第六章④

 三階へと続く螺旋階段は、窓外の光を浴びながら、部分的にパステル色へと変化していた。意味もなく吹き荒れる山火事の突風が、時々パッツァオ邸を地震のように揺らし、そのたびに木製の螺旋階段は木々の軋む音を鳴らした。それも、大抵は不気味な砂埃を撒き散らして。このままだと、ヴァイオレットたちの激しい戦闘に巻き込まれて家が崩れるかもしれない。しかしテュランにとって、それはさほど重要な問題ではなかった。

 テュランは階段を登り切り、赤いカーペットの敷かれた細長い通路を走った。九年間、その殆どを高床層で過ごしたテュランは、このような屋敷に入った経験がなかったので、度々、道に迷いそうになる。暗い通路を渡り、手当たり次第に扉を開けてミルを探す。

 イカロゼに負わされた傷は、依然として猛威を振るっていた。彼の足跡そくせきには、必ず流血の道が形成されていた。窓から伝わる熱い空気を一身に浴びているはずなのに、なぜか寒気を感じる。走って汗を掻きながら、その汗と一緒に血も垂れ流した。〈身体強化〉に支えられて、なんとか踏ん張れているが、少しでも集中が切れたらたちまち気を失うであろう。だが今のテュランにとっては、そんなことは案ずるに値しなかった。

 三階をくまなく探すこと五分。ようやくテュランは、最後の部屋の扉のまえにやってきた。寝室だ。テュランは、山火事が屋敷のまわりを渦巻く中で、ついに最後の部屋に入った。

 部屋の内部は、ごく単純だった。想像しやすい。”ガーディアン支部”の寮部屋に似ていた。真四角で、壁は白く、一方の壁には本棚や家具などが設置されている。床の上には赤いカーペット。獣の毛皮から合成された逸品ものだ。室内は熱いが、テュランはむしろ悪寒に襲われていた。体の表面は熱いのに、内部が冷たい。そのギャップが、恐ろしいほどに不快である。

 部屋の奥には、シングルサイズのベッドがあった。黄金の布掛けが敷かれているが、部屋が暗すぎるので、イマイチ見栄えが良くない。その布の上には、枕よりも大きな黒い塊があって、それは赤子の死体を連想させた。

 テュランは腹部の血を押さえながら、もう片方の手を壁について、ゆっくりとベッドに向かった。木刀は既に捨てている。どうせ、この状態で敵がやってきても抵抗できるほどの動きはできない。持っているだけ無駄である。さて、今、ベッドの上の両開き窓から、月の眩い光が燦々と降り注いでいる。その光は、ベッドの上の黒い塊を厳然と照らした。黒い塊は、ミルだった。眠ったままのミルだった。彼女は石のように丸まって、死体のように眠っていたのだ。

「ミル!」

 その姿を見て、テュランは思わず叫んでしまった。声と同時に、血の混じった咳が漏れたが、構わずミルのもとまで飛び歩く。ベッドに腰を下ろし、血に汚れた左手で彼女の肩を揺らす。

「起きて。起きてミル」

「うぅ……」

 掠れた声が聞こえた。生きている。

 そう思ったら、テュランは泣きそうになった。ミルを失ってからの時間、彼はずっと茫漠とした不安と後悔に悩まされてきた。心に重りがかかったような気分であった。だが、こうしてミルと再会できたことにより……ほんの少しだけ、そのような精神の重りを取り外すことができた。

 テュランは涙を流しながら、彼女に言葉をかける。

「ミル! ミル! 起きて! 逃げるよ!」

「しょう……ねん?」

 重いまぶたが開かれる。どうやら目を覚ましたようだ。

「どうして……ここは……」

「助けに来たよ! 一緒に逃げよう!」

 すかさずテュランは立ち上がって、ミルを引っ張り始めた。彼女の体は依然として回復しておらず、自力で歩くことすら困難であった。テュランはミルの腕を自分の肩にかけ、彼女を背負うような姿勢で歩き出した。二人の体格は全く違うので、その身長差も相まって、とても不格好な体勢になってしまったが、そんなことは気にせず足を進めていく。ふと見ると、ミルの体から傷が消えていた。パッツァオ洞窟にいた際にイカロゼに負わされた胸部の刺し傷は、いつの間にか再生していたのである。

