第4話 捨てた想いの行く末に ~beauty karte.4 沙耶の場合~

―――私と矢城がいる道の反対側、向かいにあたる歩道に『彼』とその新しい交際相手であろう女性が並んで歩いていた。


スーツの男女が笑顔で歩く様は、一見どう見ても微笑ましい光景にしか見えない。だけど彼は間違いなく、今月私との婚約を破棄した男だった。


「っの野郎・・・・・・っ!」


言うが早いか、矢城がその場から弾かれたように突然駆け出して、もの凄い勢いで元婚約者達の元へ走って行く。私も彼の行動に気付いて視線を戻したけれど、目に見えたのは矢城の灰色のスーツの背中だけ。


コンクリートの上に無造作に放り出されたビジネスバックが、置いてきぼりになっているのに気付いて、私は慌ててそれを拾い上げる。


外回りの途中だって言ってたのに・・・!

アイツ、何してんのっ!?


契約書だって入っているだろうに、矢城はそれを放り出して行ってしまった。

制止の言葉を投げる暇すらなく、そもそもまさかそんな突拍子も無い行動を取るなんて誰が想像出来ただろう。


矢城の姿を視線で追えば、彼は運が良いのか悪いのか、丁度青信号になった横断歩道を凄い速さで駆け抜けている所だった。そして、そのまま元婚約者達の前へと飛び出て立ちはだかる。


今月私と婚約を解消したばかりの男―――田之倉たのくらは、連れている女性と共に驚愕の表情で固まっていた。


それもそうだろう。

取引先の、自分と同じ営業部の男が突然、目の前に憤怒の表情で現れたのだから。

流石に矢城の顔は覚えていたらしい。


「え・・・? あ、矢城君、だよね? 君、轟物産とどろきぶっさんの・・・」


なんとか歩道を渡りきった私の耳に、田之倉の戸惑った声が聞こえた。


矢城の事を指差し半笑いで言っている様子から、気圧されているのだとわかる。

元々小心者なのもあるが、三白眼で目付きの悪い矢城を前にすれば、大抵の男性は気後れし

てしまうものだった。


しかし矢城はと言えば、田之倉と挨拶を交わすわけでもなく、怒りの形相のまま彼に詰め寄り、そして素早く・・・・・・右手をがっと突き出した。


――――嘘っ!?


「この野郎! てめぇ一体何様のつもりだっ!?」


「うわあっ!?」


次の瞬間、矢城は田之倉の襟首を掴むと、そのまま彼を締め上げ軽く宙に浮かせていた。


田之倉も矢城も、互いに高身長で百八十近い背丈がある。そんな大きな男達が、片方は相手を片手で持ち上げ、もう片方は宙でぶら下がっているのだから、端から見れば凄い光景だろう。


がっしりした体型の矢城に比べ、田之倉は今時の男性らしい細身だけれど、それにしたって大の男を片手一本で軽々上げている矢城の腕力は凄い。


確か、昔空手だかなんだかやってたって聞いたけど・・・・・・っ!


かつて矢城が苦々しげに話してくれたことを思い出す。


矢城は、持ち前の目付きの悪さと俺様な態度のせいで、学生時代は喧嘩を売られるのが日常茶飯事だったそうだ。力が無かった頃は、毎日数人に囲まれ酷い目にあっていたらしい。それに対抗するため、親から無理矢理空手道場に入れられたのだとか。


