第六章①
そこは懐かしい天井だった。知らない天井ではない。懐かしい天井であった。見慣れた天井ではないが、どこかで見たことのある天井だった。
目覚めた時、そんなことを思った。
「テュラン――」
ヴァイオレットがテュランを呼んでいる。
「目が覚めたね。良かったわ」
「ヴァ……」
名を呼ぼうとしたが、喉がカラカラしていて出せなかった。代わりに身体を動かそうとしたが、結局駄目だった。首だけを回すと、ヴァイオレットが隣にいた。ひどく青ざめ、死んだような目をしている。
「私の家よ。二日も寝たきりだったわ」
——寝たきり? 僕が?
記憶が曖昧で、何があったのか、なかなか思い出せなかった。
「危ないところだったのよ。頭を殴打して……私が見つけてなかったら死んでたね」
ヴァイオレットの声色は、異様に暗かった。
「とにかく良かったわ。休みなさい」
ヴァイオレットが去ると、テュランは再び意識を沈めた。
次、目を覚ました時、テュランは全てを思い出した。
ミルが捕まったこと、イカロゼが裏切ったこと、ミルが村人を殺したこと……混濁した情報が頭の中に入ってきて、心が病みそうだった。
「紅茶、飲みませんか?」
栗色の長髪をツインテールにしたリボンが、ティーカップを持ってやってきた。
「あ、ありがとうございます」
テュランはそれを無表情で受け取ると、黙って飲み始めた。おいしい。
「目が覚めて良かったです。ヴァイちゃんも強いけど、テュランくんも強いんですね」
「僕は、弱いですよ。弱すぎる」
イカロゼに不意を突かれて反撃できなかった。ミルに任せっぱなしで〈
「そんなことないです。以前よりも魔力量が上がっています。戦えば戦うほど強くなっていきますよ」
リボンは拳を握って、顔をくしゃっと歪めて優しく微笑んだ。
けれど、素直に喜ぶなんてできない。
「僕は……ミルの役に立てませんでした。もっと強ければ……イカロゼさんもよりも」
「いえ。テュランくんは強いです。イカロゼさんよりも絶対に強いですよ」
リボンの発言は、本心から吐いている言葉なのだろうか。テュランは、自己嫌悪と現実逃避を絡めたような態度で自嘲気味に笑った。
「本当ですよ。ヴァイちゃんが認めた男はテュランくんだけです。自信を持ってください」
「そう、ですかね」
テュランは俯いたまま、顔を上げない。
「それに、ミルさんは生きてます! 安心してください」
「えっ……?」
ここでようやく、テュランの顔が上がった。
「ミルさんのハルバートに付着した魔力を解析しました。今持ってくるんで、待っててください」
リボンはそう言って立ち上がると、忙しない様子で階段を登った。大きな足音が二階から聞こえ、テュランは少し心配になった。
それから五分ぐらいだろうか。紅茶を飲んで気長に待っていると、リボンが
「これは〈生命石〉といいます。他者の魔力を吸い取って、その魔力を体に流す生き物の命を測定します。命の強さに応じて、光の強さが変化します。
「じゃ、じゃあ……まだ光ってるってことは——」
「はい! ミルさんは生きてます」
思いがけない幸運だった。底に沈んだ魂が、再び浮上していくかのような感覚を覚えた。
ミルは、まだ生きている。
彼女は、あれだけの傷を負った上で、イカロゼに胸を刺され、パッツァオのもとに連れていかれた。普通なら死んでいる。でもミルは、まだ生きている。死んでいない。どれだけ危ない状況でも、生きていれば望みはある。諦める時ではない。死力を尽くして助けるべきだ。
沈んでいた心が、凄まじい速度で輝きを取り戻していく。カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、いつもよりも輝いて見えた。
「僕、ヴァイオレットのところに行ってきます!」
