不穏
その日、僕は急遽、クラリスと共にヒューガへと向かうことになる。
不安だ。でもやらなくては。
上着を詰めたリュックと寝袋を用意し、アンさんが作ってくれたお弁当を持ち、ぼくらは出発した。
「ひとまず、無事に帰ってきてください」
両手を祈るように組みながらアリサは言う。それを見て、安心させるかのように彼女の肩に手を置いて、
「大丈夫です。ハルキの剣の腕はみるみる上達していますから」とケイは言った。
サザンピークを出て、しばらくすると石宿へと辿り着いた。クラリスとの間に会話らしき会話はない。
本来ならここで泊まっていってもいいのだが、先を急ぎ、歩くことにする。
辺りは暗く、人通りも少ない。
馬車の後が残る畔道を歩き、周りに注意を払いながら進むと、誰かが焚き火をしたような跡がある開けた休める場所が目に入った。
その日はそこで野営をとることにした。
クラリスが髪をほどき、結び直すその横に寝袋を広げた。
彼女とは何を話したらよいのだろう。その夜は言葉を交わさぬまま眠りに着いた。
次の日、朝が来て、寝袋をしまって歩き始める。
途中後ろから馬車がきて乗せてもらった。
日差しが強い。汗が服に少しずつ染み込む。
「ヒューガはどんなところなの?」
「あまりいい思い出はない」
それだけでは充分ではないと思ったのだろう、遅れて彼女が続ける。
「私は……ある剣士の家で育った。
その人の趣味だろうな、剣を習ったんだ。
子供の頃は必死だった……。
その人の言いつけを守った。でもある日、売り飛ばされたんだ。ローウェンの元に」
「そうだったんだね、」
表情に笑みはなく、目も俯いている。
でもその口調は今までの彼女の言葉の中で、一番穏やかで、彼女の心が溶けていっているのを感じた。
少しずつ、打ち解けてくれているのだろうか。
「ローウェンは……どんな人だった?」
「私にとっては優しい人だった。
私の剣の腕を買い、良い扱いをしてくれた」
路傍を見続ける彼女から、どこか影を感じ、いたたまれない気持ちになる。
ふと、クラリスの方を見てみる。ポニーテールが風にそよいでいる。
「ニャー」
クラリスの側にあの二回見かけたことのある猫がいた。
馬車に乗ってしまったのだろうか、
座る彼女のそばで丸くなってまどろんではいるがその目は開かれており、僕らを観察しているようだ。
その佇まいに不気味さと得体の知れなさを感じる。
やがてその猫は疲れてしまったのか、眠ってしまった。
辺りの建物が減り、畑が目立つようになってきた。
肥料の香りだろうか、動物の匂いが鼻につく。
町に辿り着き、馬車が止まった。
終着のようだ。
町と言ってもそこは家が何軒か立ち並ぶ、集落のような町だった。
近くの木造の家の側には茶色い泥の着いた農具が立て掛けられる牛小屋があり、何匹か顔を覗かせている。
一軒だけあった宿を探し、そこに泊まった。
二階建てのシンプルな宿だ。
一つの部屋に二つのベッドがある部屋を借りて、僕らは別々に眠りについたーー。
◇
次の日、食料を揃え、宿を後にする。
ここからは馬車は出ていないらしい。徒歩で再び歩き始める。
丘を超えると左手に、岩山の稜線が地平線の奥まで伸びているのが見え、目的地が近づいていた。
温かい風が吹き、足取りも少しだけ軽くなった。
昨日いたはずの猫の姿は見かけなかった。
「ヒューガの街は山あいにある。登山だ。少し休憩しよう」
クラリスの言葉で、一度山の麓の手前で休憩をとることにした。
「今どれくらい歩いたんだろう」
彼女は半分過ぎた頃か、と返事をし、道端の大きな岩の影に腰を降ろした。
相変わらず笑ってはいない。
「僕一人だけだったら、ここまで来れなかったよ」
本当だ。だが、彼女の耳には入ってはいないようだ。
何か考え事をしているのか、と思った矢先彼女が口を開く。
「お前はあの時……私を駒じゃないと言ってくれた。なら……私は何だと思う?」
あの時、とはあの時か、うなだれる彼女が脳裏によぎる。
「何って……クラリスはクラリスじゃないか」
「その名前をつけてくれた人はいなくなってしまった。私はなぜ生きているのだろう。こんな事を思うのは悪いことなのだろうか」
俯き、弱音を吐く。らしくない。
嫌な予感がする。
「もしかして、クラリス、ヒューガで死ぬ気じゃ、」
僕が言い終えるよりも早く、彼女が遮るように語った。
「大丈夫だ。
彼女は死ぬ気だ。
知ってしまった。
知りたくはなかった。雫が容赦なく僕を照らし出す。
そう言った彼女は話を切り上げるために立ち上がり、上着をリュックから取り出し羽織った。
「日が暮れる前に、眠れる所を探そう」
その言葉で僕らは再び歩き出したんだ。
死ぬ気でいるものに対し、何を言えばいいんだろうか。
例えば「死ぬな!」と言うのは直球すぎる気もするし、「君が大事なんだ!」とかも違う気がする。
そういう仲ではない。
なら、
そんなことを考えながら歩いていると、分かれ道に辿り着く。
右に続く道は奥に川が流れているのが見え、橋があり林へと続いているみたいだ。左は岩山へと続く登山道だ。
「こっちだ」という彼女の声に導かれ、岩山の登山道へと歩みを進めた。
山道を少し登っていくと、石造りの細い階段がその山肌に現れ、僕らはそこに足を踏み入れた。
勾配はなだらかで、登るのは大変だが、息はそこまで苦しくない。
「ここからが、ヒューガだ」
階段の心許ない紐で作られた柵を掴み、そう言ったクラリスの髪が冷たい風に煽られ揺れている。
山肌は日が沈みかけ、夕陽に赤く燃えていた。
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