4-3 『ユイリェン』
「ナル?」
ナルははっとして、自分が置かれている状況を再認識した。いつのまに思考の中に飛び込んでいたのだろう。見回せば、そこは無機質な白い壁に包まれた医務室の中で、目の前には怪訝そうに眉をひそめた恵里がいる。
「終わりましたよ。検査」
そう。毎週月曜の、健康チェックを受けていたのだ。
「どうかしたんですか?」
「ううん……なんでもない」
力無く応えると、ナルは服を羽織った。上から順にボタンを締めながら、ナルの視線は焦点も合わず、ゆっくりと単純作業を続ける指先に注がれている。恵里はナルの様子がおかしいことに、気付いているのだろうか。手元の端末に何事かを入力しながら、メガネのずれを片手で直す。
「薬、出しましょう」
「え?」
「胃腸薬です。胃が荒れているようですから。毎食後に飲んでください」
「うん……」
「ハジメくんと何かありました?」
ナルの指が、凍り付いた。
すぐに指は解凍されて、いそいそとボタンを締めはじめた。俯いて一言も応えなかった。何も応えないのが最大の答えになっていることに、気付いてはいた。それでも、口に出すべき言葉が見つからなかったのだ。
「乗り越えなきゃ、だめですよ」
恵里は静かに呟いた。
「ハジメくんはいい子です。あなたは彼と、幸せにならなきゃいけない。いけないんだから」
「前にね」
ボタンを締め終えて初めて、ナルは口を開いた。
「ハジメに同じ事言われたんだ。わたしが脱走して、ふらついていたときに。家族と揉めてるから帰りたくないって言ったら、家族なんだから、乗り越えなきゃって」
「家族って、副社長?」
「恵里さんも、会社のみんなも……」
「そんな風に思ってくれてたんだ。嬉しいわ」
ナルは思わず目をそらした。次に返される言葉がわかりきっていたからだ。
「じゃあ、なおさら……今はハジメくんも家族、でしょう?」
「うん」
遠くを見つめるナルの目は、もう恵里を捉えてはいない。遥か向こうに遠ざかってしまった、たった一人の大切な人を――
「でもね、乗り越えるために……辛い決断をしなきゃならないことも、あると思うの」
この時はまだ、追いかけていた。
*
ハジメは医務室の前で待ってはいなかった。いつも彼が座っていた長椅子には誰もいなかった。きっと健二と一緒に、どこかで時間を潰しているんだろうと、恵里は二人を探しに行った。ナルはなんとなく動き回る元気もなくなって、ぽつんと、長椅子に座って三人の帰りを待った。
どうして自分は、潔くハジメの元から去ることができないんだろう。
既に結論は出ているに等しい。去るべきだと、思っているはずなのに。
一体何が自分を引き留めているんだろう。
考えにふけるナルの耳に。
その音は、聞こえた。
高く澄みきった、一本調子の音。まるで耳鳴りのよう。でも気のせいじゃない。不自然に高い音波、人間には聞き分けられない超音波。なぜかそれが、ナルの耳の中で、甲高く唸りをあげている。
まるで何かが共鳴しているかのように。
弾かれたようにナルは立ちあがった。
目の前に、一人の少女が立っていた。
栗色の髪。漆黒の、宝石のように輝く瞳。透き通るような白い肌。体は細く、複雑なガラス細工の幾何学模様のように、完璧な調和を見せる。人形のように整った表情は、凍り付いてぴくりとも動かず、わずかに生命を感じさせる桃色の唇は、力強くきゅっと結ばれている。
目を見張るほど美しい少女が、そこに立っていた。
「あなたは、誰?」
少女が尋ねる。この世の物とは思えない、壮麗な鈴の音のような声で。
「わたし――わたしは――」
まるで魔法に魅惑されたように。
ナルは、答えてしまった。
「わたしは――あなた」
そう。
少女の姿は、若き日のナルと、うり二つだったのだ。
「あなたなのね」
少女の無言が、全ての答え。
「実験一号機、YDS―T01……」
*
「ま、元気を出しなよ」
健二は力強く、ハジメの背中を叩いた。その後ろには恵里が控えている。EMO本社のクロム貼りの廊下を、医務室に向かって歩きながら、健二はずっとハジメを元気づけているのだった。
ハジメに相談を受けたのだ。最近ナルの様子がおかしい。どうしたらいいのだろうか、と。
