2020年【結城】03 そのまま

 「えっ、ちょっと時間!」


 突然アイが、がばっと跳ね起きた。時間――すなわちお店によって定められたプレイ時間が過ぎてしまったというのだろうか。

 終了五分前を知らせるタイマーはまだ鳴っていないが……というところで結城も気がついた。


「あ、もうメインレースが始まる時間だ」


 アイは裸のまま部屋の真ん中に置かれたテーブルまでぴょんぴょん跳ねていくと、リモコンを手に取った。部屋には小さい液晶テレビが置かれている。横倒しになったカラーボックスの上に載ったそれは、ベッドからでも見えるようになっていた。


「気がついてよかったー!」


 アイはテレビの電源を入れて、こっちのチャンネルって関西といっしょだよね?と言いながら間髪入れずにリモコンを操作し、チャンネルを変えた。画面に美しい緑の芝生とスタートゲートが映った。


 競馬場だった。


 騎手を背にした馬たちが、一頭また一頭とゲートに入っていく。「各馬スムーズなゲートイン」と実況のアナウンサーの声が聞こえる。


「一緒にこれを見るために、この時間に予約してくれたんだよね」


 リモコンを手にしたアイがるんるんとベッドに帰ってくる。その胸ではゆさゆさと二つのミルク色のココナッツが揺れている。アイは横たわっている結城に覆い被さるようにしてベッドに戻った。結城はアイともつれあいながら身体を起こしてベッドにあぐらをかいた。アイもその背中にぴったりくっつくように座る。吸い付くような肌の感触。


 競馬は二人の共通の趣味だった。


 結城は二年前に県内の場外馬券売り場を訪れて以来、その魅力に気付いて熱心に競馬を見ていた。

 そんなに大金を賭ける訳では無いが、重賞レースを中心に馬券を購入して楽しんでいる。そもそも風俗で金を使い過ぎていて、大金を賭けようにも賭けられないのだが。

 予想スタイルは血統を中心にした我流のチャンポンで、当たったり当たらなかったりだった。結城は別にギャンブラーではない。その証拠に他のギャンブルにはまったく手を出さない。パチンコや競艇には興味がないのになぜ競馬にだけハマったのかと理由を問われれば、”神のみぞ知る”ならぬ”馬のみぞ知る”というブラックボックスが残されているからだと結城は思っている。


 決して人の手では解明できないもの。競走馬という人間ではないものが介在していることが、競馬の魅力だった。


 人知を超えるような強さの馬や、伝説と呼ばれるようなレースを目にすることさえある。


 ある時、たまたまプレイ後のピロートークでそんな話をしたら、アイは


「えー! 私も実は結構競馬好きなんだよね!」


と目を輝かせて言ったのだった。話を聞けば、アイは結城よりも競馬ファンとしてベテランだった。しかも結城がテレビや場外馬券売り場で競馬を見ているのに対して、アイは実際に競馬場を訪れてレースを見ることもしばしばあるという。

 結城がネットの動画でしか見たことがない名レースを「あーあの時はさー」と現場の雰囲気も交えて語ってくれるのだ。


 中央競馬のレースは基本的に土日開催である。結城は二人でその日のメインレースのテレビ中継を見るために、わざわざ日曜の14時から120分の枠を予約したのだ。


 出走する全ての馬がゲートの中に収まった。アイがぎゅっと結城に抱きつき、肩に顎を乗せた。柔らかい双丘の感触が背中に伝わり結城は少し嬉しくなる。次の瞬間ゲートが開き、人馬一体となった16の塊が脈打つように飛び出した。「スタートしました。綺麗なスタート」とアナウンサー。


 東京競馬場第11レースのスタートだった。


 ほんの短い芝生の上――といっても150m以上あるのだが――をわずかな時間で走り抜けた馬たちは、砂の地面のコースに入っていく。このレースは東京競馬場のダートコースで行われている。反時計回りのこのコースは、しばらくはまだ直線が続く。


「あっ……あっ。あっあっ」


 突然アイが喘ぎだした訳ではない。アイと結城はこのレースの馬券をネットで購入済みである。自分の馬券に絡む馬たちが、思ったような位置取りができたのかをアイは気にしているのだ。


「あーっ、よしよし。いいよいいよ」


 アイが声を弾ませる。アイの本命馬は緑帽子の騎手を背に、縦長になった馬群内の前方に位置していた。黒味ががった毛並みの大きな馬だった。スタートダッシュに成功したようだ。アイの抱きつく力が強くなった。


