2020年【結城】07 大丈夫とだけ言った

 最後の直線で、その牝馬は並み居る強豪馬をまとめて撫で斬りにして、グランプリホースの栄冠に輝いた。


 宝塚記念を制したのはインビジブルレインだった。


 結城とアイは身動きすら危うい満員のスタンドで、その瞬間を見た。


 最後のコーナーで外から一気に前方に進出したインビジブルレインは、一番人気のラバーソウルらを抜き去り、悲鳴とも歓声ともつかない絶叫がこだまするメインスタンド前を先頭で駆け抜けてゴールしたのだった。


 正直よく見えなかった。


 何もかもが一瞬の出来事だった。


 しかし、この興奮を結城は生涯忘れることはないだろうと思った。


 アイと抱き合ってすごい!すごい!すごい!と我を忘れて叫んだことを、きっと一生の思い出とするのだと。


「で、今は中華料理屋で祝勝会ってワケなのよ」


「……誰に言ってるの」


 虚空に向かってキメ顔をするアイに向かって、結城はツッコミを入れた。


 二人は今、JR大阪駅に併設された商業施設内にある中華料理屋で夕食を食べていた。


「今日は私のおごりだからさ! 遠慮なく食べてね! 追加でどんどん頼も!」


 興奮気味の笑顔でアイがメニューを広げる。店の奥にある二人のテーブルにはすでに炒飯や餃子の載った皿、小籠包の入った蒸籠、そして飲み物も並んでいた。


「いや、それは悪いよ」


「ふふふふ今夜の私は超太っ腹なのよ。なんてったって馬連とワイドと三連単、しっかり取ってるからね!」


 アイが胸を張ると、パーカー越しでもその飛び出し方はなかなかの迫力だった。


 インビジブルレインを本命にしたアイは、馬券も完璧と言えるレベルで的中させていた。こんな会心の馬券、一年でそう何度もないだろうという当て方だった。


「ホルモン焼きも“かすうどん”も美味しかったし、グッズも買えたし、最高のレースも見れたし、馬券も当たったし、今日は本当に言うことないですな?」


 アイは生中のジョッキを傾けてゴクゴクと音を立てて飲んだ。少し日焼けしたその細い首を見ると、ビールが喉を通過していく様子がなんとなく官能的で結城は唾を飲み込む。


 アイは本当に嬉しそうだった。


 酒が飲めない男――大学時代にコップ一杯のビールで何度もゲロの海に沈んて悟った――である結城は、ジョッキのウーロン茶を飲みながら相槌を打つ。


「いや、本当に最高だったよ。今日は誘ってくれてありがとう」


「ぜんぜん! 私も一人で見るよりは誰かと見たほうが楽しいしね。もともと宝塚記念を見にくる予定はあったから。それに――」


「それに?」


「ゆーきくんが本当に競馬好きなのは、何回も会って分かったから。私と話を合わせるために好きだって言ってるんじゃなくて、本当に好きなんだなって。だから一度生で競馬を見て欲しかったのよ」


 アイはまっすぐに結城の顔を見た。その瞳に射抜かれて結城はドキリとする。その瞳の奥にある純粋な感情が伝わってきたかのようだった。


「私も初めて競馬場に行ったとき感動したんだ。こんなに競馬場って広いんだ、こんなに馬ってかっこいいんだってさ。ジョッキーもあんな凄いスピードで走る馬に乗ってるんだって思ったら、どんな騎乗しても文句なんて言えないよね……ってそれは言っちゃうけどさ! ははは。まぁそれは置いておいて、テレビで見るのも楽しいけど、生で見るからこそ気付くこともいっぱいあるんだよね、ほんと!」


