第五章②

 頭の片隅に、硬い感触を覚える。

 馬車が揺れた勢いで目を覚ましたテュランは、気づけばミルの肩に頭を載せていた。

「あ……ごめん」

 目覚めたばかりで朦朧する中、ミルは「もたれてろ」とテュランに肩を貸した。気を許してくれているようで、少し嬉しい。

 イカロゼの馬車は、厳しい山道の中を、ひたすら移動している。すっかり夜になり、月の光だけが辺りを照らしている。洞窟に着くまで、まだ時間がかかりそうである。馬車を運転しているのはイカロゼ本人であり、荷台には剣やハルバートなどの武具が置かれている。

 イカロゼは地図を頼りに馬車を操作していた。それは、ヴァイオレットも同じであった。今頃、彼女はもう片方の洞窟に到着したのだろうか。アケローンシティを出発してから、既に一日が経過しているが、一向に目的地に着きそうもない。かなり辺鄙な場所に、パッツァオの〈契約書〉は保管されているようだ。

 ミルは、イカロゼを警戒しているのか、馬車に乗りこんでから睡眠を取っていない。荷台の奥に腰かけ、テュランを護るように彼の隣にくっついている。

 ——無防備だな。

 テュランの寝顔を見ながら、ミルはそんなことを思った。それと同時に、自分自身にも睡魔が襲い掛かっていることに気づいた。

 ——うぅ。眠いな。

 目蓋の重みを感じながら、ゆっくりと目を擦る。イカロゼの前で寝るわけにはいかない。イカロゼは〈獣人けものびと〉を恨んでいて、いつ裏切るか分からないからだ。

 視線を感じた。イカロゼが、横目でこちらを見ていた。

「——テュランくんは、本当に不思議な子だね」

 ミルは、沈黙を貫くことでイカロゼの言葉を跳ね返した。

「”隊長”に好かれ、ミルを慕い、魔術も扱える」

 イカロゼは語り続ける。

「オマエも、そんな風に彼のことを見ていたんじゃないのか?」

「…………」

 図星を突かれても、ミルは黙ったままだった。かまわず彼は続ける。

「〈獣人けものびと〉に恨みを持つ者は多い。〈吸血鬼ドラキュラ〉がそうであるように、〈獣人けものびと〉も本来は討伐されるべき存在だった。俺の女房も息子も、みな”神の軍勢”に殺された。兵隊にでもなって”神の軍勢”と戦おうかと思ったが、結局、なにもできずに帰ってきてしまった。ミル、俺みたいな奴は大勢いる。きっとお前が思う以上に。町や森の至るところにいるんだ。だからまぁ……テュランくんみたいな子は、はっきり言ってだよ」

