第3話 捨てた想いの行く末は ~beauty karte.3 沙耶の場合~

「この様な感じで如何でしょうか」


ぱさり、と身を包んでいたケープを取り払った先の鏡の中には、今までとは違う『自分』が驚いた表情で座っていた。


腰元まであった長い髪は、要望通りに顎下で綺麗に切りそろえられていて、今までは隠れがちだった首元と鎖骨が、着ているVネックの襟から見えている。


自分で言うのもなんだけど・・・これ、結構似合っているんじゃないかしら。


以前は感じなかったけれど、軽くなった今となってはあの長い髪は私には重すぎたように思う。自惚れかもしれないが、隠れていた首元が出たおかげで、心なしか以前より女性らしく見える気がした。


右に左に顔を傾けながら、久方ぶりに短くなった髪を眺めていると、箕郷さんから「とても良くお似合いですよ」と言って微笑まれた。


・・・・・・社交辞令だと理解はしていても、自分でもかなり良いと思っているので、やはり嬉しい。


「有り難う御座います・・・というか、こんなに綺麗に切ってもらえるとは正直思っていなかったので、今ちょっと感動してます」


「ふふ、こちらこそ、身に余るお言葉有り難う御座います」


顔が動く度に、同じ黒でも軽やかさを纏った毛先がしゃらりと揺れる。


これなら、普段仕事で着ている深めに開いたシャツだって似合うかもしれない。

元婚約者はどちらかといえば綺麗系より可愛い系を好んでいたので、会う日は襟ぐりの深いものは避けていたけれど、これからはそれを気にしなくて良い。


なんだろう。

すごく・・・・・・すごく、軽くなった気がする。

髪も、そして心までも。


今後の簡単なブロー方法などを箕郷さんから聞きつつ、私は指先でそっと毛先に触れてみた。人差し指と中指で挟んでみたが、黒髪は滑るようにさらりと落ちていく。


切ったばかりだというのに柔らかく感じるのは、たぶんシャンプー後にしてくれたトリートメントのおかげだろう。


まるで絹糸のカーテンみたいに、しゃらしゃらと髪が頬を流れるのが、とても気持ちが良かった。


「・・・・・・それじゃあ、今日は本当に有り難う御座いました。また、お願いします」


「はい。こちらこそご来店頂きまして有り難う御座いました。お気を付けてお帰り下さいね」


綺麗な人に見送って貰えるというのは、中々気分の良いものだった。しかも、美容師さんとしての腕も良いとくれば申し分無い。


ただ不思議だったのは、先程は姿を消していたと思っていたお店のスタッフさんの姿が、まるでずっとそこに居たみたいに『見えるようになった』事だろうか。


普段の自分なら気になった筈なのに、なぜか私は軽やかになった髪と心のまま、特に気に止めること無く良い気分でその店を後にしたのだった。


御神おんかみ・・・・・・彼女は、大丈夫そうですね」


「ええ、そうですね」


―――そんな会話が、私が去った後の店内で交わされていたとはついぞ知らずに。


◇◆◇


偶々ネットで見かけただけなのに、すごく良いお店だったかも。


そんな事を思いながら、私は帰り道を足取り軽く歩いていた。

歩を進める度に毛先が宙に舞うのが、なんだか嬉しい。


コツコツと鳴るヒールも、昨日に比べれば断然軽く感じる。


思えば、ここ暫くは仕事を詰め込み過ぎていて、禄に休みも取っていなかった。

自分を捨てた男の事なんてさっさと忘れたいのに、ふとした時に思い出しては泣いていたのだから、私もまだまだ弱いな、と思う。


沙耶さや、ごめん、俺やっぱり結婚出来ない。俺さ、向いてないんだよそういうの。今他に付き合ってるやつもいるし、別に今の時代結婚なんて遅くてもいいじゃん。何、焦ってんの?』


馬鹿野郎に言われた言葉も、腹は立つがそもそも自分の見る目が無かったのだ。

というか、結婚したいねと言ったのはお前の方だろう、とあの時言い返せなかったのだけが少々心残りな位か。


・・・・・・今思えば、もっと怒鳴ってやるんだったわ。


むしろ蹴り飛ばしてやれば良かったと、軽くなった心の中で思う。どちらかと言えば細身だったし、私の蹴りでも倒れそうな程度の男だった。まだ腐れ縁の同僚の方が体格は良い位だ。

本当に、どうしてあんなのを好きになったのだろう?


