第一章
戦争は、この世で最も残酷である。
戦争は、悲劇しか残さない。
だが、その戦争はいまだ、終わりを見せていない。
愚かな王に導かれた民衆もまた、たいへん愚かである。
この世のどこかで起きる戦争は、山奥の辺境の村にまで腐敗の影響を及ぼす。
いつ”神の軍勢”が侵略してきてもおかしくないという緊迫した空気が、人々の胸を締めつけていた。
時刻は夜――。
山奥の村が今、珍しく騒がしい。
高床倉庫の、忌々しい門の外側に、先ほどから数名の人影が立ち尽くしており、何やら耳もとで会話をしている。周囲には、月明かりに照らされた黄金色の麦畑があった。ひんやりとした風が、集落の中をそよぎ始めている。
その時、高床倉庫の門が開いて、一人の、やせ細った少年が、手錠を付けられながら出てきた。鉄製の、頑丈な手錠である。
すると、門の外で待機していた人影の中から、ねずみ色の衣服を纏った男が現れた。
騎士である。
その騎士は、手錠の鎖を掴んだ。騎士に連れられ、少年は歩き始めた。
「ついに……今日を迎えたな……」
「ようやく”災いの元凶”が消えてくれる……子供の神隠しも治まるだろう」
「テュランが産まれてここ九年。ようやく凶作が終わるのか……これで〈
村人のやり取りが聞こえる。
彼らの突き刺すような視線を浴びながら、村の忌み子、
集落は田んぼに囲まれているため、視界が良い。遠くまで見通すことができ、視界の奥には大きな断頭台が視認できる。これから、あの断頭台に置かれる首が、死刑執行人の斬撃によって切断されるのである。
テュランの死刑が決定したのは、ちょうど半月前であった。彼の処刑に反対した者は誰もいなかった。テュランの肉親でさ、それを拒めなかった。唯一、この村の守護を任された騎士だけが、テュランの処刑について異議を唱えていたが、彼はいまだ下級騎士であり、地主の権力には逆らえなかった。皮肉にも、その騎士こそがテュランの死刑執行人となった。
そういうわけでテュランは、もはや諦めたような気持ちで断頭台へと向かっていたのだが、不意に足が止まった。
視界の端に、あの人を見つけたから――。
「…………ママ」
「———――」
「……ママ」
「———――」
会話にならず、テュランの掠れた声は虚空に沈む。母は、無表情で無言を貫くだけだった。冷え込んだ空気が、集落を流れるだけであった。
テュランは、布一枚の、破れかけの服を纏っている。足を止めた彼を、騎士が強く引っ張った時、風が服を払った。瞬間、肉を削ぎ落したような胴体が現れた。あばら骨が、か細い棒のように浮き出ていたのだ。
石のようだった母は、それを見て、はっと胸を突かれ、視線を揺らした。
「……止まるな」
騎士の声で、再び歩き出す。
夜に浮かぶ月の光彩だけが、等しく彼らの頭上を照らしていた。
断頭台に着く頃には、集落の喧騒はさらに増していた。断頭台のくぼみに首が固定されると、騎士は鞘から剣を抜いた。
眼前に広がるのは、集落と村人と、そして麦畑である。この村の麦畑は結構な収穫高を誇っており、村人もそこそこ裕福であった。しかし、極めて閉鎖的だったため、世間との関わりは乏しく、村独自の価値観や慣習が根付いていた。
テュラン・ソルラリートは、悪習の犠牲者だ。
ゆえに、この村の外来種であった騎士は、テュランの死刑に違和感を覚えていた。だが残念なことに、村を管理しているパッツッオ伯爵が近隣に名のつくほどの変わり者で、テュランの死刑に賛成したので、結局彼の死は免れなかった。
「貴様……」
騎士が声を掛けた。彼の金髪が、静かに風に揺れている。
「最後に、言い残すことはあるか……」
「…………ママに、わたしてほしいものがあります」
「うむ。渡して欲しいものとは」
「倉庫で見つけた……きれいな麦です」
麦を保存する高床倉庫は、テュランの監禁場所としても利用されていた。テュランの寝床には常に黄金色の麦があったのだ。
「いいだろう。だが、その麦はどこにある」
「ここにはありません……」
「ん? どうしろと」
若い騎士は、眉根にしわを寄せた。テュランは顔色を変えずに淡々と続けた。
「”家”を、使わせてください」
「…………貴様、なにを言ってるのか理解してるのか」
騎士の口調が厳しくなった。それでもなお、テュランの態度に変わりはない。
「使ってはいけないのですか?」
「そうだ……”家”というのは、貴様の〈魔法〉によるものだろ」
「まほう? ”のろい”ではないのですか?」
テュランが問うと、騎士は訝しげに目を細めた。ところがすぐに解を見出したのか、彼は納得したように頷いた。
「———―そうか。この村では”呪い”と呼んでいるのか。〈魔法〉……いや〈魔術〉に”呪い”という蔑称を与えるなんて。この村も腐敗してるな……世間知らずめ」
「…………」
