【結城】11 馬鹿な男

 八畳の真ん中ですっかり万年床となった布団の上で、結城は身をよじった。


 結城の住んでいるアパートは、職場である岩田屋町役場からは車で十分ほどのところにある。周囲は水田と畑で、結城の部屋は一階にある単身者向けの1Kだった。歩いて五分のところにコンビニがあって、結城にとってはそれが生命線となっていた。


 時刻は午前九時前だったが、すでにじわりと暑かった。


 結城は寝転がったまま、布団の周囲にものの中からエアコンのリモコンを探り当てて電源を入れた。

 しばらくするとエアコンからゴォーと冷気が吐き出される。

 次はテレビのリモコンを探り当てて電源を入れる。

 エアコンの音だけが響いていた部屋に、テレビからの音が弾けるように広がった。来週に迫った東京オリンピックに関する番組だった。去年あった爆破テロ事件の影響で、東京と名古屋の分散開催になるオリンピックだが、世の中の盛り上がりは高まっているようだった。

 会場ボランティアをするというおばあちゃんがニコニコとインタビューに応えているのを、結城は他人事のように――実際他人事だが――見つめた。映像はただ目を滑っていった。


 結城はテレビを消して枕元のスマホを手に取った。

 新着の通知は特にないようだった。

 画面を消灯し、仰向けに寝ている自分の胸の上に置いた。


 天井を眺めていると、昨夜の北村の言葉が結城の胸によみがえってきた。


「――でも、そういう仕事をしてる女性の彼氏さんって、自分の彼女がそういう仕事をしてるって知っても、受け入れられるんですかね」


 結城は自分に問いかけた。

 もし、自分がアイの彼氏になったとして、受け入れられるのかどうか。


 現状はどうだろうか。アイが他の客とプレイすることに対してどう思っているのだろうか。他人宛の写メ日記を見たときの、あの胸がジリジリと焼けるような気持ちを結城は思い出した。嫉妬のようであり、それはある種の興奮の材料のようでもあった。


 自分の知らないアイを知っているの存在がそこにはある。その誰かの前で、自分の知らない表情で、自分の知らない嬌声をあげるアイの姿が脳裏に浮かび上がった。


 それは結城を興奮させた。


 アイも言っていたが、自分は妙な性癖をこじらせているのかもしれない。


 結局こんな風に思ってしまうのは、アイをまだ自分のほうにたぐり寄せて考えられていないからではないのだろうか。


 実際に付き合えばどうなるのか。

 実際に彼氏と彼女になれば。

 アイと結婚すれば。


 甘いミルクのようなアイの姿を、現実の一人の人間へと置き換える。


 そうすると、今感じている無責任な興奮は遥か後景に退き、風俗嬢――あるいは元・風俗嬢――としてのアイが、生活の一部となって結城の隣に存在する世界が浮かび上がる。


 そうなったときに、他人と身体の交わりを繰り返すアイをどう思うだろうか。


 アイが風俗をとして、過去にそういったことがあったことをどう思うだろうか。


 結城は断崖絶壁に立たされたような気分になった。アイに対して感じているものが、嫌悪へと変質する瞬間がくるのではないだろうか。彼女を受け入れられないと考えてしまう自分がそこにはいるのではないだろうか。


 深く沼の底へ沈み込むような想像を振り払って、結城はアイとの競馬場での一日を思い返した。


 同じものを見て、同じものを食べて、互いの笑顔を目に焼き付け合った一日を。 


 あの日はセックスどころかキスもしなかった。


 しかし、あの一日は結城にとって人生の中で重大な意味を持っているように思われた。プラトニック・ラブなんて言葉は、鼻で笑ってしまいそうになるが、そこにあったのは限りなくそれに近い親愛のようなものだったと結城は信じたかった。


 自分がアイのことを好きなように、アイも自分のことを好きでいてほしい。


「――ナチュラルに暴言ですよ、それ」


 突然、頭の中で北村の険のある声が再生された。想像の中の北村は続ける。


「結城さんは結局、女性を自分より下に見てるんですよ」


 夜道を走る、暗い車の助手席に座った北村は言った。


「だから風俗嬢が好きで仕事をしていて欲しい、快楽の奴隷であって欲しいなんて思うんです」


 想像の中の北村は、抑揚のない声で結城を糾弾する。


「ほかの客に嬲られて感じてる彼女の姿を想像して興奮するなんて、女を馬鹿にしてますよね。自分が快楽の奴隷だからって、他人もそうあって欲しいなんて思わないほうがいいですよ」


