関係は全て消え失せて、今という時間だけがその場に横たわった。
「――アイさん、好きだよ」
「私もだよ」
何が嘘で、何が本当か分からない。
それでもたった一つ明らかなことがあった。
「アイさんがここにいてくれて嬉しい」
その言葉を聞いたアイの頬に一筋の雫が伝った。
「ゆーきくんがそばにいてくれて嬉しい」
結城の頬にも同じように涙が流れていた。
ゆっくりと顔を寄せて、口づけをかわした。
うがい薬の匂いがしない初めてのキスだった。
クーラーはもう寒いぐらいに効いていて、机の上ではコーラを入れたコップが汗をかいている。
冷めていくカレーを気にもせず、畳の上で二人はむさぼるように身体を重ねた。
「――もう月曜だ」
薄っぺらい布団の中でアイと裸の身体を絡め合いながら、結城は独りごちた。
身体を密着させていなければ寒いのだ。クーラーが効きすぎて。
暗闇の中、枕元のスマホをつけて確認すると、時刻は午前零時をちょうど過ぎる頃だった。
昼過ぎからずっとアイと布団の中に居た。泣きながら求め合っては休み、休んでは泣きながら求め合いを繰り返して、お互いの身体の境界線もよくわからなくなるぐらいの時間を過ごしていた。
いつの間にか函館記念も終わり、日も暮れ、そして日付も変わった。
「カレーおいしかったね」
布団の中から顔をひょっこり覗かせたアイが言った。
「うん」
空腹に耐えかねて夕方に食べたのだったが、それも随分前のことのように思えた。
「お店のほうも行ってみたい」
「行こうか、今度」
アイは布団の中で猫のように身体を丸めた。
「ゆーきくんは普通に仕事だよね」
「そうだね、明日から……ってもう今日だけど、仕事だよ。アイさんは?」
「私は仕事は大丈夫」
何がどう大丈夫なのかは分からないが、行く必要はないということなのだろう。
「じゃあ明日からもここにいる?」
そう尋ねると、アイはまた布団から顔を出して、
「いる」
と言った。
「ずっといてもいいよ」
「ずっといる」
言った瞬間、アイはずるっと鼻をすすった。暗くて見えないが、泣いてるのだろう。
「もーっ涙腺が馬鹿になってる。ほんといやんなる」
鼻声でアイが言った。
「いいよ、泣いて」
「ゆーきくんも泣きまくりだし」
実際、お互い脳のどこかが壊れたのかというぐらい些細なことで泣いていた。
「俺のは嬉し泣きだから」
「えー、なにそれ」
二人で笑って自然と抱き合った。
「俺は仕事に行くからさ、アイさんは好きに過ごしてて。自転車置き場に自転車があるから使ってよ」
「ほんとに? じゃあこの町を探検してみる」
「そんなに楽しい町じゃないけどね」
「そんなことないよ」
暗闇の中響くアイの優しい声は、結城の心の底まで届いた。シャワー浴びなきゃな、そういえば、ワイシャツ、クリーニングに出してたっけ、だんだんと、眠気が、結城を包んでいく。
おやすみなさいという、甘い声が聞こえた気がした。
結城はこの上ない安心感の中で眠りに落ちた。
「おはようございまーす」
北村がオフィスに入ってくると『たのまち課』のエンジンに火が入ったように感じる。北村からはそういうプラスのパワーが発散されているのだと、結城は思っていた。
「結城さんおはようございます……って目の下、すごい隈ですね。大丈夫ですか?」
「ああ、最近ちょっと寝不足で。でも大丈夫、ありがとう」
隣の席に座った北村はノートパソコンを開いてメールチェックを始めた。
『岩田屋にくにくフェスティバル』の開催が、一日また一日と迫ってくる中、たのまち課の仕事は忙しさを増していた。
「北村さんも無理しないでね」
何気なく放った一言だったが、驚いたように北村がこちらを振り返った。北村は何も言わなかったが、その顔には「こいつ、そんな気の遣い方ができるヤツだったっけ」と書いてあった。
「ありがとうございます。『にくにくフェス』まであと少しですからね。もう一踏ん張りしますよ」
細い腕をぐっと曲げて力こぶを作るポーズをする北村。
「うん、がんばろう」
