誰ガ為魔王物語
やきとり
序章
村のはずれに馬車が止まった。
こんな真夜中に来る訪問者に、まともな奴は大抵いない。昼間に下山した誰かが、戻ってきたのだろうか。そう思うのだが、気休めだ。
丁度その頃、ミルは麦畑での収穫を終えて、帰宅したばかりだった。集落の人口が徐々に減るようになって、わずか十二軒となってから、麦の収穫は夜まで行われるようになった。そして、その収穫を行うのは、おおかた祖父とミルだけになってしまった。ミルとしては避けたい仕事だが、祖父の権力には逆らえない。
——疲労困憊じゃ
ミルは居間に座り込んでコップの水を飲み干した。寛いでいると、鼻先で揺れる自慢の尻尾が目に映った。
休憩がてらに尻尾の毛づくろいを始める。
すると、茶の間で本を読んでいた祖父のリーヴァが、咄嗟に立ち上がり、窓の外を覗いた。
「——ミルちゃん。聖剣を。聖剣をよこしな」
祖父が低い声で指示する。ミルは何も言わずに立ち上がり、家の屋根裏部屋から、銀製の剣を取り祖父に渡した。その剣は、鍔がとても長く、遠目で見ると十字架のような形をしている。
「侵入者じゃけ」
祖父が剣を用意することは、これまで二、三度あった。だが、鞘を抜いたのはこれが初めてだった。
「ミルちゃん。裏口を通って、洞窟に行きな。朝になるまで出るんじゃないよ。いいかや」
ミルは、驚いた。そのように指示されれば、逆らわずに洞窟に逃げるようにと、村の掟として〈
——夜。満月のとき、それはやってくる。それは、わしらの生き血を吸い尽くすのじゃ。捕まったら命はない。何もかも投げ出して、何も持たんで走るのじゃ。
ミルは、かつての言葉を想起した。
「さァ。ゆくのじゃ。ミルちゃんを、もたもたしているような弱卒に育てた覚えはないぞ」
祖父の厳しい口調は、ミルに何も言わせなかった。内心、戸惑いを覚えながらも、ミルは裏口の扉を静かに押し開けた。この裏口は、村の表側、すなわち麦畑からは見えない位置に作ってある。
靴も履かずに飛び出そうとした時、どこからか誰かの悲鳴が聞こえた。その断末魔に、ミルは度肝を抜かれる。
「突破されたか……」
祖父は窓を見ながら沈着に呟き、ミルに向かって「行け」と首を振った。
——本当にそれが来たのかや。ならば逃げればならん。
外は険しい山道だ。覚悟を決めたミルは、足音を消しながら慎重に駆けた。集落に残された僅かな家々は、
時折、誰かの罵り声も聞こえた。誰かと誰かが争うような、荒々しい音も混在している。だがそれすらも、ミルが走るのと同時に遠のいていった。
事態は悪化しているに違いない。ミルはそう思った。だが、なぜこんなことが起きているのかが分からない。
——まさか、うちを狙っておるんか。
ミルは、〈
〈
——洞窟じゃ。
やがて洞窟に辿り着いた。
岩に手をかけ、両足を闇穴に差し入れる。滑らないように、足場を探しながら丁寧に洞窟に下りると、ひんやりとした涼しい空気を全身に感じた。毛皮一枚の薄い格好のミルには肌寒いぐらいだが、それを気にする余裕はなかった。
ふと、荷物を漁るような音がする。岩場に目を向ければ、一匹のムカデが歩いていた。腹を空かせたミルは、慣れた手つきでムカデを掴むと一口で食べてしまった。
緊迫した神経が胃酸を押し上げる。その濁流を押し殺すように、ミルは噛み砕いたムカデを飲んだ。
外の様子を伺いながら、村や祖父の身を案じ、息を殺しながら、夜が過ぎるのをじっと待つ。
今宵は、かつてないほど長い夜となるだろう。
胃液が、再び喉を圧していた。
夜明け前、新緑の匂いが広がる中、聡明なブルーモーメントの空が木々の間から垣間見れる。
――そろそろじゃ。夜が明けるかや。
ミルは焦燥に駆られていた。早く集落に駆けつけたいのである。
岩の割れ目から流れ込んでくる空の色は、洞窟の闇を溶かしていく。
——もう待てんのじゃ。ごめん。おじいちゃん。
洞窟の壁をよじ上り、岩の隙間に顔を近づけ、外の様子を伺った。人の気配は全くない。おそらく待ち伏せもされていない。
——警戒じゃ。警戒を怠るな。
ミルの目は鋭く、険しかった。指先に力を入れると、次第に爪先から漆黒の鉤爪が急速に生えてきた。それと同時にミルの両手が、こげ茶色の長い毛に覆われた。まるで獣のようである。その爪は、なめらかな曲線を描きながら大きく反っている。
——なんじゃ。この臭いは……。
洞窟の外に出ると、血のような臭いが森全体にたちこめていた。五感の優れた〈獣人〉にとって、それは耐え難いほど強烈な臭いであった。
最初、ミルは音を気にしながら慎重に歩いていた。ところが、やがては足音など忘れて駆けていた。集落に近づけば近づくほど、その匂いは強くなっていく。そして臭いが増すたびに、心臓が激しく鼓動を打った。
信じられない。信じたくもない。
ミルは、立ち尽くした。
そして、膝をついた――眼前に広がる”絶望”を目の当たりにして。
昨夜見かけた馬車は、もういない。村は全滅していた。空き家を含めた、二十軒ばかりの古い民家は、すべて倒壊していたのだ。
弾かれるように立ち上がり、ミルは真っ先にわが家の跡を探した。屋根が崩れ落ち、積み重なった瓦礫の奥に、強烈な”血”の臭いを覚知した。
「——おじいちゃん?」
一瞬、後悔に似た想いが、頭の中を去来した。
——あの時、洞窟に行かなけりゃ……全部、全部うちのせいやァ。
〈
ところが、大きな瓦を持ち上げようとした時、あるものが目に映った。
——うそじゃ……うそじゃ。
ミルが見たものは、誰かの足だった。誰かの足が、潰れた家の下から突き出ていたのだ。ミルは、形容しがたい感情を胸に抱えながら、その瓦礫を動かした。
「……………………………………………………………………」
ミルの唯一の家族は今、彼女の目の前で四肢を投げ出し、倒れている。反応はない。その黒の瞳は、木製の瓦礫をただ見つめるだけである。彼の首元には、獣の噛み跡が刻み込まれていた。
絶命している。
ミルは、呆然と立ち尽くすほかなかった。
その頭上には、澄んだ秋の空が広がっている。
風が、尻尾の毛を揺らす。
黄金色の麦畑が、東雲の陽光に照らされている。
直後、全滅した集落の跡に、雷雨のような悲鳴が響き渡った。
当日、ミルは九歳だった。
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