「少年……うちを、助けるつもりなのか……?」

「喋らないほうがいいよ。傷が開くかもしれないから」

 テュランは一心不乱に廊下に出て、螺旋階段へと向かう。一直線に敷かれたレッドカーペットの上には、血液の川が生まれていた。

「うちは……お前の親を……殺したんだぞ」ミルが言った。

「うちのこと、軽蔑しないのか……?」

「喋らないでって言ったじゃん」テュランが怒ったように返事した。

「ママのことは好きだよ。でもミルのことも好き。それだけだよ」

 単純明快な回答であった。テュランは、『話はこれで終わり』と言わんばかりの態度で口を閉じた。話したくない、というわけではない。話す必要がないのだ。今やるべきことは、互いに慰め合うことじゃない。一刻も早く脱出することだ。

 二人は会話を中断させ、無言のまま歩いた。壁に張り付いた窓から、変わらず山火事の光彩が輝いている。背部を撫でるような寒気を感じるたびに、テュランは窓外の炎を横目に見ながら、少しでも”熱”に関するキーワードを連想させた。お日様、火、村、村人の目、お母さんの死体、変態男のペニスを触るヴァイオレット、外で起きている山火事など。魔術が術者の表象に依存するように、体の調子も心の在り様に左右されるので、テュランはまず、体を壊すまえに心を壊さないことを意識した。体は有限だが、心は無限に強くなれる。

 十分後、ようやく螺旋階段のまえに到達した。蛇のようにうねったその階段は、実にダイナミックで仰々しかった。

 ——やっと、ここまできた。

 束の間、心に安堵の種が蒔かれる。一緒に帰れるかもしれない。

 そう思ったら俄然と力が湧いてきた。ミルの肩をしっかり支えて、慎重に階段を降りていく。ふとその時、あることに気づいた。後ろに誰かいる。すぐ近くにいる。接近されるまで気づかなかった。咄嗟に首だけ振り向くと、それはパッツァオだった。瞬間、心臓が止まったように感じた。その恐ろしい微小時間、テュランの膀胱が急速にゆるんだ。

「ハローォォォォォヤヒャヒャヒャヒャ」

 声が鳴る。笑い声だ。

 彼の悪魔のような笑い声を聞いた時、テュランたちはパッツァオに蹴られた。そして自分たちが蹴られたことに気づく頃には、二人の体は宙を舞っていた。壁を貫通し、外に出る。建物の屋根まで飛ばされたと思ったら、急速に下降していき、近くにあった庭園の花畑に突っ込んだ。あらゆる花々を潰しながら石の花壇に衝突した。瞬時に頭は護ったが、痺れるような苦痛が全身を駆け巡った。本気で「死」と目を合わせた気がした。

「お前を見るのはこれが初めてだ、テュラン」

「パッツァオ……」

 眼前に立っているのは、ミルの頸部を片手で掴むパッツァオだった。彼は、漆黒のコートを着て、赤い目を炎のように輝かせながらテュランを睨んでいた。悪魔のような姿をしている。

 「この私を追い込んだ元凶が、ただのクソガキだと思うと心底腹が立ってくる」パッツァオは言った。「なぜお前は、二度も私の邪魔をするのだ」

 彼は苛ついたように暴言を吐くと、乱雑な動作でミルの体を遠方へ投げ飛ばした。テュランは泣きそうな目でその様を見つめたが、重苦しい身体に支配されて何もできなかった。

 そんなテュランを眺めながら、パッツァオが、厳しい顔で怒鳴りつける。

「Juibfuewopikujuijrhaouiufkuapipjifaouimpihfahiaifinmoi!(クソがッくたばれェ失せろ殺すぞォ畜生ッ死にやがれェぶっ殺すぞッ!)」

 彼が放ったのは、異国の言語であった。故に、テュランは何も聞き取れなかった。だが、パッツァオが怒りに燃えていることだけは即座に察せた。腹を抱えて地面に膝をつけたまま、テュランは峻厳な語調で言い返した。