結城もノートパソコンを開いてメールチェックを始めた。
アイが家に来てから既に五日が経とうとしていた。
家に帰ればアイがいる。
別に新妻よろしく手料理を作って待ってくれている訳ではないが、毎日二人の時間があるという事実は、結城の生活に信じられないほどの彩りと充実感を与えてくれていた。
二人で料理を作ったり、夜のドライブをしたり、テレビを見たり、ドラッグストアでちょっとした日常の買い物をしたり。
そして、夜の営みの甘さは筆舌に尽くしがたいものだった。
戯れに「コスプレでしたい」と結城が言ったら、アイはスーパーの衣料品コーナーでスクール水着を買ってきた。
何がどうなったかは別に詳しくは語らないが、とりあえず最終的にはお互いが「そんなに!?」と言い合う事態となった。思い出すだけで結城の身体はどんどん前屈みになる。
その日も午後五時になった瞬間に、結城はオフィスを飛び出して帰路についた。
まだ明るい中帰宅すると、アイが「おかえりー」と出迎えてくれた。アイはTシャツに短パンというリラックススタイルだった。
クーラーの効いた部屋に入ると、テーブルには焼鳥の包みがあった。どうやら夕飯に買ってきてくれたらしい。
「今日は何してたの?」
結城が尋ねると、冷蔵庫からビールとコーラを取り出しながらアイは、
「探検してたよ!」
と言った。
岩田屋町を自転車で探検するのがアイの暇潰しになっているらしい。
二人で並んで座り、焼き鳥を食べる。アイは結城にもたれ掛かるように座っている。座椅子はやんごとない理由で壊れてしまったので、部屋の隅に片付けられている。座椅子の上で二人分の体重があっちに行ったりこっちに行ったりすると壊れるので皆も気をつけて欲しい。
アイがスマホを取り出して、今日探検しながら撮った写真を見せてくれた。アイはセンスがあるらしく、本当にこれは岩田屋町の写真なのかと思うような、美しい構図の写真をいくつも撮っていた。
「これは神社の写真」
写っているのは山手の方にある稲妻禽観神社の境内だった。鳥居や社殿を様々な角度から、夏の日差しが作り出す陰影を利用して美しく切り取ってあった。
「すごいね。綺麗に撮れてる」
「めっちゃ可愛い巫女さんもいて、その子も写真撮りたかったんだけど、NGだったよー」
がくーと言いながらアイがうなだれる。ショックだったらしい。
「お参りはしたの?」
「もちのろん」
アイは何を祈ったのだろうか。聞きたいなと思った瞬間にアイが言った。
「ゆーきくんの早漏が治りますようにって祈願しといた」
「ヘイヘイヘイヘイ」
アイのほっぺたをつまむ。大福のように、ふにゅっと柔らかい感触だった。じょーだんだよじょーだんとアイは笑う。
「でもさ、本当にいい町だよね。この岩田屋町って」
「――そうかな」
自然も豊かだし、歴史を感じるお寺とか神社もあるし、買い物するところも困らないし、美味しいお店もあるし、あ、この焼き鳥屋さんも偶然見つけたんだけど、めっちゃ美味しいよね、とアイは続ける。
「なるほどなぁ。住んでいる人間にはよく分からないところもあるんだろうな」
「外から来たからこそ分かることってあると思うのよ」
『たのしいまちづくり課』という名前の課で仕事をしている結城だったが、実際に町の楽しさを感じることはあまりないというのが現実だった。
こうやってアイに聞かされて気づくことも沢山ありそうだった。
「それにさ、写真には撮れなかったんだけど――」
アイは結城に向けて、満面の笑みを浮かべて言った。
「この町って、めっちゃいっぱい馬がいるよね。自転車で走ってたら、田んぼの中に放し飼いみたいな感じでさ、じーっと立ってたよ」
すぐどっかいっちゃったけど、牧場とかあるのかなぁとアイは楽しそうに続ける。
結城は何も答えられず、話を聞いていた。
――おん あみりと どばんば うんはった そわか――
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