その時はふーんと軽く返した程度だったが、あの腕力はそれで培った物なのだろうと考えれば納得した。


だけど、流石にこれはまずい。

何より人目が多いし、ここは取引先企業の密集地だ。

こんな場面を見られてしまえば、仕事に悪影響が出るのは必然である。


私は咄嗟に駆け寄って、矢城の腕を掴んだ。


「矢城っ! やめなさいっ!」


制止の声を上げれば、矢城の三白眼がぎろりと振り向く。

怒りと苛立ちを含んだ視線を始めて向けられて、びくりと背筋が強ばった。


「コイツだろ! お前に、あんな仕打ちしやがったのは・・・! まだ今月だ! なのにもう女連れて歩きやがってっ・・・! この野郎っ!!」


「・・・っぐ、ぅあ・・・」


矢城は声を上げるのと同時に腕の力を強めたのか、田之倉が苦しげな呻き声を上げた。


喉を圧迫されているのだろう、田之倉の顔色がみるみる青い色になっていく。

というより、歪んだ田之倉の表情が壮絶で、そっちの方が衝撃だった。


別に、田之倉がどうなろうが、本当のところはどうだっていい。

今私が気にしているのは、そんなことではなかった。


「っ矢城!」


掴んだ矢城の腕を、スーツ毎握りしめながら強い声音で彼を呼ぶ。

すると、矢城は私に向けた視線をぐっと悲しそうに歪ませた。


「・・・・・・っこんな奴、庇うのかよっ・・・!」


それは、私が始めて目にする矢城の表情だった。


泣きそうな顔、というのだろうか。

悲痛とも言える瞳で、矢城がぎっと歯を食い縛り私を睨む。


仕事でどんな事があっても、こんな顔をしたコイツを見たことは無かった。

なのに今矢城は、私の事で怒り、悔しさを感じてくれているんだろう。


―――だったら、やはり私の成すべき事は一つだ。


「馬鹿っ! 違うわよ! アンタの経歴に傷が付くのが嫌だから、言ってんでしょっ!」


「・・・え」


虚を突かれたのか、厳めしい表情を消した矢城に向かって私は笑った。


「矢城が頑張ってるのを私は知ってる。同期で入ってずっと腐れ縁だったもの。アンタのあの努力を、こんな奴のせいで台無しにしたくない。だから・・・・・・やめて」


私の為に怒ってくれているのは判る。それは正直言って嬉しい。

けれどそのせいで、矢城に何かある方が、私は嫌だった。


彼は良い奴だ。

面倒見も良くて、他人である私の為にも怒ってくれる。


「・・・・・・もういいから。矢城」


矢城の腕を掴む手から力を抜いて、ぽんぽんっと軽く叩いてから手を離す。


元婚約者である田之倉への感情は最早無い。現金かもしれないが、AFRODITEで髪を切ったおかげで、そんな気持ちはどこかへ綺麗に消え去ってしまっていた。

矢城がやっているのでなければ、この男がどうなろうが私は見捨てていただろう。


だけど矢城は、私にとって大事な腐れ縁の友人だ。


「沙耶…」


矢城は私の気持ちを汲んでくれたのか、締め上げていた手を緩め、ぱっと田之倉の襟首から手を離した。その拍子に、田之倉がコンクリ上にどさりと落下する。


「わぁっ!」


「彬くんっ」


今まで横で見ていただけの田之倉の連れである女性が彼の元にしゃがみ込み、きっと私と矢城を睨み付けた。


「何すんのよっ・・・・・・!? あんた、知ってるわよ! 彬君に捨てられた女の癖に、こんな事して・・・・・・! 会社に言いつけてやるんだから! 覚悟しなさいよっ!」


今の今まで、正直目にすら入っていなかったけれど、田之倉の連れの女性は彼の会社の受付嬢だった。確か先々月だかに中途入社したと聞いた覚えがある。

何度か彼の話に上がった事もあるから、もしかすると私と同時進行だったのかもしれない。


まあ、そんなことは今更どうでも良い。


私は睨み付けてくる女性に対し、目を細め冷静な口調で淡々と告げた。

恐らく彼女が知らないであろう経緯と、そして『未来』を。


「覚悟するのは田之倉の方よ。貴方、うちの会社とどれだけの額取引してるか知ってたでしょう? もうキャンセルしたけど、式には上司に同僚、仲人にはそれこそ専務まで出席する予定だった。なのに一方的に取りやめて、尻ぬぐいも全部私にさせたわ。私は出席してくれる筈だった関係者全員にお詫びをした。・・・・・・それが周囲から一体どういう風に見えるか、わかる?」