「僕は……お前の邪魔がしたいんじゃない。ミルに会いたいから来たんだ」

「戯言めェ゙」パッツァオが、テュランの主張を跳ね除ける。「まさか……お前は、この女のことが好きなのか?」続けざまに尋問。

「うん。好きだよ」テュランは即答した。その声には一切の迷いがなかった。

「バカがッ!」嫉妬を拗らせたのか、パッツァオは血走った目でテュランを睨みつけた。長年の恨みをぶつけるような、陰湿な態度を見せている。

「つまり貴様は、この醜悪な下等生物と交尾するためだけに、わざわざ俺の屋敷を荒らしに来たというわけだな」

「…………」

 話の意味が理解できなかったので、テュランはとりあえず沈黙した。だがパッツァオは何を勘違いしたのか、その無言を”肯定の意思表示”だと受け取って、より一層に語気を強めた。

「ふざけるなよ小僧。俺の館は、お前らのイチャコラを楽しませるためにあるモンじゃねぇーんだ」

「ミルを、返してください」動じないテュラン。パッツァオのボルテージが、いよいよ限界に達する。

「返すものかッ! 俺の面子に泥を塗った貴様らに、最悪の罰を下してやる」

 その言葉を皮切りにして、パッツァオがいきなり突っ込んできた。テュランも即座に立ち上がり、≪ママのいえ≫を唱える。

 刹那、ハルバートの剣先とパッツァオの拳が衝突した。突風のような衝撃をどうにか耐えようとしたが、腹部の激痛が全身を駆け巡ったせいで、体勢が崩れる。その隙を、パッツァオが闘牛のように狙ってくる。咄嗟に躱そうとしたが後の祭り、テュランは軽々と飛ばされてしまった。

 ——駄目だ。強すぎる。

 腹を押さえながら、テュランは絶望的な気持ちになった。

 ——この人、魔力を一切も使。魔力なしで、この戦闘能力。あまりにも実力の差がある。

 息を乱し、立つことすら厳しいこの状況下……しかしパッツァオは、依然として猛威を失わずにこちらに迫りくる。

「クックックー。良いことを思いついた」拳を飛ばしながら、パッツァオが叫んだ。

「貴様とミルのどちらかを殺すことにしよう」

「!」

「想い人を眼前で失う絶望を味わせてから殺してやる」 

 衝撃的な宣言を聞いて、思わずテュランの手が止まる。

 瞬間、骨の割れるような感覚が顔面に響いた。刹那の油断を見切ったパッツァオが、ガラ空きとなっていたテュランの顎に向かって強烈な徒手空拳を振るったのである。気づけばテュランは、花壇の泥に叩き付けられていた。首が折れたと思った。

 ——諦めるな……!

 飛ぶ意識をなんとか手繰り寄せて持ち堪える。血液の混じった吐瀉物を吐きながら、再びハルバートを持って立ち上がる。

『テュランくんとミルさん……お二人のどちらかが——し、死んでしまいます』

 ふと、リボンの預言を思い出した。

 彼女の柔らかな声と同時に、テュランは、先程のパッツァオの言葉を想起する。

『良いことを思いついた……貴様とミルの、どちらかを殺すことにしよう』

 その時、彼は目を覚ましたように、はっと胸を衝かれた。

「そうか。そういうことだったんだ……」テュランが、上澄んだ声で呟く。

「すべては……この時のためにあったんだ」

 悟ったテュラン。一段とボルテージが上がる。

 短い呼吸音に乗って、テュランはパッツァオに向かって突進した。

「無駄だァ。お前の速度では俺に追いつけまいッ!」

 パッツァオが、勝ち誇った表情で拳を構える。タイミングを見計らって、彼は、迫りくるテュランの顔面を狙って拳を振るった。だが、

「——ッ!」

 その一撃は、すんでのタイミングで躱された。そして次の瞬間、千手のような剣技がパッツァオを襲った。彼は、どうにか軽いフットワークを生かして退避を試みるが、テュランのやいばがソレを許さない。