 無言のまま、ミルはイカロゼの話を聞いていた。正論、だと思った。

 〈吸血鬼ドラキュラ〉は、人の血肉でしか生きられない。必然的に人間と相対する存在だ。

 一方、〈獣人けものびと〉は、思想的な次元において、人間と戦わなければならなかった。「神の使い」と崇められた〈獣人けものびと〉は、人間の畏怖の対象であった。

 ——でも。

 テュランだけは違った。彼は、世を知らない。世を知る前に、世の悪魔と出会ってしまった。純粋無垢な少年は、あらゆる偏見や先入観を持たない。空の器のようなものだ。

 ——でも。

 それは、必ずしも良いとは限らない。

 ミルは、テュランを洗脳しているのかもしれない。自分にとって都合の良い思想や事実を、一方的に植え付けているだけなのかもしれない。

 イカロゼは無言で運転を続け、やがて坂を降り始めた。もうじきだろうか。

 ミルは、左肩にテュランの温かさを感じながら、山景を眺めた。山の風景は、殆どが暗闇であった。

 イカロゼは道をよく知っているようで、迷わず杉並の脇道に入っていった。

 馬車の強い振動で、テュランが再び目を覚ました。

「着いたの……?」

「ううん。まだだ」

 馬車は、広い空き地に停まった。ここからは歩いて洞窟に向かう。

 降りる支度を始めると、ミルが「一応、持ってけ」と言って短剣をテュランに渡した。

「ありがと――」

 自分の身は自分で守れ、ということだろうか。

 テュランは身の引き締まる思いを感じながら、その短剣を受け取った。

 三人は馬車を降りた。〈守護者ガーディアン〉は夜闇に慣れているので、山道を歩くのも何ら問題ではない。

「それにしても険しいな」

 イカロゼが渋い表情で呟く。彼は、手に余るような大剣を持っていた。

「そろそろ着く。みな、戦闘の準備を」

 先頭を歩くイカロゼが周囲を見回りながら言った。洞窟には、警備として〈吸血鬼ドラキュラ〉が配備されているらしい。〈契約書〉が欲しいなら、〈吸血鬼ドラキュラ〉との戦闘は避けられないだろう。二人についていきながら、テュランは心臓を縛るような気持ちで歩いた。


 洞窟は、それからすぐ見つかった。

 大きな入り口が、崖のような場所にぽっこりと開いている。

「いくぞ」

 イカロゼの声とともに、三人は洞窟に足を踏み入れた。冷たい微風が渡り、テュランの銀髪がかき上がる。

 洞窟の中は、意外にも明るかった。発光性の鉱石が、辺りに散らばっていたからである。赤や黄といった、多種多様な光が洞内を照らしており、足場に困ることはないだろう。

「気をつけろ」

 大剣を構えながら、イカロゼが厳しい顔で命令した。テュランも含め、全員が何かしらの武具を手に持っている。〈吸血鬼ドラキュラ〉との戦いに備えて。

 洞窟の内壁は、しっとりと濡れている。歩くと滑りやすい。通常の洞窟と異なり、どこかに水溜りがあるのかもしれない。光る石の存在も加味すると、狐に化かされたような、とても不思議で不気味な洞窟であった。

「どこにあると思う?」

 イカロゼが尋ねた。

「魔力の痕跡がねぇーからな。まだなんとも言えん」

 〈契約書〉は、〈魔術契約〉の副産物として多量の魔力を帯びている。魔力に敏感な〈守護者ガーディアン〉なら、すぐに気づいてもおかしくない。

「ここを下ってみよう」

 洞窟の中を進んでいると、下方に伸びた全長二十メートルほどの竪穴を見つけた。テュランは困惑の表情で、その穴を覗いた。

「降りるの?」

「テュランくんのにロープを入れてあっただろう。それを使おう」

「本当に下がるんだね……」

 意気消沈したテュランの頭を、ミルが撫でる。

「平気だ。うちがついてる」

「俺が先に行く。下の安全を確認するから。終わるまで待っててくれ」

 イカロゼが、困惑した顔を見せるテュランに声をかけた。彼は、一刻も早く奥へ進みたいようである。今頃、ヴァイオレットも潜っているはずだから――。

「少年、ハルバートを頼む」

「うん」

 下る時に、ハルバートに片手を使われるのは勿体ない。

 彼女のハルバートは≪ママのいえ≫に保管された。

 ついでにロープも取り出して、イカロゼの体に巻きつけた。もう片方の端は、適当な岩石に巻きつけて固定した。

 イカロゼは、大剣を背中に装着して、足を壁に突っ張って、少しづつ降りていった。

 下り終わると、下からイカロゼが大声を上げた。

「よぉーし! 来ていいぞ!」

 ロープの端を体に巻きつけて、クライミングの要領で下がっていく。テュランは、ミルの後を追いかけるような態勢で進んでいった。

「……っ」

 ロープに力がかかり、お腹に酷い痛みを感じた。全体重を腹筋で支えているような感覚になって、気を抜けば、腹の底から胃酸が込み上げてきそうだった。ロープで腹を締められて、しまいには首まで絞められているような気がして、意識を手放しそうになる。洞窟の冷気も相まって、ぞくぞくと背部を舐め回されているようだった。