「悪く思うなよ。俺は騎士だ。善人じゃない。恨むなら、こんな村に生まれた自分の不運を嘆くんだな。あぁ、きっとそれが良い」
騎士は腐ったような表情で言った。何かを諦めたような、諦念のようなものを抱える人間だけが浮かべる顔だった。
テュランには騎士の思惑が理解できなかった。もちろん、発言の意図も分からなかった。
二人がのんびり会話を交えていると、やがて村人たちが騒ぎ始めた。
「おい。早くその”悪魔”を斬首しないのか」
「俺たちはこの時を待ちわびていたのだぞ!」
「早く殺せ。急がねば、そいつの”呪い”にかかるぞ!」
彼らは、口々に罵倒した。
やはりテュランに味方はいなかった。テュランは、今年で九歳になる少年だ。三歳の時、”呪い”を発症し、それ以来、忌避されてきた。テュランの決死の訴えは不発に終わり、彼の人権が復活することは今までなかった。
テュランには、夢があった。いつかの図鑑で見た、砂の平野や氷の大地に行きたいという夢だ。しかし、それは叶わないだろう。その直道には幾多の苦境が立ちはだかっていて、とても一人では乗り越えられない。自分の無害性を叫んでも、陰湿な村人の心が変わることはないのだ。一生、この村から出られない。殺される。やがて彼は、己の宿命を受け入れた。「自分は誰にも理解されない」という達観した精神が、胸中を埋め尽くしたのである。
——違う場所に生まれていたら、違う僕だったのかな……。
心の中で呟きながら、テュランはため息を吐いた。目を閉じて、覚悟を決める。その覚悟を感じ取ったのか、騎士も構えの姿勢を取った。斬首の構えである。
斬首刑は、一振りで終わらない。何度も刃を首に通すことによって、ようやく死刑囚は絶命する。そのさまは、まさに地獄絵図である。
「さらばだ……」
執行人の冷徹な別れの言葉――。
月光を反射したのは、骨を絶つ必殺の
洗練された一撃が、テュランに迫る……はずだった。
しかし、テュランの首に剣が届くことはなかった。
彼は、見たのだ。
夜空から墜ちてくる、黒く光る巨大生物の姿を——。
それは、二階建ての家処よりも頭一つ高い。蜥蜴のような痩身は粒子状物質で構成されており、黒い光に覆われている。輪郭も不安定で、目鼻立ちもはっきりしていない。口らしき部分はあるが、ただののっぺらぼうに見える。
———なに……アレ。
開幕宣言でもするように、怪物は尻尾をゆらゆらと上げて、鞭のように振り下ろした。茅葺屋根の建物を粉々に潰し、尻尾を振る。木々の破片が四方に散らばり、轟音とともに村人に降り注ぐ。
「———ッ!」
突然の襲撃に、誰もが理性を失った。
気づけばテュランは、集落のはずれに吹き飛ばされていた。手錠は、いつの間にか壊れている。眼前に広がる地獄を、信じられない思いで眺めている。
「…………」
その怪物は、全長九メートルにまで及んだ。黒い粒の波濤が押し寄せて、たくさんの建物が破壊された。粒の波を目前にした人々の目に飛び込んできたものは、人間の叡智が創り出したあらゆるものの残骸と、自分たちの家族が無惨にも殺されるさまだった。
その時、騎士が叫んだ。
「〈
憤怒の顔を浮かべながら、騎士は狂ったように喚いた。剣を掴み、怪物に向かって勇猛果敢に斬りかかる。縦横無尽に駆け回る銀色の人影。目が追い付かないほど速い。銀の矮小な光は、村を破壊する怪物の尻尾や腕を回避しながら、巧みに斬撃を食らわせた。怪物の身体はまるで液体のようで、安々と刃が通る。
一見すると、騎士が優勢に見える。
だが、この戦いは呆気なく幕を閉じることとなる。
怪物の粒子から赤い光が染み出ていた。エネルギー反応みたいなものだろうか。尻尾の末端から背部にかけて段々と赤い光は伝っていき——やがて口の中へ。太陽のように明るい光輝を放ち、騎士を含め、その場にいた全員が目を眩ませた。
これが、騎士の最期だった……。
——ま、まぶしい。
口の中で蠢く赤い光は、力を吸収するように体内で縮こまると、「え」も言わさぬスピードで発射された。一直線に、光線のごとく、騎士へ向かって。
紅蓮の炎が、甲冑を焼き尽くす。火炙りにされた騎士は、声にならない悲鳴を上げた。剣を落とす。その隙を怪物が見逃すはずがなく、鉤爪で首を斬り落とした。
誰もが”死”を覚悟した。騎士がやられて、助からないと思った。
テュランもその一人だった。
——ママ。
腰が抜ける。足に力が入らない。だが怪物の魔の手は、テュランに迫りくる。
「——――!」
しかしその寸前で——。
空気が変わった。
華奢な人影が間合いに飛び込んできて、火花が頬を掠った。
「逃げろ! 少年!」
よく通る誰かの声が、強く響き渡る。何事かと、テュランは目を見開いた。
現れたのは、一人の少女だった。
銀色のハルバート。
その少女が、自身のハルバートで怪物の攻撃を往なしたのだった。その際に生じた火花が、周囲に拡散した。
「…………」
「なにをしてる。はよ逃げなァ!」