 北村の声は、鋭利な刃物のようだった。

 停まった車の運転席のシートに埋まるように、結城は身体を倒す。

 その上に、凹凸の少ない北村の身体がまたがっていた。枝のような細い手が結城の胸に当てられている。


「ねえ、結城さん。あなたは本当に一人の人間として、その人のことを考えられるんですか」


 北村は一糸まとわぬ姿になっていた。暗闇の中に北村の白い裸体が浮かび上がる。薄い彼女の胸が目の前にある。北村の目は静かに結城を見据えている。


「――あなたは女をなんだと思ってるんですか」


 妄想を中断させたのは、胸の上に置いたスマホのバイブレーションだった。


「やっほー(えがお)(えがお) 土曜日だね(おはな) ところでゆーきくんってひとり暮らしだったっけ(はてな) 明日●●県の地方競馬を一緒に見に行って、その後ゆーきくんの家にお泊まりするのってどう(はてな)(はてな) もし無理だったらビジホに泊まるよ(ぐっど)(きらきら)」


 アイからのLINEは、目覚めてから今までの思考の軌跡を、時速150キロで爆走するダンプカーのように全て粉砕して世界の向こう側へと弾き飛ばしていった。

 小学三年生程度の思考力になった結城は、もちろん泊まれるよ、と入力して送った。



 明日来る。


 アイが来る。


 結城は全力で部屋の掃除に取りかかった。まず万年床と化した布団を押し入れにあげ、畳に掃除機をかける。スティックタイプの掃除機のダストボックスは一瞬で満杯になった。


 風呂、トイレ、キッチン。優先順位をどうつけるか悩んだが、とりあえず玄関に近いところから始める。風呂用の洗剤がなかったのでコンビニに走って買ってきた。帰ってきてから気づく。トイレ用の洗剤も切れている。観念した結城は車を走らせて、県道沿いのドラッグストアへ行き、お掃除グッズを大量に買い込んだ。


 とりあえず目に見える汚れは全て落とす。


 キッチンは普段あまり使っていない――コンビニ弁当ばかり食べているからだが――ので、案外綺麗だった。勢いのままに冷蔵庫の中身も片付けていく。神話の時代からの生き残りみたいな食材達を全てゴミ袋に放り込んでいくと、一リットルパックの麦茶ぐらいしか残らなかった。


 グラビア目当てに買った週刊漫画雑誌の山を片っ端から縛って押し入れにぶち込む。上からゴミ袋を被せて、押し入れを開けたとしても見えないようにする。戯れに買った卑猥な一人用の大人のオモチャも名残惜しいがグッバイだ。


 土曜の夕方には部屋は綺麗になったが、だからこそ明らかになったことがある。


 なんというムードのない部屋だ。


 結城はスマホで「男 一人暮らし ムード」と検索する。「これがヤれる部屋だ!」というアホみたいなタイトルのブログ記事がヒットした。なるほど、間接照明と観葉植物か。まだホームセンターは開いているはずだ。結城は車に飛び乗ると勇ましく発進した。


 笑いがこみ上げてきた。


 朝はあんなに暗澹たる気持ちだったのに。


 会えると言うだけでこんなにも楽しい気持ちになるなんて。


 結城のゼスト・スパークが閉店間際のホームセンターの駐車場に滑り込む。

 結城は小さなサボテンと、部屋の隅に置くルームランプを二つ買った。

 部屋に戻ってセッティングしてみると、今朝までは何かの収容所のようだった結城の部屋が、ちょっとおしゃれな空間へと変貌した。

 あとはなんだろうか。

 車の洗車か。


 そもそもアイは何日ぐらい結城の部屋に滞在するつもりなのだろうか。本人にLINEで尋ねるのが一番確実だが。


 時刻はもう午後十時になろうとしていた。慌ただしく一日を過ごした結城は、自分が随分空腹だとそこで気づいた。コンビニに行って何か買ってくるか、近所の『コーヒーショップ・香』に行ってカレーでも食べるか。迷った末に結城は前者を選んだ。カレーはアイと食べるのもいいかもしれない。