 試しにテュランは、眼下のミルを見た。彼女は、踊るようなステップで壁を蹴っていた。壁を蹴るごとに、まるで彼我の差を見せつけられているような気分になって、途端に彼は「置いて行かれるかもしれない」と思い、焦ってしまった。焦燥と苦痛を一つの鍋に入れて、歩みを再開する。

 その時だ。

 先程までテュランたちがいた上層の辺りからイヤな気配がした。

 根拠はない。確証もない。ただただ、イヤな感じがしたのである。深夜、目を覚まし、便所を目指して廊下に出る時、普段は何気なくスルーしてしまうような部屋の奥に、不気味な気配を感じ取って慄くような、そのような湿度の高い違和感を、テュランは抱き始めたのである。

 焦った——。

 ミルは今、ハルバートを持っていない。この状態で〈吸血鬼ドラキュラ〉に襲われたら、彼らは為す術もなく蹂躙されるであろう。

 予感が外れることを願うしかない。

 だが、予感は当たった。

 突如、突風が吹いた。

 上から、一人の男が落下してきた。そいつは、壁に張り付いたテュランを狙って、凄まじい速度でせまってくる。

「ミルッ!」

「少年ッ!」

 刹那、本能的にテュランは、腰に着けていた短剣を引き抜いた。そして一か八か、己のロープを切断した。束の間の浮遊感。直後、恐ろしい感覚が全身に襲い掛かってきた。テュランの体は落下を始め、風を切るような速さで地面へと向かう。「え」も言えぬような時間だ。死を覚悟する暇もなく、ただ茫漠とした巨大な壁を目の前に感じて……気づけばテュランは、地面に激突する寸前まで迫っていた。

 瞬間、視界の端に影を感じる。その影は、嵐のような形相であった。

「少年!」

 声とともに、あの時の浮遊感がテュランのもとに回帰した。

 閉じていた目蓋を開ければ、眼前にミルの顎が視認できる。長くて整ったフェイスラインだ。綺麗な顔が、そこにはある。

「少年、平気か? 死んでねぇーよな?」

「う、うん……」

 気を取り返すような勢いで、テュランはしげしげと周囲を見回した。どうやら彼の体は、地面に激突する寸前でミルにキャッチされたらしい。彼は今、お姫様抱っこされている状態であった。

「急にロープ切るから驚いたよ。あんた捕まえんのに苦労したんだからな」

 ミルは、微笑をたたえながらそう言って、丁重な動作でテュランの両脇を手で持ち、地面に置いてやった。よろめながらも、彼の足は地面に接触し、起立を成功させた。

「二人とも大丈夫か?」

 イカロゼが言った。彼は大剣を持って、既に臨戦態勢に入っている。

 ──僕を襲った男……。多分、〈吸血鬼ドラキュラ〉だ。

 状況を察したのか、テュランは素早い動作でハルバートを取り出してミルに渡した。ミルが、ハルバートを受け取る。すると彼女は、厳しい顔で周辺を見回した。

 よく見ると、ミルの体から血が垂れている。それは水滴のようなリズム感で体内から漏れ出ており、不気味な水音を奏でている。

「ミル、血が出てるよ……」

 テュランが出血のことを指摘すると、ミルは苦し紛れに笑って、

「あぁ。ちっと着地に失敗しちまってな……」

 と言って、腹部をさすった。

 ──僕のせいだ。

 テュランは、自分を責める他なかった。ミルは、彼を助けるために、まだ降りる途中だったところを強引に中断して、ロープを切り離し地面に落下したのである。〈獣人けものびと〉といえど、十メートル以上の崖から飛び降りれば無傷で済まされない。特に今回の場合は、「着地」よりも「テュランの救出」が念頭に置かれてあった。かなりの負担を背負ったことであろう。

 ミルは、ハルバードに寄りかかるような態勢で立っていた。次々と流れる鮮血と、圧倒的な睡眠不足……幾多のデバフが重なり、ミルの体は、もはや〈吸血鬼ドラキュラ〉と戦える状態ではなかった。

