悪業
居間で果実風呂の準備を進める私に夫が話しかけてきた。仕事以外での会話はいつ以来だろうか。
「最近いろいろやってるみたいだな、商店街の連中から聞いたぞ」
「商店街を盛り上げるために頑張ってます、成功すればうちの売り上げにも影響すると思いますよ」
夫は怒りが見え隠れするような口調で話しているが、冷静に答えることにした。大人しく言うことを聞き八百屋の仕事をこなしてきた私が、商店街のために働いてるのが気に食わないのだろう。
「下手なことはするなよ」
そう吐き捨てると夫は部屋から出ていく。
いまさら釘を差そうなどそうはいかない。ここまできた私の決心は夫の小言程度では揺るがないのだ。
数秒で部屋から離れる旦那の足音が止まり、嫌悪感を覚える声が響く。
「そういや酒がないんだ、買っといてくれよ」
私は小さくため息を付いた後、力強く声を張った。
「まだ酒屋さんは開いてますよ」
言葉を発してから、とんでもないことを言ったのではないかと自分の手が震えだしたのがわかった。
ただ夫は何も言わず部屋から離れていく。
今度は大きなため息を付き、手の震えが治まるのをじっと見つめていた。
少しかもしれないが、前の自分から変われていることを感じ心が晴れたような気がした。
組合会から二週間後、果実風呂の準備のため私は配達用の軽バンで銭湯を訪れていた。
「これだけよく集まったね」
中に段ボールを敷き詰めた軽バンを眺め銭湯の亭主はご満悦だ。
「農家のみなさんが思っていたより安く、売りに出せない不揃いな果物を仕入れさせてくれたんです」
段ボールの中には柚子をはじめ、みかんやレモン等の柑橘類、変わり種のりんごといった様々な果物が入っている。
街中の農家を周り「果実風呂をやりたい」と言うと大抵は怪訝な顔をされ煙たがれたが、売りに出せないもので構わないと理解してもらえるとすんなり協力してくれた。
皆一様に商店街のためならと言っていたが、捨てるはずの商品がお金に変わると知ったときの顔は驚きと喜びを隠しきれずにいた。お金の力とは偉大である。
「それはよかった、どんどん運んでくよ」
「ありがとうございます」
二人で段ボールを銭湯へ運び、果物を取り出す。
「もう中身を出すのかい?」
「ある程度浴槽に浮かべて宣伝用の写真を撮るんです」
広々とした浴槽に種類を分けて果物を浮かべる。浴槽の壁には富士山が描かれており、色鮮やかな果物との組み合わせには惹かれるものがあった。
徐々に爽やかさと甘みを感じる香りが銭湯内に広がっていく。
「そういや最近果物食べてないな」
「段ボールのは食べないでくださいよ、せめてお風呂で使い終わったのにしてください」
「その手があったか!」
ぐっと拳をにぎり勝ち誇った笑顔の銭湯の亭主に、私は嫌悪の目を向ける。私から言い出して難だが果実風呂で使った果物を食べるのは犯罪の匂いがする。後でスタッフが美味しくいただくわけにはいかないだろう。
「わかってるよ、なにも人が入った後の食べようってんじゃないんだから、それより写真撮っちまいな」
銭湯の亭主はどこまで本気かわからないが、見つけたら通報すればいいだけなので、私は落ち着いてカメラを取り出し撮影を済ませた。
「このまま商店街のアカウントに写真を載せるので銭湯の亭主さんはお知り合いに声をかけていただけると助かります」
「もう声かけまくってるよ!みんな喜んでくれてこっちまで嬉しくなっちまった」
銭湯の亭主は今日一番の笑顔で自慢げだ。
商店街だけでなく、町全体にも高齢化は進んでおりSNSを利用している人は少ない。
古い町に果実風呂を広める手段としてはSNSよりも昔ながらの人づてがいいと判断したのだ。他の組合会の方々にも宣伝をお願いしている。
私が立ち上げた商店街のアカウントは、いわば規模の大きいコミュニティに繋げるためだけのもので、果実風呂のことを町や観光組合等の関係各所が拡散してくれることになっている。
果実風呂の写真を公開してから数日後、商店街のアカウントに一通のDMが届いた。
差出人はテレビ局、今回のことを思い立つきっかけとなった柚子風呂の特集をしていたあのテレビ局だ。
このときばかりは私の冷めた心も踊りだし、これで決まったと強く思ったのだった。
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