「クソがッ!」うなるパッツァオ。

 〈身体強化〉の術式効果に最上のイメージを付与したテュランは、ヴァイオレットに喰らわせたように、あの千手観音のような高速剣技を再び顕現させていた。二本の手が無辺に感じられ、パッツァオは為すすべなく体を斬られるしかなかった。だが、彼も負けるわけにはいかない。

「おのれェェェ!!」

 痺れを切らしたパッツァオは、大地に渾身の拳をぶつけた。すると周辺の地面が貧弱な窓ガラスのように断ち割れて、地震のような振動が世界に走った。その衝撃は、テュランの肉体をことごとくく吹き飛ばし、二人の距離を遠ざけた。

「意外と……骨のあるガキだったんだな」パッツァオが言った。「ちょっと……分からせるか」

 そう呟いたパッツァオの顔には、ひどい笑顔が浮かんでいた。頬や顎に刀傷が走り、かなりの損傷を負っている感じだった。しかし彼は、余裕な態度を貫いている。

 テュランは再度立ち上がり、ハルバートを構えた。血の混じった汗が頬を伝わり、心臓の鼓動が生命の躍動を表現している。炎の行き届いていない神聖な庭園の中心地で……二人はいま、この戦いの頂上決戦を繰り広げているのだ。

「次は殺してやるよ」ややくぐもった声で開戦を宣言したのは、パッツァオのほうだった。

 彼は、地面を破壊するほどの力で地面を蹴り飛ばすと、音速を超えた速さでテュランの間合いに接近した。すかさずテュランも防御の姿勢を取るが、間に合うはずもなかった。雷鳴のような音が轟き、次の瞬間には大量の血を吐いてしまった。致命傷を抱えた腹部に、さらなる打撃が入ったのである。拳と溝内のぶつかりあった音が、雷のようなハーモニーを生み出していた。

「…………」

 テュランは白目を剥いて、意識を手放した。だが眠ることを許さないパッツァオが、無理矢理に体を引っ張って何度も何度も致命傷を与えた。手の施しようがなく、テュランはハルバートを落として、ただただ一方的に蹂躙されるしかない。

「キャハハハハハハハハハハ」

 楽しそうにパッツァオが笑う。

「弱いなァ〜あまりにも弱い」

 片手で持ち上げたテュランの体を、名一杯の力を込めて地面に叩き付ける。

「なぜこんなにも弱いんだァ」

 笑いながらパッツァオは、興奮した様子でテュランを殴り続けた。染みついた小便のシミみたいに、庭園の花々に人間の血液が付着する。

「あァ、そういうことか」

 何かに気づいたようである。パッツァオは狂ったように笑ってシャウトした。

「どうせお前らはッ!」

 顔面を蹴り上げる。

「ガキの真似事みたいなフレンチキスとかッ!」

 宙に浮いた体に回し蹴りを放つ。

「激しくも熱くもないセックスとかしてッ!」

 地面に倒れた体に、何度も拳をぶつける。

「愛があればそれで満足とか言って、腑抜けたロマンチシズムに浸るんだろッ!」

 花壇に落ちたハルバートを拾う。

「甘めぇんだよックソザコクソガキがッ!」

 そのハルバートで、テュランの右手首を切断した。

 テュランは地獄のような連撃を浴びて、もはや声を出すことすらできなかった。

「もっとこだわれよッ! 己の性癖にッ!」

 もう一度足を回す。体が蹴り飛ばされる。

「特別なへきもない。欲もない。怒りもない。ただ流されるまま好きになって、中途半端なスタンスで自己陶酔して俺の平和を破壊した害虫めェ゙」

 遠方まで飛ばされたテュランは、ダンゴムシのように体を丸めて固まった。周辺の地面には、信じられない量の血液が飛び交っている。灼熱の炎が夜空を彩る今日、その惨劇は火の光を浴びて顕著に示された。

