29 おやすみ
苦笑いを浮かべたラディアは、そのままサロンから立ち去った。
一人残されたミカは気まずそうに、視線を泳がせる。
「それでは、私達も部屋に戻ろうか。コハクさん」
状況を察し、助け船を出したのはシデンだった。
しばらく口をパクパクさせていたミカであったが、最後は安堵したような表情を浮かべた。
「じゃあ僕も……ひぃ!」
そのまま、この場から立ち去ろうとしたミカであったが、彼が一歩踏み出すより前に、天井で飛び回っている烏型石像から館内放送が流れる。
『船の周囲から巨大な魔力反応が検知サレタァ。乗員は直ちに部屋にモドレェ!』
乗船している観光客に対して、命令口調はいかがなものかと思ったが、冷静に考えてみれば乗員の大半は生徒だ。
これが生徒を監督する大人からの指示だとすれば、納得がいく。
「うぇぇ。今度は何だよぉ」
あれこれ愚痴をこぼしながら部屋に戻る生徒達の中でミカだけが、怯えた様子で小声を漏らした。
*
廊下中を埋め尽くす生徒の群れをかき分けて、何とか自室に戻ってきたまではいいものの、ベッドの縁に腰掛けた途端、全身にが疲労に襲われた。
――サロンでケーキを食べただけなのに。なんだか疲れたなぁ。
「ところでコハク」
目にも留まらぬ早さで人型に変わったアルシエラが隣に座る。
「オレが居ない間、何かあったのか?」
「色々ありましたよ。例えば
「おい、それは本当か?」
アルシエラの声が急に低くなったので、顔を上げると、彼の表情が今まで見たことがないぐらい不機嫌そうになっていた。
「そいつの特徴を全て話せ。女性をたぶらかした罪により、消し炭にしてくれる」
「待って下さい。そこまでしなくても……」
彼をなだめようと、口を開いたが、声が発せられるより先に全身が強い浮遊感に襲われる。いや、浮遊感というより感覚が無くなると表現した方が正しい。まるで立ちくらみの様だ。
そして、ブラックアウトする視界の中でアルシエラの声だけが響いた。
*
「コハク。起きろ」
誰かが私の体をゆすっている。
うっすら目を覚ますと、そこには困ったような表情を浮かべたアルシエラが居た。
「アルシエラ様。私は一体……」
「何を寝ぼけた事を言っている。昼寝のしすぎだ。もう夕食の時間だぞ」
時計を見れば本当に現在は夕食の時間であるようだった。
窓の外も真っ暗だ。
「嘘……。倒れた後、こんなに眠っていたなんて」
「だから、何を寝ぼけた事を言っている。 倒れたのではなく、君が『暇だから寝る』と急に言い出したのだろう」
「えーと、そうでしたっけ?」
寝る前の記憶を辿ろうとしたが、上手く思い出せない。
もしかして、今まで夢でも見ていたのかな?
昔、寝坊して学校に遅刻する夢を見た後に、目覚めたら、いつも通りの起床時刻だったという事があった。それに近い感覚がする。
「
「いや、そんな話は聞いていな……待て。その件について詳しく教えろ。今からそいつを火あぶりにした上に
「待って下さいよ!」
何だろう。この違和感。
このやりとり……初めてでは無い気がする。まるで、まだ夢から覚めていないような……。
*
夕食は給仕の石像が部屋へと運んでくれるシステムだった。
そして、テーブルに並べられたのは、挽肉とジャガイモで作られたミートパイ――いわゆるシェパーズパイであった。あらかじめ二人分で注文しておいたので、今回はアルシエラと共に食べられる。
試しに一口頂くと、口の中に塩胡椒が効いたミートの味と、こんがり焼かれたジャガイモの味がほんのり広がった。
シェパーズパイはイギリスの家庭料理だ。
以前から一度は口にしてみたいと思っていたが、まさか異世界でお目にかかれるとは――。
ついでに、テーブルの端に置かれたピンク色のジュースも飲んでみる。
すると、爽やかなオレンジの味が口に広がった。
うへへ。ずっと憧れていた味に出会えたからであろうか。
少し体がフワフワする。
チラっとアルシエラの方を見ると、あっという間に夕食を平らげてしまった彼は寝息を立てていた。
いくらなんでも寝るのが早すぎる。
疲れているのだろうか?
私としても折角の食事中に寝られるのは、困る。
ならば、起きて貰うしかない。
どうすれば、起きるかなぁ?
彼の耳元へ近づく。急に耳元で話せば、大抵の人は起きるが神様はどうなのだろう?
彼の名を呼ぶべく口を開こうとした、その刹那。
彼の――アルシエラの青白い瞼が薄らと開かれた。
そして、痩せ細った左腕に頬を掴まれる。
「何の真似だ?」
「えーと、イタズラしようかなって……」
アルシエラの表情が険しくなる。
「お前まさか……」
「え?」
何かを察したらしいアルシエラが、私によって空っぽになってしまったガラスのコップの匂いを嗅ぐ。
「アルコールのせいだな。全く、期待して損した」
アルシエラは拗ねた様な顔で、コップをテーブルへ置くと、そのまま眠ってしまった。
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