第二章②

「少年ってさ、村から出たことないの?」

「ないよ……一度もない」

 旅路は温かい。優しい日差しが二人を照らしている。天気にも恵まれたようだ。

 ミルは御者台に座って馬を操っていた。テュランは荷台に乗って彼女の背を飽かずに眺めている。馬車に乗るのも初めてだったので好奇心が刺激された。紅梅色の目がきらきらと輝いている。

「どうして村から出なかったの? あんな村、捨てちまえば良かったのに」

「分かんない。でも……出ようとは思わなかった。強いて言えば、”ママ”がいたからかな……」

 しゅん、と肩を落として、テュランは小さな声でそう言った。

 感情を上手く処理できない彼は、自分がどうしてあの村にこだわるのか分かっていない。母親の亡骸を目撃した時に感じた生存欲求の欠乏を、テュランはしっかりと受け止められていないのだ。ただ、”空虚”だけが心に残った。あの時の胸の痛みが、ミルの質問によって芋づる式に発火しようとしている。

 べちゃり、と馬がぬかるんだ道を進む音だけが響いた。

「なんつぅーか……ごめんな……」

「どうしてミルが謝るの?」

 心の声が、言葉となって口から漏れでた。それは、二人とも同じであった。

 だからミルは、なにかを紛らわすように答えた。

「確かに! なんでうちが謝ってんだろ!?」

 ミルがフランクに笑う。テュランも馬車に夢中で、会話に神経を注いでいない。ミルは長い脚を折り畳んで胡坐をかいた。

「胡坐でもいいんだ……」

「駄目ってか?」

「行儀とか気にしないんだね、ミルは」

「気にしねぇーな。そんなモン、どーでもいいじゃん」

 そう言って尻尾を振り回すミルには、どこかケモノらしさがある。綺麗な顔を持ち、しなやかなへそを露出されている点において、彼女は紛うことなき人間の女性である。しかし、ミルは人間には持ち得ない不思議な魅力を持っている。ぷっくらとふくれた尻尾は、美しい毛並を重ね合わせた一種の花束のようであり、頭についた耳は愛らしさに富み、彼女の精巧な顔立ちに絶妙な柔和をにじませている。

 ——尻尾が揺れてる……。触りたいな。

 テュランはミルの尻尾に手を伸ばしてみた。

「あっ! これ、荷台に置いてくんね?」

 けれど手を出した瞬間、ミルが御者台から革袋を豪快に投げてきた。それはテュランの顔に当たり、鼻先に激痛が走った。

「い、痛いよ!」

「しっしっしー。少年、うちの尻尾に触ろうとしたでしょ?」

「気づいてたの?」

「〈獣人けものびと〉の察知能力をなめんなよぉ~エロガキ」

「——ッ!」

 ——昨日、尻尾で顔に意地悪したくせに……。

 渋々、鼻を押さえながらテュランはミルを睨んだ。眼を飛ばそうと威嚇する中、相変わらずミルの尻尾は勢いよく振られていた。ふさふさの毛は質が素晴らしいようで、ゆったりと風に揺られている。テュランは鼻を痛めて顔をしかめたが、ミルは全く悪びれていない。

「これ、なに?」

 突然渡された革袋を、汚れたハンカチのように指でつまんだ。かなりの重さがあり、持ち上げることはできない。

「気になんなら開けてみろ」

 ミルは特に気にする様子もなく、そう言ったのだった。見ても大丈夫なものなのだろう。だから、窓を覗き込むような気持ちで、口を縛る紐をテュランは解いた。中には男の首が入っていた。激臭がテュランの鼻腔を突き刺す。

「この人、誰?」

「人じゃねぇーよ。村を襲った〈吸血鬼ドラキュラ〉の首さ」

 ミルは平然とした態度で語るのであった。あれだけの大虐殺を目撃したテュランでさえ、唐突に首の入った革袋を渡されたら困るものである。だがミルは、意地悪を仕掛けたようなつもりは一切ないようで、まるでそれが常識であると言わんばかりの振る舞いであった。