「これはな、聖戦なんだッ! 己のせいへきを証明するための戦いなんだよッ」

 両手を広げ、酔いしれるように叫ぶ。パッツァオの顔に火粉が飛んでくる。

「そういう神聖な戦いにオマエみたいな腑抜けはいらねぇんだよ」

 だがテュランは、何度殴られても立ち上がる。

「なぜだ」パッツァオが眉をしかめて問う。「なぜ立ち上がる」

 血を吐きながら、泥にまみれながら、それでもなおテュランは起き上がる。

「もう、お前の心は粉々に砕け散ったはずだぞ」

 彼の言葉を無視して、テュランは少しづつ歩き始める。パッツァオのほうへと足を進めていく。もう、右手がないのに—―。

「欲か? マゾなのか、貴様は? 殴られるのが趣味なのか」

「違う……」テュランが荒んだ声で答える。

「ではなぜ戦う。夢か? 平和か? 平穏か? はたまは恋? いや……愛か?」

「……」

「すべて人間の作り出した虚構だ。所詮、弱肉強食の現代世界から逃避したい人間の詭弁なのさ。この世界は、原始時代から何も変わっていない。強い者が五欲を満たし、弱き者は強者の道具でしかないのだ」

 パッツァオは自分に言い聞かせるように演説して、再度地面を蹴ってテュランに迫った。暴力的な動作で押し倒し、テュランの首を絞めつける。太い指が絡まり、軌道を塞がれる。苦しそうに嗚咽を漏らすテュランの顔を眺めながら、パッツァオは

狂乱の金切り声を上げて爆笑した。悪魔のような嘲笑が鼓膜にじんじんと響き渡り、首を絞められるみたいに耳の空洞も彼の声で縛られた。

「聞こえるか、俺の笑声が」

 パッツァオの目は、完全に狂った人の目をしていた。

「これは祝福の音だ」

 テュランの首を強く締めながら語る。

「貴様の霊魂が地獄に堕ちる、門出のファンファーレだ」

「…………」

「じゃあな、天涯孤独のザコボーイ」

 そう言い放ち、パッツァオはさらに握力を強めた。骨を握り潰す勢いで、ぎゅっと乱暴に縛りつける。だが、

「僕は……」

 テュランの命は、なかなか途絶えない。むしろ先程よりも魔力の循環が速くなっている。気道の塞がった喉で雄叫びを上げて、パッツァオの手を握りしめる。骨の鳴る音がする。渾身の力を込めて手を掴み、腕の筋肉繊維を全て引きちぎるつもりで腕を上げていく

 顔が熱い。首が苦しい。汗と涙と血が湧き出る。パッツァオの手首は想像以上に固い。片手では、どうにもならない。だけど絶対に諦めない。最後の力を振り絞って、全てを投げ打つ覚悟でパッツァオの手首を握り潰す。

「僕は……」

 パッツァオの右手が首から離れる。彼は、悔しそうに声を上げる。

「僕はッ!」

 気道が開いて、遂に叫ぶ。

「一人じゃない!」

 瞬間、〈身体強化〉の恩恵が少年のもとに回帰し、刹那の間にパッツァオを蹴り飛ばした。パッツァオは白目を剥きながら、風を揺らすほどの速度で遠方の木々に弾かれた。肉の潰れるような音が鳴り、大量の血が噴き出る。パッツァオの体は、凍ったように微動だにしなくなった。