 Tシャツに短パンの結城は、財布とスマホだけをポケットにねじ込んでアパートの外に出た。むわっとした夏の夜の空気が結城を包む。


 水田からは絶え間なくカエルの鳴き声が聞こえてくる。アマガエルのケロケロという声だけでなく、何という種類かも分からないカエルのゲッゲッという声も混ざっていた。


 今まで何百回と歩いた道だった。

 少ない街灯を辿ってコンビニを目指す。

 遠くに見えるコンビニはまるで夜の海に浮かぶ不夜城だった。


 と。


 ――おん あ■りと どばんば うん■った そわ#$%&――


 突然、耳元で捻れた機械音声のようなが聞こえた。


 結城は心臓を鷲づかみにされたように驚いて、その場で振り返った。


 何もいなかった。


 ただ、岩田屋町の夜の闇だけが広がっている。


 結城は辺りを何度も見回す。それでも何も見つけられなかった。


 空耳にしては、はっきりとしていたが。

 結城は恐る恐るまた歩き出した。一番近くの街灯の下まで辿り着く。明かりが少し結城の心を安堵させてくれた。霊感なんてないタイプなんだけどな、と結城は胸中で独りごちる。


 街灯の下には、石碑のようなものがあった。今まで何度もこの道を通っていた結城だったが、初めて気がついた。大きさはお地蔵さん程度だった。随分古いもののようで、彫りつけられた文字はよく分からない。


 ただ、石碑に彫られた一番上の文字が「馬」だということだけが分かった。馬の神様か何かだろうか。


 家に帰ったら調べてみようかな――


 結城はとりあえずコンビニへと向かい、からあげと鮭のおにぎりを買って帰路についた。家でそれらを平らげる頃には、石碑のことなどもう頭になかった。


 興奮でなかなか寝付けなかった夜が明けて、日曜の朝になった。

 雲一つ無い快晴で、爽やかな朝だった。今年は例年より遅く鳴き始めたセミたちが、「今日からは本気出す」という感じでやかましく鳴いている。


 アイは朝一の高速バスで●島県に着いた後、JRに乗って岩田屋駅まで来るという。そこから結城の車に乗って、隣県に地方競馬を見に行くという算段になっていた。


 結城はLINEに送られた、乗り換え案内のページのスクリーンショットを眺めた。

 「これに乗るよ(えがお)」ということらしい。

 アイが到着するまでは、まだ三十分以上あるが、結城は岩田屋駅前の駐車場に車を停めて、車内で待っていた。


 岩田屋駅は去年から無人駅になっていた。駅舎は綺麗なのだが、切符売り場にも改札にも、職員の姿はなかった。こうやって地方の駅はどんどん無人化されていくのだろう。先日、迫水課長が「もし大きな土砂崩れでもあって線路が大きく損壊したら、そのまま廃線にされるかもしれないな」と言っていた。それが予言にならないことを祈るしかない。


 車はエンジンを掛けっぱなしにしてあった。結城は暑さを覚えてクーラーの設定温度を下げた。しかし、あまり下げすぎても、アイが嫌がるかもしれない。


 結城は助手席を見た。


 ここにアイが座るのかと思うと、奇妙な感慨と静かな興奮が結城の胸に去来した。

 結城の愛車であるゼスト・スパークは、古い車なのでブルートゥースなどついていない。カーステレオからはAMラジオが流れていた。ローカル芸人が地方局の女性アナウンサーと掛け合いをしていた。その軽妙なトークも今の結城の耳には入らなかった。


 結城はぼんやりと目の前の景色を眺めていた。

 ちょうどフェンス越しに駅のホームが見えた。上りの列車が来て、一人の乗客も下ろさずにまた出発した。休日の朝だというのに、岩田屋駅は静寂に包まれていた。


 今日のアイはどんな格好で来るのだろうか。

 連続で競馬場でのデートということになるが、またカジュアルなスタイルだろうか。

 アイの笑顔を思い描く。

 今日も楽しくなる予感しかしない。競馬を見終わったらどこで何を食べよう。どこか予約しておくべきだったかなと今更になって思う。

 そんな気持ちの高まりの中に。


 一本の針のように打ち込まれている。


「――でも、そういう仕事をしてる女性の彼氏さんって、自分の彼女がそういう仕事をしてるって知っても、受け入れられるんですかね」


 北村の言葉が。


 自分はアイを受け入れられるだろうか。昨日中断した妄想が、また再開しそうだった。アイが自分をどう思っているのかも分からない中で、こんなことを考えるのも馬鹿馬鹿しいのかもしれない。


 そう、アイにとって自分はただの友人でしかないのかもしれない。


 友人ならまだいい。ただの便利な男。暇つぶし要員。何人もいる男の中の一人でしかないのかもしれない。むしろ、そうである公算の方が高いのではないか。


 自分が舞い上がってるだけで、アイにとっての自分は何者でもない。


 結城は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。


 そもそもソープランドの客と嬢という関係で出会ったのだ。そこから何が始まるというのか。本当の恋愛がそんなところからスタートするとでも?


