第五章④
頭痛が引いても、テュランは血を流しながら、地面に倒れていた。激しい倦怠感と寒気を覚えて、座ることすらできない。
——どうして、イカロゼさんが……。
彼は〈契約書〉を奪うために、テュランたちと手を組んだはずである。洞窟へ行き、竪穴を降りて、共にルヴァリャと戦った。紛れもなく仲間である。
しかし、イカロゼは背後をついてテュランの頭を殴った。凄まじい力であった。殺す勢いがあった。それは、仲間の行動ではない。
依然としてテュランの視界は定まっていない。地面と天井がグルグル回転して、空間が歪んだように見える。平衡感覚を失い、立つこともできず、押し寄せるような吐き気が込み上げてきて、思わず口を塞いだ。ためしに目を瞑ったが、脳みそを掻き乱すような酔いは消えてくれなくて、いよいよ我慢できなくなって吐いてしまった。喉にへばりついた
顔に染みついた血、胃酸の混ざった嘔吐、感覚の鈍った四肢……その姿は、あまりにも凄惨なものであった。惨めな気分だった。揺れる視界の中、かすかに感じるミルの温もりを頼りに手を伸ばす。だが、その手は何者かに踏みつけられた。
「無様だな、クソガキ」
イカロゼが、勝ち誇ったように言った。
テュランは声を出せなかった。
「俺はパッツァオの傭兵だ。〈魔術契約〉を結び、あいつの命令に従っていた」
「…………」
「お前らを騙し、洞窟に連れてくる。〈
イカロゼは、ミルの体から大剣を引き抜いた。彼女は、ビクとも動かなかった。
「ヴァイオレットがいたら負けていただろうな。あのバケモノを引き離せたのは僥倖だった」
「どう、して……。どうして……こんな、ことを……」
テュランが掠れた声で訊いた。彼は酷く落胆していた。
「大層な理由はない。俺はミルを殺せれば充分だった。〈
イカロゼはそう言って、ミルを肩に乗せた。
「こいつはパッツァオのもとに連れていく。それが俺に課せられた”契約条件”なんだ」
テュランは地を這いながら、手を伸ばした。血走った眼でイカロゼを睨む。
「怒るなよ、ガキ。お前だって分かっただろ、こいつは村を襲撃した殺人鬼なんだよ。村人を殺した犯人は〈
イカロゼは間をおいて、テュランの気を落ち着かせた。
「嘘じゃない。本当のことだ。パッツァオから聞いたんだ。初めは俺も信じられなかったが、ミルの口から出ちゃったら……もう、そういうことだろ?」
肩に乗せたミルを見ながら、イカロゼは同意を仰ぐように語尾のトーンを上げた。
テュランは顔を歪め、イカロゼを睨んだ。
「ミルを……返してください」
「ムリだな。こいつはパッツァオの手に渡り、パッツァオの手で拷問を受け、パッツァオの手で殺されるんだ。俺は、そのための繋ぎでしかない。悪魔を殺すのが俺である必要はないんだ」
「ミルは……悪魔じゃない」
イカロゼは天井を仰いだ。呆れたようにため息を吐く。
視線を戻すと、
「お前はガチのバカなんだな。そんなんだから処刑される羽目になったんだろ。違うか?」
テュランは舌を噛んだ。
「魔術が、村の因習に忌み嫌われて排除される例は後を絶たない。だから王政も、わざわざオマエみたいな存在を助けたりはしない。魔術を持って生まれた子が、理不尽な理由を突きつけらえて処刑されることなんざ、よくある話なんだよ」
イカロゼはもう一度ため息を吐いて、
「無知の罪は、意図せず調和を崩すことだ。〈
「…………」
「そんなオマエを助けるために、ミルは村の人間を惨殺した。この女が如何に危ないか、オマエは分からんのか? もしこいつがヒステリーを起こしたら、こいつは手当たり次第に人間を襲うかもしれない。こいつにはまともな倫理観がない。ふとしたことをきっかけにして、今度はアケローンシティの住民を狙うかもしれねぇーんだ。猛獣を外に放ってんのと同じなんだぞ!」
感情が
「お前さ、想像しろよ。ある日突然、目が覚めたら大群が町にやってきてさ、自分の家族とか友達とか恋人とか、とにかく無差別に殺されていくんだよ。それでな、『どうしてこんなことするんだ?』って聞いたら、『神の御意志だ』とか訳わかんねぇーこと言って、目の前で自分の町を破壊されるんだよ。なァ、オマエの匿ってる〈
イカロゼは〈
「〈
「違う……。だったら〈
テュランの質問を受けて、イカロゼは黙ってしまった。しばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「優先順位だな。物事には捌くべき順序があるんだ。俺にとって一番大事な事項は、ミルを殺すこと。そんだけだ」
「ち、違うよ……。こんなの、間違ってるよ」
テュランは、頭の中が真っ白になるのを感じた。
「ミルを、殺すなんて間違ってる。ミ、ミルは……」
「考えを強要するのは良くねぇーぜ。俺は、ミルを殺すことが”正義”だと思ってる。その想いに従って行動してるだけ。人の気持ちを頭ごなしに否定するなんて”おかしいよな”?」
「だったら……イカロゼさんも……」
イカロゼは、忌々しそうにテュランを睨む。
「俺の場合は別だよ。ミルは〈
意味の分からぬ論理であった。反論する価値すらないと結論付けたテュランは、黙って体力の回復に努めた。来るべき反撃に備えて——。
「とにかく俺は、パッツァオのもとにミルを届ける。でも安心しろ、お前は殺さん」
「……!」
テュランは驚いたように目を見開いた。
「オマエ、ヴァイオレットに好かれてんじゃん。もし殺したら、後でどんな仕打ちが待ってるか分かんねぇーからな。触らぬ神に何とやらってやつだ」
イカロゼは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
テュランは、手も足も出せぬまま、身に降りかかる不幸と屈辱を嚙み潰すしかなかった。悔しかったが、テュランには何もできなかった。
イカロゼはミルを背負ったまま、竪穴を登って去って行った。その背中を追いかけたかったが、重苦しい体がソレを許さなかった。
次第に、頭の痛みが復活してきた。血管の割れるような痛みを感じて、テュランは頭を抱えながら、酷く狼狽した。やがて目を閉じて、深い眠りに就いた。
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