第7話 寝室でそっと祈りを
伊織がそのまま客間で待っていると、ほどなくして、女中がお膳台を部屋へ運んできた。
「あの、なにかお手伝いしましょうか……?」
「とんでもない! 伊織さまはゆっくり休んでください!」
「さあさあどうぞ、伊織さま。そんな遠くにいないで、どうぞこちらへ」
サキも部屋に入ってきて、お茶の準備をした。
伊織は促され、座布団の上に座る。
お膳台の上に、ことりとお椀が置かれた。――雑炊だ。
「伊織さま、このような簡単なもので失礼します。本当は豪華なモノを召し上がっていただきたかったのですが……お医者さまの言うとおりに用意させていただきました」
「……い、いえ……。あの、嬉しいです。ありがとう、ございます……」
「お口に合うか分かりませんが、よろしければ」
「いただきます」
伊織は、椀を持った。
(あ……。温かい……)
雑炊は、温かくて。椀を持つ手が、温かくて。
――ずっと、冷たいご飯ばかりを食べていた。残り物や――使用人と同様のものを食べていた。食事を抜かれる日もあった。そしてそれをそういうものだと、諦めていた。
一口、口に運ぶ。
温かな米の味がじんわりと口の中に広がって。
「お、美味しい……っ、です……っ」
目の端にじんわりと涙が溜まっていくのが、自分でも分かった。
***
「お部屋はこちらでございます」
「は……はい」
次にサキに案内された部屋は、小綺麗な和室だった。
――畳には、布団が一組だけ敷いてある。
伊織は、ほっと胸をなで下ろした。
(さすがに、……。そう、だよね……)
もしかしたら十夜と同室だったらどうしよう、布団が二組あったらどうしよう、などと考えていた伊織は、いかにもな客室――普段使われていなさそうな部屋だ――を見て、自分が恥ずかしくなった。
そこへ、
「入らないのか」
「と、十夜さま」
伊織が振り返るとそこには、十夜が立っていた。
十夜の黒髪はまだしっとりと濡れており艶やかで、……お風呂上がりの、ほのかにあがる蒸気というかにおいというか――そういったものが感じられて、伊織はドキリとした。
(と、十夜さまは恩人なんだから、かっこいいとかそういうことを考えてはだめ……)
ついつい容姿に目を奪われてしまうが、
(そんなことをわたしが考えても、…………あり得っこないし……)
伊織は、頭を振って、部屋に入った。
「若さま、ずいぶんお早いお戻りですねぇ」
くすくすと笑うサキを無視して、十夜は部屋に入ると伊織の方を向いて言った。
「……部屋はこれでいいか?」
「も、もちろんです……というか、……」
(と、いうか、今までずっと流されてここまできてしまったけど……。これってもしかして、やっぱり、泊まって行っていい……ってこと、だよね……)
どうやらすぐに羊垣内家へ帰されるわけではないらしい。
伊織は、御辞儀をした。
「あ、あの……。改めて、助けていただいて、ありがとう、ございます……」
「別に。普通だ」
「あの……十夜さまは親切な方ですね。こうして、わたしなんかも助けてくださるなんて……。誰にでも優しい人格者ですね」
「……うふふ」
「……え?」
サキから笑い声が漏れるので、伊織は振り返った。
「うふふふ! 若さまがこのように人を――女性の方を連れてこられたのは、初めてですよ!」
「……え……?」
「……うるさいぞ」
そう言って十夜は頭を掻いた。
クールな表情が、少し崩れているように見える。
「お前はもう出て行け」
「はいはい。ではまた朝に。若さま、明日の資料はお部屋の前へ置いておきます」
「ああ。あとで部屋へ戻る」
「おやすみなさいませ、若さま、伊織さま」
サキが部屋から出て行く。
足音が遠ざかったのを耳をそばだてて、十夜は、「はぁ」と息を吐いた。
「十夜さま……?」
「……俺は、誰でもは拾ってこない。……ただ、お前が、……泣いていたから。……だから」
十夜は伊織の背を押して、部屋の中へと入れた。
「どうしようもなく、お前を連れて帰りたくなった」
「……っ」
伊織の頬が、簡単に赤くなる。
あの時の――湖での出来事を思い出す。
昏い湖を見ていたら、なんだかもう全てがぼんやりして。冷たい水は冷たいままで、夜風も冷たくて、すべてが寒くて、嫌になった。
このまま沈んでしまってもいいだろうかと、そんなことが頭をよぎった。
そんな時、全てが暗い中で、突然声が聞こえて――。
月夜に佇む十夜さまの姿は、なんだかひどく神々しく見えて。
