2020年【光】01 約束でも交わしたかのように

 ――女子高生がパンツもはかずに自転車に乗ることなんてあるのか。


 自転車ごと川にダイブする直前に、浜岡光はまおかひかるの脳内によぎったのはそんな考えだった。


 浜岡光は二日前に東京からこの岩田屋町に引っ越してきた十七歳の男子だった。


 彼が川に向かってダイブすることになったのは、世話になる叔父の家から100メートルと離れていない潜水橋の上からだった。水鏡川に掛かるその橋は、増水時に川に水没するように設計されている。そういうタイプの橋を潜水橋とか沈下橋とかと言うのだと、光は伯父から聞かされていた。欄干のない潜水橋は、少しでもハンドル操作を誤れば、自動車だろうが自転車だろうが川に向かって落下するはめになる。特にこの橋のように、車同士がすれ違うことすらできないような狭い潜水橋ならなおさらだ。橋のへりにはちょっとした段差があり、その上に申し訳程度に反射板などが付いていて、なるべく川に落ちないようにしてくれているのだが、勢いがついていれば関係ない。


 実際、光は勢いがついていた。


 槻本山の麓にある伯父の家から、今日から通うことになっている岩田屋高校までは自転車で三十分は掛かる。荷物の中から制服を探し出すのに手間取ったせいで出発がずいぶん遅れていた。


 転校初日から遅刻はヤバい。


 光は納屋に置かれた銀色のママチャリ――もともとは伯父が田んぼを見に行くのに使っていたらしい――にまたがると思い切りペダルを踏み込んで出発した。


 母屋と納屋からなる大きな伯父の家の敷地から飛び出す。

 周囲には隣に家が一軒あるだけで、あとはただただ田んぼしかない。

 七月の朝の空気は静謐だった。青々とした田んぼの緑は目に痛いぐらいだ。


 ママチャリは踏んでも踏んでもなかなかスピードに乗らなかった。それでも田んぼの真ん中の農道を、少しずつ速度を上げながら突っ切っていく。顔に感じる初夏の風の心地よさを楽しむ余裕は光にはなかった。


 一旦堤防の上に上がってから――いきなり登りかよ!と毒づきながら上がったのだが――水鏡川に架かる潜水橋に向かってU字に曲がった道を下っていく。


 ありがたい。


 下りでスピードに乗る。身体を斜めにしながらコーナーを曲がる。そして潜水橋という名の直線に、銀色の弾丸となって突っ込んでいく。


 目の前の水鏡川の川幅は30メートルもない。岩田屋川と合流する辺りではもっと広くなっているが、この辺りでは渓流の雰囲気すら感じさせた。

 透明感のある水は、川の中心で緑色の深みを作っている。

 その上に架けられた年季の入ったコンクリート製の潜水橋は、数十年間増水の度に水没しながらも、住民にとってのライフラインとして常にそこにあったのだろう。いや、そんな感慨にふけっている場合ではない。


 光はペダルを踏み、銀色のママチャリをさらに加速させていった。

 自転車ならば橋の真ん中を走っている限り、転落することなどない。


 ――よほどヘマをしたら別だろうけど。


 そんな考えがよぎった瞬間、光は川の対岸から、自分と同じように自転車を必死に漕いでこちらに向かってくる影があることに気がついた。


 女の子だった。


 セーラー服を着ている。


 長い黒髪をなびかせて、赤いクロスバイクを立ち漕ぎしている。


 そんなに背は高くなさそうだ。顔はびっくりするほど整っている。今は必死の形相のはずだが、それでも美人であることに疑いない。


 そうやって、顔まで見えるほどの位置まですでに近づいていた。


 これ、まずくないか。


 遮蔽物のない橋の上である。通行する人も自転車も、二人以外にない。女の子の方もこちらに気がついているはずだが、全く減速する気配はなかった。そういう光も減速などしていないのだが。


 お互いがこのままのコースを維持すれば激突は必至だ。だが、この潜水橋も自転車二台がすれ違えないほど狭いわけではない。光はスピードを緩めぬまま、少しだけ左に進路をずらした。アイコンタクトなどなかったが、こちらの意思が通じたのか、女の子は右側に進路を寄せた。


 よし、いける。


 約束でも交わしたかのように、二台の自転車は互いに加速した。


 水鏡川の流芯の上、潜水橋のど真ん中で二人は今まさにすれ違う。


 槻本山の濃い緑のグラデーション。堤防に生い茂る草がなびく。川原の葦。消波ブロック。古い潜水橋。透き通る水鏡川。


 その時だった。


 風が吹いた。


 まだ穏やかな朝の時間帯に、こんな突風が吹くのかという風だった。


 まるで、かのような疾風だった。


 その風が女の子のスカートを思い切りまくり上げた。


 紺色のプリーツスカートが、"全開"といってもいいぐらい舞い上がる。


 ヒカルの目は、そこに釘付けになった。


 そこにはあるべき布がなかった。


 女の子はノーパンだった。


 ひきしまった白い太ももと、その付け根の鼠径部と、何にも覆われていない丘。


 浜岡光は十七歳だった。

 そして童貞だった。


 ネット上の動画以外で初めて見るその部分から目を逸らせない。


 一秒にも満たない時間だったはずだ。気がつけば女の子は目の前にいる。自転車は止まらない。から視線を上げると、女の子は綺麗な瞳を真ん丸にしていた。ネコみたいでかわいいなと光は思った。


 ハンドル操作を誤るのは必定だった。


 銀色のママチャリは光を乗せたまま勢いよく潜水橋の縁の段差を乗り越えて、そのままのスピードで水鏡川の流芯に突き刺さるようにダイブした。 

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