俺の場所を求めて。

 あの頃はいろんな考えをしていた。きっと今じゃ考え付かないくらいに、激しく、強く。自分自身昔から「おかしい」と思ったらとことんそれを突き詰めてしまう。きっとそれは僕自身の特性アイデンティティなのだろうと思う。気にくわないものは気にくわないし、嫌なものは嫌。それがはっきりしすぎているがゆえに、「考えを持つ人間」と扱われてきた。だから、小学校中学校ではかなり面倒がられていただろうし、考えを持たない同年代のほうが何倍も人聞きがよかっただろう。けど僕自身は、それをいいとは思っていない。常に自分という軸はずらすべきではないし、ずらしたくない。これはいわゆるプライドなんて言うものではなく、自分の確固たるアイデンティティに直結するものだ。自らを維持していくには、こうするしかなかった。自分という人間を形成する論理回路に、ノイズ人の考えが入ることは許せなかった。だからだろう。

 きっと「反抗心のある子ども」だと思われていただろうが、自分自身そうではない。自分は「おかしいもの」を「おかしくない」にすることが重要だと考えていた。だからこそ、一向に処理しないいじめやおかしいルール。それは何でも変えに走った。だから生徒会長にもなったし、いきなり校長室に怒鳴り込みにも行った。今思えば、かなり思想の強い、そしてヤラカシをたくさんしていたボウズだな。なんて考えてしまう。だが、自分の行いや考えは間違っているつもりはない。「ただそこにあり着くまでの道があまりにもいばらの道で、たまたま若さが故の無知が働いてしまっただけ」なのであると思っている。

 きっとみんな「子供の子供のころは純粋」であったと思う。それは、紛れもなく「何かに影響されなくてもいい立場にある」からです。だから僕も、あの時とがっていた。人間の感情の変化や物事に対する考え方、そしてそれに対するアクションなどを成長するたびに変えてきたのです。決して悪いことではなく、これも「成長」の一つだと思う。きっと、子供の時の考えを貫きながら育つ人もいれば、幼いころから「周囲を見る」というチカラが付いた人もいる。人それぞれなのである。それらを比較し、評価する必要などなく、感じ取るだけでいいのです。


 きっと「若いころ」のようなことをする場所は、もう僕にはないだろう。それは成長するにつれて、周りがどんどん先を見据える力をつけて、周囲を見ることができるようになっているからだと思っている。きっとそれは、ほとんどの人とつながっていけるチカラをつけるための近道なのだと思う。

 だけど僕は違った。僕だけは、正しい・悪いという善悪をいまだに許せないまま、ここまで来てしまった。これから先のことは歩んだことがないからわからないけれども、きっと苦労するのではないのかと思っている。それは、「自分が人の考えを聞き、それを判別する」という立場ではなく、「自分の考えを発信し、説得する」立場にあるべき考えを持っているからだ。いわゆるこれが、政治家や革命家なんて言うところなのだろう。そんな大それたものに自分はなるんだ、なんてことを言うつもりは全くない。ただ、それに似ているんじゃないのか、そういう風に自らを客観しているという「感想」なのである。

 きっと僕もいつかは、大人しくなり、成長を迎えることができるのではないのか、と思ってしまう。だから、その時その自分に遭った場所を、自ら探し出し、そこで共に暮らしていくのが一番良いのではないのだろうか。無理に大きな枠に適合せずとも、小さく小さく、こじんまりとやっていってもいいのかな、なんて。


 けどいつかは、いつの日か。この僕の考えを、多くの人が理解してくれる時が来るんじゃないのか。この世界、この社会、すべての仕組みが僕の価値観と合致し、正義と悪を一刀両断してくれるような枠組みが来るのではないのか。そういう風にすこしばかり、頭の片隅で願っている。もしかしたらこれが「隠しきれない改革心」なのかもしれないが、それならそれでいい。僕は、僕が正しいというものを、決して根絶やしになんかしないさ。

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