憂鬱は夢の中にもやってくる
美月と心が通じ合ってから三ヶ月が過ぎた。俺たちは今、同じ家に住んでいる。相変わらずミツキは職場とアトリエと家を往復する毎日だが、家にいる時間を増やしたいと言って仕事を家でこなすことが多くなった。だから俺もなるべく家でできる仕事は持ち帰るようにした。
「寒いねぇ。テルの仕事は進んでる?」
作品制作の手を止めたミツキがあたたかいお茶を運んでくれた。外は雪が降っている。
「全然。新しい発見と言えるようなものがない」
俺は論文の資料を放り出した。俺は大学で地理学を教えている。専門は歴史地理だ。
「私も。手が進まない。そういえば伸先輩は個展を控えてアトリエで寝泊まりしているって言ってたなぁ。家に帰っていないから、アトリエが家だって。三者三様で苦しんでるわけね」
立花伸と名乗ったあのいけすかない男は、アトリエを変えたらしい。ザマァ見ろだ。ミツキと一緒のアトリエに居続けるなんて、もっての外だ。
「もともとアトリエ一棟借りれるくらい人気作家だったんだろ?狭い場所にいる理由がないさ」
俺は立花伸のこの決断について評価をしている。あの日、ミツキを俺に預けて展覧会会場へ去って行ったアイツ。ミツキを手に入れることはできないと悟ったのだろう。
「…アイツと離れて寂しいのか?」
「ちょっとね。でも塾で毎日会ってるし」
寂しいのかよ。俺は膨れた。
「それに私にはテルがいるから」
可愛いことを言う。ミツキにキスの嵐をお見舞いしてやった。
次の日。大学で講義をしていると戸谷綾香が聴講にやってきた。
科学館前広場で一方的に俺の腕にしがみついてきた時からというもの、戸谷は何かにつけてアプローチをしてくる。
「輝之君。今度、プラネタリウムに行かない?科学館で冬の星座を投影してるのよ」
あの日のことを悪びれずに言う。
「なぁ、戸谷。俺、彼女いるって伝えたよな?」
「あら、そんなの奪ってしまえばいいのよ」
「…お前なぁ」
強いなぁ。女は好きな相手に対してこうも強気で突っ走れるものなのか?戸谷の行動を見ていると10年も拗らせていた自分を小さく感じた。
あのいけすかない男の個展に二人で行きたいとミツキが懇願するので、俺は仕方なしについて行くことにした。よく考えてみればミツキ一人で行かせるのも心配だ。ミツキがアイツに言い寄られたりでもしたら俺は発狂するだろう。
「先輩の絵のモデル、私なのよ」
いつの間にそんなことをしていたんだ?俺はミツキを凝視する。やはりアイツは油断ならないヤツだ。
「ふーん」
俺は目を逸らし興味がない風を装った。
「傑作だって評判なんだから。私も鼻が高い。」
「へぇー」
なぜか俺はムッとした。アイツの仕事の評価なぞどうだっていい。
「テルってば聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。面白くない話だなって」
「えっ?…もう!!いいかげん伸先輩で不機嫌になるの直してよ」
「それは無理な相談だな」
アイツが美月に恋をして10年以上だと知った時、その想いの深さは俺にもわかる気がした。だからこそ油断できないのだ。
個展は中心街にある画廊で行われていた。この間の会場とは違うらしい。
「おお、立花くん、君の女神様のお出ましだよ」
展覧会の関係者らしき人間がミツキを見つけると立花伸を呼んだ。「君の女神様」という言葉が癇に障った。立花は大勢の関係者に囲まれて称賛を受けていた。
「美月!来てくれてありがとう。お連れの方も」
ミツキには満面の笑顔を、俺には作り笑顔を向けて立花伸が礼を言った。
「美月、完成した絵を見るかい?アトリエを出ていった後も少し手を入れたんだ」
絵の横に「セレーナ」というタイトルが書かれた札が付いていた。絵の中のモデルは聞いていた通り美月だった。
「本物の[[rb:女神 > セレーナ]]様が来てくれたんだって?」
「おや、山岡先生ではないですか。やはり伸君のモデルは山岡先生だったんですね」
「芸術家同士、感性が響き合うんでしょうか?」
立花伸を取り囲んでいた連中は、今度はミツキを取り囲む。俺は咄嗟に間に割って入ろうとしたが、立花伸がその場を制した。
「モデルは山岡美月先生ですが、絵のモチーフはタイトル通り月の女神、セレーナを描きました。山岡先生を通して、僕はセレーナに恋をしてしまった」
話題を自分に向け、群衆からミツキを守る。こういうスマートさは大したものだ。
「ミツキ、まだ人がいるから他の作品を先に観よう。セレーナの絵は最後にしよう」
「そうね。私たちお邪魔になっては行けないし」
一通り作品を観てから、セレーナの絵の前に戻る。今度は余計な観衆もなく、静かに眺める事ができた。
深い青色のドレス。裾の長いスカートを翻し、夜空に佇む女神。神話のように神々しい。セレーナは優しくこちらを見つめている。守られているような安心感に包まれる。セレーナに「愛してる」と言われているかのようだ。
俺は絵には詳しくないが、この絵の中にいるのは空想の女神ではなく、ミツキだと直感した。
アイツの女神はやはりミツキなのだろう。俺は嫉妬したが、大人気ないと気を取り直した。
…美月。
「美月。行かないでくれ、美月」
伸が懇願する。切ない表情だ。
「行かないでくれ、頼む」
伸は後ろからミツキを抱きしめた。腕に力が入る。そのままうなじに口づけをする。
「君が好きだ。君が誰を好きだろうと、僕は君が好きだ。美月。愛している」
(ミツキ!!)
そこでようやく俺は夢だと気づいた。論文を書きながら、うたた寝をしていたようだ。
「ザマァないな…」
「そんなの奪えばいい」と言った、戸谷の言葉が重くのしかかる。
「テル?」
ミツキが毛布を俺の背中にかけようとしてくれていた。と、そのまま背中から抱きしめられる。
「ミツキ?」
「うなされていたよ。どこにも行かないでくれって。私はここにいるよ」
「うん」
「どこにも行かないよ。テルのそばにいるよ」
「うん」
不覚にも涙が出そうになった。
そうしてそのまましばらくミツキは俺を抱きしめ続けた。毛布を通してミツキの体温が伝わってくる。あたたかい、心地良い幸せな温度。
「私はテルから離れないよ。大丈夫」
[[rb:女神 > ミツキ]]は俺を見つめると、顔をそっと寄せ、俺の頬に静かに優しいキスを落とした。女神の祝福を授けるように。
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