第四章①

 部屋の寝床に座りながら、ミルは驚愕の海に晒されていた。彼女の眼には、混沌を前にして戸惑う空虚な影があった。

 〈魔夢キーテクト〉を摂取して正気を保てたものは少ない。幾多の〈吸血鬼ドラキュラ〉を討伐した仙人鬼才の戦士さえも、それは敵わなかったのだ。いまどき、〈魔夢キーテクト〉を使う者はいない。流行の過ぎ去った魔術だった。

 だが、あらゆる因果を経て、今日、一人の少年が〈魔夢キーテクト〉の読み取りに成功したのである。窓外から差し込む正午の陽射しは、彼の偉業を祝福するかのようであった。清々しい街角に風が流れ――その聡明な空気に溶け込んで、露店の商人がベルを鳴らしている。ベルの音を受けて、人々の心は、爽やかな熱気に打たれた。そんな町の喧騒を縫って、とある一つの寮部屋で革命が起きているのだ。

 テュランが〈魔夢キーテクト〉の読み取りを始めてから七時間が経過した。

 卓上の骨は既に無くなりつつある。その全てをテュランが食べ尽くそうとしているのだ。

 彼は、一度も意識を失わずして、七時間もの間、ぶっ通しで〈魔夢キーテクト〉を読み取っている。目を瞑り、食した骨から身体的な記憶を摂取しているのだが、その際に必要とする集中力は計り知れない。通常なら、脳がパンクするだろう。だがテュランは、それらの障害を容易に退けて、毅然とした様子で骨を食べている。

 この神業的な才能を目にして、教育係のミルは驚愕を超えて畏怖の汗を額に光らせていた。

「少年……あんたナニモンなんだよ……」

 ミルは額の汗を拭って、小さく呟いた。

 その声はテュランには聞こえていないようで、依然として彼は目を瞑りながら遺骨を味わっている。凄まじい集中力だ。外界の音を完全に遮断している。

「うちさ、初めて少年を見たときに思ったんよね――少年はこんな奴らに殺されちゃダメだって」

 ミルが寝床のシーツを軽く握る。

「あん時の”直感”は正しかったのかな。でも……やっぱりうちの——」

 声が震えている。嵐のような葛藤を胸に秘めていた。

 その時、閑散としていた寮部屋に、ひときわ熱烈な轟音が上がった。激しい音を立てて扉が開いたのだ。扉を開けたのはヴァイオレットだった。長髪がキラリと靡く。恍惚とした期待が、緩んだ頬のあたりにうかがえる。

「やはり私の思った通りになったわね、ミル」

 ヴァイオレットは勝ち誇った表情でテュランのもとに近づいた。そのさまをミルが怪訝な態度で迎える。

「これは……どーゆーことなんよ。どうして少年は〈魔夢キーテクト〉を読んでも平気なんだ?」

「彼が”魔境の王”だからよ」

 ヴァイオレットは、やや得意然にミルの眼を見た。

 ミルは吐き出すように漏らした。

「”魔境の王”? なんだソレ? あんたが何を考えてるかは知らねぇーけど、これ以上少年を苛めんじゃねーよ。被害を被るのはうちだけで充分だ。こいつはなんも悪くねぇーだろ」

「…………」

 ヴァイオレットは意外な顔をして黙ってしまった。テュランに対するミルの感情が、ヴァイオレットの予想以上に重いものであったからだ。

 彼女の得意然とした態度は、ミルの要求を受けて崩れ去った。予期せぬ反発に驚いたのである。ヴァイオレットは、不遜な姿勢で笑った

「ナニが面白れぇーんだよ。うちは本気で話してんだぞ」

「『本気』? あなたの分際でよくもそんなことが言えるわね。笑止千万よ」

 ヴァイオレットは、頑としてミルを相手にしなかった。端から対等に話すつもりなどなかったのである。

 ミルは、思わず語調を強めた。

「てめぇのナニが偉いんだよ。いつもデケェー態度とりやがって、何から何までオマエに指図される筋はねぇーんだよ。少年は〈守護者ガーディアン〉じゃない。ただのガキだ。〈魔夢キーテクト〉を読ませるなんてあり得ねぇーぞ。もしダメだったらどーするつもりだったんだよ」

「そういうあなたこそ、有り得ないことをしたわよね」

 抑揚のない声が返ってきた。意味が分からず、ミルは黙って眉をしかめた。

「”鑑定士”に頼んで、あなたが回収した〈吸血鬼ドラキュラ〉の首を解析したのよ」

「鑑定士?」

「あなたが殺した〈吸血鬼ドラキュラ〉、神隠しの犯人だったわ」

 最近、テュランの村では子供の神隠しが起きていた。夜、皆が寝静まった頃に、謎の黒い影がやってきて一人の子供を連れ去る場面を、偶然にも目を覚ましていた村人が目撃したのである。この報告を受けた”ガーディアン支部”が、二名の〈守護者ガーディアン〉を派遣し調査を開始した。ところがその一か月後に、派遣された二名の〈守護者ガーディアン〉は内臓を抉り取られた状態で発見されたのである。

 ガーディアン支部に衝撃が走った。かなりの”強敵”が、集落内に潜んでいる可能性がある。

 状況を重く受け止めたヴァイオレットは、ただちにミルを送り込んだ。子供を連れ去り、二人の〈守護者ガーディアン〉を返り討ちにした〈吸血鬼ドラキュラ〉を駆除するために――。

「〈吸血鬼ドラキュラ〉は〈魔術契約〉を結んでいたわ。契約の相手はまだ分かっていないけど、契約内容は殆ど把握できた。『ひと月に一名、村の子供を献上する』、これが〈吸血鬼ドラキュラ〉に課された条件」

