第三章④
「しょーねん。訓練の時間だ」
目が覚めた時、テュランはベッドの中にいた。ベッドにはミルの甲高い声が染みついていた。そこはテュランのベッドであり、テュランの部屋だった。しかし自分の部屋だと認識するにはかなりの時間が必要だった。それはまるで他人の人生を追体験するような感覚に近かった。天井のランプも、漆喰の壁も、何もかもが異世界のようだった。
窓の外には、早朝の静けさが漂っていた。町の喧騒は人々の眠りとともに衰弱し、太陽は未だ昇ってないものの、空が青くなり始めていた。
窓際にはミルの姿が視認できた。彼女は窓際に持ち出した椅子に腰を下ろし、いつものように尻尾をぶらぶらと揺らしながら、分厚い書物を読んでいた。ミルが何を読んでいるのか、テュランには見当も付かなかった。
「ヴァイオレットがな——」
本を読みながらミルが言った。
「少年を育てるために〈
「……」
テュランは何も返答しなかった。ミルが話を続ける。
「あのババア、厳しすぎるよな。昨日会っただけなのに……やべェーよアイツ」
テュランは小さく頷いた。
——そうだ。思い出した。
寝ぼけていたせいで、テュランは様々な事情を忘れていた。テュランはミルの寮室で暮らすことになり、”
「僕も〈
「だろうな。〈
「〈
テュランが訊くと、ミルはゆっくりと本を閉じてこちらを見た。読んでいた本を壁際の戸棚に保管する。寝間着姿の彼女はとても新鮮でテュランの胸が躍った。
「〈
「……すごいじゃん」
「いや」
ミルが苦い顔をした。
「副作用があんだ。呪いに耐性のある人間ですら〈
テュランは目を丸くした。
——そんな危ないモノをどうして僕に?
「事情は知らんが、アイツはオマエに過度な期待をしてる。オマエなら〈
テュランは呆れてため息を吐いた。
「まァ……得策だとは思えん。そもそも〈
「そうなの?」
乗り出すようにテュランが訊いた。
「あァ。支部隊長の権限でかろうじて使えるって感じだな。ったくよ……職権乱用かよ」
ミルが乱暴に頭皮を掻いた。
「ヴァイオレットは……とにかく変わりモンなんだ。理由もなくうちを雇うような奴だ。イカれてんだよ」
——理由もなく……?
ミルの軽はずみな発言に、テュランは妙な引っ掛かりを感じた。ミルを雇ったのには理由があるからだ。ヴァイオレットは”鑑定士”の預言を妄信し、預言を頼りに物事を判断している。預言によれば、”魔境の王”をヴァイオレットのもとに連れてくるのは〈獣人〉だ。そして”魔境の王”を継ぐ者は、赤い目と銀色の髪を宿した子供である。彼女がテュランに〈
——ミルは預言のことを知らないのかな?
テュランは深刻そうに顔を伏せた。
「少年、ムリはせんでいいからな。〈
ミルは柔らかな表情で、そう語った。テュランは少し安堵した。
ミルは本を読み終えると、〈
ミルは一時間ほどで戻ってきた。右手にはハルバートを、左手には大きめのトートバックが握られていた。
「〈
テュランが感心したようにミルのトートバックを覗き込んだ。バックの中には人間の骸骨が溜まっている。
「これが〈
「ほ、ほねじゃん……」
白磁のように白い頭部の骨が、真っ黒な二つの穴を双眸としてテュランたちを覗いている。
短剣のように短く、パイプのように太い棒状の骨がトートバックの中に散乱している。
たまにヒビの入った骨も見つかるが、殆どが太くて立派だ。
——骨を持ってきてもいいの?
テュランたちは慎重な手つきでトートバックから骨を取り出した。落とさないように丁寧に骸骨を机まで運んでいく。
「粉ついちゃった」
骨を手に取ったテュランの手には、砂屑のように白い粉末が付着している。
「粉骨ってんだ。遺骨をコンパクトにするために粉上に潰してんだよ」
「えぇー勝手に壊していいの?」
「まぁ……いいんじゃね」
ミルは素早い動作で遺骨を移動させていく。慣れているのだろうか。初めて骨を触ったテュランと違って、あらゆる動作に抵抗感が見られない。
「少年、椅子に座りな」
遺骨を運びおえて、テュランは木製の椅子に座った。
机上に置かれた遺骨は、なんだが見知らぬ地方の伝統料理のようであった。白い棒状の食物に、白い粉末状の調味料。メインディッシュはひび割れのない綺麗な頭部。人の尊厳を全て削ぎ落した料理である。
「これからどうするの?」
「骨を食べてもらう」
テュランは思わず顔を上げた。
「た、食べるって……口に入れろってことだよね?」
「それ以外にナニがあんだよ」
ミルは意地悪く笑って、ベッドに座った。
「骨の持ち主は〈
「……人の骨を食べてもいいの?」
骨を捕食するなんて、常識的に考えてありえない。それこそ〈
「よくねぇーよ。でも骨の中には”記憶”が保存されてんだ。骨を食べれば、その記憶が体内に移るってわけ」
「記憶? この人の記憶を読み取れるようになるの?」
「もちろん全部の記憶ってわけじゃねーよ。身体的な記憶だけだ。つまり少年は、〈
〈
だが……
「〈
「ミルは使ったことあるの?」
テュランが訊くと、ミルは顔を伏せて苦笑いした。
「やったけど……一分ももたなかった」
——ミルでさえ……。
テュランの顔から血の気が引いていく。旗色が悪すぎる。
「もしヤバくなったら、うちが〈
そう言ってミルがポケットから取り出したのは、エメラルドの小瓶だった。中身は〈聖水〉と呼ばれる特殊な水である。〈聖水〉を飲めば〈
「少年、うちが必ず守るからな」
ミルは神妙な表情でテュランと目を合わせた。テュランは何も言わずに首を縦に振り、卓上の骨を眺めた。
そして、暗穴に手を差し出すみたいに、テュランは一本の骨を手に取る。変哲もない普通の骨であったが、咽頭に流し込むには些か不気味である。だが、ヴァイオレットの命令であるならば従わなければならない。ミルの立場を考慮すると、今は我慢するしかないのだ。
骨を両手で持って、口の中に咥える。骨の味は、仄かな甘みを内包していた。骨は脆く、歯に当たると粉々に砕け散った。骨粉が口腔を満たし、甘い匂いが鼻腔を覆った。睡魔が迫りくる。眠たい。やがて暖かい温もりが音もなくやってきて、テュランは記憶を読み始めた。
[追憶の静寂]→[肉体の結合〕→[魔の夢]
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