第8話 なりたい自分に会う為に ~beauty karte.7 笙子の場合~
「あら~? 岡屋ちゃんじゃない~。貴女がオフィスから出てくるなんて、珍しいこともあるものねぇ」
「相沢さん」
オフィスへと戻る途中、突然背後からかけられた声に振り向けば、白髪交じりの頭に布巾を被り、作業着を着た初老の女性が、柔和な笑顔を浮かべながら大きなワゴン片手に立っていた。確か年齢は五十代後半。うちの社が入っているこのビルの清掃員をしている
「やーだ、昔みたいに戸紀子おばちゃんって言ってよーっ。一緒にお弁当だって食べた仲じゃないのっ」
戸紀子さんはそう言って、私の肩を皺の刻まれた手でぽんぽん叩いた。昔と同じその暖かさに、自然と口元が緩んでいくのを感じた。彼女は私と出会った十年前も今も、さほど変わっていない。強いて言えば、孫が出来たことが変化したことの一つだろうか。
「戸紀子おばちゃん、お久しぶりです。すいません最近顔見せられなくて」
「ほんとそうねえ~。だって岡屋ちゃんって、主任になってからとっても忙しそうだもの。時間帯が違うんだから、しょうがないわ。でも会えて嬉しいわよ~」
相沢さんはふふふ、と顔を綻ばせながらそう言った。
彼女の勤務は朝九時から夕方四時までで、お昼の休憩は十二時。
始まりと昼休憩はうちの社員と同じなので、入社当時の私は彼女とよく一緒に昼食を取っていた。
たった二歳の差とはいえ、専門学校で資格勉強と取得に追われていた私は、大学で華やかな生活を送っていた年上の同期達と、中々馴染むことが出来ずにいたからだ。
あの当時の私は、専業主婦だった母のようになりたくなくて、キャリアを積む事だけを考えていた。高卒で資格も無く、仕事が無いから父と離婚できないと嘆く母と、四年生の大学を何の不自由もなく卒業し、結婚までの腰掛けとしてOLをやるのだと言っていた同期達を、勝手に重ねていた部分もあった。
勿論、腰掛けなどでは無く真面目に将来を見据えている同期も居たが、それでも私は友人付き合いよりも、一刻も早く仕事を覚える事を重視した。朝は誰よりも早く出社し、帰りは深夜もしくは家に仕事を持ち帰るなどは日常だった。
一人で生きられる女になりたかった。
母のように、男に縋らなければ生きられない人間にだけはなりたくなかったから。
だけど最近は、それが本当に『自分のなりたい姿』なのかどうか、私は自信を無くしていた。
入社してから十年。この会社では女性として成功している方だとは思う。
花形とされている部署で、社内二番目の女性主任として就任もした。
けれど今があの頃なりたかった状態かと言えば、頷くことは出来ない。
今の私は、自分のあるべき姿について見えなくなっていた。
「岡屋ちゃん? どうしたのぼうっとしちゃって。大丈夫?」
「あ・・・・・・えと、すみません、ちょっと昔のこと、思い出しちゃって・・・・・・」
相沢さんに覗き込まれ、私は思わず我に返った。彼女と久しぶりに顔を合わせた事で、十年前から今までについて、束の間回想してしまっていた様だ。
女も三十にもなれば、昔を振り返り易くなるのかもしれない。
自分の年齢を感じて肩を落としていると、相沢さんは突然「そうだわ!」と声を上げ、清掃員の白い作業着のポケットからピンク色のスマホを取り出した。
華やかな色味は、可愛らしい彼女によく似合っている。
「岡屋ちゃん、ずっと忙しくて行けて無いんじゃない?纏めてても判るわよ?髪、かなり伸びてるでしょう」
相沢さんに視線で指摘され、そういえば、と思い出す。
先程受話器を取った時に自分でも気付いたが、ネイルも髪も、最近は手入れを怠ってしまっている。
「やっぱりわかりますか?そろそろカットしに行きたいとは思ってるんですが・・・・・・」
とは言っても、前回美容室に行ったのなんてもう二ヶ月以上も前だ。今更もう一度行くのも気が引けるし、かといって他に思い当たる店などは無い。
言葉尻を濁した私に、相沢さんは昔と変わらない笑みを見せてくれ、それからスマホの画面を操作し私の方へ向けた。
「え、ええと・・・・・・AFRODITE《アフロディーテ》・・・・・・? 初めて聞きますね」
ピンクのスマホに表示されていたのは、『AFRODITE』という名の美容室のようだった。
店内を撮影したものなのだろう。アンティーク調の深い色合いの木製家具が並び、壁面には大きな鏡が二つ備え付けられている。
シックな内装に合わせた革張りのセットチェアが、大人の女性好みで可愛らしい。
「良い感じのお店でしょう? 今ね、ネットで結構有名なのよ。だけど不思議な事に、お店に辿り着いた人もいれば、行ったのにお店が存在してなかったなんて言う人もいるの」
「存在してなかった・・・・・・?」
「そうなの! まるでお伽話みたいでしょう? ロマンがあって素敵よねぇ!」
相沢さんは興奮気味に、まるで夢見る少女の様に瞳を煌めかせてそう言った。
しかし私は、彼女とは違う感想を抱いていた。
それって、ロマンとか言う問題なのかしら・・・・・・?
マップの記載ミスとかじゃなくて・・・・・・?
我ながら味気ないとは思うが、十年勤務のビジネス脳ではついそんな事を考えてしまう。
「何でも、ネットの噂ではこの『AFRODITE』ってお店には辿り着ける人とそうじゃない人がいるらしいの。でも、もしもお店に入る事が出来たなら、必ず綺麗になれるって評判なのよ」
「必ず、綺麗になれる・・・・・・」
スマホに表示された一枚の店内写真を眺めながら、楽しそうに言う相沢さんの言葉を思わず復唱して、私は彼女の手にある画像に視線を止めていた。
【必ず綺麗になれる美容室】
そんな夢のような話があるのなら、私ですらお願いしたいと思う。
成るべき姿が判らなくなっている今の私だからこそ、余計に。
「ねえ岡屋ちゃん。実は私も行ってみたのよこのお店に。でも、辿り着けなかったの。だけど貴女なら・・・・・・大丈夫だと思うのよ。なんとなくだけど。だから良ければ、次のお休みにでも、行ってみない? この画像、ラインで送っておくから。っね?」
画面から視線を引き剥がせないでいる私に、相沢さんはそう言って頭巾の下にある目尻の皺を深め、微笑んだ。
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女神が指揮する美容室 国樹田 樹 @kunikida_ituki
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