うちの轟物産と、田之倉の会社は中々に古い付き合いがある。それ故に私達の結婚式には双方の関係者が出席する予定になっていた。式が来月だった事からとうの昔に招待状は送っていたし、出席の返事も受け取り済みだった。


つまりは、百人単位の関係者のスケジュールを空けさせておいて、田之倉はその詫びを含め後の始末を全て私に放り投げ、自分だけ新しい女性とよろしくやっていたという事になる。


「申し訳ありませんでした」と一人一人に連絡を入れている私に、どれだけの人がどうして田之倉からの詫びは無いのかと訝しがった事か。


しかも堂々とこんな場所を笑顔で歩いているのだから、周囲からの彼への評価がどうなっているか、想像に難く無い。


そしてついでに、私には田之倉にも言っていない裏事情があった。腐れ縁の矢城さえ知らない話だ。

私はそれを、未だ地べたに座り込んでいる田之倉と、受付嬢の割に濃すぎる化粧を施した女性に向かって告げる。


「・・・・・・言ってなかったけど、うちの平山専務とそちらの廣田常務は幼馴染みなの。で、私は平山専務の妹の子。つまり姪なの」


言った途端、田之倉と女性の顔が一気に驚きの表情に変わる。

田之倉など、間抜けにも口を大きくぽかんと空けて、普段のすまし顔など何処にも見えない。


「そ、そんな事、一言も・・・・・・っ!」


「平山の叔父さんが、貴方を驚かせたいから式まで内緒にしようって言ったのよ」


怒ったような声を上げる田之倉を、私は口早に畳みかける。


今思えば、叔父さんがそう言ったのもこの田之倉に対して良い感情を持っていなかったからなのだろう。式が取りやめになったと叔父さんに話したら、静かに「そうか」としか言われなかったから。


・・・・・・ああ、そういえば、叔父さんって矢城の事はやたら褒めていたんだっけ。


アイツは今時珍しい情の厚い昔気質の男だ、と言っていた叔父さんの言葉を思い出しながら矢城を見ると、彼も驚いた顔で私を見つめていた。


それに、私は軽く笑って肩を竦めてみせる。


矢城に言わなかったのは、万が一にも彼にコネ入社だと思われたく無かったからだ。

今はもう彼のことを知っているからそんなことは思わないが、出会った当初は良い張り合い相手として競っていたので、彼に穿った目で見て貰いたくなかった。


平山専務はれっきとした私の叔父ではあるが、親族だからといって甘やかす人では無い。

だから田之倉とのことも止めたりしなかったし、会社を受けた時も自分の息がかかっていない人間に私を審査させた。


そういうところが、私が叔父さんを好きな理由でもあるのだけど、中々に……食えない人でもあるのだ。


「それに田之倉、貴方営業先で色々とやらかしてるわよね? 今まで先方から頂いた物とか整理しておきなさいよ。って言っても、もう遅いかもだけど」


私が言い終わった丁度その時、呆然となっている田之倉からスマホの着信音が鳴り響いた。

それに大きくびくっと震えて反応した田之倉は、上着のポケットからスマホを取り出し画面を眺めたかと思うと、まるで凍り付いた様に固まる。


「彬くん? どうしたの?」


女性が田之倉に話しかけるが、反応は無い。


私の位置から田之倉のスマホを見下ろせば、そこには『廣田常務』の名が表示されていた。

恐らく諸々の準備が整ったのだろう。


私はその場から微動だにしない田之倉と、周囲の視線を気にしつつ彼に声を掛けている女性を尻目に、矢城の腕を引っ張りその場から立ち去った。


矢城は、三白眼に真剣な光を乗せたまま、黙って私に付いてきてくれた。

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