「きみが暗いと、ナルの方も暗くなる。空元気でもいいからとにかく明るく振る舞うことさ。そうすりゃいずれ、空元気が本当の元気になる時が来る」
「そうでしょうか」
「そうだって! 僕はこう見えても人生の先輩だぞ。ちっとは僕の言葉に重きを置いてはどうだい」
そして三人は最後の角を曲がり、医務室前にたどり着いて――
そこで凍り付いたように立ち止まった。
ナルが二人。
ハジメにはそう見えた。いや、違う。一人はハジメのよく知っているナル。だがもう一人は違う。
あの時の……初めてであった頃の、十五歳だったころのナルと、全く同じ姿、同じ顔をした、背筋が凍るほど美しい少女。
そんな少女が、そこにいた。
「ナル……?」
「ユイリェン!」
ハジメと健二が、ほとんど同時に声を上げた。二人のナルが、そろってこちらに振り返った。ハジメは息を詰まらせた。違う。同じ顔なのに、これほどまでに、二人のナルは違う顔をしている。
残酷なまでに。
そしてハジメは、彼女らを見る自分の表情が、最もナルにとって残酷なものであることに、この時は気付いていなかった。
「ハジメ……」
ナルがぽつりと呟いた。震える声で。力を無くした声で。
「違う、違うの、ハジメ……わたし、本当は……!」
「ナル……」
ハジメが一歩足を踏み出す。
ナルは怯えたように、後ずさった。
「わたし、違う!」
悲鳴を挙げて、ナルは逃げ出した。
わき目もふらず。息を切らせて、全力で、逃げ出した。
ハジメの残酷な視線から。
「これは……」
ハジメはかぶりを振って、健二の顔を睨み付けた。彼はといえば、苦渋の表情で、少女を見ているばかり。
「これはどういうことなんだ!」
「前に言っただろう、ナルは試験機だと。
つまりあの子はクローンなんだ。我が社のクソ元老どもが十五年かけて作り上げた生物兵器YDS―T01に、成長速度八十倍の処置と脳改造を施し、量産を可能とした……
つまり、そこにいる
握った健二の拳が震えている。
「ナルの、オリジナルだ」
オリジナル。
ナルと同じ姿をして、人間と同じ時間を生きる少女。
激情に駆られ、ハジメは拳を振り上げ、健二目がけて振り下ろそうとして、そこで止まった。殴ってどうなる。当たり散らしてどうなる。今すべき事は、そんなことじゃない。今しなきゃならないことは……
「そんなのってあるかよッ!」
ハジメは駆けだした。一直線に、ナルを追って。
残された三人、健二と恵里と少女――ユイリェンは、しばし沈黙の中にいた。やがて健二は溜息をつくと、
「ユイリェン、どうして来たんだ。今日は検査の日じゃないはずだ」
「近くまで来たから、寄ってみたの。いけなかった?」
単なる偶然。偶然、か。
「……ああ」
もし神さまがいるなら、天国に行った時に一発殴ってやろう。健二はそう心に決めた。
「最悪だよ」
*
違う。
一人、とぼとぼと道を歩きながら、ナルは拳を固く握りしめた。行き交う人々は、ナルのことなど気にも留めない。誰一人、ナルの心中を知るものはいない。ここにはいない。それがナルには、救いのように思える。
違うのだ。本当は。
実験一号機の姿を見て、自分の心を打ちのめした衝撃を感じて、ナルは気付いた。
わたしは、ハジメのために去ろうと思っていたわけではない。
ただ――
ただ、老いていく自分が嫌だっただけなのだ。
ふとナルは足を止めた。ショー・ウィンドウの強化ガラスに、ナルの姿が映っている。丈の長いスカートを揺らして、死人のように足を引きずって、肩を丸めて、歩いていた自分。呆然とした、老いた、醜い自分がそこにいる。
もうこれ以上、老いたくない。
それが無理なら、せめてハジメにだけは、老いていく自分を見てほしくない。
いつまでも若くてきれいな自分だけを、心の中に留めておいてほしい。
勝手な言い分だと思う。ハジメの一途な想いを――そう、一方的に疑い続けていた彼の想いを、足蹴にするような行為だと思う。もし神さまがいるなら、きっとわたしを叱るだろうと思う。
でも、自分の気持ちに気付いてしまった今は。
もう、ハジメのそばにはいられない。
他の誰のためでもない。ただ、自分自身のために。
(つづく)
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