第5話 捨てた想いの行く末に ~beauty karte.5 沙耶の場合~

「あんな事して・・・・・・! 大事になったらどうするのよっ!」


矢城の腕を引いて歩きながら、私は小声で彼を叱りつけた。

彼の行動の理由もわかっているし、嬉しいとは思っている。感謝の気持ちもある。しかしだからこそ、矢城には手を出して欲しくなかった。私と田之倉の問題に、彼を巻き込みたく無かったからだ。


襟首掴んで持ち上げただけとはいえ、一歩間違えれば傷害扱いになるところだった。


しかも場所が場所である。取引先の立ち並ぶあんな所では、見られてしまえば舌先三寸で誤魔化す事すらできやしない。


「仕方、ねえだろ・・・・・・っ」


ぐいぐいとスーツ毎彼の腕を引っ張る私に、矢城が反論の声を上げた。怒りというよりやるせなさの方が勝る声音に、私の歩みが止まる。


振り向けば、ぐっと唇を噛み締めて三白眼の黒目をじっとこちらに向ける矢城の顔が、やや上方から私を見下ろしていた。


結構な距離を突き進んできたせいだろうか。

気がつけば、私達は静かな住宅街の隙間にある小さな公園の前に居た。


平日の、しかも時刻はお昼時ということもあってか人気は無く辺りは閑散としている。

そんな中私を見下ろす矢城の眼だけが、陽の光を取り込み炎のように揺らめいていた。


「仕方、無いじゃねえかっ! 惚れた女コケにされて、キレない男がいるかよっ!」


矢城はそう吐き出しながら、彼の片腕を掴んでいた私の手を、空いていた方の手で上からがしりと押さえ込んだ。そして指先を絡ませ、甲からぐっと強く握り込む。


矢城の大きな手は、まるで燃えているみたいに熱かった。


「・・・や、しろ」


彼の言った意味が一瞬理解出来なくて、けれど手の甲から握り込まれる感覚はありありと感じて、私は戸惑いと驚きで呆然としていた。ただ彼の名前だけが、間抜けに空いた唇の端から零れ出ていく。


惚れた、女って。


「何それ、どういう・・・・・・」


意味なの、と問い返そうとしたところで、私の声を遮るみたいに矢城が突然掴んでいた手に力を込めた。大きな掌に包まれた私の手が、まるで彼の体温で焼かれていく気がした。


矢城が睨むように、強い視線で私を見据える。


「・・・・・・ずっと言いたかったけど、言えなかったんだ。お前、アイツと婚約してたから。だけど・・・・・・今なら何のしがらみも無く、言える」


「ちょ、っとアンタ何言って・・・・・・」


見慣れた、けれど恐ろしいほど真剣な彼の三白眼に囚われて、少しも身動きが取れなかった。興奮気味の彼を制止しようとした声も、視線だけで殺される。


「ずっと!! 好きだったんだよっ!」


「・・・っ」


矢城の叫ぶような告白に、息が詰まった。

自分の頬が紅潮していくのが判る。胸の奥からせり上がってきた熱が、かあっと脳内まで熱くしていく。


「同期で入って、研修を一緒に過ごして、毎日顔合わす毎に・・・・・・惚れていった。部署は別になったけど、それでもずっと付き合いが続いて、俺は嬉しかったんだ。だけど、お前全然、俺のこと男だなんて思って無いんだもんな。しかも突然婚約したとか聞かされて」


「矢城・・・・・・」


「お前知らないだろ。俺、田之倉とお前がくっつくのをずっと邪魔してたんだぜ?田之倉の事で、お前に何度か忠告もした。アイツは手が早いので有名だったから。・・・だけどお前、全然聞いてくれないし、俺が長期出張行ってる間にアイツと付き合っちまうし」


矢城の三白眼が、自嘲するように辛そうに歪んだ。いつも余裕ぶった態度しか見せないそんな彼の表情は、確か私が田之倉と付き合う事になったと告げた時にも見た覚えがある。


あの時のこの表情に、そんな感情が込められているとは、私は微塵も思っていなかったけれど。


「ご、ごめん・・・・・・」


謝罪の言葉を口にすれば、矢城は「謝るな」と余計に瞳を歪ませた。


私が田之倉と付き合うことになった二年前、矢城は期待の新人として都心にある本社へ長期の出張に出ていた。その頃の私はと言えば、研修時代からの飲み友達でもある矢城が居ない事で時間を持て余し、しかも実家からは結婚の催促をされ少々嫌気が差していた。

