【ナオキ】03 ロッホ・ネス・ショック
ナオキはここにきてようやく、自分が清水を傷つけていることに気が付き始めていた。
だが、ナオキにはナオキの言い分があった。決して興味本位でこの施設を訪れた訳ではない。
彼女がその命を賭してまで研究に打ち込んでいる場所で、彼もまたその目で見なければならないものがあると確信していた。
「――清水、怒ってるなら謝る。でもな、俺もただ何の意味もなくここに来た訳じゃないんだ。分かってくれ」
「いいんです。会いたいって、ここに来たいって言ってくれたとき、本当に嬉しかったから」
清水の言葉に怒気は孕まれていなかった。ただ、寂しさのようなものだけが漂っていた。
目も合わせられない二人の言葉は、今にもエレベーターの轟音にかき消されそうだった。
ナオキはこのまま感傷にひたっていたいとは思わなかった。それをすることこそ、二人の関係を愚弄しているように思われたからだ。
「なあ、清水。今この世界はとんでもない流れの中にある。そう思わないか」
突然の話題転換に、清水は一瞬目を白黒させた。だが、ナオキが話そうとしていることを察して彼女は答えた。
「そうですね。怒涛のような流れがこの世界を飲み込もうとしているんじゃないかって、そう思うことがよくありますよ。特に、こんな場所にいると」
清水がこんな場所と呼んだ『アルゲニブ』は、まさにその世界を飲み込む流れの先端とでもいうべきものだった。あるいはその流れが行き着く断崖か。
「この流れの端緒はどこにあると思う?」
ナオキは投げかける。
「そうですね、いろんな人間がいろんなことを言っていますけど、私はやっぱり1993年だと思います」
「――ロッホ・ネス・ショックか」
ロッホ・ネス・ショック。
それは1993年にこの世界を震撼させた一つの事件だった。
ロッホ・ネス――すなわちネス湖は、イギリス・スコットランド北部ハイランド地方にあるイギリス最大の湖である。全長約38.5キロのその細長い湖が世界的に有名なのは、美しさのためだけではない。
ロッホ・ネス・モンスター。ネス湖の怪獣。通称ネッシーと呼ばれる未確認生物。
まるで首長竜のような、その怪獣の目撃談は、古くは6世紀にも遡る。
あまりにも有名な『外科医の写真』は、1934年に撮影されたとされる。湖から顔を出したネッシーの写真は、『デイリー・メール』紙に掲載され、世界中に衝撃を与えた。
だがそれは、ロッホ・ネス・ショックではない。
『外科医の写真』の関係者が「あの写真は模型を使ったフェイクだった」と告白した1993年に、本当にネッシーが発見されてしまったのだ。
ある日唐突に、ネス湖の湖岸にネッシーの死骸が現れた。
何者かによって捕獲され、湖の外に引きずりだされ、息の根を止められたその未確認生物は、今度こそ本当に世界中の人間の度肝を抜き、この惑星の地表全体を震わせたのだった。
これがロッホ・ネス・ショックと呼ばれる事件である。
「あの日以来、すべてが裏返ったんだ」
「裏返った?」
「ああ、俺はそう思ってる。未確認生物……UMAがいない世界が、UMAがいる世界に全部ひっくり返ったんだってね」
ナオキの言わんとしていることはこうだ。
あのロッホ・ネス・ショックの日まで、すべてのUMAはこの地球上にいなかった。
だが、あの日から、すべてのUMAがこの地球上に存在することになってしまった。
実際に1993年以降、数年毎に新しいUMAが捕獲されている。公表されていないものを合わせれば、毎年のように捕獲されていると言ってもいい。
「マルチバース……多元宇宙論的に言うならば、そこで世界線が分岐したってことですかね」
「あの日、あの瞬間がそうだったとは言い切れないけどな。ただ、どこかで世界のタガが外れて、俺たちはそれを直せないままでいるんだ」
ナオキは別に、パラレルワールドについて考察したい訳ではなかった。この宇宙には様々な可能性が存在し、人間はそこから引き出される世界の姿の一端を見ているだけに過ぎないのだとナオキは思っていた。
UMAが存在する世界があるなら、きっと地球外生命体が存在する世界もあるし、魔術や魔法が支配する世界もあるだろう。それは別個に世界がいくつも存在するというよりは、それぞれの宇宙が重なり合いながら存在しているようなものだ。宇宙を観測する人間が変われば、世界の在り方はまったく変わっていく。
宇宙だ世界だと言ったところで、それは人間の感覚器官が観測した情報から、脳内に作り上げたものにすぎない。
「私たちはUMAの実在を信じた誰かの夢の中にいる。世界のタガを締めなおすなら、その誰かを叩き起こさないといけない」
清水の黒い瞳が、ナオキの目を捉えている。
「別に俺はそんなことをしたい訳じゃないけどな。きっかけが誰かの夢だったにせよ、もはやUMAの実在は全人類にとっての共通の了解事項になっちまった。こうなったらもう、何もかもなかったってことにはできないだろうぜ」
そう、もはや存在しているのだ。
未確認生物と呼ばれた生き物たちは。
この研究施設もそのために作られたものだった。
「俺はただ、UMAの、世界の秘密について知りたいだけだ」
「だからここに来たんですね」
私に会いたいからではなく、と清水の目が語っている。その目がうるんでいるように見えるのは錯覚にすぎないとナオキは断じた。苦いものが、喉の奥から這い上がってくるような気がした。それはかつて二人が共有した時間が変質してできたものであることは間違いなかった。
「そうだ」
ナオキは今はただ、世界の秘密を知りたいだけの男になりたかった。そのためになら、かつての恋人も利用するような。
ナオキにとってこの十年は、組織内で自由に動き回れる力を手にするための十年だった。陥れていった人間の数と、自分の血塗られた手のことを思えば、元恋人を利用することぐらいどうということはない。
自分にそう言い聞かせたかった。
清水もなんとなくそれを分かっているようだった。深追いせずに、元恋人のスパイごっこに付き合うことにしてくれらしい。
「……だったらそれは大正解ですよ。本当に驚天動地な生物ですからね」
清水は自分たちの足元を指さした。ナオキがその目で見たいと思っているものは、そこにいるのだ。
「ノアの方舟に乗らなかったとかそんな伝説がありますけど、それも分かるかなって感じです。ま、見ればわかりますけど」
「なんとなく予想はつくよ。俺だって下調べがないわけじゃない。それに、ここに来ようと思ったきっかけがな」
「きっかけ? 何かあるんですか」
「実物を見ながらな話すよ。ちょうどエレベーターも着くようだし」
ナオキが文字盤に目をやると、清水もそれにならった。デジタル表示のそれは地下99階を指していた。金属製の悪魔がいたらこんな怨嗟の叫びをあげるだろうというような、不吉な轟音を立ててエレベーターは止まった。シャッターがゆっくりと上がっていく。
「ラボや資料室はパスしますよ。あなたが見たいのはそんなものじゃないですよね」
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