 しかし敵は、そんな都合など無視してやってくるものである。

「貴様ら、何者だ」

 テュランを襲ったその男は、目を見張るほどの長身で、流れるように美しい黒の髪を伸ばしていた。

「お前こそ何者だ? パッツァオの使いか?」

 ハルバートを構えながら、ミルが威圧的に訊いた。傷を負いながらも、相手への牽制を怠るつもりはない。

「私はルヴァリャだ。パッツァオ様の”拷問係トーチャー”を務めている」

 ルヴァリャはそう言って、一歩前へと踏み出した。

 警戒心の強いミルは、咄嗟にハルバートを持ち替えて態勢を整えた。冷たい火花が、彼らの間に散らばっている。

「ここはパッツァオ様の洞窟だぞ。無断で入ることは許されない。ただちに出ていけ」

「そうはいかねぇーな。うちらもそれなりの”信念”があって来てんだ」

「信念……? なにが言いたい?」

 ルヴァリャが訊くと、ミルは眼光をギロリと光らせて、

「奪いにきたんだよ、オマエらの〈契約書〉を」

 と答えた。

 ルヴァリャは、目を糸のように細めて睨んだ。

「なぜお前が〈契約書〉のことを…………いや、違う……」

「…………」

 ルヴァリャは、困惑の色を浮かべながら言った。

……どうしてお前がッ!」

「あッ?」

 いきなり名前で呼ばれて、イカロゼは不機嫌そうに声を出した。

「イカロゼ、お前は……パッツァオ様の使いではないのか?」

「あぁーそういうことか」

 イカロゼは肩に大剣を乗せながら、邪悪な笑みを見せた。

「つくづく愚かな生き物だな、〈吸血鬼ドラキュラ〉は。俺は……〈守護者ガーディアン〉だぞ」

「…………ッ!」

 ルヴァリャは盛大に顔をしかめた。

「有り得ない。パッツァオ様を裏切るなど不可能だ。〈魔術契約〉を結んだんじゃないのか?」

「…………」

 ルヴァリャは、殺意を剥き出しにした目でイカロゼを睨んだ。

 裏切られて、憤怒に燃えている。

 拳を強く握りしめ、歯軋りを繰り返し、白目をむいて、


 彼は、黒い粒子を纏った怪物に変貌した。


 巨大な蜥蜴のような姿。黒い蛆虫うじむしをかき集めたような生物だ。

 イカロゼが大剣を構える。

「〈鬼化ヴァーザード〉の発動だな。まさかこのレベルの〈吸血鬼ドラキュラ〉だったとはな……」

 立ち尽くすミルに向かって、イカロゼが怯えた声で呟く。

「ミル、〈鬼化ヴァーザード〉を倒せるか?」

「知らん。でも、やるしかねぇーだろ!」

 ミルが力強く吠えた。

 ハルバートを両の手で握り、大声で詠唱を唱える。

「〈太陽炎フレア天照アマテラーゼ〉」

 詠唱直後、彼女の声に呼応するかのごとく、ハルバートの刃が白い炎に包まれた。白色矮星のような輝きを放ち、地面を揺るがすような突風が洞窟内に吹き荒れる。ハルバートを振り回すたびに、その白い炎は荒れ狂う白波のように空中を旋回し、空気中の物質を焼き切ってしまう。

 〈太陽炎フレア天照アマテラーゼ〉は、ハルバートに備え付けらえた魔術である。柄の先端に埋め込まれた〈魔石〉を動力源とし、使用者ミルの魔力をエネルギーに変換することで発動される。その威力や性質は術者の力量によって大きく左右されるが、〈吸血鬼ドラキュラ〉が最も苦手とする太陽の光をモチーフにした術式であるため、〈吸血鬼ドラキュラ〉に対しては、ある程度の効果が見込める。

「〈太陽炎フレア天照アマテラーゼ〉」

 ミルに引き続き、イカロゼも同様の魔術を発動する。ミルの光と比べると、彼の大剣に灯った光の炎は、如何せん心許ない矮小なものであったが、無いよりはマシである。

「コロス……オマエら全員……皆殺しに……してやる……」

 巨大な蜥蜴のような姿になったルヴァリャは、二人の魔術に臆することなく、けたたましい咆哮を鳴らして突進してきた。空気を揺らすような速さで迫り、周囲の地面に亀裂が走る。

