第三章②
テュランとミルは、ミルのトレンチコートを着たヴァイオレットに連れられて、支部隊長室にやってきた。
木窓の向こうに広がる町の喧騒が騒がしい。室内には、様々な骨董品や動物の剝製が飾られている。
「あなたは廊下で待ってて」
部屋の扉に差し掛かったところで、ヴァイオレットがミルに言った。ヴァイオレットは、テュランと二人きりになりたいらしい。胸の奥に蔓延する靄を抱えながら、ミルは渋々指示を受け入れた。
部屋に入った二人は、木製の机を囲むように向かい合わせになってソファに座った。動物の皮を余すことなく利用した最高級のレッドソファだ。深い背もたれに寄りかかりながらヴァイオレットが口を開く。
「なぜここに連れてこられたのか……不思議に思ってるわね、テュラン」
「どうして僕をここに連れて来たんですか? あなたは僕の……なんですか?」
「タメでいいわ。敬語は嫌いなの」
質問しながらも、テュランは自分がここに連れてこられた理由よりもミルの身を案じていた。
——首は、大丈夫だろうか。もっと早く僕が声を上げていれば……。
テュランの両手は汗で滲んでいた。
「ミルの身体は大丈夫よ。腐っても〈
「〈
「私より速く、キミより遅い、というのが正確な評価かしら。かなり雑な区分だけどね。人より大きく、海より小さいと言うようなものよ」
ヴァイオレットが淡々と喋る。
——僕より遅い? 僕の方がミルやこの人よりも治りが速いって言いたいの?
当然のことのように説明されても、テュランには理解できない。黙って首を傾けるしかなかった。まだ完全にヴァイオレットを信用したわけでもないが、戦ったら勝算はないので、今は大人しくするのが一番良い。
とはいえ、抽象的な話をするのは好きじゃない。彼女との会話は難儀だろう。
「キミは運命を信じるタイプの人間かしら?」
「……分からないよ。考えたこともない」
「分からないなんてことは有り得ないわ。キミは自己に対する興味が薄すぎる」
「じゃあ――どうすればいいの?」
「考えなさい。そして答えなさい。さもなくばミルを殺すわ」
ミルを脅迫に使われたら仕方あるまい。運命について特段の関心はないけど、テュランは限られた感情の起伏をかき集めて曲がりなりにも答えを出した。
「運命なんて……ないと思う。全部、”たまたま”が重なっただけなんじゃないかな」
「なぜそう思うの?」
「もし運命があるとしたら……僕のママが僕を見捨てたのも”運命”なの?」
≪ママのいえ≫を発現する前は、テュランも母と一緒に暮らしていた。世界の珍しい土地を絵画にしてまとめた図鑑を二人で読んだのが、最も古い思い出だ。だからこそ、ある日突然、敬愛する母がゴミを見るような目で見てきた時には、心臓を抉り取られそうな気分になった。今でも忘れられない。
「面白いわ。キミはやはり、他の人間とは異なる”何か”を持ってるわね」
興奮したのか、ヴァイオレットは楽しそうに足を組んだ。ミルのトレンチコートが少し揺らいで、白磁のように美しい素肌が垣間見れる。
「とりあえず”合格”かしら」
「なんの?」
「キミを〈
虚を衝かれた感覚になって、テュランは目を見開いた。ヴァイオレットの真意は分からない。何かを企んだような彼女の表情が、一筋の疑心をかきたてる。
「どうして僕を?」
「キミが望んだのでしょ? キミは〈
「うん。でも……あなたが僕を〈
「ふふ」
彼女が笑う。
「年齢の割に頭が回るのね」
ヴァイオレットは、もう一度だけ足を組み直し、じっくりとテュランを見つめた。見つめられると追い込まれた気持ちになる。テュランは、腿に手を置いて背筋を伸ばすと、凛とした気配を無意識に醸し出した。
「身構えなくていいわ。私がキミを採用するメリットはちゃんとある」
「……?」
「キミは〈魔境の王〉だから」
話についていけない。嘘偽りの話をでっち上げているのだろう。
テュランは、彼女から目を逸らした。
「理解しなくていいわ。理解できなくて当然だから。神を覚知するには信じることから始めなければならないからね」
「??」
「——キミの夢は何かしら、テュラン」
質問を質問で返されて腹が立つ。テュランは眉間に皺を寄せて、再び彼女と目を合わせた。