テュランはすぐさま起き上がり、立ち上がった。心は回復したが、体は回復していない。でも〈身体強化〉の恩恵を信じて、テュランはよろけながらも歩き始めた。リボンは「まだ休んでください」と強い語調で叱咤したが、テュランは聞かなかった。
外に出て、町中を駆ける。人混みに紛れ、はやる足が絡み合って足をくじいてしまったが、それでもなお彼は止まらなかった。節々の痛みは、心の感激と「一刻も早くミルを助けなきゃ」という焦燥に駆られて消えてしまった。
向かうのは”支部隊長室”だ。皆で話し合って作戦を立てた、あの懐かしい部屋だ。
——早く、早く。早くしなきゃ。助けなきゃ、絶対に。
風を切り、通行人とぶつかった。罵声を浴びる。普段なら謝っていたかもしれないが、今は無視した。ミル以外のことを考えている暇はない。
——いや。
そこで気づく。
——ミル以外、どうでもいいんだ。あの時、ミルと出会った時から。
自分の真意を自覚して、余計に体が軽くなった。
大通りを抜けて、橋が見えてきた。橋を渡り、川の風を横から受けて、軽やかな空気に絡まりながら、必死に必死に足を回した。汗が流れ、太陽の光がジリジリと皮膚を熱する。町の通行人は怪訝な彼を見つめていたが、気に留める必要はない。
ガーディアン支部に着いた。
人の数は、普段と同じぐらいであった。そのまま敷地内に入る。
足早にエントランスを抜けて、階段を登る。
——早く。早く。
汗を拭い、震える心臓を押さえつけるような思いで呼吸した。
廊下を歩く。支部隊長室の扉が見えてきた。テュランは、何のためらいもなく部屋の扉を開けた。
…………。
部屋の奥に、椅子と机がある。ヴァイオレットはそこに腰かけ、なにやら厳めしい資料たちと睨めっこしていた。テュランの存在に気づくと、彼女は目を丸くして「急にどうしたの。まだ休んでいなさいよ」とわめきたてた。テュランは、ここでひとつ、深呼吸をして心身を整えた。そして要件を話し始めた。
「ミルは生きてるんだよね?」
「…………」
ヴァイオレットは、質問に答えないまま暗い顔を見せた。
「リボンから聞いた。ミルは生きてる。だから……僕はミルを助けたい」
「ダメよ」
彼女は、なんの躊躇いもなくそう言った。
「ミルを助けることはできないわ。ムリよ」
「どうして?」
「相手がパッツァオ伯爵だからよ。私たちは今、心臓を握られている状態なの。下手に動けば、アケローンシティの〈
「どういうこと?」
テュランが訊くと、ヴァイオレットは手元の資料を机に置いて立ち上がった。窓に顔を向けて口を開く。
「ミルは……沢山の人を殺したの。パッツァオの村を襲ったのは〈
「知ってる」
テュランは即答した。ヴァイオレットは驚いたように振り向いた。
「知ってるよ、ミルがやったこと全部。僕を助けるために……僕のママや村の人を殺したんでしょ?」
「えぇ。ミルは、絶対にやってはいけないことを犯した。これはミルが〈
ミルの語調には威勢がついていた。
「私たちが〈契約書〉を狙ってることは、イカロゼを通じてパッツァオに知られているでしょ。もし私とあなたが下手に動けば、パッツァオは『
八方塞がりだ。このまま大人しくしても、〈契約書〉を安全な場所に移されたら、彼らは容赦なくミルの存在を告発するであろう。そもそも、パッツァオ洞窟に無断で侵入した時点で、社会的立場は危うくなっている。
〈
「テュラン、リボンと一緒に逃げるわよ」
ヴァイオレットは、独り言のように呟いた。
「あなたは”魔境の王”になる男よ。ここで終わるわけにはいかない。リボンも同じよ。あの子だけは、何があっても絶対に守り抜くわ」
テュランは、断崖絶壁に立たされた気分で彼女の言葉を聞いていた。先程までの歓喜は、燃え尽きる炎のように消えていく。どんな覚悟もできていた。ミルを助けるためなら、どんな手を使っても良いと思っていた。
しかし、解決策が見つからないのであればどうしようもない。諦観でも諦念でもない。ましては観念でもない。ただの絶望だ。
