【結城】06 宝塚記念
「正直、ヤクザが来ると思ってた」
と言うと、アイは爆笑した。
結城が始発の高速バスに揺られてJR大阪駅のバスターミナルに着いたのは、午前八時半過ぎだった。バスターミナルから直結のJR中央出口の改札前で、結城とアイは落ち合った。
大きな柱にもたれるようにアイは立っていた。
アイは白い薄手の五分袖パーカーに、色の抜けたデニムというカジュアルな格好だった。その意外なファッションも含めて、初めて店の外で見るアイの姿は、結城の目に新鮮に映った。ちょっとカジュアル過ぎて幼く見えなくもない――が、そもそも27歳女性の普通のファッションがどのようなものなのか、結城には分からなかった。
とりあえず結城は変に気取ってジャケットを着てこなくて良かったとホッとしていた。結城はいつものTシャツとデニムだった。
結城を見つけると、アイは抱えていたジャンスポーツの黒いリュックサックを背中に負って笑顔で手を振った。
結城も手を振り返しアイの元へ駆け足で近寄った。
そして最初の言葉になる。
「ヤクザの知り合いなんていないから!」
ゆーきくんおもしろすぎとアイはケラケラと笑い続ける。
「いや、本当にちょっとビビってたんだよ。『ウチの女に何手ェ出してんだ?』って怖いお兄さんが来てさ」
「もしかしたら来るかもよ、今から」
「えっ」
冗談冗談行こ行こと言いながらアイは結城の背中をばんばんと叩いた。それでも阪急線のホームに着くあたりまで、結城はいつ怖いお兄さんに背後から肩を叩かれるかと怯えていたのだが。
アイと並んで歩くだけで、その非現実感に頭がクラクラした。
アイの歩幅は思ったよりも小さくて、ニューバランスのスニーカーで隣をとことこ歩くのが可愛かった。半袖パーカーはアイのボディラインをあまり拾わないようなサイズ感だったが、それでも胸の大きさははっきりとわかった。今自分は、とんでもない巨乳の女の子と並んで歩いている。
二人は小豆色の阪急電車に乗って阪神競馬場を目指す。
「さすがG1だ。梅田からもう人がこんなにいっぱいだなんて」
宝塚記念は本日の第11レースである。発走はまだ6時間以上先だが、既に電車は人であふれていた。結城の地元ではまず遭遇しないレベルの乗車率である。
「まだマシなほうだよ。はっきり言って現地はこんなもんじゃないからね!」
「げっ」
果たして競馬場デビューがこんな大きなレースの日でよかったのかと結城は少し心配になった。
電車の中で身を寄せ合っている二人は、周りからはどう見えているのだろうか。まさかソープ嬢と客だとは思われないだろうが。
結城がそんなことを考えているとは全く知らないアイは、スマホの画面を熱心に見ている。
何かと思ったら天気予報だった。
「昨日見たときは雨予報だったけど、どうやら今日はこのまま降らないみたいよ」
それは重畳。二人のデートにはぴったりの天気だね――と言いたいところだったが。
「じゃあ、また予想し直しかな」
「どんだけ乾くのかなぁー馬場」
うーんとアイが眉根を寄せる。雨と晴れではレースの展開が大きく変わってくる。水を含んだ重たい馬場が得意な馬もいれば、逆の馬もいるのだ。
そもそも宝塚記念というのはタフなレースだ。年末の有馬記念と同じく、人気投票で選ばれた強豪馬達によるグランプリである。春競馬の締め括りのレースであり、梅雨時の開催のため、荒れた馬場での戦いになることはしばしばだった。また、雨が降らないなら降らないで、蒸し暑さが馬達の敵となる。あまりの暑さで熱中症になる馬が出たこともあるほどだ。こうなると予想も一筋縄ではいかない。思わぬ伏兵が主役の座を攫うこともあるレースだった。
「やっぱりラバーソウルじゃない?」
結城は昨年末の有馬記念の覇者であり、目下一番人気の馬の名前を挙げた。
「確かに、馬場が乾くならなおさら来そうだもんね。でもさ、私はラバーソウルは春秋グランプリ制覇って器か?って思うわけよ」
「ほほう」