結婚に焦っていたかと言われれば、NOでは嘘になる。

時折思い出したみたいにかかる実家からの催促電話は、焦りよりも面倒くささとプレッシャーを生んでいた。


そんな時、取引先の営業として会社にやってきたのがソイツだった。

あまり恋愛には前向きでなかった私に、ガンガン積極的に押してきて、今じゃ笑い話だが何度も告白されて根負けして付き合ったのだ。


交際期間は二年。

一般的に見れば、長くも無ければ短過ぎない微妙な期間だったと思う。


「・・・・・・もっと早く髪を切ってたら、色んな事に気付けたのかしら」


足を止め、空を見上げながらふと呟く。

鼻先に感じた水の臭いは、恐らく先日の雨の名残だろう。時節では初夏とされる今の季節、本格的に梅雨入りする前のこの空気が、私は昔から好きだった。


そう。

私が好きなのは五月で、来月の六月では無いのだ。


六月の花嫁に憧れは無かったけれど、たぶん浮き足立っていたのだと思う。

冷静に考えれば、どうして梅雨のど真ん中に、わざわざ催事を行う必要があるのかと突っ込みたいくらいだ。


けれどもしも、もしも次があるのなら―――そう考えられるようになった自分に驚きだが、次は私の産まれた季節である五月に、本当に好きで愛してくれる人と、誓いを交わせたらいいなと思う。


まあ、いつになるかは判らないが。


水で洗い流された空から視線を戻し、バッグの中へ手を突っ込み財布を取り出す。


つい先程貰ったばかりの名刺を眺めながら、久しぶりに通えるお店を見つけられて良かったと嬉しさを噛み締めた。


そこでふと、名刺に描かれている花を見て違和感に気が付く。


あれ―――?

さっき箕郷さんの名札には違う花が描かれていたけど、これは違う花・・・よね?


お店の名前と、担当美容師さんの名前の背景に、薄い色彩で描かれている紫色の花。

可愛らしい小さな花は桔梗にも似ているが、小輪が連なる様子からして少し違う。

なぜか気になって名刺をくるりと回してみれば、裏側にその説明らしき一文が載せられていた。


乙女桔梗オトメギキョウ・・・・・・?」


まるで花図鑑の文面を抜き出したかのように、そこには【花名:乙女桔梗 誕生花:五月八日 花言葉:誠実な恋】と記されていた。


「え・・・? 五月八日って、私の誕生日じゃない」


名刺に描かれている花と自分との関連性に、少し驚く。

しかし考えてみれば、最初来店した際にヘアカルテを書いていたのだから、名前や住所、連絡先や誕生日などはそこを見れば判る筈だ。


もしかすると、AFRODITEではお客の誕生日に合わせた花柄名刺を用意しているのかもしれない。


「それにしても・・・すごく手間だし、原価高そうよね、コレ」


細やかな配慮に感心しつつも、社会人だからか少々無粋な考えも浮かんでしまう。


けれど、こういう心遣いはとても素敵だと思うし、貰った側としても大事にしたいと思う。

あの中性的で不思議な店長さんが居るお店には、相応しい物だと感じた。


「さて、次はどうしようかな」


名刺を仕舞い、シャラシャラと揺れる髪を頬で感じながら再び足取り軽く歩き出す。


今日はカットのみだったけれど、次は軽くパーマを当ててみてもいいかもしれない。

毛先を内側に巻いて貰えば、今よりもっと首元が際立つだろう。


静かだった道のりが、足を進める毎に段々と音を増やし、普段聞き慣れた喧噪を耳に響かせる。AFRODITEは、駅前から少し離れた場所にあったけれど、ここまで来ればやはり街中のざわめきも大きい。