 一方結城の本命馬である黒帽子の栗毛馬は後方から追走する形になっている。今はそれでいい、と結城は頷いた。


 芝生を抜けてダートに入ってからの長い直線は、テレビの画面上だとよく分からないが、途中までが登りになっている。そしてその登り坂を下った先に、このコースでは最初で最後のコーナーが待っている。

 東京ダート1600mは俗に「ワンターン」と呼ばれる構成になっており、コーナーはこの一つだけだ。

 左回りのカーブに、躍動する筋肉の塊たちが進入する。


 ここで各馬に動きがある。勢いを持って前方へ進出しようとするものもいれば、コーナーの内側に陣取って最短距離で走り抜けようとするものもいる。


 コーナーが終わって最後の直線に入った時には、縦長になっていた馬群はぐっと縮まっていた。


 ここからが勝負だ。


 スタンドからの歓声のボリュームが上がった。最後の直線はメインスタンドの前を走り抜けるのだ。


「いけっ! いけっ! いけっ……!」


 こちらと密着したままのアイが身体をぶんぶんと揺するので、結城も一緒になって揺れることになる。意図せず発生した耳元で「イケ!イケ!」と言われ続けるシチュエーションが面白くて、結城は笑ってしまいそうになった。わざとやってるのかもしれない。


 アイの本命馬は前に一頭馬を先行させて、コース上の内側寄りを走っている。緑帽子の騎手が合図をするように鞭を一発入れると、その馬はぐっと加速し、前を走る馬に外側から並びかけると、あっというまに抜き去って先頭に躍り出た。


「よし!」


 アイは結城を背中側から押し倒すようにぐっと前のめりになった。アイの体温が上がっているのを感じる。


 一方結城の本命馬はというと、馬群の後方に沈んだままだった。騎手が必死にムチをくれても、いまいち加速がつかない。一生懸命走っている栗毛の馬体は美しいが、目の前の馬をかわすので精一杯という感じだった。前走で見せてくれた末脚はどこにいったんだ、と結城は愕然とする。


 レースの大勢は決しつつあった。


 アイの本命馬はすでに後続を三馬身は突き放している。何頭もの馬が集団の前方に殺到するが、もはや二着三着争いだろう。


「うわ! きたよ! あっあっあっあああっん! そのままそのままそのまま! そのまま……! あっあっあっ! んん!」


 アイが絶叫する。壁の薄いソープランドである。同じ階の別の部屋にも聞こえているだろう。そこでプレイ中の男女は、隣でいったいどんなプレイが行われているのかと訝しんでいるはずだ。アイが対抗・連下として指名した馬たちが二番手・三番手になったため、アイはそのままゴールしろと叫んでいるのだった。


 結城の本命馬は画面の端で頑張って走っている。あっ、映らなくなった。テレビカメラは前の三頭だけにフォーカスする。アイの馬券に絡む三頭だ。

 結局アイの「そのまま」の声の通り、三頭は順位を変えずに蹄鉄の形のゴール板の前を走り抜けていった。アナウンサーの「強い!強い!ワンダーエグゼ!重賞初制覇だ!」という言葉が響いた。


「よっしゃあああああああああああああ!」


 結城に抱きついたままアイは器用にガッツポーズを決めた。汗ばんだ身体を上気させたアイと絡み合いながら、結城はおめでとうと小声で言った。アイは結城をこのまま押し倒して、もう一回戦始めそうなテンションだった。


 結城の顔のすぐ横にアイの笑顔があった。屈託のないその笑みは、結城がこれまでの人生で出会ってきたもののなかで、一番愛らしいもののように思えた。自分の馬券は外れたが、この笑顔が見られるなら安いものだ。結城は満ち足りた気持ちになってアイの手を握った。


 アイは三連単とれたよー!ありがとうワンダーエグゼー!と言いながら、本当に結城をベッドに押し倒した。アイの細い指が結城のを次々にまさぐっていく。結城は力の抜けた声で「やっ、やめ」と言うのが精一杯だった。


 結局、結城は「一球入魂」のポリシーを曲げてプレイタイムを30分延長することとなった。幸せな時間の延長料金は1万円だった。



 本日開催された東京競馬場第11レースはダートコース1600mで争われる三歳馬限定のG3。一着のワンダーエグゼはデビューから無傷の三連勝で重賞初制覇だった。二着はフレンドシップ。三着はラストロック。


 この重賞レースに冠された名前を『ユニコーン・ステークス』という。

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