第六章②
「もう一杯持ってきてくれないか、シェルマイド」
パッツァオは、炎のような赤い顔で、傭兵のシェルマイドにワインを頼んだ。
彼は今、リビングのベッドに座り、手元の酒を嗜みながら、イカロゼと一緒に談笑している。ミルを捕らえたイカロゼの功績は素晴らしく、パッツァオはすっかり彼のことが気に入ってしまった。
「まさか私の〈契約書〉を餌にするとはね。いやはや、かなりぶっ飛んだ博打を打ったな。感心したよ」
パッツァオは、さっきから壊れたようにイカロゼを褒め称えている。
手元には、厳めしい文字でびっしりと埋め尽くされた〈魔術契約〉の〈契約書〉があった。パッツァオと〈
「俺は〈
酔いも手伝い、イカロゼは気安く喋った。
胸に秘める長年の憎悪が、酒を口にしたことで更に倍加していく。
「そんなに憎いのか、〈
呂律の崩れた口調で、パッツァオが乗り出すように訊いた。
「実を言うとな、私も”神の軍勢”と戦ったことがあるぞ。あぁ……あの時は楽しかったな。いくら殺しても罪にならん。その点において、〈
「思いませんよ」
即答したイカロゼに、パッツァオは「釣れないな~」と軽く言って再びワインを口にした。丁度、グラスの中身が
パッツァオの怒号が飛んで、厨房からシェルマイドが戻ってきた。片手にボトルを持ち、右肩に満身創痍のミルを背負っている。連れてこられたミルは、既に重症であり、〈
彼女は眠ったまま、床に置かれた。
——まだ生きていたのか。
イカロゼは、地面を這う虫けらを見るような眼で彼女を睨んだ。こうして眺めていると、鎮火したはずの殺意が再び芽生えてきた。契約上の観点から、イカロゼはパッツァオの許可なしではミルを殺せないが、正直なことをいうと、我慢も限界を迎えそうであった。
「早く殺してください。こいつと同じ空気を吸ってると思うと虫唾が走ります」
イカロゼは、酔いも相まってか、強気な姿勢で口を滑らせた。
「イカロゼくん、そんなマインドでは早死にするよ」
案の定、パッツァオは独自の詭弁を展開した。〈
「イイか……人生を楽しむ秘訣は、なるべく楽しみを温めておくことだ。ワインだってしっかり熟成させることで、深みがでる。”拷問”も”殺し”も、相手が五体満足な状態で
「すみません。分かりません」
「クックっクー。正直でよろしい。ところでキミはどう思う、シェルマイド」
突然話を振られて、シェルマイドは少々驚いたようだ。外套の影に隠れた暗い双眸が、大きく見開かれる。
「俺は……即座に喰うほうが好みだな。生憎、ワインは好きじゃなくてね」
「クックック。面白い冗談だ。〈
泥酔中のパッツァオは、普段よりも頭のネジが外れて馬鹿になっていた。狂ったように笑い散らかすと、ワイングラスを地面に落として踊り始めた。
「水を飲め」
シェルマイドが冷ややかな声をかけた。そして、酔いつぶれたパッツァオに水を飲ませた。
——こいつらは、どんな関係なんだ……。
イカロゼは、
「そんなに不気味か、俺たちが」
パッツァオをカーペットに乗せたシェルマイドが、冷たい声でそう言った。イカロゼは、まさか自分の本心がバレているとは想定してなかったので、思わず狼狽した。
「案ずるな。貴様の気持ちは理解してるつもりだ。人間、〈
「飯はどうしてるんだ?」
「パッツァオの”戯れ”で死んだ子供や、山に迷い込んだ者を定期的に摂取している」
「お前たちは、どうして手を組んでる?」
イカロゼが懐疑的な態度で訊いた。
「利害の一致。そんだけだ」
「……人間の下で働くことに抵抗はないんだな」
「ないな。そもそも人に対する恨みがない。無論、〈
イカロゼは、シェルマイドの独特な意見に意外な顔をした。通常、〈
「〈
「…………」
「善悪の問題ではないのだ。貴様らは、ただの”災害”だ。豪雨をもたらす空に対し、貴様はいちいち憎しみを抱くのか?」
「随分と……諦観してるんだな」
そういう考えもあるんだな、とイカロゼは感心したように頷いた。
「そうじゃないと生きていけないんだ。怒りに心を奪われるのは賢明な生き方ではない」
「皮肉か?」
イカロゼは、ちらっとミルに視線を寄こした。彼女は今、死んだように眠っている。
「俺には……無理だな。お前みたいな考えはできない」
シェルマイドは、イカロゼが否定的なことを言っても大して態度を変えないで、外套を深く被ったまま、「好きにしろ」という言わんばかりの沈黙を放った。二人は、立場も違えば、種族も違う。故に、物事に対する価値観も当然違う。それでもなお、彼らは奇跡的なバランスを保って和平を築いていた。
——もし家族を殺したのが〈
イカロゼは、外套に隠れたシェルマイドと顔を合わせた。つい先日まで敵対していた二者は、パッツァオの契約を通じて仲間となった。よく考えれば、前人未到の関係性であった。イカロゼは、ここに新時代の片鱗を見た気がした。
「シェルマイドさん、緊急事態です!」
ふいに、細い声がかかった。
イカロゼは驚いたように後ろを振り向いた。リビングの扉を開けたのは、背の低い若そうな青年であった。パッツァオの傭兵の一人である。
「どうした?」
「て、敵襲です!」
——何? この期に及んで?