「……勝った」

 動かなくなったパッツァオを見て、テュランは遂に勝利を確信する。鉄のように重たい体を持ち上がながら、どうにか立ち上がることに成功する。

 ——ミル。ミル。

 テュランの心を埋め尽くしているのは、ミルだけだ。勝利の余韻に浸る暇はない。彼は、庭園のなかに飛ばされたミルを探し始めた。


「ミル……」

 意外にもミルは十分程度で見つかった。

「少年……こんなに、怪我して」

 ミルもテュランも、満身創痍であった。血の池を浴びたような格好になっている。

「ごめん遅くなって。帰ろっか」

「あぁ。すまない」

 二人は、互いに肩を寄せあい、支えあうようにして歩き出す。山々の木々が燃えて火粉が飛ぶ中、二人は灼熱の風を浴びながら必死に足を動かしていく。

 ようやく勝った。でも、急いで逃げた方が良い。

 警戒と安堵を織り交ぜながら、一刻も早く遠くへ逃げようと思った。とりあえず、ヴァイオレットと合流したかった。

 だが、その足はすぐに止まる。

「キャハハハハハハハハハハ」 

 背後から悪魔の声が聞こえてきて、

「驚くよなァ、驚いたよなァ〜」

 即座にテュランは自分の左胸に手を当てた。

 彼は、ピストルで左胸を撃たれたのである。真っ赤な花が胸の中を咲き誇る。たくましく稼働していた心臓が、途端にその鼓動のリズムを狂わせる。背部を刺すような寒気と、重苦しい重力が目蓋まぶたに圧し掛かってきて、テュランは遂に倒れてしまった。今晩、何度倒れたことであろうか。腹を斬られ刺され殴られ、首を絞められ……既に死んでいても不思議じゃない傷を負っている。だがテュランは、紛いなりにも、こうして呼吸をしてこの時まで生きてきた。ところが、今回ばかりは少し違った。弾丸が胸を貫通した瞬間、テュランは即座に「死」を感じ取ったのだ。

「これはなァ〜銃ってんだよ。最新兵器なんだ」

 パッツァオが嬉しそうに叫ぶ。

「クックック。絶望の色が見えるぞ、テュラン」

 ミルの目の前で、テュランは地面に倒れた。「少年!」

 裏返りながら、ミルは涙を滲ませた狂乱の声を上げる。

「パッツァオ、近づくなァ!」

「クックック。気分がいい。さぞかし苛ついているな」

 パッツァオは銃を見せびらかすようにひらひらと持ちながら、大声で笑った。

「お前らは知らないもんな、銃の存在を。こんなご都合的な飛び道具あると思わねぇーもんな。唐突な登場だしよ。前触れも伏線もねぇークソみたいな武器だろ」

 そこで一旦間を開けて、

「だがな」

 低い声が鳴る。

「いつの時代も、権力者ってのは理不尽を押し付ける存在なのさァァァ!!」

 勝利を確信したパッツァオが、火粉に染まる夜空を仰ぎ見る。

 テュランはミルの膝上に寝込みながら、ハルバートから手を離した。紅梅色の目から光が消えていく。彼の身に「死」が迫りくる。混沌とした状況の中、ミルは泣くことしかできなかった。彼女も既に、体が動かないのである。戦えないのだ。

 しかしパッツァオは、息の詰まりそうな臭いを放ちながら徐々にやってくる。その足音は「死」へのカウントダウンだ。

 目を瞑り、絶命しかけているテュランを抱きしめながら、ミルはとにかく祈った。

 ——どうか少年を助けてください。

 ——どんな犠牲も払いますから。お願いします。少年の命だけは守ってください。

 自分が何に祈っているのかすら分かっていない。ミルは無神論者であるからだ。だが、こうやって絶望的な状況に追い込まれた時、もはや彼女は神でも悪魔でも良いから命を差し出すつもりでテュランの生存を祈った。魂をも投げ出す覚悟であった。

 そして、その覚悟はテュランも同様であった。弾丸が己の胸部を通過した際、テュランは身に宿していた”絶対的な核”を折られた気持ちになった。腹を刺され、顔を殴られ、首を絞められても……圧倒的な精神力で〈身体強化〉の恩恵を拡大解釈させることで、なかば”魔力治癒”に近いような蘇生を成功させていたのだが、”ピストル”という未知の攻撃を受けて、その完全無欠に等しかった想像力に一種の亀裂が走った。その断裂は瞬く間に彼の肉体を侵食し、ほんの一秒後には、地面に倒れていた。付近では山火事が起きているはずなのに、氷の池を泳いでいる気分だ。先程までの眩しい光が、今では冷たい暗闇に包まれて何も感じ取れない。唯一、ミルの泣き叫ぶ声と山火事の音だけが聞こえるが、聴覚以外のあらゆる感覚が失われ始めていた。

 テュランは、極寒の闇の中、絶えず祈った。

 ——お願いします。助けてください。僕に、あいつを倒す力をください。

 パッツァオを倒さなければ、誰も生きて帰れない。

 ——どんな犠牲も払いますから。お願いします。助けてください。僕に、力をください。みんなを守る力を!