今日は久方ぶりの一日休み。

髪も切ったことだし、どこかでランチでもしていこうかしら。


今なら、ちゃんと美味しい物は美味しいと感じられるだろうなと思いつつ、どこか良いお店は無いかと視線を巡らせていた。


「沙耶・・・・・・! おいっ! 沙耶って!!」


「っな・・・」


しかし、めぼしいお店に当たりを付けた頃、私は背後から叫ばれる自分の名前に慌てて振り返った。

叫ばれていると称したのは、本当に相手が私の名前を大声で呼んでいたからだったが、往来でそんな風にされて、驚くなと言う方が無理な話である。


というか、声!

大きいのよ! 矢城やしろの馬鹿!


駅近くということもあり、平日の午前中でも人通りは多い。

そんな中大声で名前を呼ばれれば、周囲の注目だって嫌でも集めてしまう。


・・・いくつか向けられる視線が痛い。


「ちょっと!矢城!アンタ何で人の名前大声で呼んでんのよっ!」


振り返った先の顔を睨み付けながら言えば、走ってきたのだろうスーツ姿の見慣れた男が、肩で荒い息を繰り返しながらふん、と不遜な態度を取った。


―――人の事を大声で呼び止めて置いて、一体何なの。その態度。


せっかく髪が軽くなって、良い気分で帰路についていたというのに。

台無しにされたまでは思わないが、やはり水を差された感じは否めない。


「お前が何度呼んでも気付かないからだろ。この鈍感女」


上がった息を整えて、最後にふーっと大きく吐き出した後に矢城が言った。

乱れた前髪を直しているのか、右手で黒い髪を掻き上げながら、眉を顰め三白眼を一層目つき悪く細めている。

不遜どころか不貞不貞しいとさえ言える態度だ。


「何ですって!」


五年前と同じく第一印象が最悪だった三白眼に、黒髪を後ろに流したスーツの男は、私と同期である矢城僚司やしろりょうじだ。ビジネスバッグを手にしているあたり、外回りの途中だったのだろう。


所属している部署は違うが、最初の新人研修から以降、なぜか腐れ縁の状態が続いている。

互いに大学を卒業後入社したのもあり、同年同期で友人というよりも幼馴染みみたいな関係だった。


「沙耶お前・・・・・・」


「何よ」


ふん、とまるで漫画の効果音が付きそうな仕草で、矢城がぐっと眉間に皺を寄せ私を見据える。普通の女性なら、不躾な視線を嫌がりそうなものだが、矢城はこれがデフォルトである。人を大声で呼び止めたのだから、何かしら用事があるのだろう。


せっかくの休みで、しかも美容室帰りだったのに、一体どういった用件なんだか。


ジト目で聞き返せば、なぜか、矢城の視線は私の首元へと向けられていた。


「髪・・・切ったんだな。誰かと思った」


矢城が、切り捨てた私の髪がまだあるみたいに、視線を辿らせながら言う。


「へ? …あ、うん。今さっき切ってきたところよ」


事実そのままを口にすれば、矢城はどうしてか「そうか」と素っ気なく呟いて、それからふいっと三白眼を私から逸らした。


・・・・・・なんだか、らしくないな。と思う。


見れば判るが、矢城は典型的な俺様男だ。

自信家で野心家で、そのくせ努力家という実直な面も持ち合わせている。


だから社内でも目つきの割に女性人気が高いのだが、当の本人は仕事に忙殺されていて、恋愛どころではないらしい。


だから私は、婚約者が出来てからは矢城とは少し距離を置いていた。


結婚だなんだと面倒臭い問題を考えなくて良い矢城に、嫉妬していた部分もあるのかもしれない。入社して最初の頃は互いに仕事に没頭していて、良い張り合い相手だったからというのもある。それに何より、私が仕事よりもそっちを取ったと彼に思われたく無かったのだと今は判る。