イカロゼは嫌な予感を感じ取り、浮足立った様子で立ち上がった。助言を求めるような顔つきで、シェルマイドに目を向ける。
「イカロゼ、パッツァオを運べ。〈
「どこに行く?」
「バルコニーだ。外の様子を確認したい」
方針を固めた二人は、それぞれ抱えるべき人物を背中に乗せて、螺旋階段を駆け上がった。三階まで足を進め、細長い廊下を通過する。灯りのない廊下は、海底のように薄暗く、窓から差し込む僅かな月光だけが頼りだった。そのままのペースで走り抜け、二人は両開きの扉を開けて、バルコニーに出た。
外は森に囲まれており、爽やかな空気がマツの葉の香りを運んでいた。生い茂った木々が夜の空に伸びていて、落ち葉を揺らす風の音がさざめている。イカロゼは、酔い潰れたパッツァオの体を背中から降ろし、付近のウッドデッキに寝かせてやった。シェルマイドも、満身創痍のミルを乱暴に地面に降ろした。
「シェルマイド、見えてるか?」
イカロゼが、肩を並べた男に同意を求める。「あぁ、見えてる」シェルマイドも即答した。
二人の眼に映っていたのは、パッツァオ邸の庭園――伯爵の豪邸に相応しい綺麗な庭園である。チューリップやマーガレット、ダリア、ガウラなどが咲いている――で繰り広げられている乱闘であった。それは、三桁を誇るパッツァオの傭兵に対して、たった二人の剣者が剣舞を披露しているという稀有な戦いだった。常識的な思考で予想するなら、この戦闘の勝利者となるのはパッツァオの傭兵だろう。だが、戦況は思いのほか芳しくなかった。というのも傭兵たちが、二人の圧倒的なコンビネーションに押されて次々と撃破されていたからだ。彼らが手こずっているのは、少年と魔女のコンビであった。真剣を携えた魔女と、木刀を振り回す小柄な少年。一見すると弱そうな二人組ではある。だが、その実力はパッツァオの傭兵たちに全く劣っていなかった。
まず、二人とも動きが人間離れしていた。剣を操るその技巧は、
「シェルマイド……」
「あぁ。〈
バルコニーにいた二人は、この奇怪な戦場を目撃して気取っていた。混乱の色を隠すために、汗をだらだらに流して虚勢を張るのが精一杯だったのだ。
「すこし……手を加える」
シェルマイドは、トレンチコートのポケットから一枚の〈
「〈
と唱えた。
すると、一枚の羊皮紙だった〈
そして、圧倒的な力を持つ〈
「貴様ら! ここをどこだと思っている! ここはヴァイパール王国第四十一代国王ヴァイパール大王が公認するパッツァオ伯爵支配のパッツァオ領だぞ。貴様らはパッツァオ領の保護と管理を任された、パッツァオ伯爵の眷属であるのだ。俺の〈魔術契約〉を受け、伯爵と運命的な絆を結んだ貴様らは、既に高貴なる一族の一員。その矜持と覚悟を持って、今一度剣を振るい、邪悪な襲来者どもを打ちのめすのだ! 今、俺は魔術を行使し、金粉の雨を降らせた。侵入者の首を討った者には特別配当金を支給する。さァ野郎ども! 死力を尽くして戦え!」
その見事な演説に傭兵たちは感涙し、決意の雄叫びを上げた。「シェルマイド様! 必ず討ち取ります!」
こうして一段と士気の上がった傭兵たちは、怪物のごとき形相で〈
だがその時、遂に、
「パッツァオ! 私の駄犬を返してもらおうか!」
瞬間、想像しがたい突風がヴァイオレットたちを包み込んだ。それは天高く上りゆく竜巻のようであり、刹那のタイムラグを経て、周囲の花々や傭兵を遠方へ吹き飛ばしてしまった。
嵐の吹く中、
”王”と称された
テュランは、よっぽどのことがない限り真剣を使わない。すなわち、木刀だけで五十名以上の傭兵を倒したのである。もはや、誰も彼に敵わない。
庭園で寝転んでいるのは、苦痛に喘ぐパッツァオの手下だけだ。そして彼らの頭上を跨ぐのは、二人の勝者——
「肩慣らしには丁度いいわね、テュラン」
「…………」
「なに? 緊張してるの?」
ヴァイオレットが訊くと、テュランはごくりと唾を飲んだ。
「ミルは……大丈夫だよね?」
「えぇ。リボンの〈魔力解析〉に間違いはないわ。安心して」
「ありがとう……」
ヴァイオレットはテュランの背中を撫でた。テュランは拳を強く握りしめた。それから大きく深呼吸すると、館のエントランスに向かって歩き出した。
パッツァオ邸は、外に比べて光に富んでいた。天井のシャンデリアが燦々と輝き、城のエントランスは明るかった。部屋の奥には二階へと続く螺旋階段と、その階段の隣にはリビングが設置されている。テュランとヴァイオレットは、勇敢な戦士のように武具を握って、全く臆することなくスタスタと歩き進めていく。そして、木で生成された、DNAの螺旋構造のように盛り上がった階段に足をかけた時、突如として空気を圧迫するような気配を感じた。先程のヘボ傭兵とは異なり、いよいよ本格的な敵が現れたのだ。テュランは、さらに気を引き締めた。