良い張り合い相手だった矢城の姿が無い事で、寂しさもあったのだろう。


だから、田之倉からの積極的なアプローチに、愚かにも乗ってしまったのだ。

もしかすると、矢城が本社の女性社員達に騒がれていると聞いたことも、原因のうちかもしれない。


・・・・・・あの頃の私は、矢城に惹かれ初めていたから。


けれどまだ恋とは呼ぶには早すぎて、私は気持ちを持て余してしまっていた。

彼の長期出張が決まった時、寂しい気持ちと共に安堵したのもそのせいだ。


だから田之倉に婚約を破棄された時、正直罰が当たったのだと思った。

あの頃の自分の気持ちを確かめる事もせず、楽な方を選んでしまったから。


髪を切りに行ったのだって、その自分の愚かさを無くしてしまいたかったからに他ならない。切って捨ててしまいたかった。当時の安易な選択をした自分も、婚約者に捨てられた自分も。軽くなって、元の本来の『私』になりたかった。


だけど、矢城は――――


「来月の式なんて、ぶち壊れればいいと思ってた。お前が辛い思いする事になっても、つけ込めるなんて卑怯な事考えて。でも実際・・・・・・そうなってるところ見たら、駄目だった。ずっと大事にしてた髪切ったお前見たら、田之倉の事殺してやりたい位憎くて・・・・・・」


矢城はずっと辛そうに、けれど真っ直ぐに視線を向けて私に告げる。

白目多めの三白眼には真摯な光が宿り、逃げも怯えもそこには見えない。


彼のこういうところが気に入って、気が合って、喧嘩仲間みたいに一緒に過ごすようになった。俺様な矢城と言い合いをするのは、楽しかった。


田之倉の事は、付き合っている当時はちゃんと好きだったと思う。だけどそれが愛情になっていたかと言うと、それは判らない。

田之倉のした事は仕事上の事も含めれば褒められた事では無いけれど、私個人では、もしかすると感謝すべきなのかもしれない。


だって私は、一番してはいけない選択をしなくて済んだのだから。


私は器用では無いから、田之倉と付き合ってからは矢城とは社内の他の友人と同じ程度にしか付き合ってはいない。むしろ婚約してからは距離を置いていた位だった。

心も、矢城を友人として認識している。


―――けれど。


「・・・・・・なあ、直ぐに好きになってくれなんて言わないから、だから・・・もしまた、踏み出せる時がきたらその時は、一番最初に俺の事を考えて貰えないか・・・・・・?」


矢城が掴む掌から力を緩め、自信なさげな声で言う。

仕事の時も普段も、いつもはあんなに余裕たっぷりで時には不遜にさえ見える彼が。


眉尻は下がり、三白眼にはいつもの覇気が無く、唇は不安そうに薄く開いていた。


「そんなの、いつになるかわかんないのに・・・・・・」


色付き始めの頃に消してしまった想いが、また再び色を付けるかどうかは、今の私には判らない。ただ知っているのは、矢城が私にとって大切な人間だという事実だけ。だから矢城をこれ以上、待たせるのは彼の人生にとって良くない事かもしれないという不安がある。


嬉しさと申し訳無さで逡巡する私に、矢城はふっと瞳を緩め、いつもは見せない優しい微笑を浮かべた。

これまでに見た覚えの無い彼のそんな表情に、私の視線が引きつけられる。


「いいさ。これまで待ってたんだから。いつかちゃんと俺の事を見て貰える日が来るんなら、いつまでだって待てる」


矢城は、口端を少し上げて、肩を竦めながらそう言った。

途端、私の目から熱い雫が沸き出し零れる。


待ってくれると。矢城はこんな私を、待ってくれると、そう、言ってくれた。


「馬鹿・・・・・・あんた、馬鹿よ」


泣きながら、彼の肩に額を預けた私に、矢城は両手を広げて応えてくれた。

手の甲を包んでいた彼の手は、今度は私の背を優しく包んで抱き締める。


「馬鹿でいい。俺を選んで欲しいのは勿論だが、今回の事で判った。俺はお前に幸せで居て欲しいし、笑っていて欲しい。その為なら・・・・・・何でもするさ」


背に回された腕の温もりを感じながら、私は耳元に響く誠実な声を聞いた。


偽りのない言葉は、短くなった髪の隙間を辿り、私の胸に強く響いて染み込んでいく。

軽やかになった毛先が、ふわりと風に舞った気がした。


・・・・・・捨てた想いの行く先に、待っているのはもしかすると、かつて色を無くした筈の真実の、恋なのかもしれない。

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