【結城】04 世界で一番楽しい場所
アラームが最後の五分を告げている。
延長した三十分も、あっというまに過ぎ去ってしまった。
アイと結城は、先程まで二人であられもない姿を晒して転がり回っていたベッドに、並んで腰掛けている。シーツの汚れてしまった部分には、オレンジ色のバスタオルが被せられていた。
「ごめんね、ゆーきくん。なんかこっちが無理矢理延長させちゃったみたいになってさ」
やかましいキッチンタイマーのアラームを止めながら、アイが申し訳無さそうな顔で言った。既に着替えを済ませて裸ではなくなっている。黒のロングドレスはアイによく似合っていると結城は思った。否が応でも強調される胸元は大きく開いており、美しいその谷間は惚れ惚れするほどだった。
「いや、いいよ全然。こっちもすぐ元気になっちゃったし」
「めっちゃおっぱい見ながら言ってるから説得力あるね!」
「そうかな」
少し気まずくなって結城はアイの胸から目を逸らした。
結城も既に着替えており、両手で残りが少なくなったウーロン茶の缶をもてあそんでいる。この店でしか見たことがない謎の飲料メーカーのウーロン茶だった。ラブホテルに置いてあるペットボトルの水みたいなものだろう。
いつもはアラームが鳴ってからばたばたと慌てて着替えることが多いから、こうやってゆっくりと終了を待つのは新鮮だった。並んで座っているので結城の二の腕にアイの二の腕が触れている。結城はロンTの生地越しにその柔らかさと温度を感じた。二の腕の感触は胸の感触と同じだというが、アイの胸は二の腕とは次元が違う柔らかさだ。
「いっぱい話もできたし、一緒に競馬も見れたし、今日は本当に楽しかったよ。いつも来てくれてありがとうね」
アイはにっこりと笑って感謝の言葉を口にした。
「いや、ぜんぜん。こちらこそありがとう。三連単取れてよかったね」
「ふふふふふー思ったよりついたよーん」
『ついたよ』とは、お金になったよ、ということだ。一着のワンダーエグゼは二番人気だったが、二着のフレンドシップは八番人気で、三着のラストロックは十二番人気だった。一着から三着を順番通りに的中させる三連単を当てるのはそう簡単なことではない。
アイはベッドサイドテーブルに置いてあったスマホを手に取る。そして、的中したネット馬券の画面を見せてくれた。結城はその払い戻し金額よりも、スマホを見せてくれるということ自体にちょっとした興奮を覚えた。
それは少し前のiPhoneで、画面の右下端にヒビが入っていた。本体を覆っている黒い耐衝撃のソフトカバーはリング付きで、国民的人気ロールプレイングゲームに出てくる青いモンスターのシールが貼られている。かわいらしさよりむしろ、男らしさが感じられる佇まいだった。
「あっ、LINE教えようか」
「えっ」
結城がまじまじとスマホを見ていたからなのかは分からないが、アイが唐突に提案した。
「ゆーきくんLINEやってる?」
「いや、やってるけど」
やってるけど、いいのだろうか。風俗歴の長い結城だったが、嬢と個人的に連絡先を交換したことはなかった。『姫予約』などといって、お店を通さず客と嬢との個人的な連絡手段を使って予約を取るというシステムもあるにはある。だが、結城には未知の世界だった。
そうか、営業用のLINEってやつか。
キャバクラなどではよくあると聞いたことがある。嬢から客に、来店を求めるメッセージを送る。嬢は客からの恋愛感情――あるいは性欲――むき出しのメッセージをひらひらとかわしながらやりとりを続け、金払いのいい客をキープする。そんな感じらしい。
アイがそういうタイプのマメさを持っているのは意外だった。公式サイトの写メ日記の更新すら適当なのに。
「あっ、営業用とかじゃないから」
結城の顔にそう書いてあったのか、アイが先回りして否定した。
「そうなの」
「うん、私そういうのしたことないし」
結城もウーロン茶をテーブルに置き、デニムの尻ポケットから自分のスマホを取り出して、LINEの友達追加画面を――普段ほぼ使わないので――もたもたしながら起動した。アイのスマホに表示されたQRコードを結城はカメラで読み取った。
『まゆみ』という見慣れない名前が現れた。
「本名?」
かもね、とアイは苦笑いした。結城は追加ボタンを押した。LINEに登録された結城の友達の数が十二人から十三人になった。
「そっちからなんか送って」
結城は『まゆみ』に「なんか」とだけ書いて送った。送られてきた「なんか」を見てアイは笑った。帰ってきたのはスタンプだった。猫のキャラクターが「お願いします」とお辞儀をしている。
「追加したよ」
晴れて二人は連絡先を交換した。
女性と連絡先を交換したのはいつ以来だろうか。恐らく一昨年、職場の同僚と事務連絡用にLINEを交換したのが最後だろう。私的な物に限れば、人生初かもしれない。結城は初めてアイを指名したときのような胸の高鳴りを感じていた。うれしい。