 身命を捨てる想いであった。どんな犠牲を払っても良いと思った。このまま死んでもいいと。だが、ただでは死にたくない。せめてパッツァオを倒し、ミルに命のバトンを繋ぎたい。

 その力強い雷鳴のような祈りは、テュランの脳内に『ある呪文』を授けた。その感覚は、ずっと忘れていた何かを思い出すようなモノに近かった。本来、備わっていたはずの力や記憶を、もう一度呼び戻すような感覚だ。

『キミの術式の名前は≪ママのいえ≫じゃないわ』

 ふいに、ヴァイオレットの言葉を思い出した。まるで導かれているようだった。

 ——まさか。

 混乱と戸惑いがテュランの胸を覆う。ソレは、ヴァイオレットがずっと期待していたものだ。得体の知れない、漠然とした存在。

 ”王”は時代を変えるために生まれる。伝説によれば、神の時代を終わらせ、人間の世界を作ったとされる。その王は、久遠の時を経て、再び現代に蘇ったと言われている。

 そして、を操れるのは”魔境の王”だけだ――。


 教わったことはない。

 聞いたこともない。

 生物が産まれながらにして呼吸の仕方を覚えているように、彼もまた、あの術式を使用法を思い出した。

 自分の名を呟くように、詠唱した。

 

「≪魔境の櫃アーク ”契約コントラクト”≫」


 声に出した瞬間、混沌としていた暗闇が一気に開けた。

 そのさまは、自分の体の重力だけが反転し、深い海底から這い上がるような感覚に近かった。あの背部を舐めるような悪寒も消え失せ、その代わりに、言葉では到底言い表せないような、全世界を支配したような”万能感”を彼は覚えた。

 月明かりが照っている。森を焼く火が美しい。くうに漂う砂ぼこりの一粒さえも――テュランは自分の支配下に置いているような気分だった。

「少年……」

 ミルは寝転びながら、起き上がったテュランの背中を後ろから眺めた。血液を吐きながら、満面の笑みをたたえる。「よく戻ったな……」

「ミル、もう大丈夫だよ」

 テュランはミルに背を向けたまま、冷静沈着な態度でそう言い放った。全身の至るところに緑の閃光が発現し、斬り落とされていたはずの右手首が急速に再生されていく。

「”魔力治癒”!?」パッツァオは驚いたように声を張った。

 ”魔力治癒”は、高度な魔力操作を必要とするため、使える者が数少ない。もし”魔力治癒”を扱えるのであれば、その者は間違いなく一流の”感覚”を会得している。魔術を志した者なら、一度は誰でも習得を目指す一流の魔術だ。

「クソがッ!」

 パッツァオは怒りに身を任せるように銃を乱射した。空間を擦り抜ける弾丸の雨がテュランの身に迫る。もし被弾すれば、致命傷は免れない。

 しかし、

「無駄だよ」

 と彼は一言だけ呟いてから、弾丸に向かって手を翳した。手を出した瞬間、テュランの前方に白い眩しい光が現れて……その光は、迫りくる弾丸を一つも残らず異空間へと転移させてしまった。パッツァオの飛び道具は、呆気なく敗北したのである。

「クッ……」爪を噛むパッツァオ。「図に乗るな!」

 ヒステリックに叫びながら、パッツァオは地面を強く蹴って、再び音速を超える速度でテュランに殴り掛かった。力強い拳が振り下ろされる。ところがテュランは、片手でソレを凌ぎ、地面を細やかに滑って、パッツァオの背後へと回った。隙を突いて、拳を放つ。すると、骨の割れる音がした。

「グアカッ!」

 パッツァオは声にならない声を上げた。激しい痛みに襲われて、よろめきながら後退する。腹部がガラ空きだ。テュランはその隙を狙って、強烈な回し蹴りを放った。蹴り飛ばされたパッツァオは、血を吐きながら遠方の花壇まで弾かれた。