 三人は転がるように走ることで奴の攻撃を回避し、負傷を免れた。ミルとイカロゼは、互いに反対の方向からルヴァリャに接近し、刹那の間に奴の前足を切断した。

「おのれェェェェェェ!!!」

 足を斬られたことで、ルヴァリャの怒りが爆発する。肺の空気をすべて使い果たすような咆哮が放たれ、爆発的な風圧が周囲の物体を吹き飛ばした。ミルとイカロゼは後方の壁まで飛ばされてしまい、衝撃に耐えきれず吐き出すように出血してしまった。

 ——ぼ、僕も戦わなきゃ!

 意を決して、怪物のふところに入り込む。振り下ろされる尻尾を横跳びの要領で躱し、短剣を足に突き刺してみる。だが、刃は通らない。

「なんで……!」

 刃が通らないのであれば勝ち目はない。

 一旦は逃げようと思い、後ろ跳びで退避する。〈身体強化〉の恩恵により、人間離れしたステップで移動することができた。

 ——ダメだ。こんなしょぼい武器じゃ戦えない。

 本来、テュランは戦わないはずであった。大抵の強者なら、ミルひとりで片付くからだ。しかし彼女は、〈吸血鬼ドラキュラ〉と抗戦する前から負傷しており、万全の状態ではない。

 まさに、絶体絶命の最中さなかである。

 その時、ミルが叫んだ。

「少年、もういい!」

「ミル?」

 テュランの言葉にミルは返事を返さず、震える足をどうにか奮い立たせながら起立した。

「すこし……怖いかもしんないけど、ごめんな」

「えっ? どういう——」

 テュランが言い終わる前に、ミルはハルバートを投げ捨てた。

 テュランの記憶が蘇る。ミルとイカロゼが戦っていた時のことだ。ピンチに追い込まれて、ハルバートを捨てたあの時。

 豹変したミルに向かって、イカロゼが叫んでいた。

 ——≪獣化ビースト≫。

 〈獣人けものびと〉には、もう一段階のステージがある。

「オマエ……ケモノビト……コロシテヤル」

 ミルの奇怪な行動に違和感を覚えたのか、ルヴァリャは雷雨のような剣幕で詰め寄ってきた。だがミルは、目を瞑り、全く動こうとしない。

「怪物め……」

 一方でイカロゼは、そんなミルを見て、不貞腐れたように呪詛を吐いていた。

 既に、ミルの変身は始まっている。

 ミルは目を瞑ったまま、自分の心身に全精魂を捧げる。

「うちは」

 ミルの髪の毛が、人ならざる獣の毛へと変貌を遂げていく。

 長かった袖は破られ、細かった腕も獣のようになっていく。

「やっぱりうちは、ただの怪物なんだ」

 手に付着した血を、真っ赤な炎の舌で舐めまわすミル。

 「グルルルル」と苦しそうに、地鳴りのような声を出しながら――最後は、哀しそうな目でテュランを見て笑った。

 それは、散りゆく花々のように儚くて、テュランは深い戸惑いを覚えた。

 ——待って。どこにも行かないで!

 死ぬんじゃないだろうか。

 死ぬ気じゃないだろうか。

 嫌な予感が全身に駆け巡り、テュランは、内臓を吐き出す思いで名前を呼んだ。

「ミル!」

 と、次の瞬間――。

 ミルの体が火山のように膨れ上がり、漆黒の毛を爆発的に増毛させ、布地を盛大に引き裂いた。

 「獣」の名を冠したその少女は、己の蔑称に相応しい、恐るべきダークウルフとなって再顕現したのである。上半身には、怪物のソレを象徴するかの如く黒い体毛が生えわたり、下半身だけは人間のままであったが、やはり筋肉量と佇まいが怪物の異名を想起させた。