「いや、それはすごく感じたよ」


 想像を超える競馬場の広大さ。走る彫像がごとき競走馬たちの美しさ。それを操るジョッキーの巧みな技術と勇敢さ。

 ――それだけではない。思い思いにその日を楽しむ一人一人の競馬ファンや、レースを成立させるために見えないところで働き続けるスタッフ達の存在。

 そして何より、熱狂と祈りが飛び交うレースそのものの圧倒的な祝祭感。


 これらは実際に競馬場に来てみなければ気付かないことだった。


「うんうん、ゆーきくんの今日の様子を見たらよく分かるよ。完全に反応が幼児だったから」


「いや、幼児って」


 いいんだようんうんとアイは頷く。まだ二杯目だが、もう酔っているのだろうか。


「なんかさ、綺麗なものとか楽しいものを共有したいっていう気持ちって大事だよね。私は今回伝える側だったけどさ、本当に心が温かくなったもんね」


 結城は誰かが言っていた『花が咲いているのを見たときに、それを一番に伝えたいと思った相手があなたの好きな人です』という言葉を思い出していた。


 あるいは、道ばたで拾った綺麗な小石を母親に真っ先に見せにいく子供――それこそ幼児の姿を。


 アイが結城に競馬場の楽しさを伝えようとしてくれた。


 その事実だけで、結城は幸せだった。


 ――あなたの大事なものを私に教えてくれてありがとうございます。


「実はさ、ちょっと緊張もしてたんだよね。全然楽しんでくれなかったらどうしようって」


「いや、そんなの」


 ありえないでしょと結城は心の中で続ける。アイと出かけられるだけで楽しいのに、行き先が競馬場だなんて最高だ。


「ゆーきくんってさ、あんま笑わないじゃん。お店とかでも。だからどうなんだろうって思ってたの。でもさ――」


 アイがテーブルの向こうから結城に向かって身を乗り出した。薄手のパーカーの下で、胸がゆさっと揺れる。パーカーの紐が餃子のタレに付きそうだ、とどうでもいいことを思った結城の頬に、アイはぴたりと細い人差し指を当てた。


「今みたいに、今日はいっぱい笑ってるから安心した」


 ニコッとアイが微笑む。

 結城は神様に祈った。

 この瞬間は。

 この瞬間だけは、自分とアイを本当の恋人同士にしてください。


 アイは何事もなかったかのように椅子に座り直すと残っていたビールを飲み干した。


「追加頼む?」


「うーん、もういいかな。あ、ウーロン茶欲しい」


 結城は店員を呼び止めてウーロン茶を頼んだ。

 アイは購入したグッズを入れたビニール袋を手に取り、


「これ、ゆーきくんに買ったんだった」


 と、一本のボールペンを取り出した。


 それはレースが始まる前に買った、宝塚記念出走馬の馬番ボールペンだった。


 13番のインビジブルレイン。


「買うときに『そうなったらいいな』って思ったけど、本当にグランプリホースになるなんてねぇ」


「いや、こんなのもらえないよ。凄く貴重じゃない」


「だからいいんだよ! はい」


 アイは強引にボールペンを手渡した。

 女性からのプレゼントなんていつ以来だろうか。母親以外からのものなんて、もしかしたら初めてかもしれない。


「俺からあげられるようなものは、何もないのに」


「いいのいいの気にしないで。いつもこっちが貰ってるから」


 結城が普段アイにあげているものなんて差し入れのドリンクとお菓子ぐらいだし、払っているお金はプレイの対価である。


 複雑な気持ちで結城はボールペンを自分のショルダーバッグに仕舞った。


「あ、じゃあさ、インビジブルレインのぬいぐるみが発売されたら買ってよ。アイドルホースシリーズのやつ」


「それぐらいお安いご用だよ」


「やったね! 楽しみにしとく!」


 競走馬のぬいぐるみは定番のグッズだった。今回勝ったインビジブルレインのぬいぐるみは確実に発売されるだろう。


「ゆーきくん、インビジブルレインの写真撮ってる?」


「パドックのやつ? ちょっと遠いけどあるよ」


 結城はデニムのポケットからスマホを取り出して操作すると、人垣の向こうからなんとか撮影したパドックを周回するインビジブルレインの写真を表示してアイに見せた。


「めっちゃ綺麗じゃん! 送ってよ!」


 うんと頷いてLINEで写真を送信する。


 改めて見ると、本当に惚れ惚れするような馬体だ。大柄ではないが均整が取れており、黒鹿毛の毛並みも美しい。画面をスワイプして撮影した他の馬の画像も見てみる。さすがG1のパドックだけあって、どの馬も最高に仕上がった馬体だった。素人目にはどの馬も勝ちそうなオーラを放っているようにしか見えない。