 ヴァイオレットの声は冷たかった。

「あくまで〈吸血鬼ドラキュラ〉は、村の子供を拉致するだけ。村人を鏖殺しろなんて命令はどこにもなかったわ」

「なんであんたにそんなことが分かんだよ」

「”鑑定士”のおかげよ。はね、完璧なのよ」

 ヴァイオレットの平穏な言葉の裏には、確かな影が潜んでいた。場の空気がどんどん険悪になっていく。終始、ミルは苛立っていた。

 そんなミルに、ヴァイオレットが決定打ともいえる台詞を放った。

「ミル、私に嘘をついたわね」

 ヴァイオレットの語気は、穏やかながら厳しい。

 続けて彼女は、部屋の壁に寄りかかり、ミルに対して鋭い眼光を向けながら、悄然な口調で言った。

「色々と辻褄が合わないのよ。子供を連れ去ることだけが目的の〈吸血鬼ドラキュラ〉が、村人を皆殺しにするなんて考えられない。むしろ連れてくるはずの子供まで殺しちゃってんだから、相手方の解釈次第では契約違反になるかもね」

「はァ……さっきから何が言いてぇんだよ」

 ミルの憮然とした態度は、もはやただの虚勢と化していた。

「そうなると考えられる結論は一つしかないの」

 低い声でそう言ったミルが、腰に収めた真剣のこじりに手をかける。

「最も望まぬ結果だったわ」

 壁から背を離す。

 ゆっくりとミルに近づく。

 唾を飲み、怯えるミルに対して、剣を抜きながら、厳然たる語調で刺すようにヴァイオレットが言った。

「■■■■■■■■■■■――”処刑”の時間だわ」

 ヴァイオレットが颯爽と剣を抜く。ミルは咄嗟にベッドに乗り上がりハルバートを構えようとした。だが、ヴァイオレットの剣筋はミルのソレを遥かに凌ぐ。ミルの手が柄に届く前に、ヴァイオレットの刃が首にかかってしまう。

 ——間に合わない。

 ミルが心中で死を覚悟したその時、重苦しい威圧が寮部屋を満たした。

「…………ッ!」

「—————ッ!」

 水の中に入った気分だった。呼吸が浅くなり、ミルもヴァイオレットも驚愕の表情で手を止めた。振り向くと、卓上の遺骨を全て食べ終えたテュランが、追憶の海から生還して、息抜きがてらに大きく腕を伸ばして寛いでいた。

 ——まさか、少年の魔力?

 ミルは驚いたように目を見開いた。

 テュランから殺意の気色は感じられない。無意識のうちに周囲の生物を窒息させるほどの膨大な魔力を放出していたのである。一瞬ではあるものの、大量の魔力を発したせいで、空気中の組成のバランスが崩れたのだ。

 テュランは、目覚めたように目を擦ると、寝ぼけた表情で二人を見た。

「ミルと……アレ? ヴァイオレットが、いる」

 〈魔夢キーテクト〉に集中していたせいで、ヴァイオレットの存在を感知できなかったのだろう。状況を理解できず、テュランは困ったように首を傾げた。

 すると、ヴァイオレットが素早く剣を納めて、微笑みながらテュランに近づいて、撫でるように言った。

「気分はどう? 人様の遺骨を消費する価値は得られたのかしら」

 訊かれると、テュランは得意げに自身の成果を訴えた。

「剣術を覚えた」

 その言葉は、かなりの自信に充ち溢れていた。万感を胸に宿していた。

 それを見たヴァイオレットは満足したように頷いて、

「では手合わせ願えるかしら、王様」

 ヴァイオレットの注目は、完全にミルからテュランに移り変わっていた。

 テュランは驚いて目を逸らした。

 ——この人と戦うの……? ムリだよ!

 内心ではそんなことを思いつつ、テュランは焦ったように乱暴に首を振った。そんな彼に向かって、ミルがサラリと言う。

「剣の嗜み方、心肝に染めたんじゃないのかしら。気弱なオトコは嫌いよ、テュラン。私と勝負しなさい」

「で、でも……」

 否定的な言葉を、自分に言い聞かせるように放つ。自信と不安の入り混じった醜い感情が顔をのぞかせる。

 ヴァイオレットは、もう一押しだ、と強い確信を抱き、衝撃的な提案を打ち出した。

「もし訓練で私を認めさせることができたら……あなたたちに何らかの処遇を与えてやってもいいわ。たとえば……好きなだけこの町の店に出入りできる権利とかはどうかしら?」

 ヴァイオレットの肺腑を撫でるような説得を聞いて、テュランの心が激しく揺れる。〈獣人けものびと〉であるミルは、差別的な背景を理由として理不尽な入店拒否を受けている。だが、もしもヴァイオレットが二人の味方になるのなら、そういう不合理な対応を退けることができるかもしれない。

 一方でミルは、そんな提案を語気を荒くして拒絶した。

「少年、こいつの話は聞かん方が良い。本当は……あんたは戦う必要なんてないんだ……」

「黙りなさい。あなたにわめく権利はないの。黙らなければ、ここでテュランを殺すわ」

 ヴァイオレットは、厳然たる口調で制した。権力を思うがままに行使し、自分の欲望のためなら手段を厭わない。己の快不快に振り回されているヴァイオレットを、ミルは哀れな目で見つめた。だが、それはミルも同じだった。

 ——うちも、あいつと同類だわ……。

 落胆して、ミルは黙って口を閉ざした。

「分かった……ヴァイオレットと戦うよ」

 テュランが力強くそう言った。

 結局、二人は戦うことになるのだった。

 

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