激越な怒号を浴びて、弾かれるように飛び上がった。今は逃げる時だ。戸惑う余裕はない。少女に背を向けて、テュランは走り出した。麦畑に飛び込み、なるべく遠くを目指す。足を止めてはならない。
後ろの方で、火災旋風が舞っている。先ほどテュランがいた場所だ。
——あの人は、大丈夫かな……。誰だったんだろ……。
突如として現れた、謎の少女。見覚えはない。村の者ではないのだろうか。加えて、あの怪物はなんだろうか。テュランの中で疑問が反芻する。
だが、考えても埒が開かない。テュランは、逃亡に専念した。
——早く……逃げなきゃ……。
集落の内部は、薄らと把握している。
麦畑を超えた先に、テュランの監禁場所である高床倉庫が建っている。ここを抜けたら、家屋で休息を取ろうとテュランは思った。
——ママは、無事かな……。
ふと、母親の存在が脳裏を駆ける。愚母といえど、母は一人しかいない。唯一の母親なのである。息子の処刑を見過ごした無慈悲な女を、案ずる義理はない。だが、それでもなお、九歳のテュランは母親を諦めきれなかった。母親への執着を、捨てきれないのである。
「———!」
考えにふけっていて、道に転がる石に気づかなかった。石に足が絡まり、体勢を崩し、転倒した。頬と肘に傷ができる。起き上がり、服についた土を払う。膝にも擦り傷ができていた。体が錆びれたように痛い。
——たしか、こっちに……。
おぼろげな記憶を頼りにして、激痛を伴いながら徒歩を再開する。月明かりに照らされた麦畑は、混濁した光と混ざり合っており、とても鮮やかであった。虫の声が、聴こえる。
麦畑を抜けると、高床倉庫が見えてきた。茅葺屋根が特徴的な、木材を応用した建築物である。
ふと視線を下げると、
その中にひとり、際立って酷い女がいた。赤黒い水溜りにひっそりと浮かび、四肢が異常に歪んでいる。腹部に至っては大きな刀傷が走っており、臓器がはみ出ていた。
テュランは、その死体に吸い寄せられるように足を進めた。
——ママ……。
艶のない長髪は、鮮血によって綺麗に洗われている。光を失った瞳は、磨りガラスようになっていく。どんどんと広がる血溜まりは留まることを知らず、彼女の質素な布服は、
凄惨な死体である。
それらを眺めながら、捌かれた魚の
「ママ」
反応は、ない。
微風が、テュランの銀髪を揺らすだけだ。
「…………」
テュランは、右手を遺体に翳した。細くて、柔らかい、握れば砕けそうなぐらい小さな手だ。そして深呼吸し、小さく呟いた。
「—————―――≪ママのいえ≫」
詠唱直後、淡い光を放って、手のひらに一束の麦が現れた。
黄金色の麦である。
この麦は、処刑前、テュランが騎士に「渡して欲しい」と頼んだものだ。できることなら、生きている間に渡したかった。
テュランは、麦を母親の手中に収めた。そのさまはまるで絵画のようで、麦を伴った遺体は、彼の脳裏に強く焼きついた。
しかし、テュランには何も残らない。むしろ、様々な概念を嵐のように吹き飛ばしていった。彼の心に残留したのは、空虚だけだった。寂しさだけが余計に募っていく。
——処刑台に、戻ろうかな……。
ここに来るまでの間、テュランは目的もなく走っていた。だが、今振り返ってみると、彼は母親に逢いたい一心で逃げていたのかもしれない。その母親が死んだことで、テュランは生きる意味をなくしたのだ。
だから、怪物のいるところへ戻ろうと思った。
死ぬために――。
ところが、その足は動かなかった。
「……」
生存者が、いたからだ。
「キミも、〈魔術〉つかえんの」
それは、水のように透き通った声だった。テュランは、幻覚や幻聴の類いかと思って、頭を振りながら目を擦ってみた。しかし、その美しそうな顔立ちの娘は一向に消えやしなかった。テュランは、眼前の娘が実物だと悟った。
「まじゅ……?」
「……ん? 知らんのか」
眉をゆそめた。テュランは首を振った。
彼女の姿は、高床倉庫の影に隠れて見えない。ただ、美人っぽい雰囲気がある。
「その麦だ……急に現れたように見えたんだが」
「うん……そう、だけど……」
影に身を隠す娘に向かって、テュランは歯切れの悪い返事をする。
——この人は、誰なんだろう……。
喋り方が独特だったので、村の者とは思えない。それだけで怪しい。なにより、≪ママのいえ≫を見られてしまった。村人から忌み嫌われる原因となった、≪ママのいえ≫を。
娘は、陰に隠れたまま言葉を続けた。
「言葉を唱えると、信じられないようなことが起きるだろ。そうだろ?」
「う、……」
一切の迷いを削ぎ落したような話し方だった。その聡明さが、テュランを呑み込んでいく。暫しの
「……モノを消したり、消したモノを出したりできる」
「そうか……それは、いい……ふふ」