「また話が変わってる……」
「答えなさい。さもなくば――」
「海が見たい。砂漠や氷の大地を——この目で見たい。それが僕の夢」
ミルを人質にされている間は、どう足掻いても会話の主導権は握れない。諦めて、素直に答えた。
だが……
「違うわね。それは真実の欲求ではない。キミは別の”何か”を求めてる」
「……決めつけてるの?」
「決めつけるわ」
「どうして?」
「大人の意見は偏見の塊だから」
あなたのどこが大人なんだ、と思わず反発しそうになる。彼女を信用してもいいのか未だに不明だ。ミルを殺そうとした、この一点においてテュランはヴァイオレットを容認できない。
「キミは自分の”術式”が何なのか、知りたいんじゃないの?」
「”術式”? ≪ママのいえ≫のこと?」
訝しげに訊き返す。
「≪ママのいえ≫……。この期に及んで”ママ”に拘るのね」
ヴァイオレットが馬鹿にしたようにカラカラと笑う。
「唖然失笑だわ。母親のことは忘れなさい。キミの足枷になる」
——なんで他人にそんなことを命令されなきゃいけないんだ。
テュランはしげしげとヴァイオレットを見つめた。凍えた怒りが、ひたひたと全身を浸すような気がした。冷たい憤怒に溺れそうになる。だがテュランはミルの立場を考慮して、その怒りを全力で腹底に押さえつけた。
「良い判断だわ。感情の抑制は魔力操作の向上に繋がる」
そんな彼の真意を把握しているのか、ヴァイオレットは目ざとく忠告した。心を見透かされたような気がする。テュランは俯いた。
「意地悪で言ってるわけじゃないの。人間が成長するためには、親離れが必要なのよ。これはキミに限ったことじゃないわ。みんなも同じよ。親から自立した時に大人になるの」
「つまり……大人になりなさいってこと?」
大人とは思えない格好の人間を鋭く睨みながら、テュランはきっぱりと顔を上げた。ヴァイオレットが軽く微笑む。
「物分かりが良くて助かるわ」
「そういうあなたこそ大人なの?」
「大人にも濃度があるの。”大人成分”の濃い大人はより大人に見えるし、逆に薄い大人は子供に見える。それだけのこと」
——じゃあ、この人の大人成分は薄いんだろうな。
テュランは呆れたようにため息を吐いた。
「どうして大人にならないといけないの? 僕が大人になることが、僕があなたを味方だと思っていい根拠に繋がるの?」
「テュラン、キミは大人と子供の違いが分かるかしら?」
「質問を質問で返さないでよ」
沸々と怒りが込み上げる。話を逸らさせて溜まったもんじゃない。テュランは両手を絞るように握り合わせた。
どうしてミルを殺そうとするのか。どうしてミルが嫌われるのか。先程までミルの頸部にフォークを突き刺した眼前の女を信用してもいいのか。
「分かったわ……。どうやら最近の子供は長話が苦手なのね。自然科学の発展の弊害かしら」
ヴァイオレットが呟く。
「大人と子供の違いは、親から独立したかどうかよ。そして独立する際に人間は、”とある一つの工程”を経るの。それが何かわかる?」
「…………?」
テュランは首を横に振った。
「人間は、自己が何者であるかを自分自身で定義するの。親から独立するには、『子供』という一つのアイデンティティに囚われるのではなく、別のアイデンティティを自ら生み出さなくてはならない」
「その話が——
「つまりね」
テュランの声を遮る。
彼女は話を続ける。
「キミは自分を知り、自分を定義しないといけないの。そしてね、自分を知るには自分の個性を自覚する必要があるの」
「僕の、個性?」
テュランが弱々しく首を傾げた。
「えぇ。キミの個性……すなわち、キミの術式よ」
「≪ママのいえ≫のこと?」
「違うわ――」
ヴァイオレットがテュランの愚門を一蹴りする。
彼はさらに眉を顰めた。
だが彼女は、水を得た魚のように明朗に語り始めた。
「キミの術式の名前は≪ママのいえ≫じゃないわ。≪
「……」
「≪
「……」
「私には信頼できる”鑑定士”がいるの。あらゆる魔術を鑑定し、原因を解明する。鑑定士の預言によれば、私は”魔境の王”として生まれた子供を導く運命があるらしいのよ」
「……」
「それが、キミなんだね」
魔境の王。
万物の誕生と同時に出現したとされる、究極の実体。