とはいえ、ヴァイオレットの指示に従うこともできない。目的に向かって飛翔を始めた気球は、一度空に浮かんだら止まってはいけない。止まれば墜落する以外ないからだ。
だからテュランは、もう一度だけ拳をぎゅっと握って考える。頭を巡らせて、この絶望的な状況を打破する妙案を打ち出すしかない。
「ヴァイオレット、僕は——」
テュランは口火を切った。
「僕は——”魔境の王”じゃない。リボンにも言われた。だから僕を守っても意味ないよ。守るべきは僕じゃない。将来、僕の代わりに”魔境の王”になってくれる人を見つける”ミル”を守るべきだ」
テュランのその宣言に、ヴァイオレットは唖然とした。ヴァイオレットがテュランに
「嘘よ。あなたは絶対に”魔境の王”だわ。初めてあなたを見た時、私は確信したのよ。あなたには凄まじい才能がある。世界を変える力がある。次の世界の王になる子供だって思ったのよ」
「勘違いだよ。間違ってる。僕が”王”になるわけないんだって」
テュランは目を伏せた。
もし自分にそんな偉大な力があるのなら、今すぐにでも行使してミルを助け出してやりたい。でもそれができないのだから、やっぱり自分は”魔境の王”じゃない。
「いえ。テュランは”魔境の王”よ。あなたは自覚してないだけ。生まれたての王子が自分の運命を知らないのと同じことよ」
ヴァイオレットの意志も固かった。テュランを”魔境の王”だと思って疑わない。
その時、”支部隊長室”の扉が開いた。驚いて振り向くと、部屋に入ってきたのは”鑑定士”のリボンだった。リボンは、正気を失ったのか、ティーカップを片手で持ちながらブルブルと震えていた。顔は青ざめており、今にも吐きそうな勢いだ。
「ど、どうしたのよ?」
引きこもりのリボンが”ガーディアン支部”にやってきて、ヴァイオレットは驚愕の色を隠せなかった。すぐさま駆け寄って、リボンをソファに座らせる。リボンは気を落ち着かせるために、わざわざ持ってきたティーカップの紅茶を飲み干した。
「なんで紅茶を持ってきたんですか?」
「き、き、緊張を……和らげようと思いまし……」
テュランの質問に、リボンは汗を滝のように流しながら答えた。外出に対するハードルは、さぞかし高かったであろう。
「リボン、大丈夫? 怪我してない? 変な男に話しかけられてない? 嫌なことはなかった? 怖かったこととかない?」
「うぅ……うん」
過保護な質問攻めに、リボンは卒倒しそうになった。
「どうして来たの? そんなに私に会いたかったの?」
「ち、違うよ」
リボンが正直に答えると、ヴァイオレットは目に落胆の色を映した。
「そう、なんだ……。そんな、正直に……言わなくても……」
「テュ、テュランくん。私はテュランくんに会いに来たんです」
「えっ? 僕?」
ヴァイオレットの落胆は、さらに酷くなった。
しかしリボンは、彼女の気持ちなど無視して話を続ける。
「先程、テュランくんが家を出た後……急に”降って”きたんです」
「降ってきた?」
「≪未来予知≫です」
リボンの≪未来予知≫は、突然、なんの前触れもなくやってくる。絵画のような概念が脳内を駆け巡り、刹那に未来の事象を理解する。その力は、本人の意思や制御を超えて、まるで天のお告げのように発現するのである。
「わ、私……見ちゃったんです」
「何を見たんですか?」
テュランは聖域に入り込むような気持ちで訊いた。ヴァイオレットも固唾を飲んだ。そんな二人に囲まれながら、リボンは答えた。
「テュランくんとミルさん……お二人のどちらかが——」
「……」
「し、死んでしまいます」
その声は、息絶える枯れ葉のように小さかった。気持ちを押さえられなくて涙が出てきてしまう。
「ご、ごめんなさい……。でも、すぐに伝えなきゃと思って……。わ、私、酷いことを」
「酷くないわ」
ヴァイオレットは躊躇なくリボンの頭を撫でた。その画は、本当の姉妹のように思えた。
「リボン、一つ訊いてもいいかな?」