物陰に隠れて表情は視認できないが、おそらく娘は微笑んでいる。彼女の返事が、少年の心をくすぐるような甘い声だったから。影に隠れているものの、そのシルエットが醸しだす包容力と色気は計り知れない。
「〈魔術〉ってんだわ、そいつ」
「……まじゅつ? ”のろい”……じゃないの?」
「呪いなんかじゃねぇーよ。〈魔術〉だ。〈魔法〉なんて呼ぶ輩もいるけどな」
——まじゅつ、まほう……。騎士にも似たようなことを言われたっけ……。
テュランは、断頭台で騎士と交わした言葉を想起した。
「まじゅつ、ってなに?」
「〈魔術〉ってのは、不思議なモンだ。呪文を唱えると、体がぼぉーと発熱して、みんなにはできないようなことができるようになる……」
「それ、たぶん僕だ」
「だろぉ?」
娘は笑った。邪気のない、可愛らしい声だった。
テュランの頬が、ほのかに赤くなる。どうして赤くなるのか、本人も分からない。
「そんで……キミいくつ?」
「九歳。最近、九歳になった」
「そうか……! 奇遇だな……うちも
娘の声が弾けるように高くなった。シルエットが軽やかに動いている。
「もしかして……僕も村を出ないといけないの?」
「まぁ、そうなるな。お前を除いて全員死んどった。キミは運がいいのう」
「———――」
「…………みんなが死んで悲しくないのか?」
「…………分かんないんだ……」
小さな声で、自信なさげに返事した。テュランは、同郷の者が死んでも、なにも感じないし、憂いなどない。それが、一般的に考えて残酷なことであると理解している。だからこそ、テュランは自分の精神状態に胸を張れなかった。
しかし娘は、思いもよらぬ言葉をかけた。
「まぁ……色々とあるからな。〈魔術〉をあやつる奴が、村でどんな扱いを受けるのか……うちもたまーに見とったことがあるわ。あれは酷い。無知は闇だ」
「…………」
テュランの瞼があがる。
「僕を、責めないの?」
「責めるもなにも、お前は被害者っだつぅーの。悪いのはバカな村人と〈
心が、少しばかり温かくなる。≪ママのいえ≫を肯定されたことも含め、テュランは名状しがたい親近感のような感情をこの娘に抱きはじめていた。
「僕は、これからどうすればいいの?」
「んーー。それはお前の答えによって変わるだろーな。キミは何がしたいの? 夢とかねぇーの? まぁ、突然訊かれても困ると思うけど……」
「…………」
テュランは思索に耽る。
やりたいことなど、今まで本気で考えたことがなかった。仮にあったとしても、それが成就する確率は天文学的な数値に等しい。
だから、脳が夢に対して鈍くなっている。
——僕の、やりたいこと……。
その思考は、普段使っていない筋肉を使うような行為だった。
風が吹き、テュランの銀髪が揺れる。紅梅色の瞳が、じっと地面を見つめている。
やがて、彼の口が開いた。
「砂漠、に行きたい……」
「砂漠?」
「あと海も見てみたい。氷の大地とかも……オーロラも見たいな。どんな感じか知りたい……」
テュランは夜空に目を向けると、ほのかに口角を上げた。その瞳は、希望に輝く少年の目であった。子供らしい顔であった。
「いいな! 少年」
「少年?」
凛とした声が耳に届く。笑顔を滲ませながら、娘は言った。
「少年の〈魔術〉は”格納”だろ? きっと重宝されるな。安心しろ」
「”かくのう”? モノをしまったり取り出したりするってこと?」
「あぁ。少年の〈魔術〉は便利だ。運が良ければ貴族に可愛がってもらえるかもしれん」
「…………嫌われない?」
「大丈夫だろぉ。少年の〈魔術〉を嫌うやつなんていねぇーさ。〈魔術〉を扱う者は他にもいるからな。村八分にされることもねぇー」
「そうなの?」
「もちろん。能力は個々によって違うが……まぁ、少年の場合は平気だろ。その〈魔術〉でどーんっと金稼げば行けるぞ、砂漠! 世界一周旅行も夢じゃねぇーかもな」
娘の明るい声が、家屋の影から届く。彼にとって、外の世界は未知の象徴だ。騎士の剣よりも怖い。けれど、存外そうでないのかもしれない。
「てなわけで、お前は山を下りて街に出るんだな。誰かの世話になってもらいな」
爽やかな声だ。なんの気無しにテュランは頷いた。流れたような動作をやり過ごして、ふと疑問が残る。
「あなたは……あなたはどうするの?」
テュランにそう言われて、娘は、虚を衝かれたように視線を揺らした。高床倉庫の影に隠れながら、困ったような顔をする。テュランには見えていない。
「うちは、仕事があるからのう……」
「仕事?」
「あぁ。〈
「うん……よく分かんないけど、なんかすごそう」
テュランが褒めると、娘は得意げに笑った
その笑顔につられて、彼は一世一代の提案を持ちかけた。
「……僕、お姉さんと一緒に付いてきちゃ駄目かな?」
テュランは、ずっと村の者に存在を否定されてきた。≪ママのいえ≫という〈魔術〉を使えるがゆえに。
来る日も来る日も他者から罵倒を浴びせられて、あらゆる神経が麻痺してしまった。