「首を持ってきてどうするの?」

「証明すんだよ。死体っつうのは、うちが〈吸血鬼ドラキュラ〉を殺しましたっつう証拠になる。そうやって金を貰うのさ」

「色々大変なんだね」

「しっしっしー。覚えとけよ」

 なるほどな、とテュランは感心した。ただ、ドラキュラの首を金で交換してくれる人間がいるのか不思議に思った。

 ミルの言葉が、そんな彼の胸中に入り込む。

「〈守護者ガーディアン〉てのはそーゆー組織なんだ。バケモンを殺すことで生計を立ててんの。まぁ、物騒な仕事ではあるな」

「やめたい、とは思わないの?」

 ミルの話を鵜呑みにするなら、〈守護者ガーディアン〉という仕事はかなり危険であると思われる。怪物を殺すことで金を貰うなんて、普通の人間にはできないことだ。よほど自分の腕に自信がなければ続かないだろう。

 テュランがそんなことを危惧していると、ミルは楽しそうに笑ったのだった。

「やめたい、なんて一度も思ったことねぇーな。〈吸血鬼ドラキュラ〉を駆逐するために生きてるみたいなモンやし。うちから〈守護者ガーディアン〉を取ったらなーんも残んねぇーからな」

「……そういうもんなの?」

「そーゆーもんだよ」

 そういう考えはどうなんだろうか、とテュランは少し疑問に思った。

 彼は、ミルの背部を見つめた。その背中は陽の光を一身に浴びて輝いてはいるものの、所々に影が差していた。服のしわによるものだ。

「それに……〈守護者ガーディアン〉の中には少年みたいなもいるしな」

「僕みたいな人?」

「あぁ。”ヴィオレット”っつうババアなんだけど、そいつのお陰で〈守護者ガーディアン〉になれたんだ。〈獣人けものびと〉ってのはフツーなら〈守護者ガーディアン〉にもなれねぇーからな。”おエライさん”に好かれてラッキーだったぜ」

「偉い人……」

「街についたら少年にも会わせるよ」

 ミルは嬉しそうに笑った。爽やかな尻尾は慌ただしく動いているので、機嫌は良いのだろう。

 ——よっぽど好きなんだろうな……。

 彼女の新しい一面が見られた気がして、彼の心は弾んだ。あらゆるものが新鮮に映るこの時において、それでもなお、一番輝いて見えたのはやっぱりミルだった。

 村の者が死んだ今、ミルだけが、テュランとこの世界を繋ぐ唯一の存在なのだから。

「ずいぶん遠くまで来たね」

「そーだな。もしかして……寂しい?」

「———ううん」

 静かに声を濁した。口を開くことはぜず、山の景色を眺めた。

 想像以上に馬車は速い。坂を登ると、山林の生い茂った道に入った。ずっと山の中を走っている。視界は樹林に遮られて、鹿や熊が姿を現し始めた。汗をかいていた手は徐々に乾くようになり、涼しい森の微風が頬を撫でた。

 山道は、どんどんと険しくなった。かなり揺られている。もう歩いては戻れないところまで来てしまったようだ。テュランは荷台の端に乗り出して、野趣を一望した。すると山道の奥に、大きな穴が見えてきた。

「あれはなに?」

「トンネルだよ。すこし長いけどくぐるよ」

 トンネルの中はひどく寒かった。ひんやりとした風が両腕を凍えさせる。

 テュランは御者台に移ると、ミルの隣に腰かけた。トンネルの闇が不気味に思えて、少し心細かったのだ。暗闇が続き、陽光は徐々に薄れていった。冷たい風と、キャンバスを塗りつぶすような彩度のない景色が永遠と続いている。

「トンネルを出たら湖が見られるよ」

「湖?」

「見たことないん?」

「ない……」

「そか。じゃあ、楽しみだなァ!」

 ミルの無邪気な声が、怯えたテュランの背中を押してくれる。もしかしたら励まそうとしたのかもしれない。

 ——湖……。どんな感じなんだろ。

 テュランは、暗闇の中で湖を想像する。湖は青い。青いはずだ。空の色が水面に反射して、海のような景色を内陸に映し出す。無論、湖の存在は図鑑で認知している。海、砂漠、氷の大地……まだ見ぬ大自然を列挙した大図鑑。図鑑は、湖も紹介していた。