 そう、どの競走馬も本当に美しい。


 それでも血を繋いでいけるのは一部の勝った馬だけなのだ。

 血のバトンを受け継ぐことを使命としながら、それを果たせる馬は多くはない。

 残酷な競走馬の宿命だった。


 もし自分が競走馬だったらどうだろうか。


 未勝利のまま、結城家のサイアーラインを断絶させることになるのは確実だった。

 『人生の未勝利馬』という笑えないフレーズが結城の脳内に去来する。


 今はそんな益体もないことは考えなくていいんだよとばかりにさらに画面をスワイプしていく。そして気づく。


 今日、二人で撮った写真は一枚もなかった。


 別に撮りたいなんて思っていた訳ではないけど、ないことに気づいてしまうと少し悲しくなってしまった。

 結城は中央競馬のマスコットであるターフィーくんの着ぐるみに抱きつくアイの写真をLINEで送信してあげた。


「あ、ターフィーくんありがとう! これもいい写真! ツーショットって一人で行くと撮れないんだよねー」


 そうやってアイがニコニコしてくれることが結城にとっての救いだった。


 さすがに全額出してもらうのは申し訳ないと固持する結城を押しのけて、アイは中華料理屋の支払いを全て一人で済ませた。よゆうよゆう!と笑っているアイに結城はありがとうと手を合わせることしかできなかった。


 結城が乗る帰りのバスまではまだ少し時間があった。中華料理屋を出てそのまま解散することもできたはずだが、アイは見送るよと言ってくれた。


 特にすることのない二人はぶらぶらと散策しながら時間を潰す。


 駅ビルを上に向かって移動していくと、五階にちょっとした広場のような空間が現れた。それはJR大阪駅に隣接する商業ビルと百貨店をホームの真上で繋ぐ橋梁として設けられており、ホーム全体を覆うように設置されている大屋根の真下に位置していた。


 あたかも空中に浮かぶ展望台のような雰囲気で、見渡せばホームから出発する電車がよく見えた。

 広場の南北にはレトロなデザインの金色の時計と銀色の時計がそれぞれ配置されている。結城にはそれが、この場所を訪れる人々の別れの時を宣告する神様か何かのように思えた。


 広場には「サマー・イリュージョン」と題されたちょっとしたイルミネーションが設置されていた。あまり人気がないのは時間帯的なものによるのか、それとも季節感からなのかは結城には分からなかった。


「わあ! きれいにしてあるじゃん!」


 アイは小走りでイルミネーションに近づいていった。


「見て! 地面の色が変わる!」


 あんまりはしゃいだら転ぶよ、と声をかけたくなるぐらいのテンションだった。

 アイがぴょんぴょんと跳ねるその足下で、青いLEDライトの色が緑に変化していった。アイの姿は、草原で遊ぶ若駒のようだった。アイの地元は北海道だと言っていたが、子供のころのアイもこんな風に野原で遊んでいたのだろうか。


 結城はゆっくりとアイに追いついた。


 アイは何か言ってほしそうに、光るLEDパネルの上で『けんけんぱ』のようなことをしている。結城はその小さな後ろ姿に対して、どんな言葉を掛ければいいのかを考えた。


 楽しい、いやデートの後に、イルミネーションの前で。


 結城が生粋の素人童貞だとしても、ここで言うべきセリフがどんなものなのかは分かっている。酒で火照っているのか、アイの横顔は少し赤く見えた。


 たった一つの気持ちを伝えるための、数千の言葉が結城の頭の中を駆け抜けていく。最後の直線の馬群のように。


「――アイさん」


 意を決して口を開く。

 その言葉を聞いて振り返ったアイの姿は、結城にとって天使そのものだった。

 そんな天使に対して結城が口にすべき言葉はたった一つのはずだった。

 だが。


「――写真撮ってあげようか」


 結城は最後の最後で、紡ぐべき言葉を変えてしまった。ゴール板の手前で隣の馬にかわされる馬のように、生まれるはずだった大切な言葉はつまらない言葉に抜き去られていった。


 アイはその言葉を聞いて目を細めると、大丈夫とだけ言った。

 

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