悪口を言われないほうが不思議だと思った。
いつ死んでもいいと思った。
未来のことなんて何も考えてこなかった。
だから突然現れたその娘の言動が、太陽のように輝いてみえた。
この人と一緒にいたいと思った。
「…………」
テュランにそう言われてから、娘はしばらく黙った
「あちゃー。うちも罪な女だなー。子供のオスに好かれちまうとは……」
「———どうなの? 駄目なの?」
テュランは半ば怒ったように繰り返した。馬鹿にされたような気がして、更に頬が赤くなる。無論、娘は彼の気持ちを理解している。その上で、冗談交じりに返答することをやめられない。
「まぁまぁそう焦らずに。焦ってるようなオトコはモテないぞ」
「————ッ!」
「クククッ……しっしっしーー」
テュランにとって、この娘は命の恩人であり、唯一認めてくれた人である。これから一人で生きていく彼にとって、そういう存在は必要不可欠だ。
だが、娘の態度にテュランはますます顔を歪めた。さすがに我慢できなかったのだろう。
「もういい! お姉さんとはゼッコーだ!」
「まぁ待てよ少年。お前とうちじゃ、どうせ上手くいかないさ。これはお前の為を思って言ってんだぞ」
「…………どういうこと?」
「詳しいことは言えねぇーよ。けどな、とにかくうちらはここで別れた方が良い。少年にとって、それが一番いいんだよ」
相手を諭すように語る娘の口調から、妙な説得力を感じる。丸め込まれているような気がして、余計にテュランの気に障った。
「分かったよ……もう、いい……」
どう足掻いても軽く流されるだけだと思ったテュランは、娘の説得を諦めた。彼の瞳から輝きが消える。再び、あのなにもかも達観したような表情に戻っていった。
「あぁーもう」
その顔は、刺さる人には刺さる。
「んな顔されたら誰だって放っておけねぇーよ」
「……!」
紅梅色の目が見開かれる。
「うちの負けだ。ったく……少年の好きにしな」
「それって……お姉さんと一緒に―――」
「だが待て。条件がある」
「条件?」
水を差されたような気がしたので、テュランは無意識に眉をひそめた。
「条件って?」
「それは言えねぇーな。端から答えが分かってたらつまらんだろぉ」
「じゃあどうすればいいんだよ?」
「しししー。焦ることなかれ。少年はただ、うちの醜悪な姿を見ていればいいんだ」
娘はそう言うと、今まで倉庫の影に隠していた自分の姿を月光のもとへ晒しだした。
それを見て、思わず言葉を失ってしまう。なぜなら娘の体は、人間のものとは明らかに異なっていたからだ。
ダークグレーのトレンチコートにはフードが付いている。毛皮を折り合わせたズボンは妙に軽やかで、両足を保護するスニーカーはなめし革を採用した逸品ものだ。
右手に持つ銀色のハルバートは頭頂部から足先までの長さを誇り、その剣先には赤色の液体が付着している。数多の生物を葬った、殺戮の証である。末端には、ルビーのような色をした〈魔石〉が埋め込まれていて、この〈魔石〉により、あらゆる〈魔術〉を発動することができる。
白色の長髪は、新緑に降り注ぐ滝の水飛沫のように眩しい。コートの隙間から覗かせるくびれは美しい曲線を抱き、なんと、へそ辺りを露出させている。その蠱惑的な素肌と肉体曲線は、今はまだ眠る少年の本能にそっと接触する。
そして極めつきは……
「——みみ?」
頭についた狐のような耳と、腰に生えた尻尾である。月明かりに照らされたグレーの毛は絹のように滑らかで、宙を泳ぐみたいに風に揺られている。
その全てが、芸術作品のようであった。
あまりの可愛さに声が出ない。
「…………お姉さん」
「お姉さんやない。うちの名は〈
ミルは誇らしげにそう言って、腰に左手をかけた。将軍のような雰囲気を纏うミルの姿を見て、テュランはぱぁぁっと口を開けて目を輝かせた。
——ミル。ミルさん。ミルちゃん。いい名前だな……。
ミルは、テュランにとって生まれて初めて出会うタイプの人種だった。ハルバートを片手に持ち、獣の耳と尻尾を生やす人間など普通は見かけない。世界のあらゆる神秘的な事象を組み合わせたような、未知を象徴するかのような存在が、そこにいる。
「ミル……。いい名前だね」
「だろぉ? おじいちゃんが付けてくれた名前なんだ。気に入ってるさ。うちに似合ってる」
ミルは、人差し指で鼻を擦った。それを見て不覚にも笑ってしまったが、テュランは気になることがあったので自慢顔のミルに言葉を向けた。
「ケモノ人ってのは……?」
「〈獣人〉っつうのは、そのまんまの意味よ。人間と獣のハイブリットってことさ」
にこりと笑いながらそう言うので、テュランはいつの間にか納得しそうになった。ミルに、吞まれそうになる。
しかしミルは「まぁさすがに説明不足かー」と呑気に笑うと、後ろを向いて尻尾を見せた。尻尾は、元気よく踊っている。