「ミル、湖ってどんな感じなの……?」

「ひみつ」

 ミルはそれっきり黙ってしまった。彼女は体勢を変えて、テュランを膝上に乗せた。暗路を歩く中、二人は互いに抱き合うような形で御者台に座っているのだ。背中に彼女の体温や温もりを感じる。尻尾の揺れる音が聞こえてくる。

 ミルは彼の耳元に唇を寄せた。対輪に温かい吐息を感じた。

「みずうみ、楽しみだね」

 ――みずうみ。

 甘い私語が胸を打つ。唾を飲む。瞬きをする。じんわりと流れるようなミルの体温が彼の背中を包んでいく。軽く頷いた。熱気に赤らんだ頬に、しょっぱい汗が付着した。

 カタ、カタ、と馬の足音が鳴る。

 ミルの両手はさらりと動いて、テュランの目を覆い隠した。

「ミル……?」

 掠れた声で呼ぶ。視界に手の輪郭を捉えて、テュランは身を捩った。ミルの吐息が頭を流れる。頭頂部がじんわりと温まる。やがて瞼の奥が虹色に染まった。真っ暗だった世界に色鮮やかな光が差し込んでくる。

「さぁ少年、目を開けてみなさいな」

 ミルの手が離れていくのを感じて、温かい風が頬を横切っていって、まろやかな声が耳元で囁かれた。テュランは力んだ瞼を脱力した。そして目を開けた。

 その瞬間、テュランは思った。

 ——きっと僕は、生涯この景色を忘れることはないんだろうな。

 出会いは、別れの始まりである。出会うからこそ、別れが生じるのだ。その意味を、テュランはすぐに理解した。湖を一望した時、既に彼は、この湖と別れる未来を想像した。そしてその未来を受け入れたいが為に、彼は湖への忘却を脳内から捨て去ろうとしたのである。その一連の思考回路をまとめて出力された感情が「忘れたくない」であり、それを発展させたのが「忘れることはない」だった。

「あぁ」

 長いトンネルを抜けた先は断崖絶壁であった。眼下には深淵の碧が広がっている。名勝から眺める景色はさながら名画のようで、新緑に囲まれた碧はサファイヤを混ぜ合わせていた。自然の彩りを全て溶かしたような世界だった。

「うみ……みずうみ…………」

 正真正銘、それは湖である。

 夢を見てるような気分だった。流れ込んでくる美観が心をほぐして、テュランは「え」も言えない。表面に銀の光彩が迸り、澄み渡った山とともに空の下を横たわる。衝撃的な画だった。水鏡は空の様子を呈しているのに、空とは似て非なる光を放っていた。その美しさに彼は惚れた。ただただ惚れた。惚れるしかなかった。

 そんなテュランの両肩を、ミルは優しく揉み始めた。彼女は明朗に話し出す。

「どうよ。きれいっしょ?」

「うん! すごい! すごいや!」

「だろぉ?」

「ミル、みずうみだよッ!」

 テュランは御者台から乗り出すような姿勢で湖畔を眺めた。ミルは、彼が馬車から落下しないように背後から手を施してやった。

「すっげ…………あお、だ」

「空を反射してんだろーねぇー。きれー」

「そっか」

 軽く手を伸ばせば届くような気がする。夢を見てるようだ。望郷の思いなど忘れてしまうほどに。

「少年!」

 切れ味の良い声がする。振り向くと、桃色の目の中にテュランが映っていた。彼は間抜けな顔をしていた。目を見開いて、口もぽかんと開いていて、興奮冷めやらぬ様子であった。ミルは、そんな彼の顔を見て意地悪な笑みを浮かべた。

「しょーねん、元気になったかなー?」

「…………ッ?」

「すこーし遠回りしちまったから、ぺースを速めよう思っとる。いーよな?」

 ぐっと両頬を挟まれて、テュランは鈍い返事をした。

 すると、ふいに馬車が進行方向を変えて、再びトンネルの方へ歩き出した。どうやら湖を見るためだけに、わざわざトンネルをくぐってきたらしい。

 ——まさか、僕を励ますためにここへ?

 ミルは背後から手を回し、テュランが御者台から落ちないように工夫を施す。ミルと一緒に座りながら、テュランは軽やかな鼓動を胸に感じていた。

 


 

 

 

 

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