たとえ営業用だとしても――さっき本人が否定したが――これでアイとつながっていられるという事実が結城にとっては喜びだった。
アイは県外からの出稼ぎ嬢である。
出勤は一ヶ月に数日で、公式サイトの出勤日を見落とすと、その月は会えないこともある。気づいて店に電話しても予約完売で悔しい思いをしたこともあった。
LINEで出勤日を教えてもらえれば、もうそんな思いをすることはない。もしかしたら件の『姫予約』もできるかもしれない。
「なになにめっちゃ嬉しそうじゃん」
「いや、それは嬉しいよ」
「なんかかわいい」
アイは結城のほっぺたを指でつんつんとつついた。そして立ち上がる。黒いドレスが薄暗い照明の中で、アイの白い肌を強調していた。開いた胸元は光ってすら見えた。歩くと栗色の髪がふわりと揺れる。結城は改めてその姿に見惚れた。
「――あ、アイです。お客様帰られます」
アイは部屋の入り口の内線電話でフロントに連絡をした。退店するお客同士が鉢合わせしないために、風俗店というのはこういうシステムになっているのだ。
ぎしぎし言うフローリングの上を歩いて結城は部屋の入り口まできた。
名残惜しいが、今日はもうおしまいだ。
薄暗く、ヤニ臭く、風呂を使えば湿気が抜けず、床は腐りかけていたとしても、結城にとっては『みるくあっぷ』のこの部屋が、この世界で一番楽しい場所だった。
結城は汚れたスタンスミスをつっかけて、アイと腕を組んでその世界で一番楽しい場所の外に出た。
廊下に出ても薄暗いのは変わらなかった。もともとの色が何かも分からなくなりつつあるカーペットの上を通って二人はエレベーターに乗った。
部屋に負けず劣らず古ぼけたエレベーターだった。アイと初めて会ったのもこのエレベーターの中だった。指名された嬢はこのエレベーターの中で客を待つことになっていた。出迎えるのもエレベーターで、お別れするのもエレベーターだった。きっとこのエレベーターは何百、何千、何万の男女の出会いと別れを見てきたことだろう。
もう一分と経たずにアイと別れることになる。結城の寂しさは、組まれた腕を通してアイに伝わっているだろうか。結城は首を振ってアイの顔を見た。アイはにこにこしている。これはもちろんプロ意識によるものだ。最後の最後まで笑顔で接客するという。
こちらの視線に気づいたアイがこちらを見る。背の高さの違いから、見上げる形になる。結城は上目遣いのアイの目に吸い込まれそうだった。
アイは顎をあげてキスをせがんだ。
これもプロ意識。
他の嬢だってやっている。
アイも他の客に対してだってやっている。
結城はぎこちなくそれに応える。風俗で何十人――もっとか――の女の子とベッドを共にしても、こういうキスはうまくならないのだ。
口づけは、さっき二人で使ったうがい薬の味がした。
結城はそれ以外の口づけの味を知らなかった。
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそありがとう」
きっとこのエレベーターの中で何万回と繰り返されてきたやりとりだった。儀礼的なものだが、結城のありがとうは本心でしかなかった。エレベーターが一階に着き、組まれていた腕がほどけた。
二人の間に空間が出来てしまったことが結城を悲しくさせた。
ドアが開き、結城はエレベーターの外に出る。
「またね」
とアイが笑顔で小さく手をふる。結城がそれに「じゃあ、また」と返している間にドアは閉まった。今、結城はどんな顔をしているだろう。恋人と別れた男の顔か。母親とはぐれた子供の顔か。
店の出口で黒いスーツを着た店員が「アイちゃんとのお遊びはいかがでしたか」と慇懃な笑顔で尋ねてきたので、結城は「最高でしたよ」と早口で応えて店の外に出た。
梅雨の晴れ間のまぶしい日差しと焼けたアスファルトの熱が結城を襲った。
最後にシャワーを浴びたときに濡れてしまった襟足に不快感を感じながら、結城はまだ明るい歓楽街を歩き、もう営業を始めているラーメン屋に入った。
結城は風俗の後はガツンとしたラーメンを食べると決めていた。失ったエネルギーを得たいからなのか、何も考えずにすすれるからなのか。
お冷やを三杯も飲み、ニンニクの効いた特製肉玉ラーメンを半分程食べたときだった。
良く言えば余韻に浸っている――悪く言えば搾り出しすぎた直後でボケている――結城は、難しいことなど何も考えられない。快感の残滓と、疲労感に包まれていることしかできない。
そんな結城の脳を破壊するようなLINEがきた。
『まゆみ』からだった。
「さっきはありがとうねー(きらきら) ところでさ、来週いっしょに宝塚記念見に行かない(はてな) 梅田駅集合って大丈夫かな」
これがデートの誘い以外のものでなければなんなのか。
結城の頭の中は真っ白になった。
右手に箸、左手にスマホを持ったまま石化したように動かない結城の前で、特製肉玉ラーメンはゆっくりと伸びていく。
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