「ほぉーれ、よく見るんだな。この尻尾と耳を見ても分かるとおり、うちはただの人間じゃぁない。〈獣人〉だけが暮らす伝説の村、アブロフ村の唯一の生き残りなんだぁ。吠えれば幾千ものケモノが怯え逃げ去り、他の〈獣人〉もみーんなうちの尻尾の虜だった。みんながうちを褒め崇めてたんだ。すごいだろぉ?」
ふん、と得意げに語ったミルは、自慢の尻尾でテュランの顔を擦った。煽られている気がして、テュランは「やめて!」としかめっ面をしたが、どうやら満更でもないようだ。
——ケモノ人。初めて聞いた言葉だ……。
情報を整理するため、テュランは胸中で呟きながら、もう一度ミルを見た。対するミルは、相変わらず尻尾を使ってテュランに意地悪をしている。
とても可愛い。少しでも油断すれば頬が蕩けてしまいそうだ。
そんなことを思いながらも、テュランは己の問題を忘れていなかった。ミルに付いてきていいのか否か。それこそが問題だった。
「ミル、結局僕はミルと一緒に行っちゃ駄目なの?」
テュランがそう言うと、ミルは少しの間ぽかんとしてから、テュランと向き合うような姿勢を取った。ミルはテュランよりも背が高いので、ちょうど見下ろすような構図となった。まるでなにかを審査するような趣でテュランを見つめ、そして呆れたような口調で言葉を発した。
「まぁ……”合格”かなぁ」
「えっ……!」
ミルの言葉にテュランは笑顔を咲かせた。
「しかしまぁ……あんたも”モノズキ”だね。〈獣人〉と一緒に居たいなんて、普通の人間は言わんよ」
「そうなの?」
「そういうもんだよ。うち、嫌われてるから」
「変だね。こんなにきれいな尻尾なのに」
「———――……だよなァ」
一瞬ミルは桃色の目を大きく見開き、それからすぐ、顔を赤くしながら腑抜けたニヤケ顔を浮かべた。尻尾が、先ほどよりもせわしなく動いている。
その様子がとても愛らしくて、自然のうちにテュランの頬が赤くなる。
「どうして嫌われてるの?」
何気なく訊いてみた。
こんな自分を助けてくれるほど優しくて、チャーミングな尻尾や耳も持っている。そんな存在が、なぜ嫌われているのか。単純に疑問だったのだ。
「んまぁ……色々あんだよ。ブンカとかシューキョーとか、うちらじゃどうにもならないようなバカデカい事情がな」
「……?」
ミルは怒ったような、それでいて泣きそうな顔で、地面を見つめた。
「少年、あんたも気をつけたほうが良いよ。うちと一緒にいるってことは、うちと同じ扱いを他人からされるってことだ。なぁ少年、その意味が分かるか?」
「……なんとなく、分かる」
「ほんとかよ。怪しーな」
ミルは呆れたようにそう言って、テュランの頭を撫でた。子供扱いされたように感じて、テュランはほんの少しだけ不機嫌になったけど、それ以上にミルの笑顔にどことなく強い感情を感じたのでそれを我慢したのだった。
ミルは、微笑を保ちながら話を続ける。
「少年……こんなうちで本当にいいのか? うちは普通の人間じゃないんだ。一緒にいない方がいい。絶対に、それがいいんだ。お前は村の人間だから〈
もはやミルの顔から笑顔は消えていた。語気荒く語るのは、よほど腹を据えているからだろう。ミルの言葉は止まることなく、勢いそのままに発せられた。
「うちは……うちはアブロフ村の最後の〈獣人〉だ。うちの仲間を
テュランは、ミルの憤怒の理由に見当がついた。
”同じ”だったのだ。自分と、ミルの抱える悩みが。
——ぼくを”人”だと思って接してくれなかった。おそらくミルも……同じだったんじゃないか……?
だからテュランは、余計にミルの傍にいたいと思った。
「……でも、やっぱり僕は……ミルと一緒にいたい。僕にはもうミルしかいないんだ……」
「っつうーのはちげぇーだろ」
「違くないよ。だって皆死んじゃったんだから」
「まぁそうだけど……」
反論の余地がないので、ミルは言葉に詰まってしまった。憤りを感じて、荒々しく頭皮を掻く。ミルは半ば諦めたようにため息を吐き、それからじっとテュランを見つめた。
見つめられると、つい不安になってしまう。テュランは眉を上げて気持ちを示した。戸惑う彼の顔を見て、再びミルの表情に笑顔が戻る。ミルは、笑みを浮かべながら話を再開した。
「そこまでっつうならまぁ少年の好きにしな。否定はせんよ。ただなァ、うちと来るってんならお前にも働いてもらわなきゃいけねぇーな」
働く、という言葉にテュランは少しどきりとした。自分にできることなんて高が知れているからだ。テュランは、自身の無力に辟易した。
「うちは〈
「僕もドラ……を倒すの? ドラキュラって?」
テュランはそう言ってから首を傾けた。ミルは、落ち着いた顔でテュランを見る。
「〈
ミルの鉄火のような言葉は、テュランにとって夢のようであり、ただぼんやりしてしまった。
——僕があの怪物を相手にするのか……。どうすれば良いんだ……?