その時、背後――二人が通り過ぎた玄関の方角のほう――から明確な人影を感知した。
振り向くと、そこにいたのは外套を被ったシェルマイド・ワンだった。
「〈
刹那、視界が真っ白に染まった。
その世界は、白い暗闇のようであった。あるべきはずの存在――螺旋階段、赤色のカーペット、天井のシャンデリア――が消え、果てしなく広がる白い空間である。地平線もない。壁もない。その代わり、前方の白い地面の上にツインのダブルベッドが置かれてあった。金色の上掛けで覆われ、赤ん坊の死体のような枕が二個、その上掛けに隠れていた。ベッドのあいだの椅子の上には、黒いパンツだけを履いた裸体の男が腰かけていた。男の顔はやけに太く、異様なほどに脂ぎっていた。黒い髪はところどころに銀色の線が見られ、頬は赤いニキビに汚染されている。全体的に太っていて、身体のなかに爆弾を抱えていそうだった。
変態であることはすぐに分かった。
男の目が、暖炉の炎に酷似した橙色の光を放っていたからだ。煩悩にまみれた、色欲の眼光である。奴の視線の先には、この異空間に閉じ込められてなお平然とした態度を装うヴァイオレットがいた。男は、パンツ越しに股間を触りながら、邪悪な笑みを浮かべていた。
テュランは怯えた。お預けを食らっている裸体の男が、遂にパンツを脱いでキュウリと同じサイズのペニスを弄り始めていた。だが、テュランの注目はそれじゃなかった。テュランは、男の背後に立って自分たちを見下している、古びたトレンチコートを着たシェルマイド・ワンから目を逸らせずにいた。シェルマイドの顔は外套に隠れて見えないが、その不気味な佇まいが、余計にテュランの心を脅かした。
「この男は、最強の猛獣だ」
シェルマイドは、柔らかい声で口火を切った。「三日三晩、一睡もせずに射精することができる。ヤッたら最期、お前らは二度とベッドから立ち上がれなくなるだろうな。この男の精液には、催眠効果を促す作用が備わっている」
「くどい術式ね」ヴァイオレットが言った。
その声はまったく震えておらず、むしろ自信に満ち溢れていた。まるでミルのような声であった。
「これって、空間系の魔術でしょ。随分と高度な結界術ね。さっきから魔力を感じないんだけど……これもあなたの仕業?」
「そうだ。〈
「私に勝てると思ってるのかしら?」
ヴァイオレットの声には、相手の神経を逆なでするような強気な煽りが含まれていた。そこには一切の虚勢がなかった。「〈
「いやはや、危機感が足りてないな!」
シェルマイドが叫んだ。
「この世界では性行為を除いていかなる武力行為も禁止されている! お前らは〈
シェルマイドは両手を広げ、勝ち誇ったようにけたたましく笑った。それは狂った人の笑い声だった。
テュランはひどく焦った。
——早くここから出ないと。ミルを助けなきゃ。
すると、ヴァイオレットが唐突に歩き始めた。剣に染みついた血の匂いがふっと漂い、思わず鼻をつまみたくなる。ヴァイオレットは男の前にしゃがんだ。
「解呪の条件は……この猿の性的欲求を満たすことね」
ヴァイオレットは柔らかな声でそう言った。
そして、勃起したペニスの先端を指で突いた――突かれたペニスの尿道口は、噴火寸前の火口みたいに汁をもらした。辛そうな様子だったが、どこか嬉しそうな気配もあった。
シェルマイドは顔を隠しながら、絶えず笑っているような表情をたたえている。
「あの子供からヤラセてもいいんだぞ」
企みを含んだ声だ。
「
突然、男が苦しそうに喘いだ。膀胱に溜めた精液を出したいという身も蓋もない欲求が、男の我慢の鎖を砕きつつあったのだ。ヴァイオレットは薄らと笑って、人差し指と中指を使ってハサミのように男のペニスを挟んだ。すると男は、椅子に座りながらピクリと震えた。それから、一瞬だけ、ヴァイオレットに抱き着こうとするかのように機敏に体を折った。だが、彼の手が彼女の蠱惑的な首元にかかろうとした時、ヴァイオレットが指を使ってペニスの包皮を剥いた。その瞬間、男の精液は無数の飛沫とともに白い塊となって放たれ、彼の膝上にべちゃりと落っこちた。瞬殺であった。幾多の老若男女を葬ったエクスカリバーの如き男のペニスは、絶え間なく刺激を与え続けるヴァイオレットの超絶的指先テクニックに逆らえず、そのまま為すすべなく永続的に精子を吐き出す小僧に成り下がってしまった。無限とも形容できよう快感の波動を受け、男は小刻みに全身を痙攣させながら卒倒した。
「アンダーソン! 精子を出しすぎだぞ!」
シェルマイドが叫んだ。「堪えるのだ! 耐えるのだ!」
しかし男の射精は止まらなかった。上下運動の刺激を受ける度に、男のペニスはクチャクチャと湿った音を立てて精子を出し続けた。