涙を流すリボンを慰めながら、ヴァイオレットが言った。
「テュランは……”魔境の王”じゃないの?」
「———」
ヴァイオレットの質問に、リボンはすぐには答えなかった。口を開く前に、涙に埋もれた瞳でテュランを一瞥した。目が合い、心が通じ合う。開いた窓から風が吹く。風に揺れる銀髪を押さえながら、テュランはゆっくりと首を縦に振った。瞬間、リボンは彼の気持ちを汲み取って、ようやく声を出した。
「テュランくんは……”魔境の王”じゃないのかもしれません……」
「そ、そうなの……?」
ヴァイオレットの顔は、さらに落胆の色を見せた。
「正直なところ……分からないかも。間違いなく、才能はあると思う。でも……人生で大事なのは”才能”じゃないよね。資格があることと、実際に成ることは違うでしょ?」
「そう、ね。確かに……そうだけど」
か細い声でヴァイオレットが言う。彼女は、リボンに対して喋っているのではなく、動揺した自分に言い聞かせているようであった。
混乱するヴァイオレットに向かって、今度はテュランが口出しした。
「やっぱり、”魔境の王”は僕じゃない。助けるべきは僕ではなくミルだ。僕は……運命なんて信じない。でも、全てが偶然とも思えない。僕かミルのどちらかが死ぬ――絶対に”偶々”じゃない。僕は、ミルのために戦える。ミルのために”死ねる”。だから一緒に戦って欲しい」
「——どうしてよ」
ヴァイオレットの鋭い声が、彼の話を退けた。
「どうしてあなたは……自分を信じないの? あなたは特別な存在なのに!」
「信じてるよ!」
テュランも負けじと声を張る。
「僕は、僕を信じてる。なんか分かった気がするんだ……これは本当に偶然じゃない。僕なら……ミルを助けられる。僕がリボンの≪未来予知≫を破る」
「…………分からないわ」
ヴァイオレットは、ゴミを見るような眼でテュランを見た。
「どうして……そんなにミルを助けたいの? なぜあなたは——そこまで命を懸けようとするの?」
そう言われて、テュランは言葉に詰まった。
なぜあなたは足を動かせるのか――と言われたら、誰だって回答に困るものである。彼女の質問は、テュランにとってそれほどまでに不自然だったのだ。
「僕は、ただ……」
混濁した感情が、一つの収束点に向かっていく。神に向かって喧嘩を売るような気持ちで、テュランはただ——心身に宿した欲求を全霊で愛する。この身ひとつではとても抑えきれないような、爆発的な感情。けれど、その願いは、あと半日もすれば消え去るかもしれない儚い理想だ。だからテュランは、この大切な愛の欠片を周囲にぶちまけて、泣きながら、嗚咽を漏らしながら、大声で叫ぶ。
「僕はただ、ミルに会いたいだけなんだ!!」
その声は、こだまとなって部屋に響く。空間に溶け込みながら、ゆっくりと小さくなっていく。やがて無言が舞い降りて、その場にいた三人は黙ってしまった。
ふとヴァイオレットが、隣に座っていたリボンの頬に手をかけて、彼女の眼をじっと眺めた。リボンは「ど、どうしたの? 恥ずかしいよ」と赤面しながら悶絶したが、ヴァイオレットはお構いなしに見続けた。………………
「分かったわ」
その声は、やけに穏やかだった。ヴァイオレットは立ち上がり、部屋の壁にかけてあったミルのハルバートを取り出した。
「使いなさい。使い方は簡単。本能に任せて振ればいいだけ」
ヴァイオレットはそう言って、テュランにハルバートを渡した。
「乗り込むわよ、パッツァオの館に」
人が変わったみたいだった。
「どうして……急に?」
その変貌ぶりに、テュランは驚きを隠せなかった。だがヴァイオレットは、彼の質問に答えなかった。
テュランは特に詮索することもなく、ただ流れに身を任せて、両の手でミルのハルバートを受け取ったのであった。
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