真面目なテュランは、前途を憂いてしまった。未聞の大闘争が待ち構えているのである。さすがの彼も、無責任に返事をするわけにはいかなかった。その心境は、ミルにも痛いほど理解できた。誰だって最初は臆するものである。だから彼女は、口を慎んで静かに時を待った。テュランが喋り始めるその時まで——。
テュランはしばし考え、それから静かに口を開いた。
「頑張るよ。僕にできることなら――」
そう語る彼の双眸に、濁りはなかった。真っ直ぐな瞳であった。
ミルは安心したように顔をほぐした。
「いい返事だなー。まぁ肩の力は抜いてくれ。少年はうちの補佐をすればいい。要するに荷物運びだな」
「……荷物運び?」
いたずらっぽく話すミルの態度に疑問を感じたのか、テュランは訝しげに眉をひそめた。もちろん不貞腐れているわけではない。ちょっとした警戒である。
「〈魔術〉があるだろぉ? えーと、なんちゃらのいえ」
「≪ママの家≫ね」
「そう。それだ。≪ママの家≫だ。だっせぇー名前だァな」
「——ッ!」
テュランは、ミルのお腹をポコポコと優しく叩いた。ミルは、涙を流しながら盛大に笑った。
「わりぃわりぃ。ちっと面白くてな。やっぱお前、ちびすけだな」
更にテュランの怒りに火がつく。しかしそれでもなお、ミルには勝てないのだった。ミルは大雑把に口を開けて笑っている。
「まぁ大体は理解したよな。とりあえず今日はうちの馬車で寝な。ここを出るのは明日にしよう。お前の気が変わらなければ明日、共に来い。いいか? よーく考えて選べよ。先に言っておくが、うちと来るのが正解とも限らねぇーんだからな。残酷なことを言うが、選択の責任は自分で取ってくれ。うちもまだ十六のガキでな。他人の人生を背負えるほど大人じゃねぇーんだ」
ミルは、判子を押すようにゆっくりと話した。
テュランはなにも言い返せなかった。
話し終えると、ミルはすっかりいつものふざけた雰囲気に戻った。これから馬車に向かうとのことだ。これで今日の話は終わりだ、と言わんばかりの切り替え方であった。
二人は、歩き出した。
ふと、テュランは彼女の背中を見つめた。つくづく、大きな背中だと思った。
その夜、テュランはミルの馬車で寝た。
自分以外の誰かと一緒に寝るのは久しぶりだったので、テュランは歯痒い違和感を覚えた。けれど、その違和感は決して悪いものではなかった。むしろ温かい夢の中を彷徨うような感覚であった……。
そして朝、それは素晴らしい晴天の青空であった。陽の光が燦々と照っている。空は青く澄みわたり、森の空気は水のように滑らかだ。
そんな中、テュランは目を覚ました。体を起こし、周囲を見通す。
眼前に広がるのは、半壊した集落であった。悪夢の残骸が、禍々しく混在している。
テュランはそれらを無感情で眺めた。
しかしここで、あることに気づく。
ミルがどこにもいないのだ。
——あれ? ミルは?
昨夜、一緒に寝たはずだ。勘違いではない。
「もしかして……僕を置いて……?」
嫌な予感が全身を駆け巡る。あれほど話し合ったというのに、まさか裏切ったのだろうか。テュランは、背骨を抜き取られたような気分になった。
肩を落として、大きくため息をつく。そうして再び、馬車の上で衰弱気味になったその時、不意に背後から肩を掴まれた。
「きゃ!」
可愛らしい声でテュランは叫んだ。咄嗟に振り向く。
するとそこには……
「……ミル」
「しっしっしー、ドッキリ大成功~」
テュランは騙されたのが悔しくて、顔を赤くしながらミルを睨んだ。ミルは、彼の眼光など気にせずに意地悪な笑みを見せている。無論、テュランも本気で怒っているわけではない。わざわざ手間をかけて驚かせてくるミルが、とても可愛かったからだ。それに加えて、まだミルがいてくれたのが嬉しかったというのもある。
「どこにいってたの?」
「近くの川だ。服に付いちまった血を洗い流してたんだ。昨日の戦いで大量の返り血を浴びたからな。いや~洗い流せて気持ちよかったぜ。酔いを醒ました気分だ」
血、という言葉を聞いて、テュランは、荷台の横に置かれたハルバートに目をやった。ハルバートの刃には赤黒い血液が大量に付着している。その血痕は、昨夜の惨劇を彷彿とさせた。
「それでドラキュラを殺すの?」
「殺し方は色々あんけど、まぁハルバートでぶった切るのがイチバン多いな。こいつ、切れ味よくて気に入ってんだ」
「……てことは、昨日のドラキュラもそれで殺したんだね」
テュランがそう呟くと、ミルは何とも言えない表情で目を逸らした。なぜ質問に答えないのか、テュランは少々疑問に思ったが、さほど気に留めなかった。
「ここ出る前に、ハルバートも綺麗にしないとな。めんどーだけどやっとかねぇーと」
「どうして?」
「色々あんだよ。まぁ少年は気にすんな」
ミルは屈託ない笑顔でそう言うと、テュランの頭を乱雑に撫でた。テュランは、誤魔化された気がして少し不機嫌になったが、大してハルバートに対してこだわりが無かったので追求しなかった。
「良い心がけだ。少年にハルバートは早すぎるからな」
笑いながらミルは言って、素早い動作で荷台から降りた。すると、服の着心地が悪かったのか、ダークグレーのトレンチコートを脱いで荷台に放り投げた。ミルはテュランよりも頭二つ分だけ背が高く、スタイルも良い。テュランは知らず知らずのうちに、彼女の一挙手一投足に釘付けになっていた。