「何、矢城アンタ取引先でミスでもしたの? ちょっと変じゃない?」


「俺がミスなんてするわけないだろ」


「あーはいはい、聞いた私が馬鹿だったわ」


珍しく視線を逸らせる矢城を茶化して言えば、不機嫌そうな顔と視線が戻ってきて、尊大な台詞でもって返された。


それから、今度はすっと私の前に歩み出て、三歩ほど前の距離まで詰められる。

何がしたいのかと目で問えば、ふいに矢城の口元が動いた。


「なあ」


「何よ」


「その髪、短いの。すごく・・・・・・良く似合ってる」


愛想良くとは到底言えない目付きの悪さと顰めっ面で、意味不明な言葉が紡がれた。


「・・・・・・は?」


予想外過ぎる相手から、予想外過ぎる言葉が飛び出たことに、一瞬幻聴では無いかと疑う。

そのせいで、間抜けな声が漏れてしまった。


「何だよ」


「いや・・・・・・アンタに褒められるのとか、初めてな気がしたから、つい」


動揺を何とか悟られないように取り繕いながら、感想を口にすれば、またまたふいっと視線を逸らされ、それからぼそりとぎりぎり届く声量で答えられる。


「・・・・・・俺だって世辞くらい言うっつの」


「お世辞って断言しないでよ」


ふて腐れたような声に突っ込みを入れながら、意外な相手からの褒め言葉に少し笑う。お世辞だと断言されても、それを口にしたことの無い人間から言われれば、結構嬉しいものだった。


元婚約者に捨てられて、しかも浮気で、かなりショックは大きかったけれど。

顔なんて毎日酷いものだったけれど。


それでも何とか仕事に出てこれたのは、腐れ縁でもある同期のコイツのおかげだったと思う。

式が来月に迫っていた事もあり、会社の人間には事情を知られていたし、大して知らない女子社員からは、憐れまれたりこそこそ噂されたりもしていた。元婚約者の顔が割れていたのが、一番の原因だったのだろう。


だから会社にも行きずらくて、正直辞めてしまおうかとも思っていた。

だけど今関わっている案件の計画案は私が作ったもので、終盤にもさしかかっていた事から離れ難い気持ちもあった。


そんな私に、毎日鬼のような電話を掛けてきたのがコイツ―――矢城だ。

別部署だというのに、同部署の友人達よりかなりしつこく、そして根気よく私を気にしてくれていた。


態度は尊大で強引だが、面倒見は良い男なのだ。

おかげで、ここ最近のスマホの着信歴は矢城の名前で埋め尽くされている。


ついでに言えば、電話に出なければマンションのドア前で怒鳴られるのだから、どうにも逃げようが無かった。今となっては、有り難い友人だなと思う。


「そういえば矢城、アンタ外回りの途中なんじゃないの。油売ってて大丈夫?」


「いや、そうなんだが。向かいのビルからお前が見えて・・・・・・っ」


「はあ・・・? ああ、向かいのビルって、安成物産の」


矢城の言葉に、通りの向こうの建物を見れば、確かに取引のある会社だった。

自分は有給で休日という事もあり気にしていなかったが、この周辺は付き合いのある会社が密集しているのだ。


・・・・・・だからだろう。


私は、矢城が言葉の途中で身体を強ばらせていたことに、気付かなかった。

彼の声が、不自然に途中で途切れていたことにも。


「っの野郎・・・・・・っ!」


矢城が、ビジネスバッグを持っていない方の拳を握り締めながら、吐き捨てるような声を零す。

彼の荒い口調と、憤怒に溢れた声音に驚いた。


「ちょっと矢城? 急にどうしたの? ・・・って、あ・・・」


険しい顔をした矢城の視線に促されて目をやれば、そこには知らない女性と笑顔で歩く、『元婚約者』の姿があった。

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