十夜さまはまっすぐ湖に飛び込んできて、それが、まるで、――光のような気がしたのだ。
あの時の、十夜さまの強い瞳が、忘れられない……。
「…………なんだ? 熱でもあるのか?」
「! え、えっと……」
十夜の手が、伊織の額に触れ、伊織はびくりとした。……少しぼうっとしていたようだ。
十夜は、熱を測ろうとしているらしい。
大きな手、長い指、……それらは今までに触れたことのないもので。
「…………っ」
「ん? また上がったか?」
「…………」
伊織は、ドキドキする鼓動を抑えられないでいた。
「もしもし。ああ、鬼の討伐は――し損なった。というか、痕跡はあったのだが、姿は見えずだ。森の中で……ああ、そうだ」
十夜が、携帯電話で通話している。
携帯電話。その名の通り小型の携帯できる電話のことだ。一昔前はリュックや鞄のような形状だったが、最近のものは十センチもない。通話のみの機能なので、無線機との中間のような存在だ。
高価なので、まだまだ民衆には手が届かない代物である。
そして、家での扱いが悪い伊織は、令嬢でありながら持っていない。
あのあとすぐ――十夜は仕事の電話がきて、伊織の客室でそのまま通話をし始めた。
サキは部屋から出て行ったきりで、部屋には伊織と十夜のふたりだけが残っていた。
「…………」
敷き布団の上に、伊織はちょこんと座った。
(そうだ、お父さまが言っていた……。昨日の会合は、近頃でるっていう、鬼の話だったって……)
伊織は鬼を見たことがなかったが、討伐は困難を極めるという話は知っていた。
(十夜さま、森にいたのは、鬼のために見回りしてたんだ……)
「ああ、ということはつまり……だな……手配してくれ」
しばらくして、十夜の電話は終わった。
「た、……大変ですね……」
「……ん? ああ。これも、九頭竜の務めだからな」
「九頭竜の……」
十二支トップの実力を持つ、九頭竜家。会合の最中でも要請があれば飛び出し、護る、守護者の家……。
「お、お疲れさまです……。あの……、十夜さまも、お休みになってください……」
「いや、俺は……大丈夫だ」
「――え?」
「俺は――あまり寝なくても大丈夫なんだ」
「そうですか……。で、でも……横になるだけでも……あの……いいって、聞きますし……」
「まあ、そうは言うが……。実際はそうでもない」
十夜は一見涼しい顔に見えるが――。
しかし、梨々子の話によると、今夜だけでなく昨夜も見回りにでていたはずだ。
「あの、目を瞑るだけでも、起きておくよりは、きっとよろしいかと……」
「……わかった。やってみよう」
十夜は頷くと、部屋の壁に寄りかかるように座り込む。
そしてそのまま目を閉じた。
「…………」
「…………」
さすがに寝たわけではないようだ。伊織が言ったとおり、目を瞑って体を休ませる――格好だけだ。こんなことで――それも初対面の客人の部屋で座ったままという――そんな状況で、休めるとは思えなかった。
(わ、……わたしが、言っちゃったから、わざとここで……)
客室で目を瞑るなど、普通ならあり得ないだろう。――しばらく目を瞑ってくれる演技というか、そういう感じだろうか。
腕組みをして座る十夜に、伊織は近付いた。
「…………」
近付いても、十夜は目を開けない。
長いまつげが綺麗に並んでいる。
その端整な顔立ちの中に、ほんの少し疲労が見えた気がして。
「…………おつかれ、なんですね……」
伊織は、十夜にそっと掛け布団をかける。……十夜は動かない。
「…………」
(十夜さま……)
伊織は、十夜のそばにぺたんと座った。
「…………」
十夜は、相変わらず目を瞑ったままだ。
伊織は、そんな十夜の顔を見ると、なんだか不思議な――ふわふわとした気持ちになった。
十夜さま、十夜さま、夢みたいです。
あの時――湖でわたしを助けてくれた時、本当に、光みたいだって、思ったんです……。
あなたが、……あなたが触れた肩が、抱えられたときの体温が温かくて、わたし、涙が出そうでした。死ぬのはやっぱりまだ怖くて、温かなご飯は嬉しくて、温かなお風呂も嬉しくて、人と話すことは少し楽しくて、だから、だから――……。
「ありがとう、ございます……」
伊織は微笑むと、小さな声でそう囁いた。
その時。
ぽぅ……と、光が発生し、
「……え?」
伊織が状況を理解するより早く――ふたりの間に暖かな色の光が広がった。
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