ミルは、荷台を降りてからずっと、神妙な表情を浮かべながら村を眺めていた。転がる死体、広がる血だまり、崩れかけた家々、血生臭い麦畑。それらの惨状を目の奥に刻み込むように、沈黙を貫きながら凝視するのである。
その横顔を見てる間に、テュランも自ずと荷台から飛び降りた。予想上に荷台は高かったらしく、ミルは「おい大丈夫かよ」と一声かけてから彼の補助をしてやった。地面に降り立つと、テュランはミルと同じように自分の村を一瞥した。
するとミルが、柔らかい声で口を開いた。
「少年、本当にうちと来るのか?」
「うん……もう決めたことだから」
「——そっか」
ミルは、否定も肯定もしなかった。喜びもせず、ただ薄ら笑いを浮かべるだけであった。目も合わせないで、じっと村を見つめる。
「なァ少年、お前はこの村を見てどう思う?」
「どう……分かんないかも」
「んー、じゃあ質問を変えよう……少年は、自分の母親の仇を取りてぇーと思うか?」
なぜそんなことを言うんだろう、とテュランは首を傾げた。
彼にとって復讐などという概念は、どこか遠くの異国の地のような存在だった。憤怒や殺意は微塵もない。こうして村を眺めても、哀愁はおろかノスタルジーすら湧いてこないのだ。
だからテュランは、一切の迷いなく即答した。
「……思わないよ。よく、分からないんだ。そーゆーの」
「…………」
ミルは、無言でテュランの方を見た。
彼女は目尻を下げて、情けない顔をした。なぜそんな顔をするのか、それは本人にしか分からない。
だが、とりあえず今はミルの中で何かが完結したようだ。彼女は、なにかを吹っ切ったような声でこう言った。
「これも”縁”ってやつだな。よし、いいだろー。お前の気が変わらねぇー間は、うちがお前のそばにいてやんよ」
「……一緒に来ても良いってこと?」
紅梅色の目が、輝きを増す。
「ただし、少年にも働いてもらうからなー。荷物運び、よろしくだぞ」
「僕だって子供じゃないから……自分の分はちゃんと働くよ」
「なぁーに言ってんだァ。少年はガキだろぉ。最低限の仕事で良いから。まー、心配すんなって」
子供扱いされたくないテュランは、頬を膨らませて反抗した。しかし、頬を膨らませたところで更に幼く見えるだけだ。その悪循環が滑稽に見えたのか、ミルはペットをなだめるような手つきで彼の頭を再度撫でた。
案の定、それからすぐにミルは大声で笑った。
「んーと、まぁこれからよろしくな……えーと」
「テュラン。テュラン・ソルラリート」
「ぬっ、テュラン? 似合わねぇー名前だなァ。やっぱ、少年は少年で間違いねぇー」
「……!」
「しっしっしー。そう怒んなって。うちは年下が好きなんだァ。なぁ少年、うちらってかなりグッジョブなバディだと思うんだ。喜べしょーねん、ナイスなおねぇーちゃんが手解きしてやるからな」
胸を張ってそう言ったミルの背後で、グレー色の尻尾が揺れている。案外、本気で言っているのかもしれない。からかっているのか否か、それを見極めるのは容易ではない。ころころと変わる天気を予想するみたいなもんだ。
だが、テュランは本能的に確信していた——自分がからかわれていることに。
「僕は……子供じゃない……」
頭をぼりぼり掻いて呟いた。テュランは不満げな顔つきでツンとした態度を取り、そのままミルに背を向けた。すたすたと歩き出す。そして高い荷台に両手をつけた。
「ん……!」
力を入れ、腕の筋肉で身体を持ち上げてみる。ぎ、ぎ、ぎ、と木製の荷台が音を立てる。けれど荷台は少年にとって高く設置されており、なかなか乗っかれない。背後で笑い声がする。こめかみに汗が流れる。頭に血が上る。
ところが、その熱はすぐに冷めた。ふわっと体が宙に浮いたのだ。ふと視線をずらすと、両脇に誰かの手が挟まっていた。
なんとテュランは、ミルに軽々と持ち上げられていたのだ。
「こーゆーのはオネェーちゃんを頼りなさいな、おちび」
顔が近づき、耳に彼女の息がかかって、テュランは卒倒しそうになった。動けぬまま、荷台に乗せられた。
荷台に乗った彼は、魂を抜かれたような顔でミルをガン見した。彼女は薄ら笑いを浮かべている。
「ち、ちびじゃないし…………」
そう言って虚勢を張ってみたが、彼の声は細々としていた。困惑を抱えたまま、眼前の女性を眺める。
ミルは、軽やかな身のこなしで荷台に乗り込むと、テュランの隣に粘着した。
「しっしっしー。そーゆーとこがお子ちゃまなんよおちび」
もはや逃げ場はなかった。テュランは、やり場のない羞恥を一身に背負うしかなかった。
「さぁて、そろそろ出発すんぞ。準備はいいよな少年」
立ち上がり、手綱を握って御者台につくと、テュランも荷台の隅に寄りかかった。
二人を見下ろす青空には、純白の導入雲が確かな肉厚を得て広がっている。
彼らの背に残った村の残骸には、未だに腐敗の臭いが漂っている。
馬のいななきが聞こえる。
遂に、二人の奇妙な旅が始まったのである。
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