涙とかけまして、ラーメンと説きます。その心は?

れもねぃど

振り返ると

「今年も、もうこの季節か……」


 そうぼやいてしまうほどに、毎年見ている光景な気がしている。この寒い空気感と温かい日の明かり。なかなかにいい塩梅なので、外に出て歩いていると思わず「寝っ転がったら気持ちいんだろうなぁ」なんて考えてしまうくらいである。もちろん、本当に寝っ転がったりなどしないが。


 思えば15年、「この土地で暮らしてきたんだ。」と改めて見慣れたこの景色を見て思う。昨日までは特に懐かしくもなく、ただそこにあるだけのコンビニ、いつも言ってた散髪屋、そこにある友達の家。どこにでもあるものだと思っていた。昨日までは、だ。今になって見返してみると、15年間の思い出がよみがえってくる「記憶の扉」があちこちに散らばっているようなものでしかない。あちこちから懐かしい記憶がよみがえってくる。どうもこれが「懐かしい」という感情なのだなと、新しい感覚を覚えた気分になった。「まだ地元を離れてすらいない、大人ですらない自分がこんなことを考えるのもどうかと思ってしまう。先が思いやられるな。」なんて、もう一人の自分なら考えてただろうな。そう存在しない自分に、俯瞰した自分の感想を抱かせておく。今は、なんだか感傷に浸っていたい時なんだ。


 ゆっくり、のろのろと歩いていると今や「母校」となった中学校の校門の前にたどり着いた。この校門の前でもいろいろあったなあ。なんて思い出してしまう。やはりすべてが思い出というパズルのピースなんだな。ここの校門を見るだけで、部活をさぼり全力疾走で帰った自分、友達と先生の愚痴を言ってた自分、彼女と待ち合わせしてる友達を見てひがんだ自分。ああ、どれも「あの時」しか感じられない感情だな、と思わせてくるようなものであった。もうきっと今じゃ感じられない、感じることができない。もうそういったチャンスはと思わされる。なんだかんだ言ってあの時は楽しかっただ。と同時に思う。なくしてから気づく大切なものってこういうことなんだろう。

 きっとあの頃はまだ未熟だった。僕は僕や僕の周りしか見えていなくて、ほかのもっと広いセカイを見ていなかった。だからこそ、この思い出もあるのだろう。だけども、だ。あの時の先生への態度、友達とぶつかり合った過去。今じゃ悔やんでも悔やみきれないような、そんな後悔の念がある。

 しかし、それをいまタイムマシンとやらを使って戻り、あの頃の自分に注意したい。とは思わない。あの頃の自分に起こったすべての事象が所以となり、今の自分を形成しているんだと思っているからだ。だから、「あの頃こうしてれば、こうだったのかなあ」と考えても、それを願うことはない。もう過ぎたことなのだから、悔やんでも仕方ないのである。もちろん、考えて次に生かすことはするが。

 若かりし頃の自分を考え、鳥瞰し思う。今の自分、過去の自分は間違っていないようで間違っていたのかもしれない。けどそれを悔やむ必要はなく、明日へ向かって明るく歩き出す責任があるんだろう。と。

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