「シェ、シェル……無理だ。我慢、できない……」
男の声は非常に情けなく、身体に力が入っていなかった。精子はドバドバと放出され、ひどい臭い――腐った雑巾、詰まった下水、馬の死体――が空間に充満した。
ヴァイオレットが男の顔に近づく。
「知ってる?」
彼女が言った。
「私はね、しばし服を着ないまま外に出ることがあるの。でも、これまで一度も男に襲われたことがないのよ。この美貌を目撃して勃起した猿は数多くいるのに、私の子宮に精子をぶちこんだ男はいない。なぜだが分かるかしら?」
ヴァイオレットは、魔性の声で囁いた。彼女の存在自体が惚れ薬なんじゃないかと錯覚するほどにその魅力は圧倒的だった。
「理由は簡単。みーんな、挿れるまえに果ててしまうからよ。そういう噂はどんどん広がって、最終的に誰も襲わなくなったの。あなたもその一人ね」
「あぁ……イヤだ。い、れたい」男の声は掠れていた。「シェル、すまない。気持ち良すぎて……」
男は、かつての親友の名前を呼びながら、快感の渦に飲み込まれていく。シェルマイドは、くぐもった怒りの声を放った。
「負けるな、アンダーソン! この女を押し倒すのだ!」
シェルマイドはうなるように怒鳴ると、ヴァイオレットを止めようと思って〈
「クソがッ!」よってシェルマイドは、ただ指を咥えて二人の性的攻防を見守るしかなかった。
「あぁ気持ちいい。こんなの、無理だ……。俺はもう満足だ」
アンダーソンと呼ばれた男は、湯船に浸かるように椅子に座っていた。その状態のまま、話を続ける。
「今まで言えてなかったが、本当に……ありがとう。生前、童貞のまま死んでいく俺を……お前は生き返らせるだけでなく、こんな空間を与えてくれた。ここでセックスしてる時は……信じられないぐらい幸せだった。もう、後悔はないよ……」
「嘘だ」
シェルマイドの声は震えていた。
「嘘だ。お前は嘘をついている。『どんなヤツともセックスできるが、心から愛した女とセックスしない限り幸せになれない』って、昔言ったじゃないか!」
「いや……俺、この人のこと好きだわ」
「はァ?」
シェルマイドが唸った。「この短時間で好きになるわけあるかッ!」
「好きにぃ……なったんだ。一目惚れだ、
「チョロすぎだろ!」
シェルマイドは唖然とした態度でアンダーソンを見つめた。涙が頬を伝い落ちた。言葉を失っている。
本来、〈
「俺は、最上の快感を知ったよ」裸体の男は、脱力したまま続けた。「性的に満たされることが……女性との物理的な温もりが……一体、どんなものなのか俺はずっと興味があった。一日一晩、毎日タスクのようにマスターベーションを行う日々。俺は、ずっと虚しかったんだ。願わくば、せめて……キスだけでもしたかった。でも、分かってた。こんな俺じゃ、女は誰も相手にしてくれない。」
男は少しの間、感激とともに悲哀の涙を流した。その顔は物寂しく、思い出に浸っているようだった。しかし、やがてヴァイオレットに目を向けた瞬間、悲嘆の表情は風のように消えていった。男の顔は、所願満足の人生を歩みぬいた長老のように、欲がなく穏やかだった。両の目の炎は、いつの間にか消えていた。
「本当に、綺麗な人だ」アンダーソンは唐突に言った。
「最後にこんな綺麗な人にヌいてもらえて幸せだった。ありがとう、
「諦めるな!」
シェルマイドは外套を被ったまま、はっと目を衝かれ、テュランのほうを指さした。「ヴァイオレット、アンダーソンから離れろ! さもなくばあの子供を八つ裂きにするぞ!」
だが、ヴァイオレットの手は止まらなかった。
「ヴァイオレット!」
反応しない。
「こっちを見ろ!」
見ない。
「テュランを殺すぞ! 殺してもいいのか!?」
答えない。
「貴様の肛門に、あの子供の蝶形骨をぶちこむぞ!」
見向きもしない。
この時、シェルマイドは悟った。あぁ、この女は怪物なんだ。
ヴァイオレットの指は小刻みにペニスの包皮を上下に揺らしていた。その手を見ているうちに、シェルマイドは腕を下ろして、茫然とした態度で二人を眺めることにした。彼女にしごかれる度に、男の濁った目は徐々にぼんやりしていき脱力の色を伺わせ、しかし下半身は至るところに力が入っていた。
「気持ち良すぎる!」男が掠れた声で言った。「シェル……パッツァオと幸せにな!」
男は天に召されるような表情になると、花火のごとく盛大に精子を放出させた。白い飛沫は大きな放物線を描きながら空高く飛んで真っ白な地面に着地していく。裸体の男の口は大きく開かれて、口腔から白い湯気が立っていた。男のペニスはオーバーヒートを起こし、皮膚の表面に浮かんだ太い血管の鼓動が、熱いうちに打たれた鉄の余熱みたいにじんじんと最後の熱を滲ませていた。その熱は、秋の背中をまえにして消えていく夏の残暑みたいに溶けていき、それに乗じて男のペニスは赤子に戻っていった。