 忽然と現れた漆黒の狼人間は、自分の姿を確かめるかのように全身を見回して、それから何度も、自分の鉤爪を恍惚と眺めた。その爪は鎌のような形をしており、先端が光るほどに美しく、剥き出しにされた牙は人間の肉を噛み砕くには充分すぎるほど丈夫であった。湿った鼻の嗅覚は、人間状態の何倍も優れていて、数キロメートル先の生物の体臭ですら感知するであろう。

 体の周囲の重力だけが異常に強くなったと感じるほどの質量感に、相手の心を突き刺すような赤い眼。そんな熱気を孕んでいながらも、「狩る」ことに関しては不気味なまでに冷静沈着であり、澄み切っている。

 ——獣だ。

 もはや、ミルの面影はひとつもない。

「グァァァァァァァッッ」

 ミルの化身に向かって、ルヴァリャが尻尾を叩きつけた。この一撃によって地面は真っ二つに分断され、巨大な断層ができた。

 が、ミルは、その攻撃を軽々と躱し切り、空中で身体の軌道を切り替えると、空中浮遊のような身のこなしでルヴァリャの背部に迫り、その強靭な鉤爪を振り下ろした。

 瞬間、群青色の血液がルヴァリャの背中から噴き出る。

 ——青い、血? 赤色じゃないのか?

 テュランは、二人の戦いを見ながら呆気に取られていた。

 理解できるはずもない。眼前にいるのは、人間ではなく、人間よりも獰猛な”怪物”なのだから。

「グ」

 深手を負ったのか、ルヴァリャは重たい声を漏らした。

 そしてミルが、風のような音を立てて、刹那に、ルヴァリャの巨体に無数の斬撃を浴びせた。目にも追えぬスピードで、彼女は爪を使って肉を削いでいく。

 ルヴァリャには、”術”を発動する暇もなかった。

 彼はただ、音速に近い速度で空間を駆け抜け鉤爪を負わせてくるミルの攻撃を、一身に受け止めるしかなかったのである。

「ク、クソが……」

 蚊の鳴くような声が聞こえた直後、いつの間にかハルバートを持っていたミルが〈太陽炎フレア天照アマテラーゼ〉を発動し、巨大な火球を爆発させた。

 光の炎は周囲に拡散し、ルヴァリャの肉体を焼き焦がしていく。

「グァァァァァァ。オマエ……」

 その焼かれていく過程の中でも、ミルは絶え間なくハルバートを振り続け、敵の流血を促した。

 惨劇の過ぎ去る頃には、ルヴァリャの肉体は跡形もなく灰と化していた。肉片すら残らずして、完全に絶命したようであった。灰の雨が降り、その中をミルは呆然と立ち尽くしていた。手には、青い血を纏ったハルバートが握られている。既に、〈太陽炎フレア天照アマテラーゼ〉は解除されたようである。

「ミル……」

 テュランは安堵の思いを込めて名前を呼んだが、ルヴァリャを滅多刺しにしたミルはテュランの方に目を向けなかった。

 ハルバートを地面に落として、地面に膝をつく。

「少年」

 獣とは思えないほどの弱々しい声が耳に入ってきた。死にかけの老婆の掠れたような声色であった。

 ミルの体は、既に限界を迎えていた。

 最後の力を振り絞って発動した〈獣化ビースト〉。その禁じ手を切った時点で、彼女は試合に勝って勝負に負けたようなものであった。

 直後、大量の鮮血がミルの口から放たれた。その流勢は留まることを知らず、ドバドバと放出された。地面に赤黒い水溜りを形成し、血液は、洞窟の影に染まって闇へと変わっていた。

