第2話 捨てた想いの行く末は ~beauty karte.2 沙耶の場合~
『失礼ですが、貴女はこの髪を『切り捨てたい』のでしょうか。それとも『消してしまいたい』のでしょうか―――?』
大人な雰囲気のお店に合わせてか、店内に流れる音楽はさほど大きくはない。耳に心地よい程度の音量が響く中、背後から鏡越しに強い視線でそう問いかけられた。
鏡で見る彼の表情は笑顔なのに、なぜか『笑っている』とは思えない。
しかも、驚いたことに私の身体はまるで、金縛りにあった様に微動だに出来ないでいた。
何。
何なの、これ――――?
薄く開けていた唇から空気が滑り込み、ああ呼吸は出来ているんだな、と当たり前な筈の事を思い出させる。驚いてはいる。寒気を覚えるほどの感覚もある。なのになぜか、私はそれを嫌だとは思っていなかった。
最初見たときにも感じたが、彼―――箕郷さんの中性的な印象がそうさせるのだろうか。
どこか人間離れしているかのような空気が、彼の纏うものの中に含まれている。
鏡越しにじっと薄茶の瞳に見据えられながら、私は問われた言葉の意味を思考して、確かにどちらかなのだろうかと考えた。
あの人が好きだった髪を切りに来た。確かにそうだけど、それを切り捨てると表現すべきなのか、むしろ無かったことにするために消してしまいたいのかと聞かれれば、イマイチよく判らない。
ただ思ったのは、婚約して、式の直前で浮気して捨ててくれた馬鹿野郎と別れた瞬間、あの男が好きだと言っていた髪がやたらと重く感じた事。
なんだか鬱陶しくて、とにかく軽くなろう!と今日の朝突然思いついて、偶々ネット検索にかかったこの店へとやってきたのだ。
・・・そういえば。
今まで何度も美容室の検索はしてたけど、このお店がヒットしたのは始めてだったわ。
美容室難民と自分で豪語しているだけあって、今まで数え切れないほどネットで好みの店が無いか調べたのに、この「AFRODITE」というお店は私はついぞ見かけた事が無かった。
まあ、今日だって偶々個人のSNSに書かれていたのを見ただけなんだけど。
誰とも知らない人の書き込みにあった、ある一つのフレーズが気になったからこそ、私はここに来たのだ。
『必ず美しくなれる美容室』なんて、まるで女性誌に出ている有名店みたいなキャッチコピーだったから。
誰でも、男でも女でも、美しくなりたいと思うのは自然な事だ。そこに性別は関係なく、だからこそ人は色々な努力を重ねるのだろう。
私も出来るのならば、そうなりたいと思う。
別に元婚約者を見返したいだとか、そういう気持ちなわけじゃなく、ただ自分として、美しく在りたいと思ったのだ。
―――ああ、そうだわ。
そこまで考えたところで、何か淡い光を放つ塊のような物が、ストンと心の奥深くに降りてきた感覚がした。見える筈も無いそれは、紅を薄めた色を持ち、透き通った結晶みたいに凜としている。
その感覚がした瞬間、意図していないのに私の唇が動き出していた。
「軽く・・・・・・なりたかったんです。何だか、重くて。これまでの想いもですけど、あの人と過ごした時間も、この髪の手入れに使った時間も、全部」
あら、おかしい。どうして私こんな事を答えているんだろう。
話すつもりなんて、無かったのに。
内心驚いている自分とは反対に、なぜか唇は勝手に、底深くに押し込めていた本音をすらすらと紡いでいく。気付けばいつの間にか、店内には他のスタッフさんやお客さんの姿は無く、私と店長さん・・・箕郷さんの二人のみとなっていた。
緩やかに流れる音楽と、程よく使い込まれた木目の調度品が、まるで俗世とこの場所を切り離しているみたいな感覚に陥らせる。店の奥に幾つかある木格子窓を通った光の筋が、道を照らす灯火と重なった。
「この髪が失くなるのは寂しいですけど・・・・・・切って捨ててしまえば、軽くなれたらまた、前に進んでいける気がするんです。だから私は、この髪を切りにきました」
勝手に動いていると思っていた唇が、いつしか私の意思を取り戻したように、しっかりとした口調と発音に変わっていく。言葉を全て言い終わったときには、私はこんな風に考えて髪を切りたかったのだと、自分の事ながら意外に思っていた。
なんか、変なの。自分で言った言葉なのに、まるで今気付いたみたいな感じがする。
鏡の中に居る自分を見ながら、それでも嫌な気分ではないな、と納得していた。
というより、心なしか今日の朝よりも気分がすっきりしている気がする。
鏡に映る自分をまじまじと見る、なんて意味のわからない行動をしていた私に、箕郷さんは高い位置にある綺麗な顔を、今度は本物の微笑みで美しく彩った。
彼のハニーブラウンの薄色の髪が、店奥にある格子窓の隙間から差し込む光に透けて、まるで金箔を散らしたみたいに輝く。きめ細かな白磁の肌は、降り始めの雪のように白さを際立たせていた。
―――あ、綺麗。
まるで咲き始めの花が綻ぶが如き優しい笑みに、ふわりと空気が揺れた気がした。
「・・・…軽くされたいのですね。畏まりました。今後貴女の行く道が、軽やかなものである様に、過去の想いも含めて、切らせて頂きます」
そうして、やっぱり男か女か判別し難い中性的な面差しで、彼は鏡越しに私へそう告げたのだった。
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