男は無気力に四肢を投げ出し、細い瞳をだらりと開けて固まってしまった。凍ったみたいに動かないのである。死体撃ちのように何度もペニスを弄っても、男の性器は勃起しなかった。男は成仏したのである。
「私の勝ちね」
立ち上がり、ヴァイオレットが毅然とした態度で言う。「”
そう言って、彼女は敵兵の血を舐めるように、手についたアンダーソンの精子を舌で転がした。「不味いわね」
その瞬間、世界の実態がもとの姿を取り戻した。〈
「ヴァイオレット!」シェルマイドが叫ぶ。
彼は猟豹のように飛び出し、ヴァイオレットに手を伸ばした。鉤爪が空をかく。彼女は素早く体を捻って攻撃を躱し、即座に、傍にあった戸棚を片手で持って投げ飛ばした。迫る家具に対し、シェルマイドは人間離れした瞬発力で回し蹴りを披露。一瞬にして家具は折れ曲がり粉砕された。
「……!」
刹那、背部から気配を感じる。シェルマイドは咄嗟に振り向き、鉤爪を振るう。彼の爪と衝突したのはテュランの木刀だった。テュランは、彼の反撃を木刀で弾き流し、軽い身のこなしで地面を蹴ると、空中で必殺の旋風脚を放った。鈍い音が鳴る。シェルマイドの外套に蹴りが入る。急所を突いたように見えるが……なぜか手ごたえがない。
テュランが床に着地すると、シェルマイドは着地時の隙をついて攻勢を仕掛けてきた。迫りくる鉤爪。対応に遅れたテュランは、少し詰まった体勢から木刀を振らなければならなかった。
——まずい! 受けきれない!
即席で死を悟るテュラン。その時、視界の影から大柄な影が割り込んできた。ヴァイオレットが白銀の真剣でシェルマイドの手首――テュランの首を掻き切ろうとしたほうの手首――を切断したのである。続けざまにヴァイオレットは剣を振り下ろすが、シェルマイドはその一太刀を回避。
「〈
次いで彼は、一枚の〈
テュランとヴァイオレットは地面を蹴り、後ろへ下がった。シェルマイドから距離を取り、牽制を張る。
「痛いな」シェルマイドは、斬り落とされた自分の右手首を見ながら、まるで痛みを感じていないのように軽いトーンで呟いた。その直後、テュランは恐ろしいものを見た。
「久しいな……自分の体に”魔力治癒”を施すのは」
シェルマイドは青い血の香りを嗅ごうとするように、鼻から先に手首のほうに顔を向けた。すると手首の傷口から緑の閃光が出現して、瞬く間に、失われたはずの右手が生え始めた。まず骨が出来上がって、その骨に絡まるように血管が走り、最後に血管の両壁から肉が現れて右手が完成した。治癒に要した時間は、およそ一秒程度である。シェルマイドは出来立てホヤホヤの右手を口元に寄せると、人肉を扱うように丁重に皮膚を舐めた。そしてギラギラと輝く目をゆっくり閉じた。新しく誕生した「右手」という生命に、最大の感謝と愛情を注ぐため――。
「”魔力治癒”ね……」ヴァイオレットが呟いた。
「さっきの空間魔術といい……術式のスケールが違いすぎるわね」
続けて彼女は、厳しい声でテュランに指示した。
「先に行きなさい、テュラン。こいつは私が
ヴァイオレットはテュランと目を合わせようとしなかった。はぐらかすような感じだった。彼女がこういう話し方をするのは、今回が初めてだった。
「テュラン、アレは持ってきたわよね?」
「うん。≪ママのいえ≫の中にあるよ」
「よろしい。イカロゼと戦う時は使いなさい」
「見逃すとでも?」
シェルマイドが割り込むように言った。顔面は依然として外套に隠れているが、彼は笑っていた。
「二人諸共、ここで喰い殺してやろう」
「やってみなさい。どうせ無理だから」
ヴァイオレットは強気な態度で言い放ち、剣を肩に乗せた。
するとシェルマイドが、
「ヴァイオレット、やはりお前だけは半殺しで済ませてやる。生きたまま、パッツァオのベッドで息絶えるんだな」
と言って、〈
「今度はお前が快感に殺される番だ。アンダーソンの仇は、俺とパッツァオで取る」
シャンデリアの光に反射したその爪は、銀色の光沢を放ち煌めている。とても鋭利で、人間の
「復讐かしら? 〈
ヴァイオレットが煽った。
シェルマイドは笑った。「
瞬間、二人がエントランスから消えた。その直後、ふいに大きな音が轟いた。それは落雷のように力強い響きであったが、雷の音でないことはすぐに分かった。それは、物体が壁を貫通した時に鳴る音だったのだ。人間が壁を通り過ぎた音、壁を破壊する音。落雷が鳴った瞬間、シェルマイドに体当たりしたヴァイオレットが、彼と一緒に壁を貫通して外に出たのだ。その間に要した時間は一秒もない。〈身体強化〉を施したテュランの動体視力では、まったく感知できなかった。
——ミル……。ミルのところに行かないと!