 地面に引っ張られるようにミルは横たわった。

 集中の糸が切れたのか、ミルの体は急速に人間の姿へと戻っていった。黒い体毛はすべて削がれ、骨格も筋肉も魔法が解けたように萎んで変化する。

「ふ、服……服を着かせないと」

 テュランは駆け寄り上着を脱いで、それをミルの裸体にかけてやった。下半身のズボンは幸いにも無傷だったので、上着されあれば充分であった。

「大丈夫? 傷は? 寝ちゃ駄目だよ! ミル……寝ちゃ駄目だ!」

 倒れたミルの腹はじっとりと濡れていて、傷口から何らかの臓器が顔を出していた。

 テュランは、必死にその傷を手で押さえた。手に染みついた血液は既に固まり始めている。

「ミル、痛い? 苦しい?」

 ミルはテュランの質問には答えないで、独り言のように呟いた。

「うちは……最低なヤツだった。間違えたんだ、うちは……」

 彼女の声は何度も途切れており、そして掠れていた。囁かれるその声に力はなく、失速寸前の駒の回転運動みたいだった。

「しょ、うねん……。きいて……ほしい、ことがある……」

 ミルが、なにか大切なことを伝えようとしている。

 テュランは耳を傾け、彼女の話を聞こうとした。

「うちは……少年に……う、そをついてたんだ。……あの時、うちは……お、お前を助けなきゃ……と思って……」

 ミルの話を聞きながら、テュランは必死に彼女の傷口を押さえた。

 ——駄目だ。血が止まらない……。

 噴水のように血潮が吹く。彼女の血を浴びて、テュランの顔面は真っ赤な炎で焼かれたみたいに赤色に染まった。

「喋らないでよ。そんなことは後で良いから」

「ダメ、なんだ……。今じゃないと……」

「どうして。こ、このままだと死んじゃうかもしれないんだよ」

 テュランは、震える声を出して泣いていた。

「うちは……死ぬべきヒトなんだよ……」

 ミルがそう言うと、テュランは打ちひしがれたように唖然とした。

「なんで……どうしてそんなこと言うの?」

「うちが、全部悪かったんだ……。少年、ママのこと好きか?」

 唐突な質問に驚きながらも、テュランは鼻をすすりながら言った。

「好きだよ、ママは。ずっと、好きだもん。でも——」

 そこで言葉を区切り、目を擦った。そして、続けた。

「僕、ミル、ミルが好き」

 テュランは、衝動的に言葉を吐いた。出し始めたら、もう止めることはできない。

「好き。好きだよ、ミル」

「…………」

「強くてかっこよくて……僕は、ミルが好き。大好き」

「……」

「ミル」

「——―――」

「好き」

 テュランはますます泣いてしまった。

 想いを口にすることで、余計に感情が高ぶってしまったのである。ミルは、泣いているテュランに言った。

「少年……ママを殺したのは、うちなんだ。あの村を襲ったのは……〈吸血鬼ドラキュラ〉じゃなくて……うちだったんだ。少年のママを殺したのは、うちなんだよ」

「………………えっ?」

 テュランは言葉を失い、愕然とした。

「あの夜……処刑台に送られるあんたを見て…………うちは、抑えられなかったんだ。あの子供を何としてでも……助けなきゃって……思ったんだ、でも」

 テュランはすっかり黙ってしまい、二の句を継げなかった。

「方法が……思いつかなかった。どうせ……聞いてくれない、と思って……。だからうちは……あいつらを、殺したんだ……。それしか、方法がなかったんだ……。いや、それ以外の方法を……うちは取ろうとしなかった」

 涙を流すテュランを薄目で捉えながら、ミルも涙を垂らした。

「ごめん。少年を、一人にさせちまって」

 返事などできない。テュランは、ただ茫然と涙を流すしかなかった。言葉が出ない。感情を整理できない。ただただ、泣くだけだ。

 ふとその時、背後から、誰かの足音が聞こえた。何者だろうか。驚いて振り向くと、イカロゼが立っていた。

「死ね」

 突然、視界が歪んだ。それと同時に、頭が破裂したんじゃないかと思うほどの痛みを感じた。目がくらむ。痛みのなかに、冷酷な寒さを感知する。大剣で頭を殴られたのだと悟る頃には、テュランは地面に転がされていた。

「イカロゼ……オマエ……」

 ミルの廃れた声が、裏切り者の名前を呼んでいる。

「さぁ、ショータイムといこうか」

 イカロゼはニヤリと笑うと、ミルの胸部に大剣を突き刺した。

 

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