 冷静な思考が、金属でできた網のように結城の心を絡め取って深いところに引きずりこもうとしていた。


 だが、あの日の光景が。


 イルミネーションの前で天真爛漫な笑顔を見せるアイの姿が。


 結城の心を引き留めていた。

 結城はあの日言えなかった言葉を、言わなければいけないと思った。自分の心の弱さのために言えなかった言葉を。


 そんな葛藤する結城の頭を横殴りに張り飛ばすようなLINEがアイから届いた。


「ゆーきくんごめん なんかおじいちゃんが死にそうみたいだから帰らないといけなくなった  ごめんね」


 その瞬間、結城と結城の周りにあるすべてのものが凍りついた。


 ――ああ。


 ――――そうか。


 ――――――――そうなのか。


 全ての思考がキャンセルされて、ゴミ箱にぶち込まれていった。


 送られてきた文字列をそのままの意味で受け取ろうとする理性と、そこから伝わってくる言外の意味を受け取った本能が、結城の中で静かに、激しくぶつかり合った。


 ――だよな。


 だよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよなだよな。


 そう、だよな。


 


 結城の心に大きな穴が空いて、その穴が全てを飲み込もうとしていた。


 おじいちゃんが亡くなりそうなら仕方がない。


 ――って、こんな見え透いた嘘ないだろ。

 前会ったとき言ってたよ。おじいちゃん、もうどっちも亡くなってるって。


 こんな直前になって、びっくりするほど雑な嘘をついてドタキャンなんて。


 結城は何かが切断される音を確かに聞いた。それはアイが自分を切り捨てた音だった。


 いや、何か事情があるのかもしれない。

 家族の急病とか。昼職の都合とか。

 本当にあの世から蘇ったおじいちゃんが、また死にそうになっているのかもしれない。


 アイの言葉を少しでも理性的に受け止めようと――少しでも信じようと――頭を働かせるが。


 違う。


 恐らくアイも冷静になったのだろう。知らない男の――好きでもない男の家になんて泊まれないと。

 身の安全を考えれば、妥当な判断だ。

 妥当だ。

 そう、


 勝手に自分だけが舞い上がって、悩んで、勘違いして、バタバタして――馬鹿みたいに。


 ――本当に馬鹿みたいに。


 ――――馬鹿な男が、ソープ嬢に恋をして。


 結城は奈落の底に突き落とされたような気分でスマホを握りしめていた。ハンドルに頭を叩きつける。身体がわなわなと震えていた。


 頭の中にいる冷静なもう一人の自分が「まあ落ち着けよ、何か急用ができたんだよ。早く返信しろ。また次の機会にねって」と嘯く。


 だが、本能が告げていた。


 アイに会えない。


 


 涙がぽたぽたとこぼれた。

 恥ずかしいほどの嗚咽が漏れた。


 アイからのLINEはそれきりで、続きは何も送られてこない。

 結城は寂しさと情けなさの塊となって、ずっと車内でうずくまっていた。


 アイが乗っていたはずの下り列車がホームに到着する。結城はそれを見られなかった。

 想い人を乗せていたはずの列車は、もはやただ、その不在を告げるだけの悪魔と化していた。


 短い停車時間で列車はホームから出ていった。


 結城はのろのろと顔を上げる。

 涙でぼろぼろになった顔でホームを見る。


 そこに、アイが立っていた。


 なぜかアイも泣いていた。


 結城は転がるように車外に飛び出て、駅舎の中に走り込んだ。

 涙で顔をグズグズにしたアイが、無人の改札を抜けて走り出てきた。ジャンパースカートを着て大きなボストンバッグを持ったアイは、家出少女のようだった。


「――ゆーきくん、ごめん。本当に……ごめん。私、ゆーきくんに、言わないといけないことが……たくさんある。私は、嘘つき……だから――」


 涙目のアイは、思い詰めたような表情で言葉を紡いだ。


 結城はアイの前に立った。


 全身の力が抜けていくのを感じた。


「――いや、いいんだ。今、アイさんがここにいることが全部のこたえだよ」


 緊張から解放された結城の耳に、セミの声がシャワーになって届いた。

 その向こう側で、運命のレールが切り替わる音がした気がした。


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