それは有るわけでもなく、無いわけでもない。
硬くもない、柔らかくもない。
長くもなく、短くもない。
動くわけでもなく、静かだというわけでもない。
見えるわけでもなく、見えないわけでもない。
魔王(魔境の王)は、全能を司る力を持っている。全次元の至るところに広がり、究極の実在として存在する。
その姿は、時と場合により変化する。
ある時は、豊作として。
ある時は、地震として。
ある時は、戦争として。
ある時は、人として——。
久遠の因果を経て、”魔境の王”は現世に舞い降りる。実態が何であるかは、その時代の性質が決定する。
「星の海が現世の時代、”魔境の王”は人間として生まれた。王は〈
ヴァイオレットは真剣な顔で言った。
「〈
〈魔術契約〉を交わすには、幾度の工程を経る必要がある。契約の成立条件も複雑で、術者の精神状態に大きく起因する。高度な魔力操作を要求される上に、契約を成立させるには、それなりの時間を費やさなければならない。
〈魔術契約〉は、自己が自己に対して結ぶ契約(この場合、現在の自分と未来の自分が該当者にあたる)と、自己と他者の間で結ぶ契約の二つに大別できる。両者共に契約上の制限が多く、〈魔術契約〉をマスターできた者は数少ない。あらゆる〈魔術〉の中でも扱いづらい分類なのだ。
だが、”魔境の王”の術式である〈
「私は鑑定士の”教え”に従い、赤色の目と銀色の髪を宿した少年を探し続けていた。預言によれば、”魔境の王”を私のもとへ導くのは〈
「……」
テュランは言葉を失い、二の句がつげない。
「キミは大いなる可能性を秘めているのよ。何者でもないということは、何者にも成りうるということ。キミが別のアイデンティティを獲得する前に、私がキミに”魔王”というアイデンティティを与えてみせるわ」
「ちょ……ちょっと待って」
混乱したままテュランが言う。
「ご、ごめんなさい……僕はあなたが何を言っているのか全然わからないんだ」
「理解の問題じゃないわ。納得する必要もない。信じるか信じないか——それが大事なのよ」
ヴァイオレットはきっぱりとした真摯な顔で、
「私は、キミを”魔境の王”だと信じてる。今の世界には”魔境の王”が必要なのよ。キミはキミが思う以上に大切な存在で、キミを求めてる人がたくさんいる。いや、誰しもがそういう可能性を孕んで生きているのよ」
彼女の言葉は、テュランにとって遠い異国の地のように思えた。現実離れしていて上手く想像できない。
「どうして僕なの。あなたが僕を王様だと思ってることを信用したとして、どうしてあなたは僕が王様だと思うの?」
「鑑定士の預言通りだからよ。キミは赤色の瞳を宿し、銀色の髪を伸ばしてるわ。それだけじゃない。〈
「思え……ないよ」
「いえ、思わなくていいわ。いずれ分かる時がくるのよ」
「本気で言ってるの?」
「えぇ。本気よ」
テュランはマジマジとヴァイオレットの顔を凝視した。ミルの首をフォークで刺したと思ったら、次は暗号のようなことを連呼し始めている。変な人だとは思っていたが、ここまで変だとは予想外だった。
——この人、イカれてるのかな。
「分かったよ――僕が”魔境の王”であるとして、僕は何をすればいいの?」
「〈
思った以上に回答がまともだったから驚いた。もっと奇想天外な要求をしてくると踏んでいたのに。
「力をつけて〈魔術〉を会得しなさい。キミが本当の力に目覚めた時、”魔境の王”としての使命も自覚するだろうね」
——付き合いきれないな。
テュランは立ち上がった。
言葉たくみに付け込もうとする人間をそう安々と信用するわけにはいかない。
人間の中身は、言葉ではなく行動に反映される。ヴァイオレットはミルを殺そうとした。ミルの首にフォークを刺した。そんな女の言葉をいちいち聞いてやる義理はない。
とりあえず敵意がないことは感じ取れたので、テュランは強気に出るのだった。
「大いに迷いなさい」
ヴァイオレットは、意外にも止めなかった。
視線を窓外に向けて、物思いにふけている。ちょっと寂しげに見えるのは彼女の演技によるものだろう。
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