第六章③

 テュランがイカロゼと戦っている間、ヴァイオレットは山の中でシェルマイドと激戦を繰り広げていた。周囲の世界は、まるで地獄のようだった——言葉では説明できないほどの変貌ぶりだ。大樹を燃やす炎の海、大地に連なる断層、頭上を斬り裂く暴風、鹿が背中に火を浴びながら駆けるような世界だった。

 どこへ逃げても火が追いかけてきて、どれだけ鼻を摘まんでも木の焼ける臭いが鼻腔を突き刺した。そのような環境のなかで、ヴァイオレットとシェルマイドは戦っていた。

「案外、あなた焦ってるんじゃない?」 ヴァイオレットが言った。「イカロゼが死んだわね」

「あの男が負けるのは想定内だ」

「へぇー。あなたもそう思ってたのね。初めてだわ、あなたの意見に賛同するの」

 二人は、山火事の中心地点に立っていた。イカロゼがテュランに負けた時、二人は、研ぎ澄まされた五感で即座に彼の絶命を把握した。ヴァイオレットは手を挙げて「止め」の合図を示し、余談を要求した。シェルマイドも何か言いたげに鉤爪を下ろし、大樹の葉から巻き上がる火粉を浴びながら、攻勢を中断した。

「じゃあ、残る強敵はあなただけね」ヴァイオレットが言った。

 彼女は口元を緩めていた。勝ちを本気で確信したような笑みだった。

 だがそれは、シェルマイドも同様であった。

「お前の意見は、半分正しく半分間違っている」

 シェルマイドはそう言って、暑苦しい外套の端を手でつまんだ。火粉が舞い上がり、熱風の降り注ぐ中、彼はゆったりとした動作でフードを脱いだ。不敵に笑う彼の姿を称えるように、周囲の炎がいっそう強まった。

 シェルマイドの顔面を視認した時、ヴァイオレットは胸を打たれたように激しく動揺した。彼の顔には無数の傷跡が残っていた。だが、かなりのイケメンであった。銀色の髪は肩まで伸びていて、前髪は綺麗に二つに分けられていた。背はとても高く、トレンチコートの雰囲気にマッチしていた。シェルマイドの目は虹色に染まっており、燦々と輝く太陽の光を彷彿とさせている。額には、一本の黒いつのが生えていて、邪悪な影を内包していた。揺らめき、漂う黒い影。どういうことか、言うまでもない。彼は、〈獣人けものびと〉であり〈吸血鬼ドラキュラ〉でもあったのだ。

「驚いただろ」無表情でシェルマイドが言った。

「どういうことかしら。〈獣人けものびと〉と〈吸血鬼ドラキュラ〉の混血? いや……有り得ないわ。クジラと猿が交尾するようなものよ……。絶対、不可能だわ」

 ヴァイオレットは、動揺の色を隠せなかった。目を揺らし、訝しげにシェルマイドの顔を見つめる。シェルマイドの額に伸びた一本のかどは、ミルの耳や尻尾を彷彿とさせた。

「お前は、〈吸血鬼ドラキュラ〉の語源を知っているか?」

 突如、シェルマイドが話題を変えた。

 ヴァイオレットは、否定の意味も込めて沈黙を貫いた。

「東洋のほうでは、”ドラキュラ”は吸血鬼きゅうけつきと呼ばれているらしい。意味は、”血を吸い取る怪物”。彼らにとって〈吸血鬼ドラキュラ〉とは、血を吸うだけの化け物だったのだ」

「…………随分と詳しいのね」ヴァイオレットが口を開いた。剣を両手で握って、戦闘態勢に入る。シェルマイドは構わず続けた。

「だが〈吸血鬼ドラキュラ〉は人肉も食べる。血を吸うわけではない。ではなぜ吸血鬼きゅうけつきと呼ばれているのか」

「…………」

「〈吸血鬼ドラキュラ〉の第一世代が”吸血鬼きゅうけつきだからだ。第一世代の〈吸血鬼ドラキュラ〉は、人間の血液のみを吸って生きてきた」

 シェルマイドは話しながら、鉤爪を伸ばし始めた。

「奴らの牙には特別な魔術がかかっていたな。噛んだ相手を〈吸血鬼ドラキュラ〉に変化させることができるんだ」

「ぶっ飛んだ話ね。そんな話、聞いたこともないわ」ヴァイオレットは、寝言のように言った。言葉の裏に、大きな困惑が隠れている。ここまで取り乱したのは、これが初めてかもしれない。

「お前がどう思うと自由だ。だが、はっきり言っておこう。俺は元獣人けものびとだ。そして”吸血鬼きゅうけつき”に噛まれ、後天的に〈吸血鬼ドラキュラ〉と成った。最悪の災難だよ」

「…………」

 ヴァイオレットは二の句が継げなかった。剣を構えたまま、黙って話を聞くしかない。するとシェルマイドが、怒りをどうにか押さえつけるように、小さな声で怒鳴った。

「俺には居場所がなかった」そう言い、一旦間を置く。呼吸を整え、再び話し始める。「だがパッツァオとアンダーソンだけは、こんな俺を受け入れてくれた。だから俺は、あいつらのために戦う」

 彼の声は穏やかだったが、確かな決意に満ちていた。生物を斬り裂く強靭な鉤爪を伸ばし構え、大きなトレンチコートに身を包むその姿は、ヴァイオレットに強烈なプレッシャーを感じさせた。熱風が、火粉とともに吹き荒れる。ヴァイオレットはジリジリと緊張を受容しながら、額に汗を滲ませて剣舞の構えを取った。そして、じっとシェルマイドの目を見つめる。シェルマイドも、いよいよフードを脱ぎ去ったことで顔があらわとなり、鋭い眼光を飛ばしながら、不気味な笑みをたたえた。

「ヴァイオレット、お前に勝ち目はない。もうじき、パッツァオが目覚める」

「だから何?」厳しい語調で即答する。ヴァイオレットは、ミルのハルバートを扱うテュランの姿を脳裏に浮かべた。両の手で握り、本能のままやいばを振るその腕っぷし。筋肉も身長も足りないが、そのディスアドバンテージを〈身体強化〉で全て補えるほどの特殊な才能がある。”王”であるかどうかは一旦抜きにしても、彼の実力は称賛に値する。「勝つのは私たちよ。テュランは、未来の”王”だから」

 するとシェルマイドは僅かに口元を緩めた。くだらぬ戯言を巻き散らかす人間を嫌悪するような冷たい目。「人間の正常性バイアスは恐ろしいな。あの子供がパッツァオに勝つ道理がない。にもかかわらずお前は、ガキの勝利を妄信している……笑える。実に笑える」

「笑えばいいわ。いつの時代も、”正解”を真っ先に唱えた人間は嘲笑されるものよ」

 ヴァイオレットは明朗な声で言った。厳然と笑顔を見せている。

「その顔も……いつまで見られるかな」シェルマイドも負けじと言い返す。

「一応忠告しておくが、パッツァオは俺より強いぞ」

 そう言い放ち、シェルマイドは地面を蹴ってヴァイオレットに迫った。

 二人の戦いが、再び始まった。

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