「貴様……いったい、何が起きているんだッ!!」

 テュランの強さが一気に変貌して、パッツァオは戸惑いを隠せなかった。先程まで自分の勝利を確信して疑わなかったのに、テュランが≪魔境の櫃アーク≫に目覚めたことで雲行きが怪しくなった。パッツァオは、数年ぶりに「死」を感じ始めたのである。このまま戦えば、敗色は濃くなっていくばかりだ。撤退も視野に入れるべきだろう。だが、パッツァオのプライドが、「逃走」というカードを完全に封じてしまった。

「クソガキがッ! やれるモンならやってみろッ!」

 パッツァオはコートを破り捨てて、上半身を夜空に晒した。筋骨隆々の、逞しい肉体美が月明かりに照らされている。

「魔力なんぞ飾り! 魔力に頼る男は貧弱! 筋肉! 筋肉が全てを凌駕すんだよッ!!」

 酔いも相まって、パッツァオは狂ったように裸体を晒しながらテュランに突っ込んだ。無論、テュランは動じることなく彼の突進を躱す。続々と降りかかってくる拳や蹴りを全て受け流し、隙を見抜いて反撃に出る。テュランの攻撃を受ければ、パッツァオの肉体は、触れればたちまち崩れてしまいそうな土塊のように壊れていった。衝撃が内部に渡り、強烈な目眩めまいに晒される。目が眩んだせいで立つことすら困難になった。彼は、思わず地面に膝をつけた。

「パッツァオ、あなたは人じゃない。人の姿をした肉塊だ」

 突然、テュランがサイコパスのようなことを言い出した。この時初めて、パッツァオは本気で恐怖を感じた。

 テュランはゆったりとした動作で、地面に膝をつけているパッツァオの頭上に手を翳した。

 そして、唱えた。

「≪魔境の櫃アーク 棺喰ヒツギグイ≫」

 詠唱直後、テュランのてのひらから現れたのは、地獄の業火のように禍々しく輝く、赤黒いドロドロとした湿度の高い光だった。血液を混ぜたようなインクの光が、渦のように舞い上がってパッツァオを囲んでいく。

「な、なんなんだッ?!」

 パッツァオは、半泣きの状態で怯えながら叫んだ。見たこともないような、不気味で忌々しい赤黒い光の渦。その正体不明の術式に飲み込まれていくうちに、彼の体は少しづつ細かい粒子に分解され始めた。

「クッソォォォォォ!」パッツァオが声を張り上げる。

「僕の術式効果は、無生物を格納すること。そのルールは≪ママのいえ≫も≪魔境の櫃アーク≫も同じ」

 淡々とした声でテュランが説明する。

「でも、魔術はイメージの世界だから……ルールなんて幾らでも破れる。僕は……あなたを人だと思わない。あなたは人の姿をした肉塊だ。僕の認識では、あなたはその辺の石ころと同じ存在だから簡単に吸収できちゃうんです」

「Juibfuewopikujuijrhaouiufkuapipjifaouimpihfahiaifinmoi!(クソがッくたばれェ失せろ殺すぞォ畜生ッ死にやがれェぶっ殺すぞッ!)」

 光に呑まれながら、パッツァオは最後まで呪詛は吐き続けた。その姿は、夏の夜空に輝く花火のように儚かった。彼は為すすべなく、テュランの”箱”の中に格納されたのである。テュランが許可しない限り、永遠に異空間に閉じ込められる。まさに生き地獄だ。

 テュランは、パッツァオの身を察しながら自分の勝利を心から確信した。

 ——勝てた。

 そう思ったら、重苦しい疲労感が精神的に圧し掛かってきた。体は元気だが、心が疲れている。緊張の糸がほどけて、今まで溜め込んでいたストレスが一気に解放された。膨大な質量を運んだ眠気が、目蓋まぶたの上に乗っかってくる。安堵のお湯に浸かりながら、テュランは静かに目を閉じて寝てしまうのであった。

 ——きっともう、大丈夫。

 それだけを言葉として残して。

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