数秒遅れで、思考が戻ってきた。シェルマイドとヴァイオレットが戦っている間、彼のやるべきことは唯ひとつ――ミルを救い出すことだ。
使命を自覚したテュランは、駆け足で階段を登り二階へ上がった。一秒でも早く見つけたい。その想いが爆発し、彼は素早い動作でひとつひとつの部屋を確認した。
――いない。どこにもいない。
焦燥に駆られる。ミルは、二階のどの部屋にもいなかった。ならば三階だろうか。もしかすると、既にミルはパッツァオ邸に居ないのかもしれない。そう思ったら、途端に胃が痛くなった。
テュランは、暗い廊下の奥に広がる暗闇に、思わず絶望を視認しそうになった。ふと首を曲げると、窓に映った自分と目が合った。汗と血にまみれた、汚い顔であった。
その時、窓外の森林で巨大な爆発が起きた。シェルマイドとヴァイオレットの戦い……炎と風の応酬が続き、山々の地面が巨大な肉切り包丁で断ち割れるように破壊されていく。二者の強烈な戦闘、その影響下に置かれた生物は、
木々が倒されていく。
その壮絶な景色を眺めているうちに、テュランは「災害」だと思った。魔術は、災害だ。技術は、人災だ。戦いは、災害であり人災である。そんなことを考えたテュランは、更に胸の奥をきゅっと縛った。
——絶対に、助ける!
その時、ふと”あること”に気がついた。襟首に何かが止まっている。神経を集中させると、それは
「無為だ」
第一声で分かる。イカロゼだ。
「ミルとともに心中しに来たのか、クソガキ」
「違います」テュランが呟く。
「ミルを助けに来たんです」
刹那、テュランは振り向いて木刀を振った。二人の武具がぶつかり合う。テュランの一振りは、身長差を感じさせない威力を保持している。
——連撃だ!
即座に危険を感知したテュランは、後方宙返りで後ろへ下がった。迅速な対応が実を結び、安全な距離まで離れることができた。一定の距離を離されたイカロゼは、厳しい顔でテュランを睨んだ。
「もう一度訊く。死ぬために来たのか?」
「違います」
テュランは即答した。「ミルを返してください」
「なぜだ。なぜあのメスにこだわる?」
イカロゼは、本当に疑問に思っているらしい。「理解できない」と言いたげに眉をしかめている。
「テュランくん、お前は洗脳されているんだ。あの怪物は、お前の親を殺した。それでもなお、助けたいのか? 生きてて欲しいのか?」
「はい」
「分からん。分からんな。キミは……本当に人間なのか?」
イカロゼは、諦めたように悲しい顔になった。
「正直、子供は殺したくないんだよ。キミを殺したくない。でも……これ以上邪魔するなら死んでもらうしかないんだ」
そう言って、イカロゼは剣先をテュランに向けた。
「好きにしてください」
火蓋を切ったのは、テュランであった。地面を強く蹴って、刹那の時間にイカロゼの間合いに侵入した。すかさず高速剣技を披露する。しかし、イカロゼのほうが一回りも背が高いので不利になりやすい。渾身の一撃を込めたテュランの木刀は、イカロゼの片手に遮られ、瞬間、腹部に焼けるような痛みが走った。
——き、斬られた。
剣でお腹を斬られたのは今回が初めてだった。空中を飛び回る間、テュランの腹は剥き出しになる。その隙を捕らえた鮮やかな一手であった。感じたことのない激痛が走り、後退りする。
「自責はない」イカロゼが言った。
「これは戦争なんだ。互いの正義をかけた、小さな戦争。ミルに加担するお前らの背中には、今まであいつが殺めてきた人間の”死”が圧し掛かっている。あいつを助けるということは、彼らの死を肯定するということだ。つまりお前は”悪”であり、子供であっても生かすわけにはいかない。だから殺す。後悔はない」
イカロゼは、冷徹な目でテュランを見下した。既に己の勝利を確信しているようだ。
「だったら」腹部を押さえ、猫のように丸まりながらテュランが言う。
「だったら……あなたの行為も”悪”であるべきだ。あなたは……〈
テュランはイカロゼを見つめた。矛盾を突いた渾身の質問であった。この質問の回答次第では、まだ対話の余地があるかもしれないと思った。相手は人間であり、元々は同じ〈
「その通りだ」イカロゼはそれだけ言って、テュランの丹田に剣を突き刺した。目にも留まらぬ速さであった。軽々と体を持ち上げられ、次の瞬間には刺されていた。反応すらできなかった。これが〈
「俺も……”悪”なんだ」
その声は、自分を「正義」だと主張する人間のモノとは思えないほど弱々しくて、さらに言及すると、声色の重心には膨大な悲しみを内包していた。
テュランの体を串刺しにしたイカロゼは、彼の肩を掴んで、ゆっくりと剣を引き抜いた。満身創痍となったテュランは、イカロゼに流されるまま、壁を背もたれにして地面に座った。イカロゼもしゃがみこんで、テュランと同じ位置に目を合わせた。