アイの見立てでは、ラバーソウルは有馬記念と宝塚記念を両方制覇できるほどの強さはないということらしい。
「有馬の時はみんなノーマークだったじゃん? そりゃ大阪杯のときは強かったけどさ」
「あれで有馬のはフロックじゃないって証明したと思うけどな」
「うーん、みんなそう思ってるよね。だからさ、大阪杯の後の春天は凡走でも、今回一番人気でしょ? それだったら私の本命はやっぱりインビジブルレインかな」
アイが名前を挙げたのは、大外枠に入った牝馬――メスの馬――だった。今回出走する多くの馬はG1レースの常連であり、直前に走ったレースはG1である春の天皇賞や大阪杯という馬が多い。そんな中で、インビジブルレインの前走はG2の目黒記念だった。しかも勝っている訳でもない。クビ差の2着ではあったが。
結城はスマホを取り出してインビジブルレインの現在の人気を調べた。今は13頭中8番人気である。
「いや、来たらアツいけどね」
「でしょー! 来ると思うんだけどなー」
西宮北口駅で乗り換えて仁川駅に近づくと、いよいよ完全に満員電車という感じになってきた。
結城は自分の身体を楯にしてドア側にいるアイを守るように立ってみた。慣れない動作で、自分でもぎこちないなと感じた。アイはそんな結城の体に「彼女ですが」という顔で自然な様子で密着している。
密着どころではないことをお店では何度もやっているのに、結城は初めて女子の手に触れた中学生男子のようにドキドキしていた。
仁川駅から阪神競馬場までは、直結の通路を通って移動する。満員電車から解放されたが、それでも周囲の人混みは驚くほどだった。
歩いているのはまさに老若男女。競馬というスポーツが、幅広い層に支持されているのだと結城は実感していた。
「なになに、もう感動しちゃってるの。まだ中に入ってないのに」
セリフだけ取り出すと、ちょっとエッチだなと結城は思った。
「いや、もう既に来て良かったなって思ってる」
結城の言葉を聞いてアイは誘った甲斐があったよと、にっこり笑った。
通路の壁に飾られた名馬たちの写真にも感動したし、実際に門をくぐって競馬場に入った瞬間にも感動した。
しかし、結城を一番感動させたのは場内に入ってすぐのところにあるパドックだった。
パドックとは、次のレースに参加する馬たちを、客が下見するための運動場だ。小さなトラックになっていて、スタッフに引かれた馬たちがそこを周回する。
これまで競馬中継で何度も見てきた阪神競馬場のパドックだったが、実際にこの目で見ることになろうとは。
パドックの周りには場所取りと思しき人間もちらほらいた。朝からずっとメインレース前まで粘る覚悟なのだろう。持っているバズーカのようなカメラで、グランプリに出走する駿馬たちを撮影するに違いない。
今パドックを周回しているのは未勝利の若駒達だ。まだ何者でもない彼らだったが、それでもその馬体は輝いて見えた。
「もっと近くで見よ」
目の前の光景に呆然とする結城の手を、アイがギュッと握って引いた。
「いや、えっ」
「行こ!」
存外力強く、アイは結城を引っ張っていく。人混みを縫って近くまで寄ると、競走馬の迫力のある肉体を間近で感じられた。
その息遣いや汗まで分かるのだ。
サラブレッド。
それは三頭の祖から生み出された、走る芸術品だった。より速く、より強く、比類なき存在を目指して血統のバトンを受け継ぐこと宿命付けられた存在たち。
その隆々とした筋肉と、しなやかな動き――まだ抑制されていてコース上に解き放たれる時を待っている――は、彼らが持つ圧倒的な力をまざまざと感じさせた。
経済動物。
家畜。
そんな言葉では片付けられない存在だと結城は感じた。
「ね、やっぱり生が一番でしょ」
これもセリフだけ取り出せばちょっとエッチに聞こえたが、今はそんなことは考えられないぐらい結城は感動していた。
アイはそんな童心に帰った結城の顔を、満足気に見ているのだった。
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