「オマエを殺すことに躊躇いはない。だが、言わせてくれ」イカロゼが言った。
「すまなかった」
謝罪の言葉をこぼしたイカロゼの目には、海よりも深い闇が宿っていた。紛いなりにも罪悪感があったのかもしれない。
「いいですよ」テュランは彼の謝罪を受け入れた。
「最後に……見せたいものがあります」
テュランがそう付け加えると、イカロゼは不思議そうに首を捻った。テュランは、イカロゼの戸惑いなど気にせず即座に呪文を唱えようとする。
「≪ママのいえ≫」詠唱した。すると、テュランの
「これを見せたかったのか?」イカロゼが訊く。だがテュランは、ゆったりと首を振って否定した。
「僕が……見せたかったのは——」
テュランは掠れた声でそう言って——やがて目を閉じた。木刀を握る右手の力が抜け、その木刀はカラカラと音を立てて大理石の床に転がっていく。機能していたはずの〈身体強化〉も
「死んだ」イカロゼは、低いトーンの声で呟いた。
剣を鞘に収め、立ち上がる。両手を絡め、神に祈るようなポーズで眼前の死体を拝んだ。数秒の沈黙が流れたのち、イカロゼは祈念を終えて階段のほうに体を向けた。
違和感を覚えたのは、丁度その時だった。
右足――テュランの眠る壁側とは反対の方角。つまり窓際のほう――に妙な感触を覚えたのだ。イカロゼは何も知らぬまま、何気なく足元に目を向けた。その瞬間、イカロゼは”ガーディアン支部”での出来事を想起した。
それは、ミルがテュランを連れてきた日のことだ。”支部”のエントランスでミルと死闘を繰り広げていたイカロゼは、ヴァイオレットの突然の介入に度肝を抜かれた。その際、イカロゼはヴァイオレットに脅迫を受けた。
『あなたが今、何を考えているか……わかるわよ』
『ちがっ——
イカロゼが言い終わるまえに、ヴァイオレットが声を放った。
『いやらしい目で見たわね。殺すわ―――あなたのワンちゃんを』
家族を失ったイカロゼの、最後の拠り所。それは、寮で飼っていたハスキー犬だった。黒い体毛に、仄かに光る茶色の毛がチャーミングポイント。つぶらな瞳が飼い主の心を癒し、可愛らしい尻尾と四肢が人間の本能に突き刺さる。そのハスキー犬は、イカロゼの心を唯一溶かしてくれる存在だった。
イカロゼの足元で絶命しているのは、紛れもなく彼のハスキー犬であった。
「どうして……ここに」
混乱したイカロゼの頬には、透明の宝石みたいな粒の汗が幾つも付着していた。今頃、アケローンシティの寮部屋で他の〈
——有り得ない。幻覚か? 誰の仕業だ? 嘘だ。絶対におかしい。罠だ!
イカロゼの脳内に、様々な推理が交錯する。頭を捻り、神経を集中させ、考えうる全ての可能性に考察を施した、その時――。
「パパ」絶対に聞こえてはならない声が、イカロゼの鼓膜に響いた。
はっと目を衝かれ、前方に顔を向けると、薄暗い廊下の奥側に二人の人影が見えた。この声と影には見覚えがある。
イカロゼは吸い寄せられるように、人影のいるほうへ歩き始めた。身体はあちらへ進むことを全力で拒否するが、心が止まらなかった。その感情に背中を押され、イカロゼは涙を流しながら足を進める。
「サン! アビゲール!」
イカロゼが、息子と妻の名前を叫ぶ。二人の影を求めて、彼は大理石の廊下を走る。走る。走る。
「アビゲール!」
「あなた!」妻の声が聞こえる。聞こえる。もうずっと聞いていないあの人の声が健全と響いてくる。
感涙に心を震わせ、一刻も早く妻のもとに会いたい。抱きしめたい。みんなでご飯を食べたい——。
「イカロゼさん、ごめんなさい」
背後から、テュランの声が聞こえた。その声はとても悲しげで、物思いに沈んでいるようだった。
「はは」イカロゼは笑う。
「犬は、ヴァイオレットの差し金か?」
「はい」
「…………」
「あなたのお犬さん、どうして亡くなったか分かりますか?」
「…………お前が殺したのか」
「違います」即座に否定した。
「馬車に轢かれたんです。突然、寮部屋を出て町中に出て……それで――。去ったあなたを探そうとしたんですよ」
「嘘だ」イカロゼも即座に否定した。
「俺が任務の時は、いつも他の〈
「あなたはケモノを舐めすぎですね」またもや否定の応酬。
「”今生の別れ”と”一時の別れ”……動物に、この違いが分からないなんてことがありますか?」
「嘘だ」イカロゼが震えた声で言った。
今回の『嘘だ』は、先程のソレとは意味合いが違っていた。まるで自分に言い聞かせているようであった。
「あなたと会ってすぐ、知らせようと思ったんです。こんなふうに……再会させたくなかった」
「善人ぶるな」イカロゼの声には、不愉快な音色が染みついていた。
「俺の犬を……
「ミルを責めないでください。これは、ヴァイオレットの指示なので——」
テュランの口調は理路整然としていて、冷徹な雰囲気があった。弱肉強食の思想を彷彿とさせる、一種の冷たさがあったのだ。
「ふぅ……生意気なガキだ……」イカロゼが掠れた声で言った。
「俺の負けだよ」
イカロゼの腹には今、ミルのハルバートが鋭く貫通している。銀製の刃に付着した赤い血が、蛇口の水滴のようにポタポタと落下し、付近の地面を赤いインクに染めあげた。花火のように激しい窓外の光――シェルマイドとヴァイオレットによる、山火事の戦跡――に照らされて、その血液は色濃く輝き、如何様にイカロゼの流血が酷いモノであるか厳然と物語っている。
テュランは、ガラスを運ぶように慎重にハルバートを引き抜いた。剣で埋まっていた腹部の穴が
地の池に浮かびながら、イカロゼは微動だにしない。放置しておいても、いずれ絶命するであろう。そう判断したテュランは、ミルのハルバートを≪ママのいえ≫の中に保管して、殺傷能力のない木刀に切り替えた。
死体を乗り越えて、螺旋階段を目指し廊下を歩く。窓外の惨劇は、先程よりも激しくなり、うなりのような轟音が響き渡っていた。テュランは、その惨状を窓越しで眺めながら歩き続けた。
腹が痛い。腹部を刺されたテュランの体は、疾うに限界を超えていた。いつ地面に倒れ、気を失い、絶命するか分からない。傷を押さえる左手は、赤黒い血で汚れている。凝固した血液が体の至るところに付着して、そのざらざらした感触がとても不愉快だった。
ふと、背後から視線を感じる。咄嗟に振り向くと、血に
「まだ……戦うつもりですか」テュランが冷たい声で言った。
「僕の傷は急所を外れましたけど……あなたは違いますよね。戦っても……勝ち目はないですよ」
テュランは、強気な態度で脅迫した。無論、ただの虚勢である。この状態で戦えば、二人とも死ぬかもしれない。
「やせ我慢」イカロゼが乾いた笑い声を上げた。
「お前だって……喰らってんじゃねぇーか。どちらが死んでも不思議じゃねぇ。やろうと思えば”相討ち”に持ち込める」
イカロゼは再び魔力を体内に循環させて〈身体強化〉を起動した。勢いの乗ったステップでテュランに迫りくる。
——まだ戦うのか……。
なかば絶望的な気持ちになった。人生の大半を復讐に費やした男は、自分の命を粗末に扱うことに一切の躊躇がない。テュランは、その異常な執念の片鱗に恐れを感じ、目の前が暗くなるような気分になった。腹を押さえながら木刀を構えるが、勝てる気がしない。そういう弱気になった生命の重心を狙って、イカロゼは剣を振り下ろした。
しかし、剣を振った瞬間、イカロゼは驚いたように目を見開いて手を止めた。テュランの瞳に映るイカロゼの驚愕の表情は、状況によっては”滑稽”に思えるほど、情けないものであった。まるで薬物でも吸って幻覚を見ているのか、彼はなぜか、突如として涙を流し、あろうことか剣を下ろしてしまった。
「アビゲール……」
イカロゼは呟き、テュランの肩越しに廊下の奥を凝視した。見開かれたイカロゼの目には、
「イカロゼさん……?」テュランが言う。
外の様子は激しくなり、炎はいっそう勢いを増し、澄んでいたはずの森の空気は焦げ臭くなっていた。イカロゼは、その地獄のような絵図を映す廊下の窓を横目にしながら、自殺を決意した。いまごろ、アビゲールとサンが生きていたら、みんなで食卓を囲んで夕食を楽しんでいた時間だろう。家族全員で。そして夕飯が終わったら、イカロゼは剣を研ぎ、妻は台所で皿を洗い、リビングではサンが英雄譚を読み始めるのだ。いっぽう、現実は全く違う。一家和楽とは無縁の生活をしている。〈
イカロゼは、もう一度だけ力を振り絞り、己の宿敵と成ったテュランの首を切断しようと思った。だが、戦う気になれなかった。疲れた。これが本心だった。
幻覚なのか、妄想なのか、遂に頭がおかしくなってしまったのか、それとも走馬灯なのか、とにかく理由は分からないが、さっきから妻と息子の影が見える。それを眺めているうちに、イカロゼは自分の本当の気持ちに気づいてしまった。本当は、ただただ、会いたかったのだ。家族のみんなに。寂しかったのだ。どれだけ足掻いても、みんなの笑顔を見れないことに。本当は、分かっていた。こんな生き方、間違っている。もうこれまでみたいな生き方は続けられない。ひたむきに誰かを恨み、誰かを恨むことを人生の目的に添えた者の人生は、非常に寒く、窮屈で、暗くて、笑顔がない。もう、そんなは人生は一日だってごめんだ。もう、楽になりたい。憎しみなんて要らなかった。憎悪は、寂しさを紛らわすだけの痛み止めでしかなかった。
イカロゼは、テュランに刺されたまま、自分の頸部を剣で掻き切った。
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